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第9回 47年ぶりの再訪(2)
    ——飯島幸永(『寒流』)

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◆入広瀬村へ

その後、まだ雪の積もる3月31日に魚沼市入広瀬村に向かい、手紙をいただいた皆さんに会いに行った。

「刈り入れの夫婦」として収録したご夫婦(穴沢タマニ・宏さん)は、弟、娘夫婦や妹夫婦など親戚一同15、6人で集合していて、入広瀬村道の駅「鏡が池」で私を迎えてくれた。子供だった生徒もいい中年になっていた。「先生! お久しぶりです」と言って玄関で待っていてくれたのは浅井義博君だった。皆さんと尽きぬ話に時間があっという間に過ぎたが、次に最初に手紙をくれた村山あき子(旧姓浅井あき子)さんのお宅に向かった。

玄関であき子さんが立っていて私を迎えてくれた。47年ぶりに見る顔であった。部屋に呼ばれていくと炬燵の上に食べ物が並び、そこに須佐ジロウ君、あき子さんの妹、るり子さんらが坐っていた。皆さん47年が経っていても当時の面影が残っていてすぐに分かった。懐かしい子供たちだ。「皆さんお元気だったんですか!」私の第一声だった。しばらく話しこんだのち、生徒さんとともに車で10分ほど奥に入った芋鞘地区に住んでおられる浅井幸一先生のお宅を訪ねた。先生は87歳で奥様とお元気で暮らしていた。炬燵を囲み再会を喜び話し込んだ。意外にもあき子さんから聞いた話では、こんな近くにいる自分たちも先生にお会いするのは47年ぶりだという。学校を卒業するとすぐにそれぞれが散っていったという。私は5月の田植えの時期に、また来ます、と約束をし、先生の自宅を辞した。

皆さんは変わらぬ温かさで私を迎えてくれた。惜しくも写真集に載っている大半の人は他界されているけれど、皆さんが私を忘れずに覚えていてくれたことは何よりもうれしかった。それぞれの道は違っていても元気に一生懸命真っ直ぐ生きている姿に、私はかつての狭い芹谷内集落に育まれた家庭で周囲の人間が助け合いながら今日まで繋がっている。そこには陽だまりのような暖かさがあり、あの豪雪が生んだ、人を思いやる気持ちに違いないと確信した。

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◆雪解け後の村へ

そして再び5月28日の午後、芹谷内集落跡地に浅井先生、村山あき子さん、青木洋子ご夫妻で再訪したのである。その日、かつての芹谷内集落は、静かな山の中の美しい水田となって広がっていた。“こんな奥深いところに来たのか”と4メートル以上も積もった雪の上を歩くリュックサックを背負った自分を思い出していた。一番最初に洋子さんに教えられ目に入ったのは、自分たちの懐かしい家があった跡だった。窓辺の老婆の家だ。今は畑となっていたが、洋子さん家族が暮らしていた家屋の配置を教えてくれたので、私は、雪で埋まった当時の情景を思い出していた。前に拡がる田圃は47年前のままであった。ああ、ここで田植えや刈り取りをしていたのか、と乾いた田圃を踏みしめていた。そして老婆の見ていた西の風景を見ながら深い感
慨に包まれていた。

それから杉林を抜け、冬季分校のあった場所に向かった。思い起こせば、この高く聳える杉林は、当時のままで、豪雪の上に顔を出していた杉林の間を幾度となく歩いた記憶がある。深い雪の中を1軒1軒回りながら写真を撮らせていただく、その都度この杉林を抜けていったのだ。今は、天を衝くほど大きく、太く育っている。それだけ47年の歳月を語っていた。当時の茅葺農家は1軒もなく、今は、その土地にカマボコ型の丸い建物が、農機具を入れる倉庫として建っていた。何人かが田植機を使って田植えをしていた。近づいて話をすると、皆さん写真集を見ていて知っていた。親の代から子供、孫の代の人びとであった。47年経っても皆さん農業に従事し頑張っていた。畔にたたずみ話していると自然と輪が広がり冬季分校があった場所を前にして先生、生徒たちと思い出に花を咲かせ語り合った。

しばらくして、当時分校からさらに2キロほど奥に入った屋形平に住んでいた穴沢宏・タマエ夫妻を訪ねた。ご主人は農機具を運転しながら笑顔で手を振り挨拶をくれた。ご主人83歳、タマエさん77歳。2人とも元気であった。タマエさんは、私の顔を見ると驚きを顔に現し、満面に笑みを浮かべ私に近づいてきた。曲がった腰を伸ばしながら、玉の汗をぬぐおうともせず「飯島さん、ようこんなところまで来てくれましたのう。写真集見てうれしくてうれしくてのう、母もいて子供もいて、育った家もあって、当時に帰ったようでのう懐かしくて懐かしくて」と、2度目の再会に感激していた。長年の農作業で硬くなってひび割れた両手を差し出し私の手を握ってくれた。人間の美しさは外観ではない。このように優しい心と働く姿こそ尊く美しいものだ。私は、この素朴な農民の心魂に触れ、気持ちが清々しくなっていた。

この時、自分のつたない写真が、人々に幾分鳴りとも歓びと思い出を甦らせ、回顧の安らぎと心の底からの感動を与えたのかと思うと、言葉にはできない胸の高まりを覚えていた。これが写真の力だ。理屈を超えて人間同士の心の交わりを呼び、同時に出会いと再会の歓びを呼び起こしたのだ、とあらためて写真の大きさを知ったのである。片隅のビニールテントの休憩所に入ると布でカバーをした写真集が大切そうに置いてあった。そこで青木夫妻も一緒におにぎりをご馳走になり穴沢夫妻の若い時の写真アルバムを拝見したり、思い出話に時の経つのも忘れていた。

杖を片手に集落まで来ていただいた冬季分校の先生であった浅井先生は87歳になられたが、入広瀬村の村会議長を四期された方だ。撮影の3年後、冬季分校が閉鎖されると同時に失職し、東京に出稼ぎを余儀なくされ、その後の辛苦を話していただいた。温厚篤実で当時の先生そのままの人柄であった。父親は村長まで歴任した人である。そんなことは一切顔に出さず、今でもバイクに乗り、ご自分の畑で農業を営んでいる。おごらず、偉ぶらず、淡々として生活をしている姿を目にして、私は、人間としてあるべき生き方を見たのである。

このゆるぎない姿勢が芹谷内の子供たちに受け継がれているのではないだろうか、と先生の人柄に接して思った。教育は知識の詰め込みだけではいけない。それも確かに大事だろうが、先人の生き方を学ぶことも大切だ。子供は親の背を見て成長していく。この当たり前なことが、ごく自然に受け継がれているのではないかと思う。行く先々で写真集の人たちに会い再会と無事を喜びあった。写真集に1歳の坊に花をあげている父親や、アヒルと遊んでいた着物姿の坊の姿があるが、坊も48歳になり元気で父親と農作業をしていた。又、写真集に載っている、深い雪の中をお母さんに駅まで見送られ山を下りてきた15歳の少女も今は62歳。孫もいる。その孫を抱いている彼女にも会い写真を撮らせてもらった。明るく屈託のない人柄であった。そんな姿を見ていると、幸せな家庭生活まで浮かんでくる。又、写真集で石を運んでいた婦人が90歳で元気であった。小さくなって膝を抱えて歩いていたが、話をすると小さな声でよく覚えていると肯いていた。

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◆苦しかったけれど幸せだった時代

戦後20年を経た昭和40年代は、日本全体がまだ貧しく辛い時代であったが、経済は高度成長期の上向き時代でもあった。しかしここに登場する人々は狭隘な地を耕し、想像を絶する豪雪に耐え、農民として生き抜き、日本を支えてきた人ばかりである。そこには土に生きる誇りと目立たないところで懸命に生きる純朴で土の香りのする人々がいた。感傷的と言えばそれまでであるが、しかし時代を超えて生きるということは生易しいことではない。1人1人に必ず訪れる悲しみや苦悩と絶望、胸躍る歓びの日々。その日常に身を委ね、豪雪という自然の猛威に耐え、春を待っての田植えや秋の刈り入れと、休むことのない農作業を抱えながら、今日まで生活してきたのだ。艱難辛苦の繰り返しの毎日であった、と皆さんは振り返る。しかしここの人たちには大地の厳しさによって培われた深い人間性を私は感じる。私には今回の再訪で気持ちの安らぎを覚え、何か大きな人間の心の中に入っていくことができた。単純に懐かしさだけでは言い切れない、心の触れ合いを体験したのである。

今日の私たちは当時と比べものにならないくらい豊かになった。本当にこれでいいのか、と思うほど便利さと贅沢があふれている。しかし私には大きな空虚感がある。心のどこかにいつも穴が空いている。異常な事件は日常茶飯事となり、親が子供を殺したり、子供が親を殺す。弱い年寄りを騙す事件が横行する。この殺伐とした世の中のすさんだ人心を見るにつけ、私たちは本当に幸せになったのだろうか、と思わざるを得ない。これからもっと社会は乱れていくだろう。欲望と贅沢にはきりがないのだ。今日の社会の実相が、さらに大きな悪影響を子供たちに与えなければいいが、としきりに思う。最近の子は、カメラを向けると逃げてしまう。親が子供を隠し、なぜ撮るのか、と詰め寄ってくる。わかる気もする。悲しいが、人間不信が広がっているのだ。

最後になったが、初めて集落に入った日にリュックを背負ってくれた今井秀信(青木洋子さんの兄)さんのお墓参りをさせていただいた。秀信さんは惜しくも62歳で他界していた。写真集に収録されている洋子さんの母親と老婆とともに入広瀬のお墓に眠っていた。その日は雨だったが、青木ご夫妻と洋子さんの姉春江さんと一緒のお墓参りだった。私は瞑目し合掌した。そしてもうひとつ1人でお墓参りをした。集落に入った日から母親のように世話をしていただいた浅井タケさんであった。このご婦人は写真集にも収録されているが、92歳まで長生きされ、天寿を全うされた。その方の墓にも手を合わせ、お世話になったお礼と再訪のあいさつをし、次は秋の刈り入れに来ます、と胸の中で伝えた。そして青木ご夫妻と別れ、しばらく冷たい雨の降りしきる深々とした濃霧の中、美しく広がる田植えのすんだ瑞々しい水田を撮影した。そして47年前のあの日、1人寒々とした入広瀬駅を降り、役場に向かった時のことを思い出していた。駅はまだ当時の無人駅のままで、薄もやの中にぼんやりと建っていた。そして少し暗くなってきた午後3時頃、霧でかすんだ残雪の山々を背に、この地を後にした。

978_4_7791_1810_4.jpg寒流 飯島幸永写真集