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第7回 47年ぶりの再訪(1)
    ——飯島幸永(『寒流』)

 

◆3通の手紙

人生には、出会いと別れ、そして再会がある。中でも再会は、長い歳月を経ていると、お互い出会いの時のままで記憶が止まっているため、その分驚きと感激もひとしおである。私はこの再会の歓びを、47年ぶりに2013年3月31日と5月28日、29日、30日に果たしてきた。かつての豪雪地、入広瀬村(現、新潟県魚沼市)の山中にある芹谷内集落を訪ね、当時の人々と再会を果たし、歓びを分かち合ったのである。

978_4_7791_1810_4.jpg寒流 飯島幸永写真集

私は昭和41年2月6日、この豪雪の芹谷内集落に撮影に入った。時に23歳、若さだけが取り柄の駆け出しの写真家であった。このころ狭隘の山間に10軒ばかりの農家が生活を営んでいた。茅葺の質素なつくりだが、人々は質実で慎ましく見ず知らずの私を温かく迎えてくれた。東京下町生まれの私には、この人情や人柄に触れ感激することばかりであった。しかしこの地はひとたび寒波が襲来すると、すべての生き物が黙り込み、ひたすら吹雪の過ぎ去るのを待つ。その想像を絶する風と雪が凄まじい唸りをあげて吹き荒れる日々が2日は続くのだ。積雪は一晩で2メートルは越し、それが根雪となって繰り返され、4、5メートルは超える豪雪となって家は埋まり、2階からの出入りとなる。

しかし私にはどんなに環境が厳しくとも、そこに人が生活している以上、その暮らしをなんとしても写真に収めたいとの思いが強く、単身豪雪の集落に入ったのである。そして足かけ3年、集落の四季を訪ね撮影を進めていった。その成果を『寒流——越後・雪下有情』として、「津軽のおんな」編とともに組んだ写真集を2012年10月彩流社から出版した。特に「越後・雪下有情」編は発表までに47年経ているが、このくらいの時間を経ないと現在と比較した時代的意味合いが見えてこないと判断したからである。

出版して間もなく、私の仕事場に1通の手紙が届いた。封を切ると便箋に丁寧な手書きで、懐かしく写真を見ました、と書いてあった。それを読むうちに私は胸が熱くなってしまった。写真集に載っている瞳の綺麗な当時12歳の少女からであった。あのころ集落にはあまりの豪雪なため、集落の子供たちだけが学ぶ冬の間だけの分校のまた分校、いわゆる冬季分校があり、私はそこで勉強する6人の生徒と先生1人、参観する母親などを含めた授業風景を撮影し、写真集に載せていた。子供たちは底抜けに明るく、その中の一番年上の少女、村山あき子(旧姓浅井)さんからであった。「あの時代、貧しい暮らしの中でしたが父も母も元気で懐かしく思い出しました。冒頭の蓑を着て吹雪の中で笑って立っているのが父です。両親の逞しい暮らしに見守られて育ってきたのだ、とあらためて考えさせられました」と書いてあった。あき子さんも早59歳になり地元の幼稚園の園長をしていて来年定年を迎える、という。最後に、この写真集は、大切な大切な宝物、と結んであった。電話番号が書いてあり、私は夜ご自宅に電話をした。私は何とも言えない懐かしさでどこから話していいか、落ち着かない気持ちであった。その後の素顔は知らないが、私の脳裏には当時の少女がくっきりと刻み込まれてあった。そして近いうちに必ず伺います、と約束して電話を切った。

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そして数日後、別な手紙が届いた。読むとその方は写真集に載っている婦人で、刈り入れする夫婦、穴沢タマエ(旧姓浅井)さんからであった。その文面には、「写真集を見てうれしくてうれしくて気持ちを抑えていられず手紙を書きました」と高ぶる心の動揺が、そのまま文字に顕れていた。その夜、初めてタマエさんに電話して手紙の礼を言うと、息を弾ませながら、堰を切ったように懐かしい家族の写真集に出会えた歓びを率直に話してくれた。そして数日後、今度は神奈川県海老名市に住む主婦からの手紙が届いた。その方も写真集に載っている方で先日、日本経済新聞に掲載いただいた、村山あき子さんの手紙「47年ぶり、写真の少女からの手紙」と題したコラム記事を近所の人から見せられ、この内容はかつての芹谷内集落の人々のことだ、と知り早速書店で写真集を求め見たところ、まぎれもない自分たちが写った写真集だと驚き、手紙を出した、とあった。青木洋子(旧姓今井)さんは、写真集に載っている老婆の孫であり、その方も写真に収め、親しく話もさせていただいていた。当時彼女は20歳。集落では20代は彼女だけで、男たちは出稼ぎに行き、主婦と子供、老人ばかりであった。夜彼女の家にも電話させていただいた。元気な声で、飯島さんを覚えていますよ、その後どうしているかと、折に触れて思い出していました、とにこやかな声で話してくれた。私は、近いうちにお会いしましょう、と約束して電話を切った。

◆老婆の祈り

この3通の手紙に私は感激した。どれも率直に心情が吐露されていた。写真集を大切な宝物、と書いてくれたり、うれしくてうれしくてあの時代が甦った、と書いてくれたり、いただいた当時の写真を大事に保管し、繰り返し繰り返し写真集を見ています、などと書いてあると、これ以上の写真屋冥利はないだろう。やはり47年経た時間の重さが、それぞれに何かしらの強い感動を与えたのだ。

この手紙がきっかけでまず海老名に住む青木さん宅に呼ばれ、邂逅を果たしたのである。海老名駅の改札を出たら、白髪のご婦人がにこやかに立っていた。まさか目の前に当時の彼女がいるとは予想もしていなかった。面影がはっきり残っている。何から話していいか、お互いぎこちない挨拶になってしまったが、ご主人の車に揺られてご自宅に向かった。彼女には、立派なお嬢さんが2人いて、長女がドイツ人と結婚し、現在ピアニストとして活躍してる、という。次女は国際ボランティアとして仕事をしているとのことだった。既にそれぞれの家庭を持ち、次女には子供さんがいる。当時神奈川新聞の記者であったご主人とは、入広瀬に取材に見えた際出会い、それが縁で文通が始まり結婚したという。幸せなご夫妻であった。彼女の偉いのは、自分の青春はつらい苦労の連続で働き詰めであった。しかし厳しい環境下でも生きる希望を失わず、ひたすら前を向いて歩いてきた。そのことを子供たちに徹底して教え込んできた、と語っていたことだ。これはなかなかできることではない。普通の人は自分の苦労は子供にさせないように甘えて育ててしまう。しかし彼女は違っていた。二人の娘には、どんなことがあっても生きる手段を考え、自分で切り拓いて進んでいく不屈の精神を教えてきた、と強調していた。この親の経験が教えとなり子供、孫へと受け継がれ、自らの人生を切り拓き歩んでいくものと思う。

ここでもう一つの特筆すべき話を聞いた。窓辺の老婆は彼女の祖母(今井イノ)である。当時80歳。夫とは若いときに離婚し、女手一つで家族を養い、この豪雪の地に農民として生きてきた。若い彼女が、老女の寝床の上げ下ろし、三度の食事の支度と身の回りの世話をした。ある日突然老女が、彼女を呼び、「今日から床上げしなくていい。わしはもう働かないで死に行く。自分は、死ぬことは怖くない。死んだら赤飯で祝ってくれ。これから三度の飯も少なくし、寝るときに猪口一杯の酒と茛をくれ」と言って布団に入ったという。当時83歳。その後、自宅で3か月、徐々に衰弱していき、いよいよ臨終が近いと家族が思い、里の病院に入院させたその日に静かに息を引き取ったという。その話を聞かされた時、あらためて老婆の顔を思い出しながら、何と見事な死に方だと思った。農民として女一人、働きづめで生きてきて、最期に臨んでも慌てず、迷惑を掛けず、従容として死に赴く。この強靱な精神力は大地に生きてきた者だけが知る終焉のあり方だ、と思った。

元気なころの老婆は毎日朝起きると東の空に向かって手を合わせ、太陽の恵みに感謝をしていたという。その話を伺い、あらためて写真に写る、頬被りしてしゃがんで手を合わせている老婆を見てみた。そこには、夕方、しっかりと目を開け遙か西の空遠くを見ている老婆が印刷されていた。私は、見ているうちにハッと気がついたことがあった。もしかしてこの姿は、いつの日か西方浄土から来る阿弥陀如来のお迎えを祈っていたのではないだろうか、と思ったことだ。窓辺も貌もそうだ。当時23歳の若造には理解できなかったが、70歳の今、洋子さんの話を聞いて、ようやく老婆の心情がわかった。幸薄い人生であったが、幸せな死を、ひたすら祈っていたのだ。生きるということの辛さと死の尊さを、その姿は物語っているようであった。阿弥陀さまのいる浄土に行けると確信しているからこそ、死は怖くない、と言っていたのだろう。その時、写真の老婆が、何か超越した大きな存在に思えた。当時老婆は、始終無言でカメラの前に立ってくれた。今思えば最後のご奉仕だったのかもしれない。青木ご夫妻とは、47年の積もる話をしているうち遅くなってしまった。夜も8時を回っていた。

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(2)に続く】 (8/1アップ予定)