1954 年福岡県生まれ。早稲田大学第一文学部卒業。
九州大学大学院文学研究科修士課程修了。
専門は映画研究、フランス18世紀文化研究。
主な著書に『燦然たるオブジェたち』(花書院)、『シネテック』
(九州工業大学付属図書館)等がある。 彩流社 サイリュウシャ [第1章] アニエス・ヴァルダ論の余白に
[第2章] トリュフォーにおける教育
[第3章] 建国神話としての西部劇
[第4章] 「赤狩り」時代の映画作家たち
[第5章] ヒッチについて私が知っている二、三の事柄
[第6章] 知られざるキューブリック
[第7章] ゴジラ映画の光と影
[第8章] 宮崎駿のアニメ
[第9章] 黒澤明とシェイクスピア
[第10章] 岩井俊二の『Love Letter』
[第11章] 失われた家族の絆『裸の島』論
[第12章] 『シェルブールの雨傘』論
[第13章] 『青春デンデケデケデケ』論
[第14 章] 『八日目』上昇と下降のドラマ 映画館システムが崩れ、自宅などで自由に
映画が再生できるようになった現在、
映画館で観る映画と、自宅などで観る映画は
果たして同じものか、同じレベルで論じていいのか。
結論は出ないが、今言えるのは、
密室空間で、不特定多数の人と一緒に同じスクリーンを観る
映画館システムが崩壊しつつあるということだ。
少数の見知った人と画像を観る体験は同質のものを
求めるlike の世界だろうし、それに対し、
見知らぬ人々と時間を共有し同じスクリーンを観るという
体験は、異質なものを求めるlove の世界と同質のものだろう。
交わりの空間がそこにできれば幸いだが、他者不在の個だけを
突き詰めた先には不毛な世界が待っているのではないだろうか。
異なるものを受け入れて、自分の世界を再構築する場としての
映画館は、もはやノスタルジーの対象でしかないのだろうか。
小奇麗なシネコンの館内で観る映画は、小汚い、胡散臭さが漂う
昔風の映画館を駆逐してしまった。
昔はいざ知らず、還暦を超えた今は僕も、DVDとかでごまかして
映画を観ることも多くなってきた。
簡便に映画を、いつでもどこでも観ることが出来るようになった
のは慶事だが、非日常の空間だった映画が日常性との間で
揺れ動いている現実を見るのは寂しい気もする。
本書ではそうした現状を凌駕するような痛快な映画をご紹介する。
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