産婆さんを訪ねて

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産婆さんを訪ねて 第12回

2020 年 5 月 15 日 金曜日

第12回 中国山地の母子健康センター

むらき数子

 

 

●「産婆になれ」

 

1943(昭和18)年、日高ハツヱさん(1929=昭和4生れ)が高等小学校を卒業すると、父親は「産婆になれ」と言って「広島県医師会看護学校」に入学させました。娘5人の長女に産婆を営ませ、婿を迎えて農家を継がせようとしたのでした。

 

ハツヱさんが育った島根県邑智郡矢上村(おおちぐんやかみむら)は、1955(昭和30)年に石見町(いわみちょう)となり、2004(平成16)年からは邑南町(おおなんちょう)です。中国山地の山あいの邑南町は、豪雪地帯に指定され、農業を基幹産業としています。 (続きを読む…)

産婆さんを訪ねて 第11回

2020 年 4 月 15 日 水曜日

 

第11回 鉱山の町

むらき数子

 

●大滝村立小倉沢中学校

1962(昭和37)年、埼玉県の中津川(秩父郡中津村→大滝村、現秩父市)の山中緑さん(連載第10回、トリアゲバアサン)の息子・進さん(1949=昭和24年生れ)は、大滝村立小倉沢中学校に入学しました。中学校は、中津川集落から、さらに4㎞、1時間歩いて登った山奥、秩父鉱山の町の中央部にありました。

同学年に、梅沢三千恵さんがいました。助産婦である母・梅沢晴江さんに伴われて4年生の時に秩父市街地の小学校から小倉沢小学校に転校してきたのでした。

小倉沢の北隣りは群馬県上野村です。小倉沢は行政的には大滝村の集落の一つですが、中津川沿いの山村とは全く異なる世界でした。 (続きを読む…)

産婆さんを訪ねて 第10回

2020 年 3 月 15 日 日曜日

第10回 高度成長期のトリアゲバアサン

 

むらき数子

 

●埼玉県・中津川

1995(平成7)年、中津川の民宿「中津屋」のおかみさん・山中緑さん(1911=明治44生れ)の言葉にびっくりしました。

「自分が産んだだけじゃなくって、100人くらいとりあげたから」

トリアゲバアサン! 本で読んではるか昔に絶滅したと思い込んでいたトリアゲバアサンが、今、目の前にいる! 衝撃でした。 (続きを読む…)

産婆さんを訪ねて 第9回

2020 年 2 月 15 日 土曜日

第9回 ベビーブーム、そのあとで

むらき数子

 

●1920年代生れ

戦争中に養成されて「産めよ殖やせよ」の最前線を担った産婆たちは、1920年代(=大正10年代から昭和初年)生れが多く、自らも戦後まもなく結婚し、ベビーブーム(1947〜49)の母親になりました。大きなお腹をかかえながらお産の介助に行く「職業婦人」であり、家業に従事する嫁・主婦でもありました。産婆は、夫と離死別した女性が選ぶ職でもありました。

1960年代(=昭和30〜40年代)に医療機関へ入院して産むのがあたりまえになるまで、自宅出産に出張し、助産院や母子健康センターで入院を受けいれ、地域でのお産を担ったのが、この人々でした。 (続きを読む…)

産婆さんを訪ねて 第8回

2020 年 1 月 15 日 水曜日

第8回 疎開

むらき数子

 

●「生まれてしまったんで、産婆さん、頼んで来い」

1949(昭和24)年のある朝、宮城県本吉郡松岩村水梨の中学2年生佐々木徳朗さんは、「生まれてしまったんで、畠山さん、頼んで来い」と言われて、登校の途中、中学校の近くの産婆さんの家に行きました。

松崎五駄鱈(まつざきごんだら)(松岩村字松崎浦田。現・気仙沼市の沿岸、市街地)に、産婆・畠山正さん(まさし。1913=大正2、神奈川県生れ)が開業していたからです。当時、法的には「助産婦」となっていましたが、地域の人々は「産婆さん」と呼び続けていました。

徳朗さんの母・みのるさんは、6人目のお産で初めてプロの助産婦を頼みました。5人まではトリアゲバアサンに取り上げてもらい、助産婦を頼むことはしませんでした。 (続きを読む…)

産婆さんを訪ねて 第7回

2019 年 12 月 15 日 日曜日

第7回 「お産だ、保健婦さんを呼べ!」

むらき数子

 

●豪雪の無産婆村

1944(昭和19)年6月、石黒村役場勤務の保健婦となった中村サトさん(1920=大正9年生)から「お産の取り上げもやった」と聞いて、私はびっくりしました。法律上、保健婦は助産を許されないはずです。村(自治体)が違法行為を行わせていたのでしょうか。
サトさんは柏崎産婆学校を卒業しました。産婆学校は母が『女学校』として行かせたのであって、サトさん自身は産婆にも保健婦にもなりたいと思ってはいませんでした。
村長である伯父が、町村に保健婦を設置させる国策に沿って、村出身で産婆資格を持つ娘であるサトさんに白羽の矢を立てて養成講習を受けさせ、採用したのでしょう。
新潟県刈羽郡石黒村(のち、高柳町)は、現在は柏崎市です。柏崎刈羽原発からの距離は黒姫山を隔てて30km、今でもJR柏崎駅から南へバスを乗り継いで2時間近くかかる山奥です。自転車も使えない急傾斜地の棚田での農業と、冬の酒造りの杜氏や繊維産業の女工などへの出稼ぎが主な産業でした。積雪5メートルはあたりまえの豪雪地の冬は、女衆が隣りの集落までの「道ふみ」「雪掘り(=屋根の雪下ろし)」を担います。出産は1月から3月に多く、助産者は、かんじきを履いて、ときに吹雪の中を歩いて行かなければなりません。 (続きを読む…)

産婆さんを訪ねて 第6回

2019 年 11 月 15 日 金曜日

第6回 「産湯をしないと……」

むらき数子

 

●「お産だ、お湯沸かせ!」
『千夜一夜物語』を読んだとき、「砂漠で、お産しちゃったら、お湯はあるのだろうか? 産湯(うぶゆ)をしなかったら、赤ちゃんは生きていかれるのだろうか?」と思いました。

本稿では、生後2時間以内に赤ちゃんの全身をお湯に浸けて洗うことを「産湯」と呼びます。
自宅分娩に出張した産婆たちは、産婦の家族──姑や上の子たち──の見守るなかで木製の盥(たらい)で赤ちゃんに産湯をしました。「お産だ、お湯沸かせ!」が常識でした。

1944〜46年、空襲の恐怖と灯火管制(とうかかんせい)の暗闇の中で、防空壕(ぼうくうごう)で、また、敗戦後の引揚(ひきあげ)の極限状況で、産湯を実施しようと苦労した産婆の語り・手記がたくさん残されています。

戦後も、農村で自宅出産専門だった栗田芳江さん(1910年生、茨城県古河市、開業助産婦)は、「お姑さんがいたら、洗わないじゃいられないですね。回りでみんな、見てるでしょ、『産婆さん、そこがまだ残ってるよ』とか言うから、洗わないと手抜きしてるように思われる雰囲気だった」と言いました。

お湯は、赤ちゃんを洗うためだけでなく、寒中に自転車で駆けつけた産婆の凍えた手を、産婦に触る前に温めるのにも役立ちました。「お湯、沸かしといてください」は、産婆に干渉し、産婦(=嫁)を緊張させる姑を産室から遠ざける口実にもなりました。
2時間以内の産湯をしない方法は、病院など施設分娩でのハイリスク時の処置であり、自宅分娩では実践されませんでした。 (続きを読む…)

産婆さんを訪ねて 第5回

2019 年 10 月 15 日 火曜日

第5回 腹帯が配給された

むらき数子

●産婆さんを頼む家

1930(昭和5)年、市村よつさん(1892=明治25生)は、茨城県結城郡江川村七五三場(ゆうきぐん・えがわむら・しめば)(現・結城市)で産婆を開業しました。江川村村長である兄に「江川村には産婆がいないから江川へこないか」と呼ばれて、教員の夫と七五三場に定住したのでした。

七五三場から橋を渡れば猿島郡幸島村諸川(さしまぐん・こうじまむら・もろかわ)(現・古河市)です。諸川は、池田さとさんが活躍していた境町(連載第3回)から県道結城野田線(江戸時代の日光東街道)を12km北上した町場です。諸川は大正時代には関東有数の大地主地帯とよばれた幸島村の中心地であり、半農半商・半農半工の家々と多角経営の大地主の屋敷との周囲には畑作の純農村が広がっていました。「大尽(でえじん)どん」と呼ばれた大地主の屋敷に市村よつさんは呼ばれました。

「おふくろがとりあげたのは、お大尽(だいじん)・多額納税者のうちばかりだったと思います」

と息子・市村有(たもつ)さんは結城郡・猿島郡の多くの村の名を挙げてくれました。

資格を持つ産婆に分娩介助だけでなく、お宮参りなどの儀礼への関与も頼み、その後もオビトキ(七五三)の赤飯を届けるなど、丁寧につきあうのは、村々の数%程度の家でした。 (続きを読む…)

産婆さんを訪ねて 第4回

2019 年 9 月 15 日 日曜日

「産めよ殖やせよ──その前に、まず結婚」

むらき数子

●志望動機

根本つるいさん(1917[大正6]年生れ)に、助産婦になった動機をお聞きしたら、

「ちょうど、産めよ殖やせよの時代でしょ」と言われました。

茨城県猿島郡森戸村(現境町)の農家に生まれた根本つるいさんは、尋常高等小学校を卒業後、東京へ出て、病院事務で働きながら勉強して看護婦試験に合格し、次いで、産婆試験に合格しましたが分娩の実地をやったことはありませんでした。1941(昭和16)年、東大の助産婦復習科(東京帝国大学医学部産婦人科学教室助産婦復習科)に入学し、初めて分娩の実地を経験しました。

「東大では、一日20人生れる。一昼夜交替で、忙しくて腰掛けてる暇ない」

1942(昭和17)年4月卒業後、都内の病院に勤務しながら、さらに保健婦の資格も取得しました。1944(昭和19)年10月、退職、帰郷して産婆を開業しました。

1931(昭和6)年に5万2537人だった産婆は、10年後の1941(昭和16)年には6万2741人になっていました。

 

●産めよ育てよ国の為──「結婚十訓」 (続きを読む…)

産婆さんを訪ねて 第3回

2019 年 8 月 15 日 木曜日

第3回 「産婆さん出征す!?」

むらき数子

●戦争が始まったのはいつ?

年表や教科書には、「1937(昭和12)年7月7日 日中戦争始まる(盧溝橋事件)」とあります。
7月11日に、近衛内閣が「北支事変」と名づけて派兵を声明しました。宣戦布告をしない「戦争」への協力を求められたメディア各社は、紙誌面に献金や千人針などの銃後風景を載せ、従軍看護婦を讃えて戦争熱を煽りはじめました。
5、6年前に満州事変・上海事変を経験したばかりの人々は、今度の事変も半年ぐらいで終わって正月までには出征兵たちは帰ってくるだろう、と思ったようです。

私の育った家庭の戦争は、1937年7月28日に始まりました──私はまだ生まれていませんでしたが──。31歳の父に召集令状、いわゆる赤紙が来た日です。
8月1日に入営した父の部隊が8月20日に出動すると、「兵隊送り」という銃後活動を終えた親戚や地域の役職者などはふだんの暮らしに戻っていきました。母と2歳半と1歳の3人の世帯だけが、出征兵士の「留守家族」と呼ばれて戦争中の暮らしになりました。
「銃後」とは、戦地に対する国内、そして軍隊に対する一般社会をさす言葉でした。 (続きを読む…)