書店をたずねて三千里

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高付加価値的牛丼・・・という生き方

置き換えて見て、ようやく理解できることもあれば、置き換えの過程に

その時々の関係者の気分が力関係的に介入して、良いのか悪いのか

判別つかない…確かに理解だが、この理解、理解という名(権威)の

理解という無理解にも成り勝ちな、なかなか(三上寛さんも「牛丼が

「なかなか」とその効用と罠を歌で死者の次元に持ち込もうと詠う

わけですが)、この「ナカナカ」、内にあるようで、外だからといって、

やっぱり中でしかない、どっちつかずに見えて、最も苦しいところでの

中≒外の潜在性を、抒情詩?と展開して、さらに先鋭をまるっこく、

一見、凡庸しかして実極北という、なんの準備もなく、移行=遺功=衣桁

、死行くつもりなだけ。

とりあえず、死んでいるのを知らないで生きている私たちとしては、

考える、だから?、と、考、が既に、得る、とはならない、しかし、

その決定的他と絆を受動的という確たる証言の蠢きを感覚することで

、何かしらの「それ」、ある瞬間でないと、全く無意味なぶつかりの

様式を身に着けて「ようやく、人の前提」という、中々やる事、あるのに、

おそらく私には百年後、という、責任放棄などするつもりは無いのです、

という口先で、「クレタ人は嘘とクレタ人が嘘言う」と、その場に立つ勇気

なく、基本の盗用によって、「人」のフリする擬態でかなり周りが詐欺容認、

と、どの点が勘どころか見極めないと、結局、茶番=私というそれ、と

何度やっても「同じこと=惰性」なので、今まで書いたことは一切無価値

なので、置き換え程度で決定的「置換」には至る気も無い、つまらん事態

を丸出しで、だからといって、それで現実の重み掬い取れもしないので、

手も足も出ないわけですが、そこんところを、もっと授≒受、という課題も

あったり難しいですが・・・というわけで、

なんか週末が二回来てしまった感じの本日ですが、じゃウィークエンド曲

だとあれかこれか、してもパッとしないのしか聞こえないので、もっと効く

もので、どうしましょう。

最近亡くなったピーターアンドポール では全く無いという、大学のとき

テレヴィでやっていた、親に言われて教会通ったりして話し聞いたけど、

天使とかイカヅチとか、まるで感じられませんという、永続思春期丸出しが

気持ち良いこんな曲で今日は(倒錯的同化??)。(玉崎)