耳にコバン ちょっとためになるボク的ロックンロール通信 第4回

2019 年 9 月 15 日 日曜日

第4回 RadioにBottou

コバン・ミヤガワ

 

ラジオが聴きテェェ!!

唐突にそう思うことがある。最近めっきりラジオを聴かなくなってしまった。

いちばんラジオを聴いていたのは、中学生と高校生の頃であろうか。何気なくではあるが、学生生活中、ボクはよくラジオを聴いていた気がする。それが今となってはものすごく懐かしく、時に胸をキュンとさせるのだ。

中学生の頃は、親の運転する車の中で流れるラジオを聴いていた。よく聴いていたのは、毎日、夕方4時か5時頃から始まる地方局の番組である。ボクの故郷、宮崎の人なら「あー、あれね」とすぐに分かるであろう。所謂「ザ・地方局」な番組である。 (続きを読む…)

一杯の紅茶と英文学 第1回

2019 年 9 月 15 日 日曜日

「お茶の時間」は19世紀のインスタ映え

南野モリコ

承認欲求を満たすアフタヌーンティー

フランスの画家、ジェームス・ティソに『温室でのティータイム』(1875〜78年頃)という作品がある。ヴィクトリア朝中流階級の家庭のドローイングルーム。今でいうリビングのような広間でアフタヌーンティーを楽しむ人々が描かれている油彩画だ。陽当たりのいい、明るい広間が大きなガラス窓で囲まれていて、中庭には植物園のように熱帯の植物が葉を茂らせている。絵画の登場人物は、ゲストである二組のカップルと屋敷の住人である姉妹だ。当時の最先端のファッションに身を包んでいるが、客人をもてなす姉妹は、柔らかいミントグリーンのおそろいのドレス。インスタグラムでいう「#双子コーデ」である(1)。

自宅に親しい友人を招きお茶をもてなす「午後のお茶(アフタヌーンティー)」は、1840年頃、ロンドン郊外に住む七代目ベッドフォード公爵夫人アンナ・マリアによって始まり、ヴィクトリア女王がその習慣を取り入れたことからイギリス中で流行した。当時のイギリスは、夕食の時間が遅かったので、親しい友人を招いて食事の時間までの空腹を満たしたのだ。

しかし、招く女性たちが「素敵な暮らしをしていると思われたい」という下心を持つのも当然のことだろう。お茶の時間は友達から「いいね!」をもらう場でもあったのだ。 (続きを読む…)

オーラルヒストリー・三輪祐児 父と原発の記憶 第3回

2019 年 9 月 15 日 日曜日

プロローグ③:天皇と科学技術の信奉者

 

三輪祐児は2014年、弁護士の海渡雄一を訪ねた。海渡は「反原発へのいやがらせの歴史展」の主催者だった。

東京都新宿区にある海渡の法律事務所に足を運んだ。9月15日だった。三輪は、父が電通時代に記していた業務日誌や手帳など5点を海渡に渡した。

海渡は、反原発運動に関わる市民や弁護士らへ送られてきた嫌がらせの手紙のデザインや構成に、「広告関係の人間が絡んでいる」とにらんでいた。「広告のプロが腕をふるっているのではないか、簡単に作れるものではない、かなり手の込んだものだ」

海渡は業務日誌を一枚一枚めくっていった。三輪の父が、原発推進グループの一部となって働いていた姿を知る。そして、海渡は推理していた「犯人像」と三輪の父が重なった。

目の前の三輪は苦しそうだった。 (続きを読む…)

産婆さんを訪ねて 第4回

2019 年 9 月 15 日 日曜日

「産めよ殖やせよ──その前に、まず結婚」

むらき数子

●志望動機

根本つるいさん(1917[大正6]年生れ)に、助産婦になった動機をお聞きしたら、

「ちょうど、産めよ殖やせよの時代でしょ」と言われました。

茨城県猿島郡森戸村(現境町)の農家に生まれた根本つるいさんは、尋常高等小学校を卒業後、東京へ出て、病院事務で働きながら勉強して看護婦試験に合格し、次いで、産婆試験に合格しましたが分娩の実地をやったことはありませんでした。1941(昭和16)年、東大の助産婦復習科(東京帝国大学医学部産婦人科学教室助産婦復習科)に入学し、初めて分娩の実地を経験しました。

「東大では、一日20人生れる。一昼夜交替で、忙しくて腰掛けてる暇ない」

1942(昭和17)年4月卒業後、都内の病院に勤務しながら、さらに保健婦の資格も取得しました。1944(昭和19)年10月、退職、帰郷して産婆を開業しました。

1931(昭和6)年に5万2537人だった産婆は、10年後の1941(昭和16)年には6万2741人になっていました。

 

●産めよ育てよ国の為──「結婚十訓」 (続きを読む…)

歩く民主主義 第4回

2019 年 9 月 15 日 日曜日

古い人たちにはうんざりだ

村上稔

 

嫌韓とか反日とか、ホントつまらない。なぜつまらないかと言う理由をいくつか挙げてみたいと思う。

まず一つ。うちの会社は移動スーパーの運営の他に、徳島県鳴門市の大毛島に「うずしおゲストハウス」という旅宿を経営している。大毛島は去年の紅白歌合戦で米津玄師が中継をして話題になった大塚国際美術館や鳴門の渦潮で有名な観光地なのであるが、うちの宿には連日、世界中から旅人がやってくる。ヨーロッパ、アジア、アメリカ、オセアニア……いろんな国の人たちが集まって、共有スペースは夜な夜なインターナショナルに盛り上がっているのだ。

先日も、夏休みを利用して青春18切符で旅をしている17歳の悩める日本男子高校生が、韓国人のカッコいいお兄さんに英語の単語を並べて人生相談をしていた。

高校生曰く「学校や親から進路の決断を迫られているが、やりたいことがわからない」とのこと。そこで韓国兄さん「ハウオールドアーユー?」。高校生「セブンティーン」。すると韓国兄さん、ニコッと笑って「セブンティーン、ノープラン、オーケー!」と一言。

で、それまでの高校生の深刻な顔がキョトンとしたと思ったら笑顔になった。「ノープラン、オッケー?」「オーケーオーケー! セブンティーン、ノープランオーケー!」二人して声を上げて笑っている。

宿業冥利に尽きるとっても幸せな瞬間だ。私はその高校生の解放されたような弾けた笑顔を見て、彼の旅の成功を確信した。 (続きを読む…)

日々是好日 第4回

2019 年 9 月 15 日 日曜日

#4 閑話休題東北編

林タムタム

 

大曲にいた。

広い河川敷に広く広く用意された桟敷の人区画に座って日本酒を飲んでいた。8月の末でも秋田の夜はどこかさわやかだ。さっき通り抜けてきた横手やきそばや焼き鳥の屋台の賑わいの先に、この河川敷があり、桟敷には驚くほど多くの人が集まっているはずなのに、一人一人の可処分的スペースが広いのか、座った皆の鼻先まで降りてきている高い高い夜の空が広いせいなのか、あたりは静かでおとなしかった。日本酒を3分の1ほど入れた紙コップが、水気を含んで心なし冷たくなり、紙の表面の細かな凹凸がこれまでにないほどはっきりと指から読み取れる。周囲の人たちが各々話し笑い合っているのが見て取れるのに、音は夜空に吸い込まれて個別の語の区別のない、控えめなさざめきとしてしか耳には届かない。日中の色付けが想起されない、夜の河川敷で、各人は身を寄せ合うわけでもなく、何かに打ち込むわけでもなく、ただこれから起こることを期待して集まり広がっていた。 (続きを読む…)

ひあり奈央の占星術 9/1〜9/30

2019 年 9 月 1 日 日曜日

ひあり奈央

8月30日に乙女座の新月を迎え、その流れとともに9月が始まりました。何かと楽しみや娯楽に焦点が当たりやすかった先月から一転、乙女座に天体が集中して今月は全体的に仕事に大きなウェイトがかかりやすい一か月となります。社会や会社の中で役に立つ自分でいたいという気持ちがそれぞれ個人の中で生れやすく、その気持ちから具体的なアイデアを試す人も多いでしょう。健康面ではウイルス性の疾患に注意が必要な時です。体調管理は万全にしましょう。今年は一年を通じて真実の価値が落ち込みやすい時で、嘘やハッタリがまかり通る「まやかし感」とも言える空気感が強い一年なのですが、今月は特にその傾向が強めです。話は注意深く聞きましょう。オフレコ話などもあまりしないほうが無難です。 (続きを読む…)

歩く民主主義 第3回

2019 年 8 月 19 日 月曜日

第3回 N国党のやり方はアリか?

村上稔

今回は先日の参議院選挙について語りたいと思う。エラそうに政治評論かよ、と言うなかれ。実は私は政治については素人ではないのである。

というのは、私はかつて市議会議員を3期務めたのだが、吉野川可動堰(ダム)計画をめぐる住民投票運動からはじまり、それに続く市長選挙、知事選挙と中心的にかかわり、知事を出した後は「側近」としてわずか11か月間で不信任を食らうまで、夜な夜な知事公舎に通って県庁役人との闘いをサポートしてきたという経験を持っている。民主党政権の官房長官だった故・仙谷由人さんとも親しく、彼の言い出した「コンクリートから人へ」は私のコピーのパクリなのである(と私は思っている)。

そんな訳で私は、政治をちゃんと勉強してはいないが、一見の観客では見られない舞台裏の仕組みや力学を垣間見、政治改革の難しさを身をもって経験しているのだからその辺の銭湯談義のおっちゃんと一緒にしてもらっては困るのである。 (続きを読む…)

日々是好日 第3回

2019 年 8 月 15 日 木曜日

♯3 二足歩行スミレの押し花編

林タムタム

タムは関東に来てから、頻繁に芝居を観に行くようになった。花園神社で大鶴義丹が文字通り空中に昇って行ったのはあっけにとられた。大きい兄ちゃんよう。

とはいえタムの一等好きな芝居は、関西発祥の宝塚歌劇である。宝塚を観ると異様なまでに元気が出る。私に今後、辛いこと悲しいことが起こっても、宝塚がある限り、それらを乗り越えてゆけるだろうという完全に根拠のない(合理的でもない)自信を、宝塚によって給油ノズルガチャ押しチャージするのである。この国で育った割と多くの人は、幼少時、愛と勇気だけが友達なアンパンマンを観ていたと思う(ある人が、人間をアンパンマンから隔離して育てるという無謀な人体実験を、しかも我が子を被験者として行った。しかし、対象に少しでも接触すると子はその虜になってしまったそうである。おそるべきあんぱん)。しかし人は歳をとり大人になり、他人の顔色を見、本音と建て前を使い分け、いつしか愛と勇気だけではやっていけないと変に諦めをつけるようになってしまう。だが、一部の人は幸運にして宝塚歌劇に巡り合う。歌劇は愛と勇気を高らかに歌い上げる。めちゃくちゃキラキラしていて説得力という名の圧がすごい。舞台上の皆がすごく眩しいんだよ。指先も姿勢も横顔もすごく綺麗なんだよ。2次元のあんぱんとは説得力が段チだよ。なんてったって生の舞台だからなぁ。演者自身が信じていなきゃとてもやれないほどの圧である。 (続きを読む…)

産婆さんを訪ねて 第3回

2019 年 8 月 15 日 木曜日

第3回 「産婆さん出征す!?」

むらき数子

●戦争が始まったのはいつ?

年表や教科書には、「1937(昭和12)年7月7日 日中戦争始まる(盧溝橋事件)」とあります。
7月11日に、近衛内閣が「北支事変」と名づけて派兵を声明しました。宣戦布告をしない「戦争」への協力を求められたメディア各社は、紙誌面に献金や千人針などの銃後風景を載せ、従軍看護婦を讃えて戦争熱を煽りはじめました。
5、6年前に満州事変・上海事変を経験したばかりの人々は、今度の事変も半年ぐらいで終わって正月までには出征兵たちは帰ってくるだろう、と思ったようです。

私の育った家庭の戦争は、1937年7月28日に始まりました──私はまだ生まれていませんでしたが──。31歳の父に召集令状、いわゆる赤紙が来た日です。
8月1日に入営した父の部隊が8月20日に出動すると、「兵隊送り」という銃後活動を終えた親戚や地域の役職者などはふだんの暮らしに戻っていきました。母と2歳半と1歳の3人の世帯だけが、出征兵士の「留守家族」と呼ばれて戦争中の暮らしになりました。
「銃後」とは、戦地に対する国内、そして軍隊に対する一般社会をさす言葉でした。 (続きを読む…)