産婆さんを訪ねて

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産婆さんを訪ねて 第2回

第2回 軍需景気の町

むらき数子

 

●「おしん」を思い出させる産婆さん

「私は助産院で産ませてもらいました」と言うと、初対面の助産師さんの緊張がほぐれます。茨城県で「東京の青柳助産院で」と続けたら、「もちろん、青柳助産院、知ってます、知らなけりゃモグリですよ」と返ってきたこともあります。

青柳助産院は、東京都23区の最南端、大田区大森北で、1932(昭和7)年から2004(平成16)年まで72年間、入院分娩を扱ってきました。青柳助産院の創始者・青柳かくいさんの人生は、NHK連続テレビ小説「おしん」のモデルではないかと思われるものです(『あさやけ』『紅の花』『きっと、いいお産』)。

山形県村山市で生まれた青柳かくいさん(1905~1993年、明治38~平成5年)は、幼くして両親を失い、親戚や奉公先を転々としながら、成長しました。苦学して薬剤師となった長兄に「産婆になってくれ」と期待されて、東京で働きながら看護婦ついで産婆の資格を取得しました。結婚して東京府荏原郡入新井町(現大田区)に住み、1932年に自宅を改造して2床の入院施設「青柳助産院」を開業します。手ぶらで入院できるように新生児の衣類や布団も用意しました。その年、大田区域の産婆は340名でした。まだ自宅分娩への出張がほとんどで、産婆の多くは和服を着て人力車に乗って行きましたが、青柳かくいさんは、自分でデザインしたワンピースを着て自転車で走り回りました。自身が6人の子を妊娠・出産しながら、助手を使って出張と入院をこなし、繁盛し拡張し続けました。

青柳助産院は、太平洋戦争末期の強制疎開と空襲で無に帰しましたが、戦後まもなく復興し、ひと月の分娩取扱数はベビーブーム期(1947~49年)には50~60件になりました。出生立会の主役が、開業助産婦から男の医師へ移った頃――藤田真一さんの『お産革命』によれば「第二次お産革命」の完成です――つまり1970年代には月に2~3件に落ち込みました。助産婦たちが廃業したり働き方を変える中で、青柳助産院は乳児保育を兼営して耐え抜き、1977年、いち早くラマーズ法を取り入れ、1980年代以降の「自然産」回帰を担いました。2004年、後継者三好玲子助産師(青柳かくいさんの三女)が70歳を機に廃業する頃には、月に20件までと限って扱っていました。

青柳かくいさんは、男尊女卑の良妻賢母と職業婦人を両立させながら、医学の先端を常に学び技術を磨き続けた助産婦であり、時代に沿った顧客サービスを開拓提供する事業家でもありました。助産婦養成に協力し、マスコミにもとりあげられました。青柳かくいさんを主人公とした小説「あさやけ」(『助産婦雑誌』1963年に1年間連載)は、「成功した女と、十分に言えるのである」と書きました。

 

●大正から昭和、大田区の変化と産婆

青柳かくいさんが開業した入新井町は1932年、大森町などと合併して大森区となり、1947年、大田区となりました。

第一次世界大戦(1914~18年)の大正半ば、日本は重工業化が進みます。東京市の近郊農村であり海苔漁村であった入新井町は急速に近郊住宅地および工場地域に変貌していきました。水田は消えて「どんどん家が建った。長屋も多かった。そこに住む大半は都心方面あるいは京浜地帯に拡がりはじめた工場への勤め人だった」(『大森界隈職人往来』p.31)

各種商店も急増し、医師も、産婆も増えていきます。明治末には1人だった入新井町の産婆は、大正末には32人になりました(『入新井町誌』)。
大森区の人口は、関東大震災を経て、1920-30年の10年間に8万人弱から24万5000余人に急増し、さらに増え続けていきます。
青柳助産院が開業した1932年前後の日本は、「世界恐慌」から「昭和恐慌」・「農村恐慌」と不景気が続き、「満州事変」の1931年には失業者が約200万人に達し、窮乏した農村では欠食児童や娘の身売りが多発していました。
そのころ、機械・電気・光学兵器に関係する工場が多い入新井町─大森区では、満州事変以降、工場数が急増し、日中戦争に入りさらに激増していきました。「戦争は『買い』」だったのです。

工場が増えれば、従業者と家族が増えます。「まさに戦争準備が人口増加の背景であった」(『まちがやって来た―大正・昭和 大田区のまちづくり― 特別展図録』p.46)。1942年には、大田区域(大森区+蒲田区)は約61万人の過密都市になりました。

新住民となった工場従業者の大半は、関東から東北にかけての農村出身者でした。その妻・嫁となった女性たちは、お産には、看板を見て産婆を頼みにきます。郷里では、資格を持たないトリアゲバアサンに頼むのが当たり前でも、都市ではトリアゲバアサンをみつける地縁・血縁がないからです。旧来の農家でもトリアゲバアサンより産婆を頼むようになりました(『一万人の産声を聴いた』p.128)。助産の主役がトリアゲバアサンから産婆に移った「第一次お産革命」(『お産革命』)は、サービスを購入するという消費行動が当たり前になったことでもありました。

青柳かくいさん自身もまた、新住民であり、結婚当初は、資格を持ちながら開業しないでいる「潜在産婆」でした。1932年に開業したのは個人的な事情によったのですが、時代と地域が、潜在産婆を開業させ、繁盛させていったのでした。1939年には、大田区域の産婆数は、494名になりました。

「東京一の軍需工場地帯であった大森・蒲田両区」は、敗戦直後の1945年9月には、空襲で55%が焦土と化し(『まちがやって来た』p.57)、人口は18万4371人に減少していました。壊滅した大田区工業は、1950年勃発した朝鮮戦争の軍需「朝鮮特需」で再生します。

2019年6月1日現在、大田区の人口は73万4163人、分娩を扱っている医療機関は8件。13件の助産所のうち、分娩を扱っているのは「大森助産院」1件です。――つづく――

 

「大日本職業別明細図 第334号「大森区」」昭和8年( 『大田区の文化財 第26集 地図でみる大田区(3)』 1990年、85頁の一部に加筆)

2015『まちがやって来た―大正・昭和 大田区のまちづくり― 特別展図録』大田区立郷土博物館、2015年、p.47

 

【参考】
青柳かくい『紅の花―自伝随筆―』1975
大田区立郷土博物館『まちがやって来た―大正・昭和 大田区のまちづくり― 特別展図録』2015
角田長蔵編『入新井町誌 全』1927
小関智弘『大森界隈職人往来』朝日新聞社、1981
島一春『一万人の産声を聴いた』新潮社、1986(主人公は田中志ん(1894生)、大森に近い大井町(品川区)で開業していた助産婦)
中本敦子『きっと、いいお産 産婆・青柳かくいと一六○○○の生命』清流出版、1998
藤田真一『お産革命』朝日新聞社、1979
室生朝子「あさやけ―ある助産婦の手記」『助産婦雑誌』1963年1~12月
「東京都医療機関案内サービスひまわり」(2019.6.23取得)。

 

[ライタープロフィール]

むらき数子(むらき・かずこ)

1945年東京生まれ。「国策と個々の暮らしとの干渉」に関心を抱き、30代は『銃後史ノート』に参加して主婦を主なテーマとする。40代後半から、民俗学研究会である古々路(ここじ)の会に加わり産婆・産育をテーマに調査・報告を重ねている。
「疎開とは女にとって何だったのか」『銃後史ノート』復刊5号、JCA出版、1983.12
「『足らぬ足らぬは工夫が足らぬ』-生活現場での主婦たちの戦い」『女たちの戦争責任』岡野幸江・北田幸恵・長谷川啓・渡邊澄子共編、東京堂出版、2004.9