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第28回 日本古代国家成立の秘密ーー林順治

※本記事は、2014年11月16日に名古屋YWCAで行われた〈日本のなかの朝鮮文化・東海フォーラム〉(主催・三河塾)での講演録に基づいています。

『アマテラスの正体』では、『古事記』が古く、『日本書紀』が新しいという通説に対して、藤原不比等が太安万侶など優秀な文人たちを登用して「記紀」をほぼ同時に作らせたことを説明しましたが、中身はかなり難解になりました。

なぜ、「記紀」が藤原不比等によって同時に作られたことが重要かといいますと、不比等は当時の巨大国唐の律令制を模倣して、独自に古代日の下(ひのもと)=日本の「アマテラスを祖とする万世一系天皇物語」の『日本書紀』や、平城京や律令(大宝律令)を作った最高権力者だったからです。

「万世一系天皇の思想」は、奈良・平安・鎌倉時代、そして江戸末期を経て明治二二年には大日本帝国憲法第一条の「万世一系天皇之を統治す」として復活しました。

つい最近つぎのような新聞記事をみてビックリしました。「つい最近」とはいっても、今年の4月25日の朝日新聞の夕刊です。

 

天皇、皇后両陛下は25日、式年遷宮が行なわれた伊勢神宮参拝のため、新幹線の臨時専用列車で東京駅を出発した。歴代天皇に受けつがれた「三種の神器」の剣と璽(じ)も一緒に運ばれた。〔注:璽とは勾玉のことです。剣とあわせて「剣璽」と呼びます。〕

剣と璽が皇居外に運ばれたのは20年ぶり、皇居に置かれているのは勾玉のみ。剣は熱田神宮(名古屋)、鏡は伊勢神宮に置かれ、いずれも複製品(レプリカ)が皇居・御所の「剣璽の間」に納められている。

 

この記事を長々と解説するわけにはいきませんが、天皇の伊勢神宮には参拝には「榊(さかき)」をもって参拝するのが決まりです。榊とは天の岩屋戸(いわやと)に隠れたアマテラスを呼び出すために藤原氏の先祖である中臣連天児屋根(あまのこやね)が祝詞(のりと)を読むために用意した「神が拠(よ)る聖域を示す木」のことです。『日本書紀』と『古事記』には榊に勾玉と八咫の鏡がぶら下げられたと、書かれています。

この場面は「天孫降臨」と同じく「記紀」神話のクライマックスの一つですから『日本書紀』にも『古事記』にも詳細に書かれています。

話は最近の事になりますが、今年も一国の首相や国会議員が靖国参拝をしたのしないので日中・日韓と間で抜き差しならない政治・外交・歴史上の問題になっています。靖国神社を参拝する国会議員らもこの「榊」を奉納します。

このように現在においても、神話で語られている儀式が天皇家はもちろん、国民から選ばれた国会議員によって行われていることに驚いたのです。「榊」に込められた意味はとても根が深いのです。

さて、在野の古代史研究者石渡信一郎氏が日本古代史上の数々の発見を盛り込んだ『応神陵の被葬者はだれか』を発表したのは、ベルリンの壁が崩壊した1990年です。その前年には昭和天皇も亡くなり、昭和から平成に変わりました。あれから早くも25年になろうとしています。

石渡信一郎氏の発見のなかでもっとも優れているのは「日本古代国家は朝鮮半島からの新旧二つの渡来集団によって形成された」という説です。この説は石渡理論、すなわち日本古代国家成立を知る上での「命題」とも言えます。

この命題を念頭に置いて、今現在、世界に起きている領土・民族・移民に関する事件を見聞きし、さまざまな本を読み、古墳や遺跡を見て歩けば、きっと日本と朝鮮半島を含む東アジアの躍動に満ちた歴史を学ぶことができるはずです。

ところで前回の講演(ほんのヒトコト第23回)では後半の「継体の出自」のあたりで時間切れのためかなり端折ってお話したように記憶していますが、日本古代史は「継体の出自」がもっとも難解のところです。今回は継体=仁徳と昆支=応神の二人の兄弟が倭の五王「讃・珍・済・興・武」の済に婿入りしたこと、すなわちその「倭の五王とはだれか」を説明したいと思います。このことをキッチリ理解しておけば、日本古代史の謎はスラスラ解けるようになること請け合いです。

「旧の渡来集団」とは朝鮮半島の南部から倭国(日本)に渡来した集団のことを言います。

この渡来集団は、四世紀前半北部九州に渡来し、邪馬台国を滅ぼします。その後、瀬戸内海を東進して吉備地方(岡山県)に前進基地を作り、ついで大阪湾から難波・河内に浸入して、奈良盆地の三輪山山麓東南部の纏向(まきむく)に王都を置きます。今の奈良県桜井市の一帯です。

この加羅から渡来した集団を加羅系渡来集団と言います。加羅系渡来集団の初代の王は天理市にある石上(いそがみ)神宮の七支刀銘文には「旨」と刻まれ、「記紀」には「崇神またはミマキイリヒコ」と書かれ、朝鮮の『三国遺事』では金官伽耶の始祖王首露のことで、正暦42年に生まれたと書かれています。

『三国遺事』は、13世紀末に高麗の高僧一然(1206年 – 1289年)によって書かれた私撰の史書ですが、ほぼ同時期に刊行された金富軾(きんふしょく)編の『三国史記』と並んで朝鮮半島古代史の基本文献として扱われています。

旨こと崇神を始祖王とする加羅系崇神王朝は、垂仁→讃→珍→済→興→武と七代続きます。つまり崇神・垂仁・讃・珍・済・興・武の七人が加羅系崇神王朝の王たちです。

崇神・垂仁の次の「讃・珍・済・興・武」の五人の倭の王は、皆様もご存知の『宋書』倭国伝(488年成立)に記録されている、いわゆる倭の五王「讃・珍・済・興・武」のことです。

崇神(312-379)が加羅から倭国に渡来して王となった時期を342年とすると倭の五王「讃・珍・済・興・武」の最後の倭王武が亡くなった年が506年ですから、加羅系崇神王朝は、約164年間続いたことになります。ちなみに『日本書紀』では第10代崇神天皇の在年代は紀元前97年~紀元前30年になっています。

ただし倭の五王「讃・珍・済・興・武」の倭王武は461年百済から加羅系の済の入り婿となった後、491年大和橿原に「新」の「百済系ヤマト王朝」を確立した始祖王なので、正確には加羅系崇神王統に属した王とはといえません。しかしここでは倭の五王のなかにいれておきます。

石渡氏は以上の倭の五王「讃・珍・済・興・武」の生没・在位年代を井原教弼(みちすけ)氏の「干支一運60年の天皇紀」を更に進化させ、2010年に出版した『倭の五王の秘密』で割り出しています。

こうして見ると加羅系崇神王朝の七人の王の平均在位年代は23・4年です。ところが『日本書紀』によると仁徳天皇は西暦313年から399年まで86年間在位していますが、これは歴史の常識を超えたフィクションの世界であることは言うまでもありません。

中高以上の参考書として使われている「世界史年表」でも、日本の古代史は266年倭の女王台与(とよ)が晋に遣使を送ってから、413年の倭王讃が東晋に遣使を送るまでの147年間は“空白の147年”となっています。そのうち仁徳天皇在位年86年が58%を占めているのは仁徳天皇が虚構、つまり実在の天皇ではないことがわかります。

考古学的には崇神・垂仁および倭の五王「讃・珍・済・興・武」の墳墓(お墓)は次のように推定できます。まず始祖王の崇神の墓ですが、奈良県桜井市箸中(はしなか)にある全長276mの箸墓古墳です。皆様にお渡しています一枚目の図をご覧ください。

箸墓古墳は初瀬川(大和川の上流)の地図の真中あたりです。初瀬川の南(下)に外山(とび)茶臼山古墳とメスリ山古墳が見えます。この二つの古墳は戦後発掘調査が行われ、メスリ山古墳の2メートルを超す円筒埴輪や鉄剣・矢じりなど数百点の遺物は、現在、奈良の橿原考古博物館に展示されています。

両古墳が天皇陵ではなく、天皇に仕えた巨大豪族大伴氏か物部氏の古墳ですから発掘調査ができたのでしょう。昨年亡くなりました森浩一氏は大学の講師時代から茶臼山古墳の発掘調査に従事し多くの研究業績をあげました。

ところで箸墓古墳は『日本書紀』では第7代孝霊天皇(BC290-BC213)の皇女ヤマトトトビモモソヒメの墓とされています。

箸墓古墳の周辺の発掘調査が現在も行われており、各紙新聞も断続的に邪馬台国の卑弥呼の墓ではないかと報道しています。これは古墳の実年代がまったく異なることから間違いです。

崇神の子の垂仁(イクメイリヒコ)の墳墓は山辺の道沿いにある行燈山(あんどんやま)古墳(全長270m、奈良県天理市柳本町)です。この行燈山の西側に位置する黒塚古墳(全長130m)からは1997年の暮れに三三枚の三角縁神獣鏡が出土しています。

黒塚古墳はJR奈良駅始発の桜井線の柳本駅から東へ約800m町並み沿って歩くと進行方向左にそれらしき古墳があります。傍に出土物の展示館もあります。

古代史学界や通説では三角縁神獣鏡は卑弥呼が魏からもらった鏡の一部としていますが、これも間違いです。加羅系渡来集団の二代目の倭王垂仁(イクメイリヒコ)の時代に作られた鏡だからです。 約500枚以上の三角縁神獣鏡(500枚以上)は四世紀後半から五世紀中頃の全国各地の前期前方後円墳から出土しています。

皆さまもすでに御存知だと思いますが、山辺の道は奈良から天理の石上神宮を経て大神(おおみわ)神社、そして桜井に至る約南北三五キロ前後の自然歩道ですが、JR桜井線は山辺の道と平行に走っています。

その沿線には図で見るように巨大古墳が並んでいます。分かりやすく言いますと、下(南)から上(北)にいくほど古墳の年代が新しくなります。

アマテラスを祀る檜原(ひばら)神社は元伊勢とも呼ばれますが、大神(おおみわ)神社の北700mのところにあります。この地図には載っていませんが、箸墓古墳の東南約1キロに位置しています。

『アマテラスの正体』のカバー写真は、二上山の日没風景ですが、古墳の撮影で著名な梅原章一さんに付き添い私も一緒に今年3月21日の春分に日に檜原神社の境内から撮影したものです。檜原神社を訪れるには桜井線の巻向駅でも三輪駅でも距離はほぼ同じで、いずれも景色は「素晴らしい」の一言です。

行燈山古墳の南側にある渋谷向山古墳(全長320m)が垂仁の子讃(イニシキイリヒコ)の墓です。通説では景行天皇の墓とされています。

続いて倭の五王の二番目の珍(ワカキニイリヒコ)の墓ですが、奈良盆地北部の五社神(ごさし)古墳(全長276m、奈良市山陵町宮ノ谷)といいます。この地図には載っていません。

宮内庁は五社神古墳を「神功皇后陵」としていますが、神功皇后は邪馬台国の女王卑弥呼にみせかけた架空の天皇ですからあてになりません。

二枚目の地図をご覧ください。次は倭の五王の三番目の済の墓です。済の墳墓は大阪藤井寺市沢田の仲ツ山古墳です。全長290m、古市古墳群の北部にあたり、誉田陵=応神陵の北側に位置します。この辺りを散策するに大阪阿倍野発近鉄南大阪線(橿原神宮方面)の土師ノ里か道明寺かどちらの駅をおりても見るところは同じです。

誉田陵(応神陵)は全長415mで、仁徳陵=大山古墳の486mに次ぐ日本最大の古墳ですが、仲ツ山古墳と前方部を突き合わせて築造されています。航空写真からその様子がよくわかります。

通説では仲ツ山古墳は応神の后(きさき)ナカツヒメの墓とされていますが、仲ツ山古墳から出土した円筒埴輪の編年からこの古墳の実年代は460年代から470年代前半とされています。したがって応神天皇の妃ナカツヒメの墓でないことは明らかです。

四番目の興の墓ですが、堺市西区石津ヶ丘の石津丘古墳です。九宮内庁は「履中天皇陵」としています。そして倭の五王「讃・珍・済・興・武」の最後の「武」の墓は誉田(ほむた・こんだ)陵=応神陵です。つまり、倭王武は応神陵の被葬者であるということになります。

「ははぁ、であれば応神天皇とは倭王武のことか」と皆様も気付かれると思います。事実、応神陵の周辺には「誉田(こんだ)」という地名があり、地元では応神陵の前にある八幡神社を「コンダさま」とも呼びます。コンダは百済蓋鹵王の弟昆支(こむき)がホムタになりコンダに訛ったものです。

以上は加羅系崇神王朝の墳墓ですが、崇神・垂仁・讃・珍の墓は、奈良盆地の東側山麓の山部の道を桜井→天理→奈良と北上し、済と興と武の墓は大和川が奈良盆地を出て河内平野に出る石川と合流する地帯、現在の大阪藤井寺市、羽曳野市の大和川左岸に位置していることです。ただ、興の墓は済と武の墓から約15㎞西にある堺市の仁徳陵に近いところにありあります。

これら大王墓の移動を白石太一郎(現大阪府立近つ飛鳥博物館館長)が指摘して一流の考古学者としての地位を確定的にしましたが、先に述べた箸墓古墳の被葬者を卑弥呼としていることや、天理市にある西殿塚古墳(全長234m、宮内庁は継体天皇の后手白香皇女の陵に治定)を卑弥呼の後継者あるいは娘の台与の墓としていることから、その可能性は極めて低いと言わなければなりません。

余談になりますが、大和川と石川に挟まれた古墳群を玉手山古墳群、右端の北を指す黒い矢印の下に松岳山(まつおかやま)古墳群といいます。是非見学訪れることをお勧めします。

松岳山古墳群に墳丘が東を向いている前方後円墳があります。松岳山(まつおかやま)古墳といいます。この近くの岸壁の上に立つと眼下に大和川が渦巻いて流れているのが見えます。

この古墳の周辺から『古代七つの金石文』にも書いた「船氏王後墓誌」が出土しています。

松岳山丘陵の南斜面には昆支王を祀る国分神社あり、もう一つ昆支王を祀る飛鳥戸(あすかべ)神社が、4キロ南の近鉄南大阪線の上ノ太子駅に近い羽曳野市飛鳥に鎮座しています。

『日本書紀』欽明天皇14年(553)6月条に「蘇我稲目が王辰爾に船の貢ぎを記録させたとあり、敏達天皇元年(572)5月条には誰も読めなかった上表文を船氏の先祖王辰爾が馬子大臣の前で見事に読解したと書かれています。「船氏王後墓誌」は百済人王辰爾一族の系譜を刻んだものです。くわしくは『古代七つの金石文』をご覧ください。

大和川と石川の合流地点の壮大な風景を眺めるには、大阪・奈良間の大和路快速が通過するJR高井田駅のプラットホームが一番ですが、快速は止まりませんので各駅停車に乗り換えなければなりません。高井田駅の背後の山は百済系渡来集団による群集墳(横穴群)で有名です。

これからの話は石渡氏の最近の研究成果によるものです。『アマテラスの正体』(215頁)の系図を見てもお分りのように、倭の五王済(ホンダマワカ)は新斉都媛(しせつひめ)(百済直支王の妹)との間に興(オオシムラジ)と仲姫(なかつひめ)と弟姫(おとひめ)を生み、珍の孫娘大中姫と間に目子媛(メノコヒメ)を生みます。

倭王済は後継者にして長子の興の体が弱かったか何かで蓋鹵王の弟昆支(余昆)と余紀(継体)を娘婿に迎えます。昆支は仲姫と弟媛と結婚します。また余紀=継体は目子媛と結婚します。

仲姫と弟媛の名は『日本書紀』応神天皇前紀(西暦270年)に、目子媛の名は『日本書紀』継体天皇元年(507)3月条に「尾張連草香(おわりむらじくさか)の女(むすめ)目子媛と間に安閑と宣化を生む」と書かれますので、皆様もご自分の目で確かめて下さい。

『日本書紀』応神紀と継体紀の年代が約130年に開きがあるのは『日本書紀』編纂者が倭王武=昆支=応神が兄弟であることを知られたくないために「継体が応神天皇の五世孫である」と作為しているからです。

この継体天皇元年(西暦507)3月条に登場する尾張連草香は倭の五王の済のことです。しかし倭の五王「讃・珍・済・興・武」について「記紀」は一切触れていません。

 

 

倭の五王「讃・珍・済・興・武」について文献上知ることができるのは、478年の倭王武が皇帝順帝に宛てて出した上表文(564文字)からです。

この上表文は『宋書』「倭国伝」に記録されています。「478年倭国王武、遣使貢献して上表す。安東将軍・倭王に任命」と記されています。

倭王武の上表文には倭の倭王讃・珍・済・興の宋の皇帝への朝貢の由来を語り、かつ自分のキャリア述べ、義父済・義兄興が亡くなった後の対高句麗戦への理解と協力を懇願する内容になっています。

ところが倭の五王の「武」については宋(429-479)の次に起った王朝南斉(479-502)の『南斉書』には「479年倭王武、号を鎮東大将軍に進められる」とあり、さらに南斉の次起った王朝梁(502-557)の『梁書』には「502年倭王武、号を鎮東大将軍から征東将軍に進められる」と書かれています。

梁の武帝(502-549)は仏教王としても有名で百済武寧王も大きな影響を受けています。

ところが文献史学者も考古学者もこぞって、倭王武を『日本書紀』の雄略天皇(在位456-479)にあてはめています。

従って、ある高名な古代史学者は『梁書』に書かれた倭王武の記事を「間違いか雄略の死んだことを知らないで書いた記事ではないか」と言って誤魔化しています。恥ずかしい話です。

しかも、中高の文部省検定歴史教科書は倭王武を雄略天皇としています。そればかりか稲荷山鉄剣銘文の「辛亥年」を471年とし、「獲加多支鹵(わかたける)大王」を雄略天皇としています。

これらのことについては『古代七つ金石文』に書きましたので、ご覧ください。

さて百済の王子昆支の倭国渡来の史実は『日本書紀』編纂者が可能な限り隠したかったのでしょうが、奇妙なことに『日本書紀』雄略天皇5年(461年)4月条にはっきりと書かれています。皆様もご確認してください。

この記事は古代史研究者の間でも大きな問題となりましたが、461年4月の『日本書紀』「雄略紀」の昆支と、『三国史記』文周王(在位475-76)3年(477)4月条の「内臣佐平に就任。同年の7月に死亡」したという昆支と同一人物であることに気付いた研究者はごく少数でした。

さらに『宋書』百済伝の大明二年(458)によると、余慶=蓋鹵王(在位455-475)が使者を派遣して11人任官を要請したなかに「征虜将軍」を要請した余昆=昆支なる人物がいます。

しかも余昆は百済王族の中でも隔絶たる地位の「左賢王」の称号を帯びています。言って見れば、左賢王は蓋鹵王に次ぐナンバー2の位です。

ちなみに「内臣佐平」とは第15代枕流(とむる)王(384-85)の380年代に確立した百済の官制で1品の6佐平から16品まであり、6佐平6人はトップの内臣→内頭→内法→衛士→朝廷→兵官佐平の順になっています。内臣佐平は王位後継者で皇太子の位置に居た人物と言ってよいでしょう。

しかし『日本書紀』雄略紀5年の昆支と『三国史記』百済本紀文周王の昆支と『宋書』百済伝の3点の文献史料の中に書かれている昆支が同一人物であることに気が付いた日本の古代史研究者は皆無でした。

そのもっとも大きな理由は『三国史記』の「昆支が477年7月に死亡した」という記事です。もう一つは『日本書紀』雄略紀では昆支が蓋鹵王の弟になっていますが、『三国史記』では文周王の弟になっているからです。三つ目は昆支が倭国で王になったことに全く気が付いていなかったことです。

『三国史記』に書かれているように、昆支が477年に内臣左平に任命されたのであれば、461年に倭国に渡来した昆支は477年まで百済に帰国していなければなりません。

この問題を解いたのが当時立命館講師であった古川政司(ふるかわまさし)氏です。この論文は1981年に「五世紀後半の百済政権と倭」という題で「立命館文学」433・435号に発表されました。

この発見は先に述べた井原教弼氏の「干支一運60年の天皇紀」に勝るとも劣らぬ日本古代史上の大発見と私は思っています。

古川氏のその後の動向は井原教弼氏同様あまりよくわかっていません。古川政司の研究の概要は『日本人の正体』に書きましたので、ここでは簡単にお話しておきます。

古川氏は蓋鹵王が昆支の兄で二人はヒ有王(20代百済王)の子であり、文周王(22代百済王・475)は蓋鹵王の子ではなくヒ有王の妻方の兄弟であり、蓋鹵王と昆支の叔父にあたることを明らかにしました。

そして高句麗襲来による蓋鹵王の戦死および王都漢城(現ソウル)の陥落の情報が倭国に伝わった時期を476年とし、477年11月の南宋へ朝貢した倭王武の使者に同行して昆支は帰還した可能性も高いと考えました。ここでわかることは、古川氏は倭王武=昆支とは考えていないことです。このことは石渡氏と決定的な違いです。

いっぽう石渡信一郎は『三国史記』の「477年4月に王弟の昆支を内臣佐平に任じたことと、7月に昆支が死んだ」という記事を信頼していたので、当時、昆支を誉田山古墳(応神陵)の被葬者の候補からはずしました。

しかしその後、『日本書紀』が昆支の帰国を記録していないことに気が付いたのです。『日本書紀』は倭国に来ていた王子が帰国した時には、その年など必ず記録しているにもかかわらず、昆支の場合にかぎって帰国を記録していません。

そこで『日本書紀』をよく読んでみると「雄略紀」5年条の記事に昆支が「軍君(こにきし)」と書かれていることに気が付いたのです。「コニキシ」は百済語で「大王」「国王」を意味する言葉です。

「軍君」が「大王・国王」を意味する称号であれば、昆支は大王・国王であったからだと考え、昆支が王位についた国は倭国以外にありえず、477年に百済で昆支が死亡したという『三国史記』の記事は虚構としたのです。

それでは『三国史記』はなぜ、文周王を蓋鹵王の子とし、昆支を文周王の弟としたのでしょうか。石渡氏は偽りの系譜を作った理由を次のように分析しています。

「蓋鹵王の死後、左賢王の地位にあった昆支が百済王にならなかったのは、倭国の国王になる方を選んだからである。蓋鹵王が死亡した時、昆支は倭国興のもとですでに第一人者であり、興の後継者と予定されていた。

昆支は倭国で王となり百済に援助することにより、兄蓋鹵王を殺した高句麗に復讐しようと考えた。そのため百済王位の権利を叔父の文周王に譲った。しかし倭国も百済も、昆支が後に倭国王となったことを表向きには秘密にした。

そこで傍系の文周王が即位した事情を隠すために、百済は文周王を蓋鹵王の子とした史書を作成させた。『三国史記』の選者はこの史書にもとづいて、『三国史記』百済本紀を編纂したためにこのような偽りの系譜を作ることになった。」

以上が石渡氏の考察ですが、『日本書紀』雄略紀23年(479)条には昆支の5人の子のうち第2子末多王(牟大)が百済に送り返され百済の東城王(24代)になっていますが、父倭王武=昆支が倭国王であったことを示しています。もちろん5人の子のなかに第25代百済王の武寧王も含まれています。

当時、石渡氏は誉田陵(応神陵)の築造年代を大山古墳(仁徳陵)より10年古い490年前後と考えていました。そして誉田陵を応神が50歳のときに造営し寿墓(生前に造る墓)と推定し、応神の出生年を440年の庚辰(こうしん)年前後と推定したのです。

すると案の定、『日本書紀』が応神の生年を干支4運(240)繰り上げ、正暦200年の庚辰の年にしていることが分かったのです。そこで440年に生まれた応神を加羅系崇神王朝の入り婿になるため日本に渡来したのは460年代と考えられので、このころに日本に渡来した百済王子を『日本書紀』に探したところ、雄略紀5年(461)4月条に百済の王子昆支が渡来したという記事を発見したのです。

その後まもなく、石渡氏は隅田八幡鏡銘文を次のように解読したのです。

癸未年(五○三)八月、日十(ソカ)大王(昆支)の年(世)、男弟王(継体)が意柴沙加宮(忍坂宮)に在(いま)す時、斯麻(武寧王)は男弟王に長く奉仕したいと思い、開中(辟中)の費直(こおりちか)(郡将)と穢人今州利の二人の高官を遣わし、白い上質の銅二百旱を使って、この鏡を作らせた。〔石渡信一郎解読文〕

それでは『宋書』百済伝大明2年(458年)に登場する右賢王・冠軍将軍である昆支の弟の余紀=継体いつ渡来したのでしょうか。この右賢王・冠軍将軍余紀については、『宋書』百済伝458年の記事以外、その他の文献からは皆目わかりません。私はこの余紀が継天皇と見ています。継体は済の女(むすめ)目子媛と間に安閑・宣化を生んでいます。

そして『日本書紀』安閑天皇紀には「安閑天皇2年(535)12月の死去。勾(まがりの)金橋宮で死去。時に70歳」と書かれていますので、安閑の生れた年は466年であることがわかります。

すると余紀=継体天皇の倭国渡来は465年以前、兄の昆支渡来の雄略天皇5年(461)以降となります。これは余紀=継体が兄昆支と一緒に渡来した場合のことです。

『日本書紀』では継体天皇は82歳で亡くなったとしていますから、生年は450年前後とみてよく、兄昆支とは10歳の年齢差です。

昆支=倭王武=応神は先述しましたように491年(辛未の年)に畝傍山の東南の軽島豊明宮で「百済系ヤマト王朝」の初代大王とて即位しました。その後も継体=余紀は左賢王(皇太子)として昆支に支えました。

そして継体=余紀はそして甥の武寧王から鏡(隅田八幡鏡)を贈られた503年頃は桜井の忍坂宮に住んでいました。即位した507年には兄昆支の橿原に転居したと考えられます。

継体天皇は仁徳陵(大山古墳)の被葬者です。羽曳野市の昆支=倭王武=応神が埋葬されている誉田陵と、余紀=継体が埋葬されている大山古墳(仁徳陵)は同じ寿墓で、その築造年代は誉田陵が505年前後、大山古墳が515年前後で約10年の開きがあります。

昆支と余紀の10歳の年齢差や大山古墳と誉田陵の墳形の類似性からも二人は兄弟であったことを如実に物語っています。

昆支が晩年に済の娘弟媛の間に生んだ欽明=ワカタケル大王が531年の辛亥のクーデタで継体天皇の死と同時に安閑・宣化を殺害し全国制覇を成し遂げてからは、欽明=ワカタケル大王による継体系との和合政策により皇位継承は昆支系(応神陵、古市古墳群)と継体系(仁徳陵、百舌鳥古墳群)の交互に行わるのをルールとされました。

しかし欽明の子蘇我馬子の登場によってこのルールは破綻しました。そして蘇我王朝三代(馬子・蝦夷・入鹿)の独裁は、645年の中大兄・藤原鎌足による乙巳(いっし)のクーデタ、いわゆる大化の改新で倒されます。

したがって初期律令国家の基礎を築いた天智・天武・持統・不比等らは百済系継体王統+加羅系であり、昆支→欽明→蘇我王朝三代は百済系昆支王統と名付けることができます。

「記紀」は百済系継体系王統によって作られていますので、当然、百済系昆支王統は差別・排除・隠滅されます。欽明が祀った自分の父昆支の霊=八幡神を「記紀」がまったく取り上げなかったのも、そのことを示しています。

また伊勢神宮の内宮にアマテラス、外宮には豊受大神(食物神、主神に仕える神)に祀られていますが、実は外宮には昆支の霊が祭られています。外宮が食物神であることからアマテラスに従属する国家神=昆支の霊であることを示しています。これらのことは『アマテラスの正体』に詳しく書きましたのでご覧下さい。

アマテラスは加羅系渡来集団が祀った崇神の霊=アマテル神に百済系継体王統の神が合体した神なので、百済系昆支王統の八幡神より新しい神であり、また古い神でもあります。つまり国家神は王朝の交代ともにアマテル→八幡神→アマテラスに変貌したのです。

『八幡神の正体』『法隆寺の正体』もあわせてご覧いただければ幸いです。

終りに一言付けさせていただきます。先月、私は『ヒトラーはなぜユダヤ人を憎悪したか』の出版にあたり、10月12日から21日までの10日間、ヘルシンキ経由でベルリン(3泊)→ポーランドのクラクフ(3泊)→アウシュヴィッツ→ケルン/ボン(2泊)→フランクフルトに行って来ました。

アウシュヴィッツ博物館や旧東西ドイツの“ベルリンの壁”の遺跡を見て、第二次世界大戦後に始まった米ソ冷戦構造によって敷かれた38度線、いわゆる“朝鮮半島の南北分断”のことをつくづく考えさせられました。

今、ヨーロッパや中東で起きている数々の紛争、米・中・ソの関係、日・中・韓の政治・外交のギスギスした状況を見ますと、これから先、南北朝鮮統一の可能性はあるのだろうか、それともとんでもない事態になるのではと、そら恐ろしくなることもあります。

しかし古代はもちろん歴史を通覧してみますと、国家形成の歴史は戦争と平和、侵略と支配の絶えざる連続の歴史です。それだけにいまどのような時代にあるのか知るためには歴史を学ばなければなりません。

古代史においては巨大中国をめぐる東アジアに属する朝鮮半島および倭=日本の歴史が未だ明らかになっていません。いま学校の参考書として使用されている「世界史年表」にも日本の古代史に“空白の147年間”という言葉があります。

この時期は魏・蜀・呉の崩壊後に起った五胡十六国時代に当り、まさにヨーロッパ大陸に起きたゲルマンの大移動に匹敵します。

日本の古代国家の成立も高句麗・百済・新羅の国家成立もこの激動の五胡十六国の興亡と無縁ではありません。無縁どころか決定的な影響を受けていることを皆様に知ってもらいたかったのです。

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(林順治)