内容紹介
作家というものは社会的観点から見て何のために存在するのか・・・
現在のような危機の時代にあっては、作家はもっと積極的に明確な形の
社会的反応を示すべきだと予想されるが、あらかじめできあがっている
要求を携えている社会情況から目を離して、作家自身に目を向ければ、
作家がなすべきことをもっと多く知ることができるのではないか―
―もし〈文学〉が人間性の研究であるべきものならば、キリスト教的文学は
ありえないことになる。罪深い人間について罪のない文学を試みることは、
言葉の矛盾である。何か極めて偉大で高邁なものを、過去のいかなる〈文学〉
よりも高邁なものを集めることはできるかも知れない。
だが、そうし終わったときには、それが〈文学〉でも何でもないことが分かるだろう。
(グレアム・グリーン文学事典、彩流社、2004年より)
版元から一言
訳者あとがき──解題にかえて
二〇世紀のイギリスの代表的作家であったプリチェットとボウエンとグリーンの三人は《なぜ書くか》というテーマをめぐって書簡を交換し、それらをまとめて一九五五年に『なぜ書くか』というタイトルで公表した。このテーマはいいかえれば《社会のなかの芸術家》ということになるのであるが、彼らがこのテーマに関して往復書簡の形で発言しようとしたことのなかに、彼らがたとえば一九三〇年代の左翼的であった《オーデン・グループ》のようにナイーヴになれなかったこと、また彼らがクロスマン編の『蹟いた神』(一九五〇)などを横目でにらんでいることもはっきりと看取できる。彼らがなによりも拒否するのは、エッセイが最少限度にすら要求するところの「終極的態度」であり、この彼らの拒否は、この書簡集に見出される彼らの態度すらもいつかは彼ら自身によって裏切られる可能性があることの自覚をも意味しているのである。われわれはこれによって、この問題のもつ神秘的ともいえる暗闇の存在を知るのである。
作家も他のひとと同じように一個の市民(生きる存在)であり、市民としてのディレンマをもっている。しかしプリチェットにおいては作家の市民としての時間は彼の作家としての時間に比べればほんのわずかでしかなく、市民であることは人間の全目的ではない。さらに、作家はたとえ社会にとって不可欠の存在であるにしても、一個の贅沢品にしかすぎないという自覚が彼にはあって、もし社会から攻撃をうければ、作家はレジスタンスのゲリラ兵のように戦いつづけ、逃亡するほかないということになる。作家と社会との関係を問われれば、「知らない」と答える。それは答えることができないからではなくて、答えを知られたくないからなのだ。というのは、答えたとしても、行動にでるときには必ずやその自らの答えを裏切ることになることを知っているからである、たとえば世界いたるところにひしめく不吉で悲惨な暴力的な群衆の群れをみたとき、彼はもちろんそれと自己との関係を察知して、自己の立場を意識する。しかし机に向い作家として書きはじめるやいなや、彼はこの意識の形跡などまったくない小説を書いている自分を必ずや見出すのである。
これはおそらく、生きる自己が書く自己を、書く自己が生きる自己を信じられないということになるのであろうが、そのことのなかにわれわれは、社会における作家の市民としての無責任性を読みとることもできよう。かりにそうだとすれば、この作家の市民としての無責任性が作家としての書く自己への誠実性とうらはらに結びついていると言わなければなるまい。
社会にとって不可欠の存在であっても作家を一個の贅沢品として規定し、社会の攻撃から逃亡し続けることによって作家の生命を保持しようとする姿勢がプリチェットにおいて顕著であるのに反して、生れながらに孤独で気むずかしくて、社会との正常な関係をはじめから持たないボウエンにとっては、プリチェットのように積極的に社会から逃れる必要はない。彼女はプリチェットが意識的に志向しようとしているものを、いわば自然にそなえているのだ。しかし彼女は作家としての自己存在を確立するために、この自然の状態を意識化し、それを積極的に保持しようとする。彼女は「もしあなたでも私でも家庭的な訓練をうけて楽しい人物になることができれば、お互いにもっと気持のよい人間になりうるのでしょうが、でもそれでは作家というものにはなれません」と言う。プリチェットは自己以外のいかなるもののためにも書くことは一切せず、ただひたすら自己のため、自己の利己的な快楽のためにのみ書こうとするわけだから、他者がいなくても彼は「頭のなかで書くことは止めない」のである。他方ボウエンにおいては、社会との正常な市民的関係の生来的欠落を満たすものとしてのみ書く行為の意味があるのであって、この欠落の充填が生きることによって達成されるべきものではないことは、いま引いたボウエン自身のことばによってすでに明らかである。プリチェットは自己のなかに社会を侵入させないことによって作家的存在を成立せしめようとしているのであり、ボウエンでは自己が社会から切り離されているという条件を必須のものとしてのみ作家的存在は成立するのである。両者にはそういうヴェクトルの相違はある。だが生きる自己が社会との関係を失っていること、あるいは失なうことが書く自己を成立させるという点では両者は結局同じ立場をとっていることになる。
芸術のもつ功利性をいうとき、それが社会に対して、あるいはある特定の主義・思想に対してもつ功利性を考えるのが普通であるが、ここでは芸術が芸術家自身に対してもつ私的な利益をも考慮にいれる必要があろう。われわれは、そういうものを含めた一切の功利性を、つまり科学的《真》の追求をめざそうとした芸術における科学的リアリズムがナイーヴにも排除しようと目論んだ一切の功利性を、芸術から排除しうるであろうか。要は作品を造るときの芸術家の意識から排除するということであるのだろうか。いずれにせよ、ボウエンはもちろんのこと、プリチェットも書く行為と書かれたもののもつ功利性を彼らなりに意識せざるをえないのである。プリチェットは言う──
私たちはアイロニーとも情感ともつかない、両者のまざりあった気持ちでボードレールのあの言いふるされた詩句を口ずさむ、《偽善の読者よ──わが同胞よ──わが兄弟よ!》と。そうだ、社会はそこに存在する作家を通して自己伝達を行うのである。作家の質がよくなれば、作家の奇妙な電話線の音調はそれだけ澄んで響くのである。
そしてボウエンにみられる社会との正常な関係の欠落を埋める代償行為としての書く行為がもつ功利性は、彼女自身の存在内に閉じこめられているのではなく、読者の領域にまで拡げられる──
個人にとって自己の生が無意味であり、全体としてみればむしろ苦しい一連の偶発事でしかないということ、そして自己の死がなんらの意味もたないということは耐えられないことである。だが芸術は一時的にすら読者のために(音楽を聴く者にとっても、あるいは絵画を眺める人にとっても)これに対する防禦物を建てる──あるいはもっと重要なことだが、それに対して警告の宣言をなすのである。
プリチェットにしろボウエンにしろ、他のことに関してはどうであれ、少なくともこのことだけは信じざるをえず、もしこれを信じなければ一行たりとも書くことはできず、いや生きることすらできなくなってくるだろうと思われる。書くために市民であることが人間の全目的ではないといい切ったプリチェット、書くために家庭的訓練をうけて楽しい・気持のよい人間になることをきっぱりと拒否したボウエン、彼らにおいてすら社会を最終的には否定できなく、書く行為と書かれたもののもつ功利性を社会との関係において信じざるをえないのであって、彼らがこれをもし信ずることを拒否すれば、自ら死を選ぶか、それともかのランボーのたどったような道を選ぶほかなかろう。
彼らがいかなる種類の社会においてもこれと同じ態度をとるかどうかは速断しがたいが、彼らの社会が近代ブルジョア社会であるという理由で彼らはそれに逃亡の形で叛逆し、それとの正常な関係を拒否しえたのであるということは確かである。
グリーンが「作家にも他の市民と共通する市民としての義務はある」が、作家としての義務は「真実を自分がみるままに告げることと、国家からいかなる特別な特権も受け取らない」ことだというとき、その発言はプリチェットやボウエンの発言と共通するものを多くもっていることは明らかであるが、同時にそれをはみだすものももっている。グリーンが「国家」というとき、彼は主として当時のソ連のことを考えているのであるが、そこには彼自身の属するカトリック教会のことも暗示されていることは確かである。いやこれこそが彼にとって問題なのだ。「個人のいだく道徳律がその個入の属するグループの道徳律と同一であることは稀である」というグリーンの発言にみられる「グループ」は、プリチェットとボウエンの両者にとっての「社会」をも含むと同時に《キリスト教会》をも含んでいるのである。つまり彼には、バルトの用語でいえば《市民共同体》としての社会と《キリスト者共同体》としての社会のふたつが存在するのであって、彼が「グループ」というとき、なによりもこの後者の《共同体(ゲマンイデ)》のことを意識していたことは確かである。
グリーンが第一の《共同体》から攻撃をうけることがあるとすれば、彼はプリチェットやボウエンのようにそれを処理することもできようが、第二の《共同体》からの要請と攻撃とはそれほど簡単に処理はできない。なるほど彼はこれらに対して作家の自律性を守るために「不忠節」(disloyalty)をもちだすが、これが彼自身の恣意的態度でなければ幸いである。彼にとって「社会」とはなによりもまず第二の《ゲマインデ》であり、さらに第一の《ゲマインデ》としての社会はこの第二の《ゲマインデ》なしには存在しないことは、信徒として第二の《ゲマインデ》にとどまっているかぎり成立するのであって、生きる自己か書く自己かという二者択一は詐されないのである。
むろん、グリーンにおいても、プリチェットやボウエンにおけると同じように、書くことがその本能の一部にもなっていて、彼はその生を止めないかぎり書くことを止めることはできなかろう。しかし彼は自己の書く行為と自己の書くものとが第二の《ゲマインデ》に対してもつ意味を、また、それを通して第一の《ゲマインデ》に対してもつ意味をはっきりと認識しているはずであり、また認識するようになによりもまず第二の《ゲマインデ》によって要請されているはずである。この問題の提起する諸相がグリーン文学の少なくとも一面を構成することになる。
以上、芸術創造にとり憑かれた作家たちがその創造を行なうときに逢着せざるをえない作家と社会との聞係という問題のはらむ局面のいくつかを考えてみたわけだが、この考察においてわれわれの出発点となったのが作家・芸術行為・作品などの自律性・孤高性を一応疑ってみるという視点であった。だがこれはもちろん、近代芸術そのものを否定するためのものではなくて、少なくとも第一の《ゲマインデ》(自由主義的であろうと、社会主義的であろうと、全体主義的であろうと)の観点よりすれば種々の面で不可解で、「非人間的」で、暴力的な相貌を呈さざるをえない近代芸術とその主体とを全人間的パターンのなかに今いちど組入れてとらえなおすのがその目的であった。とくに近代においてあれほどまで一般市民に対して長・短両面にわたって強烈な力を及ぼしてきた芸術を創造する主体が叛逆の道を歩むことは不可避的であるが、積極的に叛逆するにしろ、逃亡の形で叛逆するにしろ、彼らはその叛逆において彼らの行為のもつ力について無意識、あるいは無責任ではありえないのである。彼らはもちろん、自らが選びとった作家的存在が社会でうる況位と、その況位からしか造りだされない作品とが社会に対してもつ無限の潜在的エネルギーを恐れるべきではない。しかし同時に彼らはその自らのエネルギーが自己を無限に越えるものであることをも充分に意識しておかなければならないのである。
著者プロフィール
- エリザベス・ボウエン(ボウエン,エリザベス)
Elizabeth Dorothea Cole Bowen (7 June 1899 – 22 February 1973)
- グレアム・グリーン(グリーン,グレアム)
Henry Graham Greene (2 October 1904 – 3 April 1991)
- V. S. プリチェット(プリチェット,V.S.)
Sir Victor Sawdon Pritchett (16 December 1900 – 20 March 1997)
- 山形 和美(ヤマガタ カズミ)
1934年生まれ。東京教育大学大学院文学研究科修士課程修了。文学博士(筑波大学)。
筑波大学名誉教授。
主な著書・訳書『グレアム・グリーンの文学世界』(研究社出版)
『言語空間の崇高性──ロゴスへの意志』(彩流社)
『日本文学の形相──ロゴスとポイエマ』(同)
『G・K・チェスタトン』(清水書院)
『グレアム・グリーン入門』(彩流社)
『差異と同一化──ポストコロニアル文学論』(研究社出版、編著)
スーザン・ハンデルマン『誰がモーセを殺したか──
現代文学理論におけるラビ的発想の出現』(翻訳、法政大学出版局)
エドワード・サイード『世界・テクスト・批評家』(同)
ノースロップ・フライ『力に満ちた言葉』(法政大学出版局)
スティーヴン・マークス『シェイクスピアと聖書』(日本キリスト教団出版局)
アーサー・シモンズ『象徴主義の文学運動』(平凡社ライブラリー)
T・R・ライト『神学と文学』(聖学院大学出版会)
ウイリアム・キャッシュ『グレアム・グリーンと第三の女』(彩流社)
ドナト・オドンネル『マリア・クロス』(彩流社)ほか
目次
序 文
Ⅰ V・S・プリチェットからエリザベス・ボウエンへの書簡
Ⅱ V・S・プリチェットからエリザベス・ボウエンへの書簡
Ⅲ エリザベス・ボウエンからV・S・プリチェットへの書簡
Ⅳ グレアム・グリーンからエリザベス・ボウエンへの書簡
Ⅴ V・S・プリチェットからグレアム・グリーンへの書簡
Ⅵ グレアム・グリーンからV・S・プリチェットへの書簡
Ⅶ エリザベス・ボウエンからグレアム・グリーンへの書簡
訳者あとがき──解題にかえて
ジョージオーウェルトゲンダイ セイジサッカノキセキ 978-4-7791-2063-3 9784779120633 4-7791-2063-2 4779120632 0098 ジョージ・オーウェルと現代 George Orwell and Today:the Footprint of a Political Writer 政治作家の軌跡 吉岡栄一 ヨシオカエイイチ Yoshioka Eiichi
1950年、北海道生まれ。法政大学大学院英文学専攻博士課程満期退学。
トルーマン州立大学大学院留学。東京情報大学教授。日本コンラッド協会顧問。
日本オーウェル協会会員。
『マーク・トウェイン コレクション全20巻』(彩流社)を責任編集。
著書に『村上春樹とイギリス―ハルキ、オーウェル、コンラッド』、
『青野聰論―海外放浪と帰還者の文学』、
『文芸時評―現状と本当は恐いその歴史』(以上、彩流社)、
『亡命者ジョウゼフ・コンラッドの世界』(南雲堂フェニックス)、
共著に『英米文学の仮想と現実』(彩流社)、
『イギリス文化事典』(丸善出版)、共訳に『オーウェル入門』、
『オーウェル 気の向くままに 同時代批評1943-1947』(以上、彩流社)
『思い出のオーウェル』(晶文社)など。 彩流社 サイリュウシャ Ⅰ ジョージ・オーウェルと現代
1.『一九八四年』―静脈性潰瘍の世界
2.「なぜ書くか」とオーウェルの文学観
3.オーウェル研究にみる最近のフェミニスト批評
4.『ビルマの日々』の「特権」と「排除」
5.『カタロニア讃歌』雑感
6.『動物農場』におけるアニマル・イメージャリー
7.オーウェルの知識人像
8.オーウェルとコンラッド
9.『一九八四年』―プロレは勝利の歌を唄えるのか
10.オーウェルとポストコロニアル批評
11.オーウェルの宗教観
12.オーウェルと開高健
13.植民地主義と日射病という迷信
14.オーウェルと社会主義
15.オーウェルは社会主義者か
16.オーウェルとコンラッド再考
17.オーウェルと帝国意識
18.小説家の予言
19.「象を撃つ」のフィクショナルな「私」
20.『ビルマの日々』と帝国意識
21.オーウェルの左翼知識人嫌い
22.オーウェルと伝記的批評の陥穽
23.オーウェルとマラケシュ
24.オーウェル―有能な軍事教練者
25.オーウェルと平和主義
26.オーウェルと第二次世界大戦
27.オーウェルとケストラー
28.政治作家としてのオーウェル
Ⅱ ジョージ・オーウェル論
第一章 オーウェルの思想形成―スペイン内戦の
トラウマを中心に
第二章 オーウェルの『一九八四年』―白人の重荷
母性神話
第三章 オーウェルの『ビルマの日々』―白人の重荷
第四章 オーウェルと『カタロニア讃歌』とPOUM―国際政治の
裏面
第五章 オーウェルと愛国心――ナショナリズムではなく
愛郷心
(社)日本図書館協会 選定図書 今なぜオーウェルを読むのか!
体験の昇華としての『一九八四年』『動物農場』『カタロニア讃歌』『ビルマの日々』…
「オーウェルは掛け値なしの「政治作家」であるということだ。いうまでもなく文学研究には多様なアプローチが可能だが、ただオーウェルを研究する場合には、とりわけ作家存在の原点にある「政治」を捨象することはできないといまでも思っている。」(「まえがき」より)
タグ: イギリス文学(評論), ジョージ・オーウェル