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第23回(その2) アマテラスの正体
──林順治(『アマテラスの正体』)

前回記事:(その1
◎  溝口睦子の『アマテラスの誕生』

ここでは直近の事例として、溝口睦子著の2009年に出版された岩波新書『アマテラスの誕生』をとりあげます。この本はベストセラーとなり、『アマテラス の正体』の執筆の動機となっています。ちなみに私は『ヒロシマ』のあとに『アマテラス誕生』を書きましたが序章を書くつもりが、あんなふうに膨らんでし まったのです。

溝口睦子氏はタカミムスヒを渡来神とし、アマテラスを従来の縄文弥生からの古い日本の神としています。溝口氏はアマテラスがタカムスヒを排除するようになったのはいつごろからかと問題提起をしています。

ところで溝口氏の渡来神=タカミムスヒ説は、戦後間もない昭和二三年の石田英一郎・岡正雄・護(もり)雅夫・江上波夫たちによる対談集『日本民族の起源』 で発表した「四世紀から五世紀にかけて北東アジアの歴史のうねりのなかで誕生した太陽神=皇祖神=国家神である」という考察を援用したもので、溝口氏の独 自なものではありません。その後、江上波夫は中公新書『騎馬民族征服王朝説』(1967)を出版して一大旋風を巻き起こしています。

先にも述べましたが、フロイトは「最初の宗教は別の後の宗教に駆逐されながら、後に最初の宗教が姿を現し勝利を得る」と言っています。すると、溝口氏のいうアマテラスは、フロイトの言う「最初の宗教」にあたり、タカムスヒはフロイトの「別の後の宗教」にあたります。フロイトと溝口氏が言っていることは似ているようですが、似ていません。

溝口氏は「アマテラス=古い神すなわち最初の神が、タカミムスヒ=渡来神すなわち別の後の神を排除=駆逐した」としていますが、フロイトの先の言葉をアマ テラスにあてはめると、「古い神、最初の神=アマテラスは、渡来の神、別の後の神=タカミムスヒムスに駆逐されながら、後に姿をあらわしてアマテラスが勝 利する」ということなります。

溝口氏の言っていることは「先に席をとっていた者が後からきた者に私の席に座ってはいけないと言っている」ことと同じで、何ら特別な意味は持っていません。当然のことだからです。

フ ロイトは、「最初のモノが後のモノに駆逐されるが、最初のモノが後に現れると言っている」のですから、溝口氏が言っていることと、フロイトが言っているこ とは、180度違うと言っても過言ではありません。というのは最初のモノと後に現れた最初のモノは同じものではないからです。

つまり、アマテラスの正体は新旧二つの渡来集団による二重の権力構造を認識しなければ、解けない仕組みになっているのです。

後でもう一度、この問題を史実の面から取り上げます。

 

◎ アマテラスとタカミムスヒ

溝 口氏の『アマテラスの誕生』が高く評価されているのは、タカミムスヒという神を「記紀」神話からスクープして、アマテラスと同格のパワーを持つ神であった ということを明らかにしたことです。そもそもタカミムスヒは「記紀」神話編の冒頭にアマノミナカヌシ・カミムスヒと一書に登場する三柱の神の一柱です。

タカミムスヒを二代とすると、アマテラスは七代のイザナキとイザナミの子です。このあたりのことは、むしろ国文学の分野に入り、神野志隆光の『古事記と日本書紀』(講談社学術文庫)が参考になります。

し かし溝口氏の『アマテラスの誕生』からはこの「記紀」の冒頭に登場するタカミムスヒと天岩戸や国譲りや天孫降臨に登場するタカミムスヒとのつながりについ ては説明されていません。いずれにしても溝口氏はこのタカミムスヒを4、5世紀の北東アジアに出自をもつ渡来神と位置づけています。

実は『古事記』は物語が一本のストーリーとしてまとまっていますが、『日本書紀』は各段に正文と一書(異伝)があり、多いのでは一つの正文に対して一○以上の異伝が附いています。天孫降臨の場面では一つの正文にたいし八つの異伝があります。

『古事記』ではアマテラスとタカミムヒが一緒にそろってアマテラスの孫ホノニニギを降臨させますが、『日本書紀』正文ではタカミムスヒが司令神となってホ ノニニギを真床追衾(まとこおうふすま)で包んで降臨させます。二神を「司令神」と名付けたのは溝口氏が最初ではないかと思います。斬新な言葉です。

ところがこの『日本書紀』正文に対して第一の異伝ではアマテラスが司令神となって玉・八咫鏡・草薙の剣の「三種の神器」を授け、中臣祖アマノコヤネら五神を随伴させた上、「天壌無窮の詔勅」をホノノギに与えて降臨させます。

こ の第一の異伝の「アマテラスの詔勅」は、皆様もご存知の明治二二年(一八八九)の大日本帝国憲法の告文「天上無窮」ならびに「神ノ宝祚の承継」、そして第 一条の「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」に受け継がれています。なぜ、伊藤博文ら維新政府が正文でなく第一異伝を選択したかは興味ある研究テーマ だと思います。

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◎ 倭王武=雄略天皇、雄略天皇=ワカタケル大王?

溝口氏の『アマテラスの誕生』を「記紀」神話から取り上げましたが、今度は歴史的観点からお話します。現・中国吉林省集安市を流れる鴨緑江右岸に、広開土王碑(414年、碑の高さ六・三メートル)があります。好太王碑ともいいます。

好太王碑のある集安市は2004年に「古代高句麗王国の首都と古墳群」としてユネスコの世界文化遺産に指定されています。一帯には大王墓を中心に7000基の積石塚があると言われています。

好太王碑の四つの石面には1775文字が刻まれています。溝口氏はこの碑文に刻まれている倭と高句麗の関係について次のように書いています。

百済の支配層は高句麗と同じ夫余(ふよ)族を出自としている。百済は高句麗の侵略に対して倭国に軍事的支援を求めた。このことは石上神宮に保存されている泰和四年(三六九)の七支刀銘文からも明らかである。

このような状況下(高句麗×百済・倭国)で倭と高句麗は互いに相手を主敵として強く意識しあっていたことが、同時代の史料によって明らかである。それは好太王碑碑文と、倭王武、すなわち雄略天皇が宋の皇帝に出した上表文である。

問題は最後の1行「倭王武、すなわち雄略天皇が宋の皇帝に出した上表文である」という箇所です。なぜ問題かと言いますと、倭王武=雄略天皇としているからです。

そもそも倭王武の上表文というのは『宋書』巻97・夷蕃伝の東夷・倭国の条に書かれた記事で、通称『宋書』「倭国伝」といいます。倭の五王「讃・珍・済・ 興・武」の421年の讃から478年の倭王武までの564文字からなる記事です。倭王武が宋の順帝に使者を派遣して高句麗戦に備えて支援を求める内容の上 表文が全体の半分以上を占めています。

ちなみに倭王武が上表文を宋の順帝に出した478年代は、中国は南朝の宋と北朝の北魏と真っ二つに 分かれて対立して間もないころです。『宋書』「倭国伝」といっても、倭国は「東夷」、つまり中国の東辺諸国、高句麗・新羅・百済、その他の諸国の中の一つ です。倭国だけについて書かれているわけでありません。

ワールドカップの報道をみてもわかるように日本人は「自己中」に考える悪い癖があります。アマテラスにしてそうです。上田秋成は本居宣長をアマテラスは日本だけを照らすのかといって、本居宣長と論争しています。

た しかに『日本書紀』では「雄略天皇」の在位は456年から479年で、和風諡号が「オオハツセワカタケル」となっています。この二つの理由から、日本の古 代史では、倭王武=雄略天皇、雄略天皇=ワカタケル大王(稲荷山鉄剣銘文)、稲荷山鉄剣銘文の「辛亥年」=471年となっています。辛亥年が531年の可 能性が十分すぎるほどあるにもかかわらずです。

私が一昨年出版した『古代日本の金石文』の「あとがき」で古代史学界の長老上田正昭氏を批 判したように、中高の文部省検定日本史教科書にもそのように書かれています。中高の日本史教科書がそうなっているからといって、長老の上田正昭氏を批判す るのはおかしな話ですが、氏が一昨年の暮れに出版した『私の古代史』ではっきり倭王武=雄略天皇、雄略天皇=ワカタケル大王(稲荷山鉄剣銘文)、稲荷山鉄 剣銘文の「辛亥年」=471年であることを明言しています。ということは溝口睦子氏の倭武=雄略説も「記紀」依存の古代史学界の通説によっていることがわ かります。

 

◎ 倭の五王「讃・珍・済・興・武」と九州王朝説?

さらに溝口氏は次のように書いています。

倭王武は亡父済の時代から、日本は高句麗打倒を目標としてきたことを述べている。「済」とはいわゆる「倭の五王」の三番目の王で、『宋書』文帝紀の443年に入朝の記録があるが、天皇の系譜でいえば允恭天皇である。

ここでいきなり、『宋書』「倭国伝」に記載されている倭の五王「讃・珍・済・興・武」の「済(せい)」の名前が登場します。その「済」が仁徳から履中・反正・允恭・安康・雄略・清寧・顕宗・仁賢・武烈までの10人の天皇なかの「允恭」だというのです。

たしかに『日本書紀』では允恭の在位年代は412年から453年です。このように、倭の五王を「記紀」記載の10人の天皇の誰かにあてる説は江戸前期の儒学者松下見林以来くりかして行われてきていますが、まったく言って進歩はありません。

しかし、倭の五王「讃・珍・済・興・武」が実在したのであれば、ほぼ年代が重なる先の10人の天皇が実在するわけがありません。また逆に「記紀」記載の天皇が実在するならば、崇神・垂仁と倭の五王「讃・珍・済・興・武」はいなかったか、虚構の類です。子どもでもわかることです。

事実、『邪馬台国なかった』の著者古田武彦氏は倭の五王は九州王朝の王だとしています。かつて九州王朝説は多くの古田信奉者を生み、現在でも九州王朝説にもとづく本が少なからず出版されています。

ちなみに、三一新書『天皇陵を発掘せよ!』を古田氏の賛同を得て、私の企画・編集担当で出版しましたが、よく売れたので続編もだしました。現在も過去も、天皇陵は参考陵をふくめて発掘調査は禁止されています。

ちなみに、平成一九年(2007年)大阪府、羽曳野市・藤井寺市が百舌鳥古墳群と古市古墳群を世界文化遺産の候補として文化庁に提案しています。

堺市の仁徳陵を中心とする百舌鳥古墳群と羽曳野市の応神陵(誉田陵)を中心とする古市古墳群は、天皇陵をふくめ前者は47基、後者は87基、現在残存していますが、両者合わせて天皇陵の占める面積は80%を超えます。

そのたったの一基も考古学調査による科学的メスをいれていない状況のなかで、世界文化遺産に登録されると思いますか? ましてや天皇の起源=日本の歴史です。世界の常識はそんな甘いものではないと私は思います。

したがって、私は三一の編集者ならこんな企画を立てるべきだと、当時、『天皇陵を発掘せよ』を誇りに思っていました。古田氏は正義感に満ちた情熱の人です。古田氏は日本古代史解明に多くの貢献をしましたが、しかし、倭の五王を九州王朝とする説は間違いです。

当時、東京大学助教授の武田幸雄氏に「平西将軍を示す西の方位は、倭国王の都大和を基点とするもので、それゆえ、倭国の都が北九州にあったという新説(古 田説)は成り立たない」と批判されています。詳しくは『朝鮮学報』(77号、1974年)か、『ヤマトタケルは朝鮮人だった』の75頁をご覧ください。

 

=(その3)につづく=

 

※本記事は、2014年6月17日、書泉グランデにて行われた『アマテラスの正体——伊勢神宮はいつ創られたか』刊行記念トークショーの内容をまとめたものです。