序 章 検疫所、似島を訪ねて……………………………………………………………………………… 9
第一章 国際舞台を意識して──捕虜対策………………………………………………………………… 15
「恐怖」と外国人接触の未体験列島 求められた捕虜対策 捕虜の受け入れ
急増する捕虜 戦争終結と捕虜送還 捕虜収容所の開設地ついて
第二章 捕虜がやってきた──最初の収容所・松山……………………………………………………… 33
初めてのロシア兵捕虜を迎えた松山 捕虜の取り扱い方
日本人の見た捕虜とロシア人の見た日本人 捕虜たちの生活
捕虜たちの日々 〝ショーウインドウ〟としての松山
第三章 なだれ込む捕虜──軋轢と〝交流〟と…………………………………………………………… 49
のどかな収容所からの脱走事件 旅順陥落による捕虜たちの到着 異色の捕虜たちと訪問者
第四章 開戦当初から決まっていた丸亀・善通寺………………………………………………………… 57
受け入れ準備と多数の訪問者 誘致運動もあった収容所設置
水不足の収容所 終戦後の〝思わぬ出来事〟
第五章 汽車輸送の始まり──姫路・福知山……………………………………………………………… 67
四国から本州への第一歩 収容所増設要請 続出するトラブル
住民七人のうち一人が捕虜という福知山だが…… 残留捕虜四〇三名、二つのエピソード
第六章 〝将軍の館〟──名古屋、静岡そして豊橋………………………………………………………… 81
福知山収容所のバックアップのはずが…… 詰めかける将官たち さまざまなエピソード
ロシア正教会の支援活動 冷静に受け入れた静岡 はっきりしない収容所?
捕虜から送られた火事見舞金 収容所開設を望んだ豊橋 収容所間の格差
第七章 旅順開城への緊急対応策──堺浜寺、大阪、大津、京都……………………………………… 103
追われる収容所設置 第一陣到着 収容所での生活 騎兵が出動した大騒動や逃亡事件
再来日で骨を埋めた捕虜タラーセンコ 拡大する収容所──自由散歩の大阪は名所観光?
請願書を出した大津の収容所 寺院を利用した京都
第八章 増える捕虜──山口、福岡、小倉、久留米、熊本……………………………………………… 123
検疫所も急遽収容所を併設 捕虜実益論と反優待論 二転三転した山口収容所、縮小に無念の声も
検疫所大里に収容所設置の下命 中洲にも置いた福岡の収容所 自炊拒否や脱走騒動
小倉収容所、脱走事件二件 「日露国際柔道大会」も開かれた久留米収容所
全国三番目の大収容所──熊本 帰国を控えて革命派と皇帝擁護派との確執
第九章 とまどう城下町──金沢、敦賀、鯖江…………………………………………………………… 155
軍都金沢への面目を賭けて…… 脱走騒ぎと郭通いと 数奇な再会
ロシアに開かれていた町・敦賀 こじんまりした鯖江収容所
第一〇章 箱根を越えた捕虜たち──習志野、佐倉、高崎……………………………………………… 169
原野の習志野にバラック七五棟を建設 “陸の孤島”の収容所、見物人が押し寄せる
捕虜間の抗争と伏せられた脱走事件 習志野のバックアップ、最初の閉鎖収容所・佐倉
豊かな娯楽文化施設をも利用した高崎収容所
第一一章 奥羽列藩同盟の地にも──仙台、弘前、秋田、山形………………………………………… 185
松山を視察して万全を期した仙台 新たな〝お客さん〟 〝友好〟キャンペーンの結果は……
樺太攻略作戦による非戦闘員と捕虜の受け入れ 民家を使用した弘前収容所 多様な人間模様
「俘虜の分送を望む」秋田 樺太将校団のみの収容、山形
第一二章「収容所」ではなけれど——長崎・稲佐………………………………………………………… 205
終 章 捕虜送還──七万二〇〇〇名の遺したもの……………………………………………………… 211
あとがき………………………………………………………………………………………………………… 225
附 主要関係規則/俘虜捕獲戦場と人員数・収容所俘虜人員数・刑罰者数・死亡俘者数…………… 229
参考文献………………………………………………………………………………………………………… 253
終 章 捕虜送還──七万二〇〇〇名の遺したもの
明治三十八年十月二十四日、ロシア特別委員ダニロフ中将一行が長崎に上陸し、東京で元捕虜将兵の引渡し交渉を行った。その結果、ロシア側が輸送船を派遣すること、その乗船地は長崎、神戸、横浜の三ヵ所とすることが決まった。
十一月中旬より送還業務が開始されたが、上陸地のウラジオストクで反乱騒ぎが起こったり、神戸でペスト流行のきざしが出たために急遽四日市に変更されるなど、思わぬ事態があり、最終的に送還が終わり、ロシア将兵の姿が完全に消えたのは、年が明けた三十九年二月二十日であった。
総括してみれば、約二十ヵ月の戦闘期間中、捕虜として日本軍に身柄を拘束されたロシア将兵は七万九三六七名、そのうち現地で解放された者五五〇六名、死亡者一四五三名、それらを除く七万二四〇八名が日本に送られて来た。
収容箇所は愛媛県松山を皮切りに、既述のように二十九ヵ所である。現在の都道府県でいえば、北から青森、秋田、山形、宮城、群馬、千葉、石川、福井、静岡、愛知、滋賀、京都、大阪、兵庫、広島、山口、香川、愛媛、福岡、熊本の計二十府県にまたがる。府県数が少ないのは、一府県に複数の収容所があったことを示す。例えば千葉では佐倉・習志野、愛知には名古屋・豊橋、福井では鯖江・敦賀、京都では伏見・福知山、大阪では浜寺・大阪、香川では丸亀・善通寺、福岡では大里・小倉・福岡・久留米である。
なぜこのように偏在したかといえば、第一に輸送路、鉄道網の整備状況による。軍は捕虜の国内移送を瀬戸内を除き鉄道によるものとした。海上を利用する方法は、船舶が味方の軍事輸送で手杯であること、敵艦の襲撃や捕虜による暴動・乗っ取りなどを恐れたものと解される。従って、鉄道網が皆無の四国では、収容所第一号の松山より瀬戸内経由の丸亀、善通寺のみ。九州では熊本以南、山陰地方は全域が対象から除外されている。
第二に、衛戍地の留守部隊に監視・警護を委ねざるを得ないために、必然的に衛戍地である旧城下町に収容所が置かれることとなった。愛知県での二ヵ所は尾張の名古屋、三河の豊橋の対抗意識のなせる結果。福岡県では豊後の小倉、大里、筑前の福岡、筑後の久留米と旧分国意識が露わである。
しかし、三十八年十一月十日現在の統計によると、衛戍地外に本格的収容所としてつくられた浜寺二万二三七六名、習志野一万四九五〇名が規模で群を抜き、以下熊本六〇〇二名、福岡四〇四九名、名古屋三七九二名、金沢三三一七名となる。最小は鯖江四〇名、山形四二名である。なお佐倉収容所は同年四月一日から五月十六日までの短期開設であり、この統計からは除外されている。
また、これらの捕虜扱いの者のうち、高齢などの特別解放者、戦傷などによる身体障害による兵役不適者、また衛生兵などの非戦闘員と認定された者が帰国を許された。三十七年十月を皮切りに八回にわたり計一一四名が、フランス領事保証のもとに神戸から祖国へ旅立った。
このほか、三七三名が収容所中に死亡した。松山が最多の九八名であるのは、重傷病患者を集中的に収容した結果である。これらの死亡者はそれぞれ各地の陸軍墓地などに埋葬されたが、一九一一年(明治四十四年)にロシア側の希望もあって、大部分を長崎市稲佐の悟真寺に改葬された。その結果、専修大学・大谷正の調査では、ロシア将兵の墓は稲佐、松山、泉大津の三ヵ所と熊本のカトリック教会関係敷地の一基、それに捕虜ではないが日本海海戦による漂着遺体を葬った隠岐の島西郷の墓地となっている。
しかし、地域によっては今なお地元有志や児童たちによる慰霊祭や墓地の整備、清掃が続けられており、それはそれとして麗しい話ではあるが、墓地と慰霊碑との不分明、慰霊の念と史実とのギャップが研究者を悩ませている。
こうした途中送還者、死亡者のほかに『陸軍政史』には逃亡者として一一九名(将校七、下士卒一一二名)が記録されている。これらを除いた計七万一八〇二名がロシア側に引き渡されたとされるのだが、この逃亡者とは一体何なのか。最長二十ヵ月にわたる収容期間中に脱出・逃亡事件は六二件生じているが、逃げおおせた者は皆無である。また日本への亡命・帰化を望んだ者もあったが、すべて却下されており、そのための帰国拒否者も出ていない。
あと考えられるのは、帰国にあたって、迎えのロシア船に乗らずに第三国へ逃亡したケース。管理責任が日本側からロシア側に委譲される混雑にまぎれて、人員不足が不問に付されたのではないかとみられている。
鈴木敏夫『日露戦争裏面史』にはこれを示唆する外国報道記事が紹介されている。
「露国革命党の俘虜五十一名は将校二名に引率せられ傾日日本より米国ビクトリア港に到着したる由、将校の一名はリネウィッチ将軍の配下なる北部軍団付けたりし者、他の一名はサスリッチ将軍の部下たりし者なるが、兵士等は小さき手提鞄および日本の布団を携えみすぽらしき姿にて(中略)一行五十三名はいずれも革命主義者にして露国が憲法を発布するまでは断じて本国に帰還せざる決心を立てたり、日本にて露国革命党在米委員ラッセルに出会い、氏の勧告にて米国に来たる次第(略)」
(三十九年一月十六日付け)
ラッセルは日本政府黙認のもとに各収容所を遊説し、革命思想を訴えてきた。これにより、新旧思想の対立が顕在化し、管理当局の手に余る事態をも引き起こしたが、その効果はこうした形にも現れたわけである。
さて、日本に送られた捕虜たちは、広島似島、福岡大里の両臨時検疫所を窓口として、鉄道網で輸送されて行った。樺太作戦による捕虜が出始めると、青森もその受け入れ口になった。といっても、大動脈の東海道線でさえ東京(品川)─京都間二〇時間といわれた時代である。しかも、大量の捕虜に車中で弁当というわけにはいかず、食事の度に停車して、臨時接待所でスープなどを与えるケースも多かった。はっきりした記録は見当たらないが、最長の輸送距離だった宇品(広島)─仙台収容所には三泊四日を要したと思われる。
だが、このような不便さも、一般国民に対して思わぬ効果を与えた。当時、日本滞在の外国人といっても横浜、神戸、長崎などに偏在しており、地方に教師や宣教師としてごくわずかの外国人がいたことはあっても「生きた外国人」をその眼で見る機会は極めて乏しかった。だから、収容所所在地だけでなく、経由地の人々にとっては、例えが適切ではないが、芝居一座の地方巡業、あるいは移動動物園を迎えるに近い経験をもたらしたといえる。帰国の際も同じように乗船地である長崎、神戸(後に四日市に変更)横浜まで移動していったのだから、その機会は倍増したといってよい。
収容施設にも多くの人々が捕虜見物に集まった。警備当局は敵愾心などから捕虜に暴行を働く事件が起きることを心配し、捕虜は名誉ある存在であり、恥辱を与えるような行為は慎むように繰り返し一般市民に呼びかけた。一部に戦死者の家族や敵廉心に燃えた者が捕虜に投石したり、捕虜側にも民衆に対して侮辱的な言動を示した者もあったが、トラブルになることもなく、当局の心配もほとんど杷憂に終わった。
捕虜たちとの面会や見舞いは制限されていて、一般民衆は自由に接触することは出来なかったが、塀や仕切り越しに眺めたり声をかけたりする捕虜見物の人々が絶えなかった。「捕虜祭り」と呼ばれる賑わいが各所に見られたほどである。自由散歩など捕虜の外出が認められると、捕虜側から民衆への働きかけや商店への出入りが活発になった。
こうした個々の観察や交流だけではなく、地元の学校との相互訪問、行事への参加など組織立っての交歓もみられた。また捕虜の注文に応えるかたちで、皮革のなめし、製靴、服の縫製などの技術が進歩する効果も生んだ。逆に、日本の義務教育の徹底ぶりが、文盲の多いロシア兵に感銘を与え、収容所内でロシア人に対するロシア語講習があちこちで開かれるという珍現象も見られた。
こうした要望に応えて、日本ハリストス教会は捕虜向けのロシア語初等読本を何と一万五〇〇〇部も印刷して収容所に配布した。このほか同教会では、小型の祈祷書六万五〇〇〇部も贈り、二〇余人の司祭(日本人)が担当を決めて、日常の礼拝や祝祭目の儀式、重傷病者の慰問、死者の葬礼などを行った。捕虜たちの精神的安定を持続させる上で、ニコライ大主教を先頭にした同教会の活躍は軽視できない。
さて、捕虜そのものの待遇については、一八九九年にオランダのハーグで開かれた万国平和会議で議定された「陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約」「同付属書」に基づく「俘虜取扱規則」(三十七年二月十四日)「同細則」(同五月十五目)で決定された。それには、準士官以上の捕虜の施設はなるべく下士卒と区別し、各人には従卒を付けることが明記されている。将校が、官位を持つ国家の官吏であることによる特別待遇であり、これは日本の軍制にも当てはまる。従って、一般下士卒が大部屋収容方式であるのに対し、将校は原則的に個室が与えられ、従卒が別室で待機する収容形態となった。このために将校用には寺院のほかに、市中の旅館、料亭などが充てられる場合が多かった。
糧食費として将校・準士官には日額六〇銭、下士卒には同三〇銭が支給され、賄い、捕虜の自炊を問わず、材料代、調理代として、これが確実に費消される。このほか、被服新調費として、三〇円から八円、同下着で五円から八〇銭の支給がある。さらに、消耗品用の定額支給が月額二五円から五〇銭に及ぶ。
さらに将校捕虜のなかには、高貴な出身者、裕福な境遇の者が少なくなかった。彼らにはこうした支給など問題でなく、本国からかなりの送金を受けて遊興の場で金銭をばら撒くことも珍しくなかった。
当初、収容所開設を命じる側も受け入れる側も、物心両面の負担を覚悟していた。しかも師団・連隊などの駐屯部隊の出征で消費人口が激減して地元経済は景気悪化が避けられない状況だった。ところが、松山など早期開設地、特に将校中心の収容所を抱えた都市では、捕虜の集団が消費人口の落ち込みを補うだけでなく、経済活性化に一役買ってくれることを実証した。こうした実態が伝わった結果、一転して捕虜収容所誘致運動が活発化していくのである。
しかしながら、将校の自由散歩はさまざまな問題を引き起こした。三十七年五月十五日施行、翌年三月十八日改正の「俘虜自由散歩及民家居住規則」の第五条で「一定の区域を限り自由散歩又は民家居住を許可することを得」と定められた。しかし、この具体的な運用については、収容所ごとにさまざまな解釈が行われ、統一性を欠き、混乱がおこったのである。
端的にいえば、遊郭などへの出入りが認められるかどうかである。わが軍将兵に大量の戦死戦傷者が出ている状況下で、捕虜に遊興の場を提供する必要はないとする感情論と、一方で上得意を取り込みたいとする経営者や地元経済界の思惑があり、その対応が分かれたのだ。
そこで、当局は五月十五日に陸軍大臣寺内正毅の名で訓令を出した。その中で「自由散歩ヲ許可シタル俘虜将校同相当官ハ逃走ヲ図リ或ハ無検閲ノ通信ヲ企ツル等宣誓ノ条項ニ背キ帝国ノ規律ニ反セザル限リ成ルベク行動ノ自由ヲ与エ且散歩地域モ亦彼等ノ憂鬱慰メ得ル如ク選定シ該地域内ニ於テ公然職業ヲ営メル場所ニハ敢テ出入ヲ禁制スルニハ及バザルベシ」とした。
この眼目は「遊郭など公然職業を営めるところへの出入り自由」と、悪所通いにお墨付きを与えたことだ。同志壮大学の桧山真一は、松山収容所にいたエカチェリノスラフ号船長セレツキー大佐の手記『日本人に囚われた六四六日間』を引用して、河野所長が兵士不足のために捕虜の警護・監視に人手は割けず、捕虜への融和策を採らざるをえなかったと述べたことを指摘している。
捕虜取扱いの消極性は、下士卒の使役面にも現れている。元来、捕虜は相手戦力を削減するとともに、逆に対敵戦闘力の尖兵として転用したり、陣地構築など戦場での使役に利用されてきた経緯がある。従って、捕虜集団の使役は軍事上の常識といえる。
一八九九年のハーグ万国平和会議で議定された「陸戦ノ法規慣例ニ関スル規則」では「国家は将校を除くの外俘虜を其の階級及技能に応じ労務者として使役することを得その労務は過度なるべからず又一切作戦動作に関係を有すべからず」として、下士卒の使役を是認している。
当時の日本軍部も三十七年六月三目の通牒で「下士卒を使役する場合は下士には日額七銭、兵卒には日額四銭を給す」とした。日本軍が使役した労務者の給与と同一額を明示したのである。しかし、同月二十四日の陸軍省記録では「陸軍部外の労役に使用せざるに決し」と方針を変えている。これは収容所第一号の松山からの伺いに答えたものだが、どういう理由に基づくものなのか、明らかではない。
ところが二ヵ月余後の九月十日に「俘虜労役規則」が制定される。そして、松山の伊予鉄道会社高浜停車場から捕虜上陸地点まで鉄道を延伸する埋め立て工事に捕虜を使役する許可が下りた。「長期にわたって無為徒食の生活を続けさせるのはかえって苦痛を強いることになる」との意見によるものといわれるが、二転三転である。
早速、捕虜代表六名が十月十日に現場を点検し、翌十二日と十三日に仕事に取り掛かったものの、十四日には作業に出なくなった。陸軍省の「俘虜取扱顛末」によると、捕虜側は賃金が安いことを口実にし、雇用側は言語習慣の異なる捕虜を使いこなせないとさじを投げたという。政府にしても、捕虜の意向に反してまで労働を強いることはないとして、この作業は中止されてしまった。この後、収容所は次々に増設されていくが、松山の先例にならったか、捕虜の使役はどこも実施に至っていない。
各地方とも、経済態勢は軍需部門に集中し、公共、民間ともに大規模投資も工事も控えられていた。従って、捕虜集団を雇用するに適当と思われる場がなかったこと、一方で高度の技術を要する作業では捕虜に対応する能力がないことなど、捕虜を地元の経済ネットワークに組み込める状況になかったことは確かである。現実の問題としても、特別の食事を用意しなければならない、通訳がみつからない、監督警備の人数が必要になる、などの事情もあったろう。
だが、多くの働き手が戦場に赴いて、日本中が極度の人手不足に陥っていたことも事実である。捕虜がそれを幾分でもカバーする要素にならなかっただろうか。三十八年四月七日の『北国新聞』(金沢)に「我が金沢の如き、彼等(捕虜)を利用するに適当な事業少なしとせず。市区を改正(注・市街地整備)する可なり、電線を敷設する可なり、植林を講ずる可なり。もし幸いにして工芸に熟練するものあらばその道に使用するも最も妙なるべし。露人手を下して成功したる事業のこの地に存すとせば、之れ即ち好個の戦時記念にして征露戦史上さらに一段の光彩を放つというべく」との論説記事が掲載されている。
捕虜を使役することに積極的でない軍当局、二の足を踏む地方官庁、事業所に対し、人々のはがゆい思いを代弁したものであろう。
捕虜は、ロシア軍からだけ生じたものではない。日本軍の将兵でロシア側の捕虜となった者は、二〇八八名と記録されている。現地で解放された者四四名、死亡者同じく四四名、残りの二〇〇〇名がモスクワ市から二〇〇キロほど離れたメドヴェージ村の収容所に集められた。
日露双方の情報交換で、捕虜の氏名はその都度、連絡され、日本側でも新聞紙面で公表された。捕虜として送られて来たロシア将兵を「名誉ある戦士」として扱うよう繰り返し呼びかけてきた以上、日本側の捕虜将兵も同じように取り扱うべきだとの論理によるものであろう。生存を知らされた親類縁者がほっとするほか、国民もそれなりの敬意を払っていたように思われる。
ところが、戦況が有利に推移するにつれて、国民感情も微妙に変わって行ったようだ。特に、講和条約の内容に不満が爆発した九月以降、ロシア捕虜の帰国問題が報道されることがあっても、日本人捕虜の動静を伝える記事は全く現れなくなる。彼らは米国領事の介添えでヨーロッパに出国、帰国したが、三十八年七月に制定された「陸軍俘虜帰還者取扱規則」により査問会議に掛けられ、その後ひっそりと帰郷したものと思われる。
ロシア将兵捕虜を送別会で温かく送り出したのに比べて、同胞に対する冷ややかさはどうしたものだろう。帰還した傷病将兵への生活援護にしても、廃兵院がわずか東京、大阪、小倉の三ヵ所、収容人員四五〇名だった。
捕虜に対する意識は十年後の第一次世界大戦時でも変わらなかったといっていい。人数が四六〇〇余名とはるかに少なく、青島戦以外に戦いらしい戦闘もなかったという好条件もあった。徳島の城東収容所で我が国最初のベートーベン「第九交響楽」の演奏がドイツ人捕虜によって行われたという微笑ましいエピソードも残っている。
しかし、度重なる戦勝で、捕虜というものを認めない方向が次第に明確になって行く。「我が軍の将兵は捕虜になるはずがないので、敵国捕虜も我が国で存在させるべきではない」という論理だ。昭和四年(一九二九年)に捕虜取扱に関するジュネーブ条約が締結された際、我が国はこの論理を持ち出して、ついに批准しなかった。条約は我が国にとっては一方的に義務を負う扁務的であるとしたのだ。この延長線に二つの重大な結果を生み出されたのである。
一つは軍内部に向けての規律、「生きて虜囚の辱めを受けるなかれ」の「戦陣訓」制定(昭和十六年)であり、二つ目は正規の戦争を回避する「事変処理」である。昭和十二年に始まった日華戦争は「支那事変」とされ、国家間紛争処理の戦争の範疇に入らず、従って諸条約の規定に拘束されないとした。「事変処理要綱」にも捕虜取扱の条項はなく、戦場で拘束した敵戦闘員は「現地での適切な処理」に任せられた。これにより、現在にも問題を残す「南京事件」など、思いつきのままの処刑が横行したのである。
日露戦争は、リング上でのボクシング試合に例えられる。大男のロシアと小さな日本人がグラブをはめて殴り合い、それをセコンドよろしくアメリカ、フランスなどがサイドで見物しているというポンチ絵が当時から出回ったほどである。列国にとっては、日本の興廃をかけた戦争というより、二〇世紀の戦争形態を試すショーだったのだろう。その点では、戦争当事者に対する何の同情も配慮もない。
しかし、配慮がないのは、日本にしても同罪である。ボクシングのリングが設営されたのは第三国の清国の地であり、その人民の生活の場であったことが忘れられている。戦地の兵士からの手紙の中に一二、現地民に対する同情の念が見られるようだが、一般的に言えば、敵であったロシア軍将兵の姿しか目に入らなかったのである。
この姿勢は、韓国に対しても同様である。開戦前の日露交渉で日本側が示した「満韓交換論」では、満州におけるロシアの覇権を認める代わりに朝鮮半島での日本支配権を確保するという考えが打ち出されている。ロシアの軍事的脅威が満州から南下し、韓国内部でもロシアとの提携をもくろむ動きがあるために、これに対抗する方策として提案されたのである。
これをロシア側が拒否したために開戦となったのだが、日本政府は軍事行動と平行して日韓議定書、日韓協約の調印を迫り、一九一○年(明治四十三年)の日韓併合への道筋をつけて行く。そして、併合した韓国民に「天皇崇拝」「日本語教育の義務化」などの皇民化政策を強行するのである。
これには列強諸国の承認を取り付けており、当時の植民地拡大の国際的常識から外れた行為とは言えないかもしれない。しかし、当の韓国また国民への配慮が全く欠けていたことは否定できない。軍事的にみても、これが妥当な施策だったか。朝鮮半島を日本領土に編入したことで、いわゆる〝絶対国防圏〟をその外側に拡大しなければならなくなり、これが、「満州独立計画」に繋がって行く。
そして、著名な徳富蘇峰らが叫ぶ「満蒙こそ日本の生命線」になれば、それを守るためにより外側の中国華北地方に軍事的支配と戦争資源獲得を目指すことになる。
果てしない拡大路線がどこに行き着くか。日本の軍事力、兵器生産力を考えれば、答えは自ずから明白だろう。こうしたリアリズムが放棄された、あるいは薄められた原因は、必ずしも軍部だけにあるとは思えない。
明治三十七八年、戦勝の結果として、大量のロシア将兵が捕虜として日本にやって来た。国民の大多数にとっては、初めて見る外国人であり、初めてのヨーロッパであり、世界であった。
幕末の黒船来航はそれこそ畏怖の対象だったが、「第二の開国」ともいうべき捕虜の大量上陸は、好奇の対象であり、彼我の生活の比較の機会であり、それこそ日本国民の襟度の見せ所であった。
しかし、冷静にみれば、日本人の生活は男女とも着物に前掛けで、大多数が藁草履、下駄は都会や特別な場合に限られていた。洋服着用は軍人、警官、役所の幹部、教師の一部。それが即貧しさの象徴というわけではないが、より快適な生活への憧れを掻き立てただろう。捕虜との交流で、洋服仕立て、皮革のなめし技術、革靴製造、パン、スープ、肉料理などの食料調理法といった分野での新知識が伝えられ、広まって行った。後のことになるが、捕虜帰国の七年後、大正二年にトルストイ原作の演劇「復活」が松井須磨子主演で上演されて熱狂的な人気を呼び、その劇中歌「カチューシャの唄」のレコードが三万枚売れたという記録が残っている。大正モダンヘの先鞭である。
しかし、明るい側面ばかりではない。日韓併合の動きに並行していわゆる「大逆事件」が起こり、幸徳秋水ら社会主義者が処刑される。日露戦争中には、ロシア帝国の土台を揺さぶるために、捕虜たちに革命思想吹き込む工作を行ったが、今度は日本政府自らがその弾圧に苦慮する羽目になったのだ。
左翼思想だけに止まらない。戦勝続きに沸き立っ国民の戦争観自体が変わって行く。三十八年九月の講和条約反対の国民運動以来、戦争には領土・償金などの対価がついて来るのが当然という空気が半ば常識となる。一九一四〜一七年の第一次世界大戦で、いわば濡れ手に粟で南方諸島を委任統治領として支配下に納めたことが決定的なダメ押しとなった。
さらに言えば、戦争は国外で行うものという感覚も当然視された。もちろん、軍事専門家であれば、場合によっては国内決戦、あるいは水際作戦を想定しないでもないだろうが、国民は外征しか念頭にない。戦場での犠牲者には哀悼の念は持つが、大多数の国民の生活とは無関係という割り切り方だ。第二次大戦になってさえ、米軍の爆撃に曝されて、初めて戦争を実感した国民も少なくないはずである。
こうしたリアリズムを欠いた戦争観が、軍部に投影されないわけはない。国民は軍への期待を膨らまし、軍部は国民の思いに煽られる形で、その期待に応えようとする。こうした相互作用に、日露戦争時における大量の捕虜との遭遇が一定の役割を果たしたことは否定できない。
囚われの身となった捕虜たちに余裕を持って接し、幕末の開国以来の恐怖と憧れの念から解放されたとき、ようやく取り戻した自信が瞬く間に傲慢に変わっていくなど、国民のほとんどが自覚すらしなかったろう。ましてや、それが破滅への第一歩になるなどとは──。
歴史の皮肉にただ、嘆息するばかりである。 あとがき
私が日露戦争におけるロシア将兵捕虜の問題に接した最初は、東京・恵比寿の防衛庁(当時)研究所の図書館で『明治三十七八年戦役 俘虜取扱顛末』(陸軍大臣官房編)を閲覧した時である。何十年前になるか、何の目的で同図書館に赴いたのか、はっきりしない。恐らく、当時同研究所にいた学友を訪れた際に立ち寄ったのかと思われる。
その後、『日本捕虜志』(長谷川伸)『松山収容所』(才神時雄)などの関連書を読む機会があったが、自らその問題に首を突っ込む意志はなかったといってよい。
しかし、米ソ対立を中心とした国際問題の報道に携わっていた延長として、日露交流の流れを考えて行ったとき、日露戦争、とくに七万二〇〇〇人のロシア側捕虜が日本各所二十九ヵ所に収容されていたという事実が、私の心中で大きく膨れ上がってきた。在日米軍の二倍半もの将兵、武装させたらそのまま日本を占領できそうな集団が各地に集団で存在したのである。
さらに、収容された捕虜そのものにも増して、それに接し、受け入れた明治後期の日本人への関心が高まった。「俘虜はすでに敵にあらずして名誉ある戦士なり、賓客にあらざるといえども人道的に接すべし」という何とも座りの悪いお達しにとまどいながら、ある時は遠巻きにし、ある時は彼らの後ろをぞろぞろと付いて行く。そのような情景が次第に形を成していく。
幕末の開国以来、国家としては急激な欧化路線を追求して来たが、多くの人々にとっては、初めて見る外国人であり、ヨーロッパであり、世界であったに違いない。その興奮、衝撃度がいかばかりであったか。だがそれも次第に常態化し、やがて街の風景に溶け込んでいったのではないかなどと、想像することが楽しくなったのである。もちろん、戦争の重い負担、多くの犠牲者を出した家族たちのさまざまな想いは理解の上だ。私自身、戦争の遺児である。ともかく、それがやがて、私に“銃後の日露戦争”を訪ねる旅に踏み出す決意をさせる。
さて、捕虜収容所といえば、「松山」である。故才神氏の令嬢・由衣子氏にもお逢いし、氏の捕虜問題に賭けた執念に改めて感銘を受けた。松尾忠博氏からは、労作「時系列的研究ノート」を提供された。また、同市で研究会を組織していた松山大学の宮脇昇氏(現立命館大学)から資料とともに、『日露戦争裏面史 日本国内の収容所にいたロシア軍俘虜』の存在を教示された。徳島市立図書館長を務められた鈴木敏夫氏が全国の収容所所在地を訪ね、当時の新聞資料などとともにまとめられたものである。
敏夫氏がその草稿を残して世を去ったために、遺言により御長男・康夫氏が二〇〇三年に私家版として出版されたといういきさつがある。才神、鈴木両氏ともシベリア抑留の怨念をバネに取り組んだ成果だった。
しかし、鈴木氏が序文で書いているように、意外に資料が乏しいのである。すでに百年を越える歳月を経ている以上に、ほとんどが軍事的中心である衛戍地であったがために、米軍の空爆の目標となり、大被害を受けたケースが少なくなかった。さらに、戦後の復興・発展で街そのものが大きく変わり、所によっては収容所の所在していた場所すらあいまいになっていた。そのため最終的には、当時の地元新聞などの基礎資料だけに頼らざるをえなかった場合もある。
それでも、各地に熱心な研究者が居り、多くの助言を頂いた。谷茂男(愛媛新聞社)、松本周滋(丸亀)、吉岡伝三郎(善通寺)、宮崎佳都夫(広島・似島)、多田重則(名古屋)、宮田素樹(同)、檜山真一(京都・同志社大学)、猪飼隆明(熊本)、堤諭吉(久留米)、の各氏。さらに教育委員会、図書館、博物館などの公的機関の方々のお世話になった。厚くお礼を申し上げる。
付記
「俘虜」と「捕虜」は同義語である。公文書などには俘虜が用いられているためにそれに従ったが、なるべくは「捕虜」を使用した。
また、本文中に使用した現在の写真で特に出典を示していないものは著者の撮影したものである。
大熊 秀治 明治37~38年、全国29ヵ所の収容所に72,000人のロシア人が溢れた!捕虜受け入れに対応した軍関係だけでなく、各地元の対応― 一部には収容所誘致運動も。各地に移動する捕虜の姿(外国人)を初めて見る民衆、異文化との接触・反応。当時の地方新聞や僅かに残る資料をもとに各地の姿を描く ―脱走事件や郭通い、捕虜祭りなど。元新聞記者の〝足で歩いた〟ドキュメント。現在の写真と当時の写真、150余点を多数収録。