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第6回『つかこうへい』
在日コリアンの同胞だから書いたのではない――元徳喜

◆読者として「遅れた」とか「遅すぎる」ということはない

まず、今回の本では「あとがき」というものを載せませんでした。というのも、実は私にとって十何年ぶり
の自著刊行で、しかもそれを以前とは異なり実名で出すことにしたので、「あとがき」を書くとなると当然
それにも触れなければならず、そうなると「著者」があまりにも前面に出すぎると思ったのです。

言うまでもなく今回の本は、著名な演劇人であり小説家でもある「つかこうへい」という他者について書い
たものです。その目的は、何といっても、作品に直に触れて味わっていただくことです。そして、その鑑賞を
通じて作者の思想や私たちを取り巻いている環境(社会)について考えていただくことだと言えます。

ところで、そのような本を書くことになった動機というものが、やはりありました。一つは、「つかこうへ
い」の本との不思議な出合いということです。それまで無関心を通してき私が著書の『娘に語る祖国』を手
に取ったのは、2010年の1月でした。具体的に何日であったかまでは分かりませんが、読了日は「1月28日」
と記されています。おぼろげですが、生活上の忙しさのため、購入して一気には読めなかった記憶があり、
私がそれを手に取ったのは、彼が肺癌治療のための入院を報道機関向けに公表した1月25日よりも前だった
と思います。そして、本を読み終えてから少しして、インターネットで近況を知りました。

いつ本を手に取ったか、近況をいつ知ったかという正確な日付は分からないにせよ、私はそのような巡り合
わせに不思議さを感じたのです。後日、私はこう思いました。「つかこうへい」のヴァイタルな磁力に引き
寄せられて、あの時、本を手に取ったのだろうと。

私は病状を知り悪い予感に捉われながらも、一面識もない人のことでもあり、あれこれと気を揉んでも仕方
がないと考え、自分一人の世界に沈潜して諸作品(テキスト)の鑑賞を続けていました。そして、著作の半
分近くを読んだ時、訃報に接しました。

深刻な喪失感に襲われたことは言うまでもありませんが、その脱力状態から抜け出た時に、ふと思いまし
た。私は「つかこうへい」の読者として「遅れた」者ではなかったと。これは、彼が自身の病気を告知した
ことや亡くなったことの知らせをきっかけとして、作品の鑑賞を始めたのではないということです。

しかし、そんなふうに考えはしましたが、より本質的な見方をするなら、いついかなる時点で「つかこうへ
い」の作品に接しようとも、「遅れた」とか「遅すぎる」とかいうことは誰にとってもありえないことなの
です。

◆テキスト批評こそが当然の対象となる。

今回の評論集を書く動機については、筆者が在日コリアンであることから、彼の「内なる民族」について言
及しやすい立場にいたことも、動機の一つではなかったかと考える人がおられるかもしれません。これに対
しては「その通りです」と言わなければなりません。ただし、在日コリアンの一員であるだけで書いてみた
いと考えたわけではありません。この点については、私はこんな説明の仕方をしたいと思います。

つまり、いささか尊大な言い方なってしまいますが、在日コリアンが捉われやすいのは「出自意識」(出自
的民族意識と言ってもよい)であるのに対し、私はそのことを警戒し、真の民族意識を涵養するようにして
きたために、在日コリアンの「内なる民族」問題の構造がかなり分かってきたということがあります。わか
りやすく言えば、在日コリアンは、民族意識を持っているのではなく、実際には出自意識にさいなまれる場
合が多い。しかし、「つかこうへい」の場合は(特に後半生においては)明らかにそうではなく、私はそこ
に共感を覚えました。(そういうことがどうして区別できるのかについては、第1章「演劇人と小説家の狭
間で」の最終節を参照ください。)

上述のような経緯の末に、彼が亡くなった年(2010年)の秋に、今回の本の第1章の草稿を書きました。そ
の原稿をいずれ「在日コリアン文学論」の一部に含めて本を出したいと思っていました。既発表の文芸評論
がいくつかあったということですが、ともかくその一篇以上に、「つかこうへい」論を書く考えはなかった
わけです。

結果的には単独の本を著すことになりましたが、最初の論を書く段階から、強く自覚していたことが一つだ
けありました。それは、「つかこうへい」亡き後、テキスト(活字化された作品)の批評を前面に出す以外
に、十全な論は無理だろうということでした。だとすれば、テキスト批評こそが当然の対象となる以外にな
い(彼への関心を抱いた時には、演出の劇を観られなくなっていた)私のような著述者こそがやらなければ
ならないと考えたわけです。そして、このようなスタンスの著述では、いわゆる戯曲作品が「劇」と同格の
存在感を持つことになりました。

しかし、このようなことは、論の著述の上でだけ言えることではなく、すべての人にとって同様のことが起
こらざるをえないのです。私たちが関心を持つべきは、「つかこうへい」という人物の感覚(タッチ)や思
想や希求であり、それが過去の作・演出の劇上演にだけ体現されていると思うのは間違いなのです。

言い換えれば、戯曲・小説・映画シナリオなどの作品テキストは私たちに100%ピュアな状態で「つかこうへ
い」の感覚や思想を体現したものとして差し出されるわけです。そして、それらの鑑賞に私たちはさらに、
「原作」を土台にして、劇を新たに作り上げる演劇人たちのアクティビティー(活動)を付け足していけば
よいということです。

以上、拙書を補足するいくつかの点について書きました。評論集の刊行をともかくも終えましたが、私に
とって、「つかこうへい」のテキストを手に取り、自分にいささか不似合いな優しい手つきでひと撫でして
から鑑賞することや、さらには様ざまな演劇人のアクチュアリティーで新たに誕生する「つか演劇」にも触
れて行く日々は、今後においてこそ繰り広げられそうだと書き添えておきます。

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現在公演中のつかこうへい作・三浦大輔演出・リリー・フランキー主演の『ストリッパー物語』

 

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元徳喜 著『つかこうへい――「笑い」と「毒」の彼方へ