宮台真司 × 真鍋厚
映画 × 社会トークセッション
「〈社会〉という “まぼろし” をどう生きるか

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第1回 多自然主義と存在論的転回
  ──『シン・レッド・ライン』『女は二度決断する』

なぜわたしたちの「社会」はこんなにも生きづらくて、つまらないのか。
映画というフィルターを通して「世界」を眺めてみれば、全ての疑問は氷解する。

2018年5月末、「〈社会〉という〝まぼろし〟をどう生きるか」をテーマに、社会学者の宮台真司さんと評論家の真鍋厚さんによるトークセッションが開催されました。

宮台さんは『正義から享楽へ──映画は近代の幻を暴く』(blueprint、2016)、真鍋さんは『不寛容という不安』(彩流社、2017)で、映画を用いて〈社会〉の深層に迫るハードな論考を上梓されています。

今後、お二人には、複数回にわたって、映画作品という武器を駆使した刺激的な社会評論を繰り広げていただく予定です。まずは、2018年5月26日(土)、世田谷区・三軒茶屋の「猫のいる本屋」Cat’s Meow Booksにて行なわれました初回のイベントの模様をお届けします(当日のトーク内容を元に、加筆修正をしています)。

 

 

【真鍋】

今日は、多様な人々が猫という共通項を介して、自然と会話が生まれるこの空間(Cat’s Meow Books)で第1回のトークセッションを行ないたいと思います。

まず、今回のトークの前提からお話しします。私は、宮台さんが月刊誌『ダ・ヴィンチ』(メディアファクトリー、2011年からKADOKAWA)の2000年6月号から「映画を素材にした実存批評」として連載を始められた「オン・ザ・ブリッジ」の熱心な読者で、また連載を書籍化した『絶望・断念・福音・映画──「社会」から「世界」への架け橋(オン・ザ・ブリッジ)』(メディアファクトリー、2004)、『〈世界〉はそもそもデタラメである』(メディアファクトリー、2008)を繰り返し読んできました。

当時、自分が漠然と感じていた「生きづらさ」、それは宮台さんの言葉を借りれば、「〈超越〉系の実存」の困難に真正面から応えてくれるものでした。もともと大学では、映像を専攻していたこともあり、映画批評についても一通り学んではいたのですが、「オン・ザ・ブリッジ」はそれらすべてをひっくり返すほどの衝撃がありました。それは映画を使って「そもそも社会とは何か」といった思考の可能性を拡張するような新しい試みだったのです。私が文筆の世界に飛び込む大きなきっかけになりました。というわけで、念願のトークであると同時に、このトークを通じて自分自身も刺激を受けつつ変化していければと思っています。

私たちが生きている「社会」というのは、フィクションに過ぎないと言われたり、幻想だとか妄想の産物といった文脈で語られることもありますが、はっきりしていることは何らかの「共通前提」というものがなければ回らないものであり、それが機能しなければコミュニケーションは成り立たず壊れてしまうものだということです。この「共通前提」の崩壊が急速に進んでいるというのが昨今の状況です。

宮台さんもご著書で書かれていますが、映画というメディアは、だいたい2時間、長くても3時間程度で観て、考えることができる最適な素材です。この映画の特性をふんだんに利用しながら、「〈社会〉という〝まぼろし〟をどう生きるか」について議論を深めていければと考えています。


【宮台】

真鍋さんを引き受けます。僕らが「社会」と呼んでいるものは大規模定住社会のことで、約3千年前にできたものです。それ以前にはありませんでした。大規模ではない定住社会──単に定住社会と呼びます──は1万年前にでき、定住社会の誕生で法ができました。

遊動段階と違って、定住社会には収穫物のストックがあって、その保全・配分・継承のために所有の観念が生まれたのですね。所有とは、使っていなくても自分たちのものということですが、所有を保護するために法ができたのです。これは相当に「異常」な事態でした。

遊動段階では150人以内で狩猟採集を営んでいましたが、これをダンバー数と言います。私たちが自然に「仲間」だと思える範囲のことで、ゲノムに書き込まれています。ちなみに私たちはヒト属サピエンス種ですが、ヒト属ネアンデルタール種のダンバー数は100です。

定住への移行を定住革命と言いますが、昔は農業革命と言いました。農耕は定住以前に知られていて定住が一つの決断だったことから、呼び方が変わったのです。使っていなくても自分たちのものという所有やそれを保護する法に従うことは、「異常」だったからです。

定住社会の集住は、千や万の単位になるので、仲間を超えます。複数の仲間集団が集まって定住するので、仲間集団同士の紛争を避けて、紛争があったときに紛争処理を行なうために、法ができたのです。つまり、仲間が目的で、法が手段だったということですね。

なのに、定住社会では法が自己目的化しがちです。それを避けるために定期的に祭りをしました。祭りではタブーとノンタブーを反転しますが、その機能は、法外に出てシンクロし、仲間を確かめることです。仲間を守るために法があることを、再確認したわけですね。

祭りでは、定住を決断しなかった非定住民──定住が始まって以降の遊動民をこう言います──が召還されます。定住民が遊動民だった頃の作法、つまり「法外のシンクロ」を、彼らが現に生きているからです。非定住民は「祝祭時に眩暈〔めまい〕を持ち込む存在」だったのです。

さて、定住社会に変化が起こったのは、文字が発明されてからです。音声言語と違って、文字言語は、表情や声色や韻律や挙措〔きょそ〕などの文脈に依存しません。文脈に縛られないで通用したので、広域の統治が可能になり、大規模定住化したのです。それが約3千年前でした。

文字以前の定住社会では音声を使いましたが、韻律や朗誦をするというだけでなく、とりわけ祝祭時にはロゴスよりも隠喩や換喩が──散文言語よりもヤコブソンの詩的言語が──優位でした。そこでは、理解の伝達よりも、ミメーシスつまり感染的摸倣が大切なのです。

ちなみに言語そのものの発生は4万年前です。それまでヒト属はみな歌っていましたが、サピエンス種のゲノム内のFOX-P2に変異が起こり、ストリーミングがぶつ切りになってボキャブラリーができました。ネアンデルタール種の全ゲノム解析が完了してわかったことです。

楽しい歌を聴けば自然に楽しくなり、唱和したくなりますが、楽しいという言葉を聞くだけでは楽しくなりません。歌は音声言語よりもミメーシスを引き起こすのです。ちなみに隠喩や換喩は、音声言語を歌に近づけて、ロゴスの暴走を抑止する機能があります。

こうして見ると、散文言語のロゴスを優位させる大規模定住社会の作法は、人類史上は「異常」という他ありません。それでも最近までは、大規模定住社会に含まれる小さなユニットごとに定期的に祝祭を営んできました。それが変わったのは20世紀後半になってからです。

法外に出た存在を見つけると、自分には何の関係もないくせにギャアギャアいきりたつクズが、続々と出てきたのですね。法外のシンクロを生きるための共通前提や共通感覚や共同身体性がないので、法内にマジガチでしがみつく存在。僕は「クズ」と呼んでいます。

別の言い方をしますと、定住社会──とりわけ大規模定住社会──は、「なりすまし」によって生きるしかないものです。次のお祭りを待望しながら、なりすましに耐えるのです。お祭り好きの僕は、1970年代末から日本全国の祭りをめぐりながら、それを感じてきました。

その意味で、定住社会はそもそも「クソ社会」なのです。どこかが故障したからじゃありません。初めからそうなのですね。ということは、定住社会がクソ社会である事実を忘れた存在を、僕は「クズ」と呼んでいるのだ、ということになります。

クズが増えれば、そもそもクソ社会に過ぎない定住社会は、ほどなく滅びるだろう──多くの哲学者や表現者がそう考えてきました。そして、いまクズの大量生産が露わになりつつあります。典型がウヨブタとクソフェミですね。両者は作法も佇まいもまったく等価です。

かくして、多くの表現者たちは「どうすればこの社会はよくなるか」というテーマから離脱し、「この社会がどのみちよくならないこと」を前提に、「だったらどう生きるのか」というテーマに集中するようになってきました。とりわけ最近の映画がそうなのですね。

ただし、それを映画作家が自覚しているかどうかは別問題です。他の表現者も同じですが、映画作家には自分が何を撮っているのかに無自覚な人が多く、「あなたの作品はこうなってます」と言うと、「いやぁ、それは知らなかった!」みたいになるケースが大半です(笑)。

このトークセッションでは、監督本人が気づかずにある型をなぞっている、という事実に注目しながら、語っていきます。「社会はもともとクソなのに、気づかないクズだらけになった」というモチーフが繰り返し出てくる事実を、共有する場になればいいなと思います。

 

▼『シン・レッド・ライン』(テレンス・マリック監督、1998)
【真鍋】

今回のトークに先立って、宮台さんから『シン・レッド・ライン』『NINIFUNI』(真利子哲也監督、2011)『彷徨える河』(シーロ・ゲーラ監督、2015)の3本を挙げて頂きました。

宮台さん曰く「エドゥアルド・ヴィヴェイロス・デ・カストロ的な多自然主義ないし多視座主義(すべては人間であり、それが人Aになったり、人Bになったり、犬になったり、木になったり、電信柱になったりする)という世界観を体現した作品群」ということになります。デ・カストロは、ブラジルの人類学者で、アマゾンの先住民に対するフィールドワークをする中で、「ジャガーから見れば、人間にとって血に見えるものはビールであり、ハゲワシから見れば、人間にとって腐肉に湧いた虫に見えるものは焼き魚である」といった異なる視座が並存している状況に気づきました(2014/『食人の形而上学――ポスト構造主義的人類学への道』洛北出版、2015)。

近年、リアリティの捉え方自体がどんどん一元化していますが、「多自然主義」「多視座主義」、つまりさまざまなリアリティが存在しているという見方が、このような傾向に疑問を呈する形で出てきています。第二次世界大戦におけるガダルカナル島での日米の戦いを舞台にした『シン・レッド・ライン』は、一見戦争に翻弄される人間模様を描いたドラマと思われがちですが、最初にジャングルのワニのシーンから始まる時点でそうでないことが分かります。『プライベート・ライアン』(スティーヴン・スピルバーグ監督、1998)のような映画を期待して見た人は、激しいドンパチが描かれる戦場シーンがメインではないので退屈するでしょう。しかし、注意深く見ればまったく別の視野が開けます。テレンス・マリック監督が自然の情景を丹念に撮っていることの意味が明らかになるからです。脱走兵が二人いて、先住民の生活に溶け込んでいます。母親たちと話したり、子どもたちと遊んだり、先住民の世界に馴染んでしまっている、という状況がまず描かれ、そこから軍隊に連れ戻される、というところからストーリーが始まります。

戦場のシーンと並行して描写される自然や先住民などのカットは、先住民には先住民の時間が、ワニにはワニの時間が、虫には虫の時間が流れているという、言わば無数のレイヤーが存在する、多層的になった世界――そのうちのひとつに戦場でもがき苦しむ、人間の世界があるという形が示される構造になっています。普通に生活していた人が徴兵されてガダルカナルに送り込まれた、というだけの不条理感では終わらせず、「異なる時間」を認識できずに閉じ込められていることの悲惨を表現してもいます。

脱走兵の一人、ジム・カヴィーゼル演じる二等兵は、先住民と一緒に生活をするなかで、「異なる時間」が流れているということを理解します。母艦に戻った彼は、ショーン・ペン演じる上官に「自分は別の世界を見た」と伝えます。そのことが映画の導入部で説得的に描かれるので、観客は「異なる時間」、別の世界のリアリティを維持したまま、つまりジム・カヴィーゼルの立場に立って多自然主義、多視座主義の手触りを体験することになります。その感覚が映画を観ている間、ずっと継続し増幅されていきます。

 

【宮台】

僕の記憶では多自然主義を描いた最初の映画です。ワニの時間があり、鳥の時間があり、先住民の時間があり、日本兵の時間と米兵の時間がある。米兵の中でも、ジム・カヴィーゼルの時間、上官のショーン・ペンの時間、鬼軍曹のニック・ノルティの時間があります。

そのことは各人の視座に即した回想のフラッシュバックで描かれます。中でもニック・ノルティのモノローグが最高でしたよね。この映画の素晴らしいところは、すべての登場人物のモノローグが回想とともに描かれることです。そんな映画を見たことがありません。

それらモノローグが各人が別の時空間を生きることを示し、ワニや鳥や先住民や文明人が別の時空間を生きることに並列されます。普通の映画は、同じ人間なのに殺し合うなんて理不尽だとか、捕虜や民間人を殺したりするなんて酷い、という具合に「反戦」を語ります。

つまり、たいていは、皆がそう思うはずだという「人間たちの時空」で物事を評価して「反戦」の映画を作るのに、テレンス・マリック監督は、そういう反戦こそ「クズ」の営みだとこの映画で断言するのです。だから公開当時、僕の批評でも最大限に評価しました。

 

▼『NINIFUNI』(真利子哲也監督、2011)
【真鍋】

『シン・レッド・ライン』の多自然主義、多視座主義の日本版が『NINIFUNI』ですね。『NINIFUNI』は、今回初めて拝見させて頂きました。

タイトルは、仏教用語の「而二不二(ににふに)」からきています。「而二」は、一つのものを二つの面から見ることで、「不二」は、二つの面がありながらその本質は「一(つ)」というものの考え方で、コインの表と裏のような具合に、別のものではあるがつながっている関係性を意味します。

物語はものすごくシンプルです。強盗事件の犯人の一人である男がいます。彼は車を盗んで逃走します。行き止まりのような感じで、国道沿いの外れの海岸にたどり着きます。そこでは、「ももいろクローバー」がPVの撮影をやることになっているんですけど、彼はそうとは知らず車内の隙間をガムテープで目張りして練炭自殺をしてしまいます。その後、何事もなかったかのようにPVの撮影が行なわれます。二つの「異なる時間」が交差せずにパラレルに進行しながらも、その事実自体がこの世の摂理であるかのごとく顕現します。

少し余談になりますが、私は最近、取材で孤独死や自殺などが起こった事故物件やごみ屋敷などにお邪魔させてもらう機会があったのですが、そこに一定の時間滞在していると「異なる時間」の存在をありありと感じます。

たとえば、住人がいなくなった後のごみ屋敷に入った時の出来事ですが、そこは高級住宅街の中にあってそこだけ雑草が生え放題になっていて、野良猫のたまり場になっているんです。以前住んでいた方は、高齢の兄弟で体が不自由だったり、病気がちのため働いておらず、親の貯金を食い潰している状況だったようです。家の中は、さまざまなものが堆積しているんですけど、個人を想起させるお薬手帳とか何かの賞状とか、あるいは腐った食べかすやトイレの汚れとかのディテールとは別に、目には見えないのですが、そこにはまったく違うリアリティが存在していて、「異なる時間」が流れていることを強烈に意識させられました。

意識の中で「そこの住人になって世界を眺める」かのような疑似体験が行なわれているのかもしれません。『NINIFUNI』は、それを映画で実践しているように感じました。

孤独死があった物件の隣に住んでいた人が、何も気づかなかったというようなことがよくあります。一方では普段の生活がいつもどおり営まれていて、他方では人が死んで腐敗し続けているというのは、確かに一つの現実ですが、しかしそこで思考が社会問題の次元にとどまるのではなく、一人ひとりの人間が「異なる時間」を生きているという視座を獲得できるかが鍵になると思います。これはあくまで私の個人体験ですが、「異なる時間」に圧倒されると謙虚になります。

話を映画に戻しますが、『シン・レッド・ライン』以前は、こういった作品はなかったように思います。

 

【宮台】

『NINIFUNI』も邦画では前代未聞です。僕らは、コンビニ強盗の鬱屈に感染し、アイドルグループの元気に感染し、プロデューサの退屈に感染し、「これら全てに感染できるのに、全てが端的に無関連に共在している」という事実に、なぜか打ちのめされてしまうわけですね。

最近そんな映画が目立ちます。批評してきた範囲でもシーロ・ゲーラ『彷徨える河』、ドゥニ・ヴィルヌーヴ『メッセージ』(2016)、是枝裕和『万引き家族』(2018)。未批評のものでは、金子雅和『アルビノの木』(2016)、深田晃司『海を駆ける』(2018)などです。

人類学者デ・カストロの多自然主義と多視座主義の説明を補足します。多自然主義のルーツは19世紀後半の動物学者フォン・ユクスキュルの「環世界」論。ミミズにはミミズの世界が、猫には猫の世界が、ヒトにはヒトの世界があり、優劣はないのだ、と主張します。

それを受けて哲学者マックス・シェーラーが、ヒトは本能から離れて学習するので「環世界」から自由だとし、ハイデガーが引き継ぎました。でもユクスキュルにはそんな人間中心主義はありません。ヒトも飽くまで「自由な環境世界」に不自由に閉じ込められた存在です。

これがデ・カストロの議論につながります。彼は、社会学の構築主義=非本質主義を批判して「存在論的転回」を唱導します。「存在論」はontologyの訳ですが、「世界はそもそもどうなっているか」という意味です。それを理解するには彼の社会学批判を見るのがいい。

20世紀半ば、トマ・ピケティの言う「G(労働の利益)>R(投資の利益)が実現した例外的な戦後20年」を背景に、先進国で中間層が膨れ、経済の余裕とソーシャルキャピタル(人間関係資本)をベースに知識社会化して、民主政の可能性が信じられるようになりました。

それで社会学は、以前と違って民主政への信頼をベースに公正や平等を追究する学問になり──民主政への不信を表明する場合ですら民主政を信頼していました──、「制度は本来どうとでもあり得るのに、それしかあり得ないように自明視されたものだ」と論じ始めます。

それを「構築主義」と言うのです。フェミニズムやカルチュラル・スタディーズが典型ですね。でも、グローバル化が進んだ20世紀末以降、中間層が分解して民主政がポピュリズム化=感情化すると、民主政が回るために必要な条件を、政治学が改めて追究し始めました。

「民主政の条件」はかつて社会学こそが追究した主題でしたが、G>Rに浮かれて「構築主義」にのめり込んでいたところに、G<Rになった途端に政治学に人文諸科学での主導的地位を奪われ、挙げ句は人類学者から「制度がどうとでもあり得るはずがない」と突っ込まれた。

要は、ontology(世界がそもそもどうなっているか)を踏まえない制度(やそれを元にしたシステム)が持続できるはずがないというのです。それがデ・カストロの言い分ですが、完全に妥当です。そのことを理解するには「実在論」を経由するのが分かりやすいでしょう。

「実在論」はrealismの訳で、平たくいえば「どうすれば生き延びられるか」ということ。real-ismと表記すると分かりやすい。これを元に、構築主義という勘違いがあり得た理由を説明できます。「うまく回るシステム」によってontologyが間接化されたからなのですね。

でもシステムがダメになれば、ontologyに直結したrealismを貫徹しないと生きられなくなります。社会学者としては例外的にレベッカ・ソルニットが2009年に『災害ユートピア──なぜそのとき特別な共同体が立ち上がるのか』(亜紀書房、2010)で、1989年のサンフランシスコ大地震(ロマ・プリータ地震)を題材にそれを論じました。

ソルニットが扱っているのは災害という「特殊非常時」ですが、G>RならぬG<Rとなって中間層が分解したグローバリゼーション下の先進国は、すでに「非常時の常態化」に見舞われています。それは今後も変わらないという予感をベースに登場したのが存在論的転回です。

それを踏まえると、ユクスキュルの「環世界」は、ontology(を前提としたrealism)を意味します。ミミズにはミミズのontologyがあり、猫には猫のontologyがあり、ヒトにはヒトのontologyがあります。この「等価な多世界性」を打ち出す構えを、多自然主義と呼びます。

では多視座主義とは何か。皆さんは人類学者レーン・ウィラースレフ『ソウル・ハンターズ──シベリア・ユカギールのアニミズムの人類学』(2007/亜紀書房、2018)や服部文祥『狩猟サバイバル』(みすず書房、2009)を御存知ですか。そこに描かれる狩猟民の作法が、定住以前の遊動民の作法を教えてくれます。その作法こそが多視座主義です。

ウィラースレフによれば、シベリア先住民は鹿(エルク)を狩る際に、鹿の皮をかぶり、鹿になり、鹿を誘惑し、鹿に誘惑され、融合が生じるギリギリの直前に仕留めます。そして儀式的作法を経由してヒトに戻ります。服部も同じ作法を自らの経験として記します。

デ・カストロによれば元々のヒトの特徴は「なりきり」にあります。鹿になりきり、熊になりきり、狼になりきり、木になりきり、海になりきります。ウィラースレフと服部文祥の記述は、この作法が、遊動民が狩りをする上での必要に、対応することを示しています。

でも、狩りはヒトだけの営みではない。デ・カストロはさらに進み、狼や虎のような狩る動物も、鹿や兎のような狩られる動物も、なりきることで捕捉し、なりきることで逃亡するのだとします。人が犬を見るとき犬になり、犬が人を見るとき人になる──彼の言葉です。

デ・カストロによれば、「同じ生き物だから、他の動物を大切にしなければいけない」のではない。「なりきるから、結果として大切にする」のです。服部によれば、こうした「なりきり」は、愛に近いものです。確かに、真に愛し合う人間たちは互いになりきるのですね。

同じことで、「弱者も同じ人間だから──人としての権利があるから──虐待がいけない」のではない。「なりきった結果として大切にする」のがヒトの流儀であり続けてきたのです。これも「権利」を持ち出す「言葉の自動機械=社会学者」を批判することにつながります。

こうして紹介すると『シン・レッド・ライン』そのものであることが分かります。そこでは「米国人が米国人の視座に固着すること」「日本人が日本人の視座に固着すること」ひいては「ヒトがヒトの視座に固着すること」が、一種の神経症的な営みとして批判されるのです。

 

▼『女は二度決断する』(ファティ・アキン監督、2017)
【宮台】

学問の世界では、こうした存在論的転回が、ブリュノ・ラトゥールやダン・スペルベルなどの、概念的思考が得意な人類学者によって、1990年代後半にはすでに図られています。不思議なことに、それがテレンス・マリックの「戦争映画」と完全にシンクロしていたわけです。

僕が不勉強だからかもしれないけれども、僕はまず映画を通じてこうした構えを知り、次にそれに近い学問業績を探すというふうにして存在論的転回を理解するようになりました。映画と学問のシンクロが意味するものは別の機会に探るとして、映画に戻ることにします。

ここで『女は二度決断する』という感動的な映画について語らなければなりません。こんなすごい映画はありません。この映画は批評レビューが完全にトンチンカンですが、どうご覧になりましたか? これは思いっきりネタバレしないと、何も話せませんけれど(笑)。

 

【真鍋】

では、思いっきりネタバレしてしまいます(笑)。巷の評価は単なる復讐劇としてとらえていますよね。ただ、タイトルに示されているとおり「二度決断する」というのは普通の復讐劇ではないはずなんです。ネオナチが仕掛けた爆弾によって、夫と息子を殺されてしまった女性が主人公なのですが、彼女は証拠不十分で無罪となった犯人に対し、まったく同じ方法で復讐を完遂しようと試みます。

この爆弾は、アンホ(Anmonium Nitrate Fuel Oil explosive : ANFO)爆薬と呼ばれているもので、テロリストの間ではよく使われている安価で強力な爆弾です。硝酸アンモニウムに燃料油を混合した単純な構造です。ノルウェーの連続テロ事件でも使用されました。これを彼女は、厳かな儀式でも行なうように製作します。

このシーンを見ていてとても対称的なギミックだと感じました。ただ相手を殺すことが目的であれば、拳銃でも刃物でも構わないわけです。もっと言えば、わざわざ自作する必要はないし、同じ構造の爆弾を作る必要もない。それらを踏まえると、どこか復讐のシンメトリー(対称性)を追求しているように受け取りました。爆弾を仕掛けたのは、ネオナチのカップルです。殺されたのは夫とその息子です。2人を殺されたから2人を殺す、とこちらも人数的に対称的です。

最初、主人公の女性は、カップルのキャンピングカーの下に爆弾を仕掛けるのですが、一度思い直して取りやめます。その後に、月経がきます。性器に手を伸ばして、指に血が付いたのを確認するんですね。月経をこんなにも直接的に描いた映画というのは、私の記憶のなかであまりなかったので「すごいカット」だなと思いました。そして二度目の決断で、今度は自分で爆弾を抱えて、キャンピングカーに乗り込み、犯人ともども自爆します。

単なる復讐劇に思えないのは、もちろん自らも命を絶ってしまうからですが、もう一つは後半に行けば行くほど、特に月経の訪れ以降、映画全体が聖性を帯びていくからです。映像も大変美しいのですが、キャンピングカーが停まっているところも、よく考えると海岸という、生と死の境を表わす「境界」です。一番最後のカットでは、かなり図式的に示されていますが、カメラが上がっていくと、海と空がシンメトリーに配されています。世界の均衡が取り戻された、世界の秩序が回復されたということを、画そのもので表わしていると思います。

 

【宮台】

完全に同意します。真鍋さんの話を補足します。経血は、今までの言葉を使えば、法外からの介入です。それを契機に主人公の女は、法外のざわめきに包まれます。そして、相手を殺すには自爆せよ、となる。これは一部ムスリムとはまったく違う自爆の推奨です。

一部ムスリムと言っても、本来のイスラム教の教義と無関連な政治的動員である事実を弁〔わきま〕えるべきです。とはいえ、自爆テロは「天に召される」という伝統観念を用いてもいる。ところが、主人公は「天に召されること」ならぬ「相手の死への融合」を目指した。なぜか。

表向きの理由は、相手を殺して自分が生き残るのは、相手の作法の正確な反復に過ぎないからです。だとしても問題は、なぜ相手の作法の反復が禁じられなければならないのかです。人を殺してのうのうと生き残る相手の作法を嫌悪していたことがヒントになるでしょう。

実際、映画は「自分の夫や息子のことを何も知らないくせに、殺しやがって」という主人公の怒りを繰り返し描きます。「だから」主人公は、相手の作法を反復することを自らに禁じたのです。ラジオで論じたように、宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』のモチーフそのものです。

この本を読んだのは小学校2年生でした。きっかけは藤城清治率いる木馬座の影絵劇『銀河鉄道の夜』の映像をNHK教育テレビで観たことです。早速学校の図書館で探して読んでみたのが1966年のこと。ところが1968年に図書館で再読し、話が変わっていたので仰天しました。

巻末の説明によりますと、1968年に弟・宮沢清六氏、最初の原稿整理者・森荘已池氏、岩崎書店版宮沢賢治童話全集の編集者・堀尾青史氏の三者協議で、カムパネルラの死の位置が変更され、セロのような声をしたブルカニロ博士のエピソードが大幅削除されたのです。

前期型と後期型と呼ぶすると、何度も読み比べてきた僕は、前期型が正しいと確信します。1924年から十年間、死の直前まで改稿が重ねられた作品で、死で中断されなければどうなっていたか分からないことを念頭に置いた上での、僕の判断です。簡単に説明しましょう。

僕は長じてから、賢治が、田中智學が設立した法華系の国粋的新宗教「国柱会」の信者だったことを知り、現世救済の世直し思想を特徴とする法華経について徹底的に調べて、賢治が長く生きていたら『銀河鉄道』の完成形は改版前の順序になったろうと確信したわけです。

皆さんが読めるのは後期型=改悪バージョンですが、僕が小4で読んだ前期型=真性バージョンとは二点で異なる。第一に、カムパネルラとジョバンニは友だちじゃなかった。ジョバンニはカムパネルラに憧れていたけど、いじめっ子側にいる冷たい子でした。

前期型はそれについての恨みを記します。カムパネルラが僕の味方をしてくれたら友だちになれるのに、とさえ書いてある。その後、病気の母親のために牛乳屋に行く途中、烏瓜〔からすうり〕の祭の川辺を通ると、カムパネルラが川に入って浮かんでこない、となるのです。

第二の相違点は、そう、カムパネルラの死の位置です。皆さんが読める後期型だと、カムパネルラと銀河鉄道の旅をする夢を見た後、彼の溺死という事実に気がつきます。死んだカムパネルラが、夢の中で「お別れ」の挨拶をしに来てくれた、という無害な設定になります。

ところが前期型は、カムパネルラの溺死に遭遇したジョバンニが、涙にくれて丘で微睡〔まどろ〕み、カムパネルラと銀河鉄道の夢を見て、覚醒後に近づいてきたブルカニロ博士に夢の意味をリコンファームされ、覚悟を抱えて帰路につく──という素晴らしい設定なのです。

なぜ素晴らしいか。恨みの記述の後にカムパネルラが死ぬ前期型=真性バージョン。その唯一可能な解釈は、その死が「階級的殺害」だということです。殺すシーンはなくても、恨んでいたら死んだ以上、ドラマツルギーとしてはジョバンニが殺したことになるのです。

ジョバンニの不在の父は漁に出ているのではなく入獄しているのだと囃〔はや〕すザネリが、カムパネルラの溺死に遭遇する直前《ラッコの上着が来るよ》《獄中だから上着は来ないよ》と二度ジョバンニを嘲ります。二度目は何とカムパネルラがザネリとつるんでいます。

読みますと《そのなかにカムパネルラが居たのです。カムパネルラは氣の毒さうに、だまつて少しわらつて、怒らないだらうかといふやうにジヨバンニの方を見てゐました。ジヨバンニは遁げるやうにその眼を避け、…間もなく、みんなはてんでに口笛を吹きました。…カムパネルラもまた、高く口笛を吹いて、向うにぼんやり見えてゐる橋の方へ歩いて行つてしまつたのでした。ジヨバンニはなんとも云へずさびしくなつて、いきなり走り出しました》

そしてモノローグになる。《(ぼくはもう、遠くへ行つてしまひたい。…ぼくは、どんなに友だちがほしいだらう。ぼくはもう、カムパネルラが、ほんたうにぼくの友だちになつて、決してうそをつかないなら、ぼくは命でもやつてもいい。けれどもさう云はうと思つても、いまはぼくはそれをカムパネルラに云へなくなつてしまつた…)》(岩波文庫、1951年版)。

ところが、一緒に銀河鉄道の旅をしたら、カムパネルラは、ジョバンニが思ってもいなかった存在だったのです。タイタニック号の沈没に際して、身を挺して他者たちを助けたのです。そのことに気づいたところで、カムパネルラは消えて、夢から目覚めます。

賢治は、上海事変の首謀者重藤千秋や、満州事変の首謀者石原莞爾と同じく、国柱会メンバーでした。要はテロリスト団体です。賢治はテロを肯定していた。そして『女は二度決断する』の主人公もテロを実行した。ところが、宮沢賢治は非常に重要なことを記すのです。

「全てのテロは勘違いだ」ということです。カムパネルラを階級的に殺害してみたら、自分よりずっと優れた存在だった。カムパネルラこそが世直しに不可欠な存在だったことが分かったのです。全てのテロはそうなのです。それを弁えながら賢治はテロを肯定したのです。

映画で繰り返し描かれたのは、夫や息子のことを何も知らないくせに勝手に殺された怒りです。でも、それに復讐した場合、やはり相手のことは何も知らないのです。これは同じ振る舞いじゃないか──。主人公はそれに気づいたから、一度目の決断を放棄したのです。

おそらく名状しがたい違和感があったのです。そこに生理が始まります。ヒトであるというより生き物であることから来る摂理です。それ以降、真鍋さんの仰言るように時空が聖性を帯びます。その証拠にさまざまな「徴候」が──世界からの訪れが──描かれはじめます。

一つは、主人公が二度目の決断をする前。夫とジョギングしていたテロリストの女が、夫に続いてキャンピングカーに乗り込む直前、初めて名状しがたい不安げな表情を見せます。夫との関係や生い立ちなど、想像もしていなかったことを観客は想像させられるのです。

もう一つが、鳥がキャンピングカーのサイドミラーに戯れる場面。御存知のように、鳥は鏡を認識できません。鏡を認識できないというモチーフも隠喩的です。一度目の決断を実行していたら、主人公は「鏡を認識できない鳥」と同然になる──。何という隠喩でしょう。

そう。主人公は「鏡を認識できない鳥」であることをやめた。それが二度目の決断です。相手が自分を知らなかったように、自分も相手を知らない。だからテロは間違っている。けれどテロは実行されねばならない。失われた対称性が回復される必要があるからである──。

対称性の回復は人類普遍の「血讐の摂理」です。とはいえ全てのテロは間違いです。だからテロの実行者は死なねばなりません。それゆえ、二度目の決断で血讐を遂げたものの、間違った血讐の責任を取ります。自分も相手も等しく間違っているので、諸共爆砕するのです。