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第23回(その3) アマテラスの正体
──林順治(『アマテラスの正体』)

前回記事:(その1)/(その2
◎ 邪馬台国の女王卑弥呼=神功皇后の作為

こ こで倭の五王の話を石上神宮の七支刀と関連づければ、倭の五王のことがもう少し具体的にわかると思います。七支刀の話に移行します。七支刀が泰和4年 (369)に百済王第一三代近肖古王(在位346-75)の太子奇生聖音(第一四代近仇首王、在位375-84)から倭王旨に贈られたことは本当の話で す。しかし、古代史学界の長老上田正昭氏は倭王旨が誰であるかは明らかにしていませんが、「記紀」に依存しているかぎり、「していない」のではなく「でき ない」のです。

なぜなら倭王旨が七支刀を贈られた369年という年は『日本書紀』記載の仁徳天皇の在位313年から399年のとてつもない、嘘のような長い86年の在位年間のなかにスッポリ入るにもかかわらず、「旨」なる王や七支刀の話はみじんも書かれていないからです。

も し七支刀が百済から贈呈された話が仁徳紀の369年(仁徳57年)にあれば、史実として認めることができます。そうであれば、『日本書紀』に対する信頼 は絶大なものになったことでしょう。しかし、しかしやっかいなことに七支刀の話は、『日本書紀』神功皇后52年(252年)九月条に次のようにはっきり書 かれています。

52年秋九月久氐(くて)(百済の高官)等が、千熊長彦に従って来朝した。その時に七枝刀(ななつさやのたち)一振・七子鏡一面をはじめ種々の重宝を献上した。

結論から言います。「記紀」編纂者は邪馬台国の女王卑弥呼を神功皇后に見せかけようとしたのです。しかし、「記紀」編纂者は卑弥呼=神功皇后とは言っていません。そうとられるように見せかけたのです。

先の泰和四年(369)を干支三運(60年×3運=120年)繰りあげれば神功皇后49年(249年の干支は己巳=つちのえのたつ)にぴったり重なります。

それではフィクションの神功皇后はだれかということになりますが、倭の五王のようには特定できせん。ややこしい話になるのでここでは述べることはできません。

史実の確かな場合に多いのですが、『日本書紀』編纂者はこのような方法をよく使います。井原氏の研究が天才的であったのは、このように『日本書紀』編纂者が「干支一運60年の天皇紀」によって「古代王権の歴史改作のシステム」を行っていたことを発見したことです。

こ の七支刀銘文からはっきりわかることは、「369年に百済王の太子が七支刀を倭王旨に贈った」ことと「238年から248年にかけて邪馬台国の女王卑弥呼 がいた」ということです。もちろん、「記紀」編纂者も、邪馬台国を滅ぼして纏向に都を造った加羅系渡来集団も邪馬台国の卑弥呼が239年魏に使者を送った ことや240年に魏から銅鏡100枚をもらったことを知っていたからこそ架空の神功皇后を創ったのです。『日本書紀』における“虚”と“実”の最たる事例 です。

 

◎ 倭王旨=ミマキイリヒコ=崇神天皇の墓、箸墓古墳

石渡信一郎氏は2010年に出版した『倭の五王の秘密』で七支刀の倭王旨=ミマキイリヒコ=崇神天皇の在位年代を342年から379年とし、次の垂仁の在位年代を380年から409年と特定しています。

『倭 の五王の秘密』は、石渡氏が三一書房で最後に出版した『百済から渡来した応神天皇』(『応神陵の被葬者はだれか』の増補新版)から10年目の本ですが、こ の間、石渡氏は井原教弼氏の「干支一運60年の天皇紀」すなわち「古代王権の歴史改作のシステム」をより精密に窮めたのです。

加羅系渡来集団の始祖王旨=ミマキイリヒコこと崇神は、三輪山の西山麓纏向(まきむく)の箸墓古墳に埋葬されました。箸墓古墳は生前に造られる寿墓ですから、崇神が亡くなる一○年前から築造にとりかかっているので、その築造実年代は370年前後と推定されます。

数理文献学を得意とする安本美典氏は、九州王朝説を提唱する古田氏と同様、古代史解明に独自の貢献をしていますが、箸墓古墳=アマテラス=卑弥呼の墓としています。

また、昨今、箸墓古墳が卑弥呼の墓とされ、現在、発掘中の纏向遺跡が邪馬台国の遺跡という新聞記事が断続的に報道されていますが、先の『日本書紀』編纂者の神功皇后=卑弥呼の作為にまんまとはめられているのです。

 

◎ 1531年の辛亥のクーデタ

先 にもちょっと述べましたが、加羅系崇神王朝の始祖王崇神の霊はのちアマテル神として三輪山に祀られるようになったのです。そのアマテル神が八幡神に代わ り、その八幡神が645年の乙巳(いっし)のクーデタ(いわゆる大化の改新)以降アマテラスに交替しました。アマテル神→八幡神→アマテラスの順番になり ます。

溝口睦子氏の『アマテラスの誕生』が問題なのは、従来の「記紀」依存の古代史の通説、雄略=ワカタケル大王、辛亥年=471年としているため、昆支晩年の子欽明=ワカタケル大王による531年の辛亥クーデタがスッポリ抜け落ちていることです。

と ころで『日本書紀』継体二五年(五三一年、辛亥年)二月条に実に奇妙な記事があります。この年に継体天皇が死去しますが、その最後に「ある本によると継体 天皇は28年(534年)に死去した」とあるが、百済本記によると天皇は二五年に亡くなったと書かれている。それによると「日本の天皇と太子・皇子はとも に亡くなった」とあるので、天皇は二五年に亡くなったことにする。後の人が調べて明らかにするだろう」と書かれています。

この箇所は、長い間、研究者・学者に論争されてきてはいますが、現在では、曖昧のまま放置されています。詳しくは『古代七つ金石文』をご覧ください。

結論をいいますと、昆支晩年の子欽明=ワカタケル大王が、継体天皇の死去の前後に継体の子安閑・宣化を殺害し、継体王統から王位継承権を奪った事件が531年の辛亥のクーデタです。

その辛亥のクーデタが抜け落ちた日本古代史は致命的欠陥を持っていると言わなければなりません。ワカタケル大王の子蘇我馬子を祖とする蘇我王朝三代(馬子・蝦夷・入鹿)が差別・除外された本当の歴史を知ることができないからです。

馬 子・蝦夷・入鹿は大王であったにもかかわらず、大臣に格下げされ、馬子・蝦夷・入鹿という差別的な蔑称名をつけられたことは明々白々です。大王馬子・蝦 夷・入鹿の代わりに用明・推古・舒明・皇極天皇が即位したことにし、仏教王聖徳大王=馬子の代わりに聖徳太子を創ったのです。神の交替は、血で血を洗う権 力の交替の史実を背景にして考えなければ、その正体を明らかにすることができないのです。

溝口氏につらく当たったようですが、溝口氏が よくないのではありません。日本の古代史は千年余の間、深く根を張り、幹は巨大で太くなったが、時を経過するにしたがって枝葉が少なくなったためか、あるい は栄養分を吸い上げる力がなくなったためかわかりませんが、中はすっかり空洞になってしまったのです。

 

◎ 伊勢神宮の内宮(皇大神宮)と外宮(豊受大神)

伊 勢神宮の内宮(皇大神宮)と外宮(豊受大神)の話をして、私の話をひとまず終わりとします。「記紀」編纂者による蘇我王朝の差別・排除・隠蔽工作は、伊勢 神宮の内宮と外宮に現れています。外宮の主神豊受大神(豊宇気毘売)は『古事記』に登場しますが、『日本書紀』には登場しません。

こんな風に私はしったかぶりにお話していますが、内宮と外宮の区別ができたのはつい、4、5年前です。三一書房に入社したころは東海地方の営業を担当していましたので、伊勢市の古川書店に年に2,3度に訪問していました。

その繁華街の古川書店から歩いて五分のところの外宮を内宮(アマテラス)だと思っていました。1度か2度ぶらりと行ったことはありますが、案内板をよく見ていなかったのでしょう。

見ても関心がないから、意味をよく理解できなかったのかもしれません。内宮は伊勢市駅から南五キロほど奥の宇治山田駅で下車するのです。

『古事記』によればイザナミは火の神カグツチを生んだために病の床に伏します。病の床に伏したイザナミの反吐(へど)・大便・小便からそれぞれの神が誕生します。小便から生まれた神が水の霊ミツハメノカミ(弥都派能売神)とワクムスヒノカミ(和久産日神)です。

このワクムスノカミの子が食物を司(つかさど)るトヨウケビメカミ、すなち、豊受大神です。言って見れば外宮の豊受大神はアマテラスのために食糧を生産し、供給する神です。御食津神(みけつかみ)とも言われ食物を司る神です。

神とはいっても、今風に言えば、結婚して、子どもを生んで、えんえんと子育てと家事に専念しなければならない、「家(うち)のカミさん」、イヴァン・イリイッチの「シャドウワーク」をこなす神です。

石 渡氏によれば、持統天皇は690年にアマテラスを皇祖神=聖母神として多気神宮(現在の内宮の北二キロ)に祀りましたが、アマテラスと建国神イタケル (応神、昆支=倭武)を一緒に伊勢に祀ることにし、692年に伊勢の渡会の山田原に建国神イタケルのための外宮を建立したとしています。このイタケルは 『日本書紀』神代上第8段の第4と第5の異伝に登場するスサノオの子ですが、韓国(からくに)にわたり、それから紀伊国にわたって植林をした神とされてい ます。

出雲、根の国に関係する、スサノオ、オオクニヌシ、オオモノヌシ、オオアナムチ、そしてイタケルなどは『古事記』や異伝によっては子で会ったり五世孫であったりしますが、石渡氏によれば、これら神はすべて同一神であり、昆支(倭王武)の霊です。

イタケルの「イ」は「大」を意味し、「タケル」は「倭武」の「武」(タケル)すなわち百済系倭王朝の祖応神天皇=昆支を意味するとしています。したがって伊勢神宮の外宮にはイタケル=昆支の霊が祀られていています。

武澤秀一の文春新書『伊勢神宮と天皇の謎』によれば、鎌倉後期の一二九六年(永仁四年)執権北条貞時の治世、内宮と外宮の関係を象徴する事件が起きています。両宮の禰宜(神主)が連名で朝廷に出す文書に、外宮側が「豊受皇大神宮」と署名したからです。

そ れまで外宮は「豊受大神宮」と名乗っていましたが、この時、内宮と同じ「皇」の字を入れたのです。「皇」の字を入れることは、外宮がまつる神を、内宮がま つるアマテラスならぶ皇祖とすることを意味しています。この外宮と内宮の諍(いさか)いはのち延々と続くことになりますが、そもそも外宮(豊受大神命)= 建国神イタケル=百済系倭王朝の昆支の霊ですから起こるべきして起こった諍いと言えます。

実は、『アマテラスの正体』の再校ゲラがでる 少 し前に、JR大阪駅・奈良駅間を走る大和路通勤快速が停車する郡山駅に近い売太(めた)神社という一風変わった名の神社に行って来ました。稗田阿礼を主祭 神、アメノウズメとサルタヒコを副祭神とする稗田環濠集落としても知られています。

この話をして終りにしたいと思います。稗田阿礼は太安万侶の『古事記』序文に登場し、アメノウズメ(猿女君の祖)は裸踊りをして岩屋戸からアマテラスを誘い出します。またサルタヒコは降臨のホノニニギ一行を途中まで迎えに行ったことで知られています。

その売太神社に行って、郡山駅でもらった観光地図と見比べて驚いたのは、平城京の朱雀門から中央を南北に走る朱雀大通り南起点(現奈良市と大和郡山市の境界地点)に羅城門跡があり、その羅城門の真南二キロに売太神社が位置していることです。

『古事記』が太安万侶から元明天皇に献上されたのが712年であり、藤原不比等プランの平城京が完成したのは710年です。先の「猿」のつく名の「猿女(さるめの)君」「サルタヒコ」の差別名からも、売太神社が平城京造営プランから排除されたことがわかったことです。

石 渡氏がサルタヒコ=昆支(倭王武)としていることと、売太神社の周辺に応神=昆支を祀る八幡神社が少なからず散在しているのもそのことを物語っていま す。また、サルタヒコ神社は伊勢神宮内宮の近くにあるのも、外宮と同じようにアマテラスの守護神=下僕神としての立場をシンボリックに言い現していること がわかったことです。論より証拠です。古代史をよく理解するためには、より優れた仮説をもとに遺跡の現場に直行して自分の目で確かめてみることです。

 

(おわり)

 

※本記事は、2014年6月17日、書泉グランデにて行われた『アマテラスの正体——伊勢神宮はいつ創られたか』刊行記念トークショーの内容をまとめたものです。