ワンピースのマンガ学

【著者紹介】

見崎 鉄(みさき てつ)
1965年、長野県生まれ。ライター。
マンガ学の著書に『ドラゴンボールのマンガ学』(彩流社)、歌詞論関係の著書に『阿久悠神話解体』(彩流社)、『Jポップの日本語』(彩流社)、『さだまさしのために』(KKベストセラーズ)、『音楽誌が書かないJポップ批評』(共著、宝島社)。サブカル批評に『ドラゴンボールはいつ終わるか?』(風塵社)、『船井幸雄大研究』『2時間ドラマ大事典』『エヴァンゲリオン完全攻略読本』(以上、共著、三一書房)他がある。

記事一覧

【巻3】

2011 年 9 月 5 日 月曜日

バギー(その2)

バギーとの戦いが本格化する。ルフィとバギーというどちらも特殊能力をもった者どうしの戦いである。巻1のところで、ルフィの身体が伸びることの弱点として伸びきったときにスキができると指摘しておいたが、バギーはその弱点を突いている。「面白ェ能力だが…! 伸びきった腕はスキだらけだな!」と刀で切ろうとする。しかしルフィもそうはさせじと「ゴムゴムの鎌」で応酬する。ただしゴム人間は弾丸には抵抗できるが、刃物には弱いという点は変わらない。
バギーも多彩なバラバラ攻撃を繰り出す。防御としての「バラバラ緊急脱出」はよく思いついたものだ。「バラバラ砲」の2段階切り離しとか、さらに細分する「バラバラファスティバル」など、身体がバラバラになるというだけなのに、それをどう活かすかについて作者はよく考えている。
バギーの弱点は身体はバラバラになってもその感覚は全体につながっていて、残された部分を攻撃されると遠隔移動しているほうにも影響がでるという弱点がある。一方、ルフィのほうはゴムのように伸びるという特性のほかに格闘センスじたいが優れている。バギーはバラバラになることに頼りすぎているのに対し、ルフィはゴムゴムはあくまで決め技として使うだけなのだ。
シャンクスとバギーの因縁も語られている。バギーは悪魔の実を食べたせいでピエロのような顔になったのではなく、昔からそう生まれついていたのだ。かつては鼻だけがピエロのようだったが、のちに唇もピエロのように塗るなど、鼻という負の特徴を中心にアイデンティティを形成していったのだ。また、悪魔の実はそれを食べたことによる能力はさまざまなのに、その代償は非対称で、一律に泳げなくなるものだということがわかる。

ウソップ

巻3で新たに登場した重要人物はウソップである。作者はかぶりものが好きらしく、ウソップも頭にバンダナを巻いている。他にも、左手にこれまた作者が好きな縞模様に塗り分けられたサポーターをし、また大きなガマ口(ぐち)を肩にかけている。このガマ口はそこに何が入っているかはわからないが、ウソップはたんなる嘘つきではなく、見かけの他に隠しもった何かがあることの隠喩になっている。縞模様といえばあとに出てくる執事のクツも縞模様だし、手下だるジャンゴの顎もファラオのマスクのように伸びた縞模様になっている。
ウソップはその名のとおりイソップとイソップ寓話のひとつである嘘つきの狼少年を混淆させたものだ。バギーのエピソードでもプードル犬に似た町長の名前がブードルであったように、このマンガでは名は体を表すという名詮自性の論理がしばしば使われている。子分のピーマン、にんじん、たまねぎはその名前そっくりの外見で描かれている。ウソップの鼻がとがっているのは嘘をつくと伸びるピノキオの鼻からきているのだろうし、唇が厚く目立っているのは、しゃべるのが特技だからだろう。ウソップのとがった鼻はバギーの丸い鼻とは正反対だが、目立つところは似ている。
はるか古代につくられたイソップの寓話は動物ものが多い。人間と動物はまだ親密な関係にあったのだ。ウソップはそれがベースにした名前が示すように、このマンガに人間と自然が分化する以前の不思議な世界の文法を持ちこむものだ。魔法的な出来事が通用したり、不思議な生き物が住んでいたりするような世界なのだ。もちろん、これまでにも悪魔の実のような魔法が存在したのだが、それはこの世界では極めて異例なことであった。ゴム人間であるルフィを見てナミは「あんた一体何なのよっ!」(15)とか「人間業(にんげんわざ)じゃないもの!」(16)と驚愕している。つまりそれは魔法がありふれた世界ではない、普通の人間が暮している世界のルールを保持しているということだ。ところが、バギーの話が終わって、ウソップの話に移るあいだに差し挟まれた宝箱に詰まって出られなくなった男の話からおかしくなってくる。この島には鶏のような犬、兎のような蛇、ライオンのような猪が住んでいるのだ。世界の文法が狂いだしている。これは次のウソップの世界を予感させるものだ。魔法的な世界は異例ではなく、普遍的になろうとしているのだ。作者は『ONE PIECE』をどのような世界観で描くか模索していて、ここにきてようやくそれがメルヘン、あるいはファタジーの方向にしようと固まってきたのではないだろうか。
勘違いしやすいが、狼少年とは嘘つきの少年のことではない。その語が由来する寓話を別の面から解釈すれば、言ったことを本当のことにしてしまう言霊の能力をもった人のことなのである。ウソップはたんなる嘘つきではなく、狼少年というコンテクストを背負っており、狼少年の能力は、嘘をつき続けているうちにいつしかそれを本当に実現させてしまうことにある。違う言い方をすれば、嘘を実現する者を呼び寄せるということだ。大富豪のお嬢様の執事は、いっけん真面目そうに見えるが、ウソップの嘘が本当のことに逆転してしまう世界では何かが逆転せざるをえないから、一番真面目で誠実にふるまう者ほど裏で悪事をはたらいている。執事は真面目そうにふるまうぶんだけ悪役にでなければならないのだ。
ウソップは嘘をついたり本当のことを言ったりする。執事も表の顔と裏の顔をもっている。道化の海賊バギーも二つの顔をもっていた。それは道化師という存在性格がそう見せるものだ。道化師が人前に見せるのは、化粧で厚く塗られて隠された表の顔だが、その他に、化粧を落とした裏の顔をもっている。道化師という言葉から人々が連想するのはそうした二面性だ。この物語にはそうした「騙し」がいくつも重ねられている。
ウソップはルフィとどこか似ている。ルフィの海賊王になるという夢は、あまりに大きくて他人にはホラに聞こえる。ウソップも自分は大海賊団のキャプテンだなどといった大ボラを吹くが、それはホラだと自覚している。自覚しているからそれは嘘になる。
ウソップは「海賊が攻めてきたぞーっ! 逃げろーっ!」とウソをつく。村人があわてふためく様を見物して「はー、今日もいい事をした! このたいくつな村に刺激という風を送り込んでやった!」(23)と楽しんでいる。愉快犯なのだが、見方を変えれば、毎日、緊急避難訓練をしているとも思える。そもそもウソップはなぜ嘘をつくようになったのだろうか。彼の父親は海賊になるため幼い息子を置いて島を出てしまった。ウソップに母親がいるのかはわからない。ウソップが「海賊が攻めてきたぞーっ!」と嘘をつくのは、海賊になった父親に戻ってきて欲しいという願望だろう。そして平和で退屈な暮しをしている村人のようにではなく、父親のように生きたいのだ。
実はウソップが「海賊が攻めてきたぞーっ!」と叫ぶのは嘘ではない。海賊は執事になりすましてカヤの家に潜り込んでいたからだ。ウソップ自身、自分の言っている言葉が何を意味しているか気がついていなかったのだ。

箱男

ここで、バギーとウソップのあいだに挟まれた箱男の物語について若干ふれておく。箱男はそうした「騙し」に対極的な誠実さを象徴する。箱男の物語はバギーの物語を一旦忘れさせ、仕切りなおす役目をはたしている。
箱男は人をあざむくには極端に不自由すぎる。むしろ彼は宝箱の中身がカラであることも確認できずに20年も過ごしたのだ。宝を見るためには大岩の上に登らなければならないが、地を這ことしかできない箱男にはそれができない。箱男は人をあざむくよりむしろ自分をあざむく者である。箱男は結局ルフィによっても救出されなかった。20年のうちに体が箱に「ミラクルフィット」しており、箱を壊したら体がいかれてしまうからだ。箱男はいろんなものの象徴である。箱男のいびつな体は、海賊の財宝を獲得したいという欲望にとりつかれた者たちのいびつな欲望の象徴である。また箱男が大切に守ってきた宝箱がカラだったというのは、ひとつなぎの財宝であるワンピースも、もしかしたらそんなものは存在しないものなのかもしれないことを暗示している。そして宝を守るうちに、いつしか島の珍獣たちに愛着がわき珍獣を守ることが生きがいになったように、宝探しは宝そのものが重要ではなく、宝を見つける過程が重要であり、それじたいが喜びなのだということを教えるものだ。そもそもルフィはワンピースを見つけてそれで贅沢な暮しをしようというわけではない。ただ海賊王の名誉が欲しいだけだ。このマンガはその最初からワンピースという目的は、目的それじたいではなく、別のものが指向されていたのである。
箱男のエピソードで、このマンガの地理が具体的に説明される。地球は紐のように細長い陸地が惑星を一周して海を二分しているという、神話的な配置になっている。こういう不思議な地形では、いろんな不思議なことがおこりそうだ。松本零士の『惑星ロボ ダンガードA(エース)』のプロメテがちょうどこんな感じだった。

キャプテン・クロ(執事)と催眠術師ジャンゴ

富豪のお嬢様カヤの執事クラハドールは海賊のキャプテン・クロが化けた姿なのだが、この執事には眼鏡を両手で「クイッ、クイッ」と持ち上げる癖がある。それはマンガのキャラ造形として面白いのだが、一方、私たちの現実においても、眼鏡がずり落ちるのを気にしてブリッジの部分を指で押し上げる人がいて、それはじっさいにずり落ちるのを防ぐほかに、緊張をやわらげる、間を持たすといったような意味合いでブリッジに触れる場合がある。この執事が眼鏡を神経質に気にするしぐさを見て読者は、この執事の無意識のふるまいには何か隠されているものが違うやり方で露にされているのだと感じるのである。眼鏡がきちんとかけられているかということに絶えず気を使うのは、この執事の芝居の役がうまくこなせているかということに絶えず気を使っているということだ。
執事とカヤは対照的だ。執事は黒髪で上下黒服なのだが、カヤは髪も服もベッドもシーツも枕もみんな白だ。アニメなどでは着彩されるかもしれないが、白黒二価のマンガでは白なのである。執事の仲間のジャンゴも黒い帽子に黒いスーツと、これまた同類であることを示している。
面白いキャラクターがまた一人出てきた。「うしろ向き男」こと催眠術師ジャンゴである。ジャンゴは海賊クロの手下だ。『鏡の国のアリス』の住人のように背中からあべこべの向きに歩くのである。マイケル・ジャクソンのムーン・ウォークをパロディにしたものだ。黒い帽子や足つきなどもマイケルを模している。「うしろ向き男」のあべこべは、黒人のマイケルがあべこべに白人になろうとしたように、嘘と本当が反転するこのエピソードを象徴している。誠実な執事は実は財産の乗っ取りをたくらむ海賊で、にもかかわらず彼はウソップを誹謗して、「財産目当てにお嬢様に近づく…!」「何か企みがある」(25)と言っている。それは自分のことなのにあべこべに他人に向かってそう言うのである。ジャンゴは催眠術師なのに、あべこべに自分が術にかかって寝てしまう。催眠術というのもまた、起きている状態とはあべこべの状態にしてしまうものだ。
ウソップはカヤの屋敷に忍び込んで口からでまかせの物語を聞かせてはカヤを慰めている。ウソップの嘘は、たんなる嘘ではなく物語作者としての才能が発揮されたものだ。アラビアンナイトのようにカヤに聞かせるには作り話という枠組みがあるからいいのだが、村人の日常にそれを直に持ちこむと嘘になってしまうのである。海賊クロは「計算された略奪をくり返す事で有名」(26)である。クロとの戦いはバギーのように体を使った戦いではない。頭脳戦だ。クロは「忠実な執事がお嬢様から遺言で財産を相続する」という物語を3年かけて築きあげた。それを打ち砕くためにウソップによる対抗物語が必要なのだ。
このマンガの特徴のひとつに回想が多いことがあげられる。回想部分はコマの枠線の「外側が黒く塗られるのでよくわかる。この巻では、バギーとシャンクスの若い頃、箱男が箱のはまった経緯、ルフィとウソップの父親とのからみなどが回想されている。回想は過去を謎として持ち越し引きずるのではなく、その場ですぐ解き明かしてしまう。明快でじれったさがない。また、時間的な現在だけでなく過去を織り込んでゆくことで物語に厚みが出る。
※2011.9.5更新 見崎鉄

【巻2】

2011 年 8 月 16 日 火曜日

物語を追いながら分析を加えていこう。
ナミは道化の海賊バギーに取り入るためルフィをグルグル巻きにして差し出す。巻2で驚かされるのは、前半ではルフィが縛られて檻にいれられ、主人公にほとんど動きがないことである。もう少し詳しくいうと、ルフィは22ページでナミにロープで縛られ、91ページでライオンに檻を壊されて解放されるまで拘束された身の上にあった。話数でいうと第10話から第12話にかけてである。アンケート至上主義の「少年ジャンプ」の連載10回の試練をくぐり抜けて一段落したところである。主役を少し休ませて脇役をふくらませていこうということだろうか。ルフィはゴム人間なので、格子の粗いこのていどの檻なら抜け出せるはずだが、作者はそうさせなかった。考えてみれば、そもそも、いくら油断していたにしても怪力のルフィがナミに縛られるにまかすなんてありえないし、ゴム人間なので縄抜けも簡単にできそうだがそれをせず、大砲で打たれて殺されかけるなど、冗談半分に見えた展開が、かなり深刻な状態になっていったのである。
ルフィが手も足もだせない状態なら、ナミやゾロが活躍するしかない。ここはルフィの動きを封じることで、ナミやゾロの動きをみせるために作られた状況なのだ。
ナミはルフィを裏切ったかのように思えたが、そうではなかった。巻2で描かれるのはナミが仲間になる馴れ初めである。ナミは最初計算高い女として描かれるが、無意識のうちにルフィを助ける行動をとる。これは心の底では裏切る人間ではないから仲間にふさわしいということを示すためのエピソードとして必要とされた。そもそもルフィが嫌がるナミをしつこく海賊になるよう勧誘するのは、ナミが可愛い女の子だからそうするのではない。ナミが「航海術」をもっているという合理的な理由からだ。ナミは容姿ではなく、あくまでその技術を買われたわけだ。だがそれがウソくさいのは第2話で登場したコビーも「お前にはどういう訳か人一倍海の知識があるから生かしておいてやってるんだ」と女海賊に言われているのに、コビーがその知識によってルフィにスカウトされることはなく、可愛いナミが選ばれているからである。コビーは海軍に入ろうと思っていたからどうせ海賊になるのを断っただろうと思われるかもしれないが、ナミもまた海賊が大嫌いなのにしつこくルフィは誘ったのだ。しかしコビーにはそうしなかったのである。
ゾロは、縛られたルフィと対称となる。巻1では、ゾロは90ページで登場したときから147ページに至るまで、ずっと十字架に磔(はりつけ)にされていた。ルフィがゾロを助けたように、今度はゾロがルフィを助けることになる。ゾロが脇腹を切られながらも無理をしてルフィを助けたのは、同じ境遇にあった自分を助けてもらったから、そうしないと均衡がとれないからである。
檻に入れられたルフィとナミがピンチとなったところでゾロが二人を救い出しに来る。ゾロは普段は黒いタオルを腕に巻いているが、いざ戦いのさいは、それを頭に巻くことで変身する。ゾロにはルフィのような特殊な技があるわけではないから、戦闘モードに入ったことを外見でわかりやすく示すためにそれが必要なのだ。だが、実はこの救出に入ったさいはまだタオルを頭に巻いていない。タオルを巻くのは、もっと本格的にバギーを倒そうとするときである。ゾロは普段は気持ちタレ目ぎみに描かれることがあるのだが、タオルで目の上側1/3を隠されることで、睨みのきく吊り上がった目になる。同時に目の下側に歌舞伎の隈取りのような濃い影が入り、性格までも変わったかのように見えることになる。
悪魔の実(バラバラの実)を食べているバギーはゾロに斬られても平気だった。ここで、新たに登場した敵、海賊バギーについて考えてみよう。バギーの特徴は二つある。一つは外見がピエロそっくりだということ、もう一つは体がバラバラになることだ。
ピエロの外見をしている残忍な存在は、これまでも物語の中で数々描かれてきた。『バットマン』のジョーカー、スティーブン・キング原作の映画『IT』、『帰ってきたウルトラマン』のナックル星人等々。人を楽しませる道化師が反対に悪魔的存在だったという設定は、道化師を笑っていた人々をぎょっとさせる。ピエロを嗤い蔑んできた人達には後ろめたい気持ちがあるから、それを復讐のように感じてしまう。ピエロの表象はそれじたいに被害者に内在しているマイナス価の行動力を潜ませているのである。バギーは顔の真ん中にぶらさがっている大きく赤い鼻をひどく気にしていて、それを馬鹿にされるととても怒る。ここでもやはりバギーの攻撃性は己に向けられた嘲笑をはねかえすために発揮される。バギーは大砲を武器として使うのを好んでおり、特に「特製バギー玉(だま)」は威力があり、小さな町ならそれ一発で吹き飛ばしてしまうほどである。なぜバギーは大砲にこだわるのか。バギーの赤く大きな鼻はマンガでは黒い球体のように描かれる。これは同じく大砲の玉である黒い球体を類想させる。
マンガでは鼻の描写は省略される場合がしばしばあるように、人間の顔では鼻というパーツは目立たないほうがいい。鼻は呼吸という重要な役割をはたしているとはいえ、空気の出し入れという比較的単純な行為なのに鼻は顔の真ん中に居座って、必要以上に複雑な形をしているように思える。鼻はそれじたい滑稽な形をしているから、目立たないほうがいいとされるのだろう。そうでなければ、禅智内供(ぜんちないぐ)の鼻のように、ただそれが目立つというだけで物語ができてしまうのだ。人はコミュニケーションをとるとき目と口に注目するから、その間にある鼻は目立たないほうがいい。目立つと気が散ってしまうのだ。さて、バギーの鼻はデザイン的にもう一つの意味をもっている。バギーのキャラデザインはこれまでの敵の中でも凝ったものになっている。額には大腿骨が十字に組み合わされた模様が描かれているが、それは鼻の球体とセットで、海賊帽子に描かれたドクロマークと上下が対称になっていると見なすことができる。
バギーがピエロの姿をしていることは、このマンガにおける登場人物の表象をいっぺんに多様化させる方向に道を開くことになった。海賊がピエロの姿をしていることはありえないが、それを許してしまうことは、この先もう何でもありということを認めることになる。そしてその多様さは系統だった統一感のある多様さ(ダイバーシティ)ではなく、まとまりのないてんでバラバラの多様さ(バラエティ)なのである。じっさい、バギーとルフィの戦いにおいては、服装のコードがちぐはぐで、それは異なる価値観の者の対決になっているのである。ルフィやゾロ、ナミといった仲間たちはみんな普段着のようなチープな服装なのに、バギーはそれなりに凝った、威厳のある、その役割にふさわしい服装を身につけている。それはこれまで戦ったアルビダ、モーガンといった敵たちも同じである。現代日本の読者にとって、ルフィたちの服装は無徴で、アルビダやモーガンたちは何らかの「らしさ」が漂っているという意味で有徴だ。バギーはそこへさらに見世物小屋的な猥雑さを持ちこんだのである。この先、手下として登場する猛獣使いや曲芸師も、多様さが連想の向く方向に伸びてゆくことをよく表している。
バギーのもう一つの特徴はバラバラ人間であること。「バラバラの実」を食べたことにより、切断した身体を遠隔で自在に操ることができる。ロケットパンチのような「バラバラ砲」も可能だ。これはルフィのゴム人間と対照的だ。ルフィの場合は身体が伸びるが、バギーは伸びずに切断される。ルフィはワイヤードで、バギーはワイヤレスという違いはあるが、「ゴムゴムの銃(ピストル)」も「バラバラ砲」も意表をつく遠距離まで手が届くという点で同じである。むしろルフィの場合、伸びきった身体の途中が隙だらけで、そこが切断される恐れがあるが、バギーにはその点で弱点はない。海軍大佐モーガンは片腕が斧になっていたし、バギーは両腕を飛ばすことができる。作者には奇形の身体への思い入れがあるのかもしれない。それはこの先どうなってゆくのだろうか。悪魔の実が身体の変形を伴うものだとすれば、多様な身体をもった異形の者どもが多く現れることになるだろう。
バギーがなぜピエロの姿をしているのかはここまでのところなんの説明もない。おそらく悪魔の実を食べたことによる代償だろう。バラバラになる身体は奇術のようなものと認識され、そのため手品との類縁からピエロが想起されたのであろう。一方、ピエロとサーカスとの連想から、手下には猛獣使いとか曲芸師が配置されるのである。海賊たちはサーカスの団員としてのまとまりをもっているのだ。
バギーのもとから逃げ出したルフィたち三人は町でしばし休息する。住民はバギーを恐れ全員町はずれに避難していたが、犬と町長だけが町を守るため海賊に立ち向かおうとしていた。ここでバギーとの争いのさなかに犬と町にまつわる「ちょっといい話」が挟まれる。飼い主が死んだとも知らずその帰りをずっと待っている犬がいる。飼い主との思い出の家がバギーの手下に壊されそうになったとき、その犬が必死に抵抗する。次いで、バギーがとどまっている町はその住民が、40年前に荒地を開拓して少しずつ大きくしていったもので、その町が壊されるのを見かねた町長が立ち上がるというエピソードが語られる。犬にとって飼い主との思い出の家は「宝」であるとされている。一方、ゼロからつくられた町も町長にとって「宝」であるとされている。家を守る犬と、町を守る町長は相似なのだ。拡大され反復されているのである。そう考えると、町長のおかしな格好もよくわかる。実はこの町長は名前がブードルで、見かけも犬のプードルに似ているのであるが、それはこの町長が犬と同じく町を守る立場にあるという物語中での役割の相似をわかりやすく表したものなのである。違う言い方をすると、この町を守ろうとしているものの象徴が犬なのである。そしてこの犬は、海賊たちによる被害を避けるために大切な町から避難している住民と対比されている。住民たちは自分は安全なところにいて町長を批判するばかりだ。犬や町長は海賊たちから「宝」を守るために戦うのであるが、それはこうした多くの住民が海賊から逃げてばかりいることを逆照射してしまう。これまでも海軍のモーガンから住民たちは逃げていた。ルフィは住民たちを批難する言葉を口にすることはないが、逃げずに挑む者たちを支援することで間接的に疑問を投げかけているのである。
巻2では「宝」があからさまなキーワードになっている。ルフィの帽子も「宝」であるとされるように、「宝」は物そのものに備わっている価値ではなく、それを大事にしている人がいるから「宝」になるのだ。人は誰も大切な「宝」をもっていて、それを守るために戦うのは価値のあることだということを町長たちは示している。一方、「宝」は、既に手にしているものではなく、どこかにあってそれを探し求める吸引力を発揮するものでもある。『ONE PIECE』というマンガじたいワンピースという大きな最終的な「宝」をめぐる物語であるから、いろんなものが「宝」の隠喩で語られるのは当然だろう。「宝」である町を捨てて逃げている住民たちは大切な「宝」の価値を理解していないという点で『ONE PIECE』の論理からは批判されるべき存在だ。
「宝」は探し求めるべき価値のあるものであり、そこに辿り着くべきゴールであるから、さらに演繹されて「目的」と等値される。ルフィの仲間たちはみな何かの目的をもっている。ルフィは海賊王になること、ゾロは世界一の剣豪になること、コビーは海軍に入ること。そして、ナミは1億ベリー稼いで村を買うことである。みんなそれぞれバラバラの方向を向いており、寄せ集めといった感じで、仲間意識はあるものの、一緒に海賊をやろうというまとまりとは異なっている。目的は違っているものの、お互いの人間的魅力が吸引力になっているようだ。この点についてはもう少し仲間が増えてから再検討しよう。
目的ということで言えば、ルフィはそろそろ気づいてもいいのではないか。これまでに出会った海賊はロクでもない連中のほうが多いのである。いい人たちであるシャンクやその仲間は海賊の典型ではなく例外だ(もっとも、シャンクが海賊行為をやているのは間違いないから、後にシャンクの嫌な面が描かれることになるだろう。ルフィは今のところシャンクのいい面しか見ていないのである)。ルフィはシャンクに憧れてシャンクのようになりたいと思ったのであって、海賊に憧れて海賊になりたいというのは階層を取り違えているのである。シャンクは海賊だが、海賊がみなシャンクのようだというわけではない。ゾロもナミも海賊は嫌いだったし、住民たちも海賊は嫌いだ。ルフィは反社会的な性格というわけでもない。それなのに何故ルフィはその嫌われる海賊になろうとするかというと、海賊とシャンクを混同しているからだ。ただ、巻2では、海賊への憧れがシャンク個人に由来するばかりではなく、共同体の雰囲気にもあることがわかる。ルフィはバギーの手下が飲んでどんちゃん騒ぎをしているのを見て、「あー楽しそうだなー。やっぽこうだよなー海賊って!」(10)と言ってる。実はここでも取り違いが起きている。海賊の本質は「楽しくわいわいやる」ことにあるのではなくて(それは他の集団にもある)、略奪行為にあるのだ。ルフィは二重に勘違いしていることになる。
バギーの手下、「猛獣使いのモージ」が現れ、ルフィと戦う。モージは巨大なライオンにまたがり、自身も犬のような格好をしている。モージも町長も人間なのに犬に似た姿をしている。『ドラゴンボール』では人身犬頭の国王が出てきたが、このマンガでは今のところそういう人獣混淆のファンタジーはなく、あくまで人が犬に似ているにすぎない。
鋭い牙をもったライオンは獰猛で強そうだが、ただ大きくてパワーがあるというだけでしょせんはただの動物にすぎないので、特殊能力をもったルフィの敵ではない。一撃で倒されてしまい、戦いじたいが見せ場とはならない。この巻で出てきたルフィの新技は、二本の腕を捩ってスクリューのように回転させる「ゴムゴムの槌(つち)」と、腹をふくらませて大砲の玉を受け止めはじき返す「ゴムゴムの風船」である。巻1で出てきたのは「ゴムゴムの銃(ピストル)」「ゴムゴムの鞭」「ゴムゴムのロケット」であった。ルフィの技は体の弾力性や伸縮性を使って既存の何かを隠喩的に模倣するものだ。
次に現れた敵は「曲芸のカバジ」。一輪車に乗って次々と珍妙な技を繰り出す。これも特殊能力ではあるが、鍛錬のたまものであって、ルフィのような超能力ではない。カバジに対するのはゾロ。ゾロの剣技も超絶的ではあるが、鍛錬のたまものであり、超能力ではない。だからカバジとゾロの対決は押しつ押されつで戦いじたいが見どころになっている。
バギーがそれまでの敵と違うのは、猛獣使いや曲芸師のように、有能な手下がいることだ。親分であるバギーにたどりつくには、この二人を倒さねばならない。敵の布陣に厚みが出てきた。作者が敵のキャラを大切に扱うようになった。
以上、巻2の物語を追いながら適宜感想を挟んでみた。以下はマンガ的な表現について若干述べる。
マンガの表現としてはこの巻では魚眼レンズ的な描写がめだつ。地面は水平ではなく、内側に湾曲し、外側に近いものほど拡大して描かれる。例えば、53ページ、56ページ、180ページ、183ページなどが印象的だ。このマンガはパースのきいた絵が特徴的だが、魚眼的な描写ではそれが強調される。
魚眼レンズは極端な広角レンズなので、写り込む像が小さいが多くなる。広角的な絵の特徴は、一枚の絵の中にたくさん情報がつめこめること、像の周囲がゆがむため、極端にパースのきいたものになること。これはどういうことかというと手前にあるものほど大きくなるので、コマの中に絵が描きこまれたとしても手前に配置された主題的な人物は大きくなるということが両立できるのだ。また、パースがきいているので一枚の絵(コマ)の中に動きがある。動きがあるということは、一枚の絵の中に流れている時間がその動きを目で追う分だけ長くなるということでもある。よくアニメの絵コンテのように、コマをいくつも重ねて連続する動きをこまかく描くマンガがあるが、このマンガはそうでなく、コマとコマのあいだに時間的な断絶がかなりあるマンガなのである。例えば41ページではナミが太腿に括りつけた3本の棒を組み合わせて悟空の如意棒のような棍(こん CUDGEL)にするのだが、このとき、ナミが3本に分割された棒に手を伸ばすコマの次に敵の姿のコマが一つ挟まれて、次のコマでは既に長い棍を手にもっているのだ。そのコマには「ガチン、ガチン」という擬音語が書かれている。つまり組み立てる過程のコマを省略し、たった1コマでそれを描いてしまったということだ。このとき擬音語はかなり大事である。108ページから109ページにかけてはルフィが敵を引き寄せて「ガン!」と殴るところだが、ここには殴る瞬間は描かれておらず、殴ったあとのルフィと打ち倒された敵が描かれている。擬音語の「ガン!」が若干遅れて届いた遠雷の音のように空気を震わせて、そこで何が起こったかを描写しているのだ。ルフィの腕に浮かんだ血管も、その腕が何をしていたかを物語っている。このコマは殴ったあとを描いているだけだが、そこには殴る直前のシーンも俊速で畳み込まれているのだ。実は喧嘩ばかりやっている『ろくでなしBLUES』でも印象的なコマはこのようなものであった。
また、50ページから51ページにかけてのコマもそうだ。ここはゾロがバギーを斬るところだが、刀を構えていたゾロのコマの次は、ページが変わって「ズバッ!」という擬音語とともにバギーが輪切りになってる。ここにも初めと結果しか描かれていない。途中の動作は省略されている。
また、65ページに大砲の向きを変えるシーンがある。ゾロが砲口を持ち上げているコマの次にナミの顔のコマが挟まって次のコマでは「ガコン!」という音ともに砲身が180度反転している。最初の動きだしのコマと結果のコマの2つでそれを描いている。これは少しわかりにくかった。砲身の動きの途中がないからだ。私は最初、砲身が横に180度回転したのかと思ったが、再読したら、それは垂直方向に回転していることがわかった。それはゾロがのけぞるような格好をしているからなのだが、ゾロが小さく描かれているためわかりにくかったのだ。
省略的な描写はこのような動きの省略ばかりでなく、出来事の省略にまで及んでいる。例えば67ページから70ページのあいだにルフィのロープはほどかれているのだが、ロープをほどく場面は描かれていないので、読者は違和感を覚える。もちろん、その間にゾロがほどいてやったのだと推測することはできる。しかしそれは奇妙なのだ。また82ページから83ページにかけて、脇腹を刺されたゾロがほんの3コマのうちに、町長が自分の家に「休ませてきた」というセリフがあるだけで、ゾロが家の中に運び込まれる描写はないままそうなっている。
この巻で取り上げてみたい擬音語は次のような歓声だ。いずれもマジックインキのようなもので手書きされている。
「ひゃっほーう」(30) 「ういやっほーう!」(34) 「ひゃっほーう!」(45) 「ひゃっほーう」(141)
これはみな、バギーの手下の海賊どもが騒ぎ立てている声である。「やっほう」が変化したものだろう。いかにも悪いやつらが集団になって獲物をいたぶって嬉しがる感じがよくでているする。
※2011.8.16更新 見崎鉄

【巻1】

2011 年 7 月 26 日 火曜日

ルフィ

物語はルフィが子供のころの話から始まる。小さな村の少年であるルフィは、村にやってきた海賊に仲間にしてくれと頼むが、幼いからと相手にされない。10年後、青年になったルフィは、海賊になるため小さなボートで大海原に漕ぎだし、仲間を集める旅に出た。
ルフィには謎めいたところがどこにもない。ルフィの顔にある傷がどうしてできたか(根性を見せるため)、ルフィがいつもかぶっている麦わら帽子の由来(船長にもらった)、ルフィがゴム人間になった経緯(ゴムゴムの実を食べた)、といったことが第1話で次々と明かされてしまう。ふつうは少し後になってからのエピソードで、実はこういう由来があったのだと過去を振り返って明かされるものだが(例えばインディ・ジョーンズだと、トレードマークになっているソフト帽や鞭の来歴が明かされるのは映画の3作目だ)、そうしたもったいをつけずに惜しげもなく明快に、ルフィというキャラができあがる過程を、時系列に沿ってどんどん語っていく。『ドラゴンボール』でさえ、悟空には何故シッポが生えているのかという「謎」があったのだが、ルフィにはそうした「謎」がない。ただし、ルフィが子供から青年に成長する10年間は省略されている、いわば「失われた10年」なので、この間に何があったのかは「謎」になるかもしれない。また、ルフィの親がどういう人かはわからない。親がわかれば子供のことは半分わかる。親が謎のままなのでルフィが将来どういう人間になるかわからない。最初は限りなく薄っぺらい人物で、物語の進行とともに厚みが加わってゆくタイプのキャラなのだろう。

シャンクス

ルフィが最初にあった海賊の頭(かしら)がシャンクス。強くてカッコよくて仲間から信頼されていてルフィを守ってくる理想の大人である。「こんな男にいつかなりたいと心から思った」(1)とルフィは思う。ルフィの海賊への憧れはシャンクスによって一層強化される。見本があるからルフィにも迷いがない。理想の大人が海軍にいれば海軍をめざしたかもしれない。
シャンクスは大人といっても20代前半くらいで、青年と大人の中間的な存在だ。それはあとに出てくる女海賊アルビダや海軍大佐モーガンが恰幅のいい大人であり、「大人は悪」という図式になっているのに比べて、シャンクスは大人になりきっていない中間的な存在として描かれている。それは彼の格好にもよく表れている。女海賊アルビダも海軍大佐のモーガンもそれらしい威厳のある格好をしているがシャンクスはとてもラフな遊び人風情だ。ルフィはこのシャンクスのミニチュアである。格好もそうだが性格もそうだ。シャンクスはルフィを守るために海獣に片腕をくいちぎられてしまう。しかしそんなことは気にかけないといった平気な顔をしている。ルフィもまた、どんなピンチでも平気な顔をしている。男の度量ともいうべき、極端な楽天ぶりも受け継いでいる。第1話の時点ではシャンクスがどういう人物であるかはわからない。ただ、シャンクスは睨みつけただけで海の怪物を退散させるほどの迫力があるから、並の人間ではない。来歴には謎がありそうだ。
シャンクスは別れ際、ルフィに帽子を預け、「いつかきっと返しに来い」(1)と言って消える。「返しに来い」という言葉もまたルフィを動かす原動力となる。巻1の時点で、ルフィを動かすのは、宝物ワンピースを探すこと(=海賊王になること)、シャンクスと再会することなど複数あることになる。そして、とりあえずそれらの前段として仲間集めがある。もちろん良き仲間に恵まれることは、宝探しのための手段ではなくて、それじたいが宝なのである。
アルビダとモーガン
ルフィは旅の途中で女海賊アルビダや海軍大佐のモーガンと出会う。彼らは威張りちらしていて、部下や住民を恐怖で支配している。一介の「大佐」が島を支配しているのは奇妙な感じがするが、リビアの事実上の元首として40年以上君臨しているのが「カダフィ大佐」であることを思えば、雰囲気は理解できる。その彼らを倒し、人々を解放し自由にすることが、ルフィの仲間探しの旅の副次的な効果としてもたらされる。ルフィは水戸黄門のようだ。後に出会うゾロたちは助さん格さんである。
ルフィは圧倒的に強いため、アルビダやモーガンとの戦いはあっさりしている。『ドラゴンボール』は長く続く戦いじたいが野球の試合のようなドラマ性をもっていたが、『ONE PIECE』では戦いは欠かせないがそれは最後の締めくくりに過ぎず、物語の主要な部分ではない。たいていはルフィの「ゴムゴムの銃(ピストル)」や「ゴムゴムの鞭」の一撃で勝敗が決まってしまうのだ。物語の主要な部分は人情噺である。ルフィは悟空のように盛り上がった筋肉をしていないが、それは戦いが主要な見せ場ではなく、人情を主軸とした物語を語ることがこのマンガの主題なので、ルフィに必要とされるのは、戦いに特化した身体ではなく、人情のもつれを捌く機転をきかせた行動だからである。
アルビダやモーガンはとても理想の大人ではない。男も女も大人にはろくなのがいない。町の住民の大人たちは寄らば大樹の陰で右往左往するばかりだ。状況を変えるのはルフィのようにその社会に属さず外部から来てやがて去って行くアウトロー、しかも大人のような訳知りでない者なのである。
ルフィの仲間集めは、アルビダやモーガンが暴力や権力(大佐という肩書)といった支配関係(上下関係)とは逆をいくものだ。ルフィの旅はまず海賊のメンバーをスカウトする旅としてはじまる。同じく義賊のヒーロー、ルパン三世の場合、仲間である次元や五右衛門がどういう経緯でつるむようになったのかよくわからないが、命令する親分子分の上下関係ではなく対等な仲間であり、ルパンのことが気にいっているから行動をともにする。ルパンのほうも次元や五右衛門の銃や剣の腕前に一目置いている。

コビー

コビーは女海賊アルビダの雑用係で、ルフィが最初に出会った仲間である。航海の知識などもあり、この先、ルフィと行動をともにするかと思われたが、あっさり別れてしまう。『未来少年コナン』のコナンとジムシーや『ドラゴンボール』の悟空とクリリンなど最初にたまたま出会った仲間が将来の重要な仲間になるのだが、コビーは海軍に入る道を貫徹するのであって、ルフィの仲間になるというふうに人生を変えられることはない。ゾロはルフィによって人生が変わりそうなのだが、コビーは自分が思ったように生きるのだ。それはコビーにとってはいいことだが、このマンガのキャラとしては見放されたということでもある。
コビーはルフィと対照的だ。コビーはいわばルフィの引き立て役である。貧相なコビーが出ることでルフィのおおらかさがきわだつ。ルフィは海賊の仲間に入れてもらいたかったのに入れてもらえず、一方、コビーは釣りに行こうとして海賊船に「間違って乗り込んでしまった」(2)のである。ルフィは希望したのに海賊になれず、コビーは希望しないのに海賊にさせられてしまう。
筆者(私)はまだ1巻しか読んでいないのでコビーがどう扱われるかわからない。コビーは一旦は退場したが、このあと再び重要な役どころで登場するかもしれない。海軍に入ったのでルフィのライバルとなって、しかもそのときにはかなりハンサムな青年になっているだろう。ルフィはコビーの恩人だが、職務と義理の葛藤するだろう。もちろん巻1の時点ではこのマンガがどこまで連載が続くのかわからないので、作者はそんな計画をしていないかもしれないが、話が長く続けば伏線を探し出すときにコビーのことを思いつくはずである。ただし名前がコビー(媚を売るのでそう名づけられたのだろう)ではやりにくい。

ゾロ

ゾロはルフィが最初にスカウトした一人である。ゾロは当初、黒いタオルで頭を包み、腹巻とニッカポッカという土方ファッションの人として登場する。頭に巻いている黒いタオルは、名前がゾロで、「快傑ゾロ」の連想から覆面の変わりとなるものだろう。タオルからのぞいている目は鋭く印象的だが、タオルで眉が隠れてしまうという難点がある。マンガでは表情を描き分けるのに眉の動きを使うことが多いから、眉が見えないということは表情がワンパターンになってしまうおそれがある。そのためか、このタオルはそのうちなくなってしまう。かわりにそれは左のニの腕に結びつけられる。なくしたくないものなのだろう。残った腹巻がルフィの麦わら帽子と同じくゾロのトレードマークになる。
ゾロは剣の達人になるという夢がある。これもまた秘密ではなく、すぐに由来のエピソードが明かされる。剣の達人のイメージとゾロのラフな衣装はちぐはぐだ。このちぐはぐさはルフィが海賊なのに麦わら帽子をかぶっているという点もあわせて考えると、このマンガの戦略なのかもしれない。
ゾロは海賊狩りとして町の人に怖れられているが、意外にやさしい。女の子のさしいれた「おにぎり」が泥まみれになっても食べる。見かけによらないのだ。これはルフィも同じだ。ルフィは海賊になりたいのに、まるで海賊らしからぬカジュアルないでたちをしている。ルフィも見かけによらないのだ。
ルフィがゴムのように伸びるという過剰な身体をもっているように、ゾロは二刀流を超えた三刀流という過剰な剣の使い手だ。そして一人は海賊王を、一人は世界一の剣豪をめざすというように対象的な関係にある。

ナミ

ナミが特別な女性であることはナミの髪を見ればよくわかる。ナミはこのマンガに出てくる女性ではじめての金髪の女性なのだ。第1話の酒場の店主マキノも第3話のゾロにおにぎりをさしいれたリカも、ゾロの思い出に出てくるくいなもみんな黒髪だ。女海賊アルビダも黒髪。だがナミだけが金髪なのである。アルビダを除いて、このマンガに出てくる女性はみな額(ひたい)が広く理知的な顔だちをしていて、髪もショートで、それぞれよく似ている。名前も和風だ。ナミという名前は海に関係する「波」からきているのだろう。『サザエさん』の波平と同じだ。ナミも額が広く髪もショートだが、金髪であることで特別な存在になっている。
海賊らしさとは何か
ルフィは帽子を大切にしている。シャンクスにもらったものだからだが、なぜ帽子なのか。海賊といえば帽子と眼帯がトレードマーク。まさに「少年ジャンプ」のマークがそうだ。だがルフィの帽子は海賊帽子ではなく、西条八十が「母さん、僕のあの帽子、どうしたでせうね?/ええ、夏碓井から霧積へ行くみちで、渓谷へ落としたあの麦稈帽子ですよ」と詩で書くような、センチメンタルな夏の思い出とともにありそうな麦わら帽子なのである。しかも麦わら帽子は1シーズンかぶればすぐへたってしまい、翌シーズンには忘れてしまいそうな消耗品的な作業用の簡易で粗末な帽子である。しかしそれを大事にしているということは、麦わら帽子に象徴される、忘れられやすく、壊れやすく、高級でもないもの、つまり子供の頃の夢を大事に守り続けているということである。帽子に象徴される夢に、いつも頭(思考)は覆われていて、帽子が外形において頭を支配しているように、夢に支配されているのだ。キャラを立たせるための小道具としては、ルフィは『ドラゴンボール』の悟空のように印象に残る髪型をしていないので、作者は、髪型をマンガチックなものにする代わりに(髪型に知恵をしぼる代わりに)、麦わら帽という奇抜なものをかぶせて一気にユニークなキャラにしてしまったのである。
ルフィの目の下の傷は眼帯の換喩だろう。眼帯をさせると印象が暗くなってしまうのでそれは避け、同じく海賊の記号である頬の傷に近いところに傷をつけたのである。奇妙なのは、その傷は戦いでつけられた「勲章」ではなく、自分でつけたものであるということ。子供のルフィは海賊になるために海賊の記号を身につければいいと考えた。頬の刀傷が海賊の記号となっていく歴史を無視して、その結果だけをとりこんだのだ。そうしたイカサマは、海賊になるために仲間を集めるという行為にも表れている。劇団員やバンドのメンバーを募集するような気軽さでルフィは海賊になる仲間を探そうとする。ルフィの世界では海賊は悪とされている。そういう誘いにのってくる人はゼロに近い。私は海賊に関する知識はほとんどないが、常識的に考えて、海賊の起源というのは、既にある集団が困窮して追いつめられるなどして海賊「化」するのであって、はなから海賊をめざして人が集まってくるわけではない。これもまた、頬の傷と同じく、それができあがる歴史を無視して、何の土壌もないところに人工的に海賊なるものをつくろうとする行為だ。いわば社会契約説が社会の成り立ちの始源をフィクションで説明したように、ルフィは海賊の成立を、信じあえる仲間との共同体という理想そのままとして実行していく。海賊ごっこであり、海賊のパロディであるが、それは理想的なフィクションをじっさいやてみようという試みでもある。
子供が大人社会に参入するとき、既にある集団に入っていくことになるので、その集団のルールに従わなければならない。それが嫌なら自分で新しい集団をつくらなければならない。大人たちで構成される海賊の集団にルフィが入っていったとしてもコビーのように雑用係にされるのがオチだ。コビーはルフィが既存の海賊集団に入った場合の悪しき例なのだ。仮に特殊能力をもったルフィが腕力の面で大人たちより強くて、ルフィが船長になったとしても、今度は逆に、そんな若造のいうことは聞けないと大人たちが逃げ出してまとまりがつかないだろう。結局ルフィが自分の実力にふさわしい人望と地位を得るには、もっと大人になるまで待つか、自分を信じてくれる仲間を自分で集めるしかない。後者を選んだルフィはいわば起業家なのだ。

ゴム人間

ルフィはゴムゴムの実を食べたことと引き換えに泳げなくなる。第1話で、泳げないのは海賊にとって致命的だと言われている。海賊をめざすルフィにとって大きな障害があるという設定だ。しかし第2話で小船が渦に呑み込まれたルフィは、泳げないので死んでしまうはずだが、樽に乗って生き延びる。そのことについて何の困難もない。これならルフィは超人であり泳げないことは弱点でも欠点でもない。悪魔の実を食べたことによる代償が小さいのだ。
身体がゴムのように伸びるのは映画にもなった『ファンタスティック・フォー』のリーダーもそうである。超能力としてはゴム人間はそれほどいいとは思えない。ゴムのように伸びても結局は身体の延長であり、鋼鉄の壁のような障壁があれば突き破れない。念力のように遠隔操作できる能力のほうが使い勝手がよさそうだ。村長が言うように「何の役にたつんじゃ。体がゴムになったところで!」(1)。しかしルフィはゴム人間だからアルビダの金棒も海軍の射撃の弾丸も効果がなく、それが決めゼリフのひとつである「効(き)かないねえっ!」にもなるわけで、つまりゴムだからいいこととしては可塑的で防御能力が高くなるということだ。論理的に考えると、反対に、ルフィの身体は弾丸すら受けとめる超弾性体のため、その柔らかい体は武器としては使えないはずである。柔らかい体のルフィに殴られても相手は痛くないはずだ。一方で、ゴムゴムのロケットのように、ゴムの弾性をバネとして使い体を跳躍させることはできる。しかしよく考えると、バネを伸ばすにはそもそも外力を加えなければならない。マンガのポーズを見ると、野球の投手のような格好をすることがあるのでルフィはそれを遠心力でやっているようだ。伸ばされて変形した物体は「フックの法則」により元に戻ろうとする力が生じる。それがゴムゴムのロケットだ。一応理屈はとおっている(もちろんマンガ内部の)。しかしゴムゴムの銃(ピストル)はどうか。これは拳をロケットパンチのように相手に打ち込む技だ。腕が伸びるのはいいとして、それを遠心力のみでやっている。伸ばしたとき元に戻ろうとする力がはたらくから、相手が遠くにいるほど打撃力は弱くなってしまう。遠くまで届いた拳はかろうじて相手にパンチをあてることができるくらいの力しかもっていないはずだ。けれど、ルフィは普段は普通の人間と同じなので、自分で自分の体の弾性率を自由に変えられるのだろう。腕を伸ばすとき弾性率を極度に小さくしていれば、引き戻す力は考えなくてよくなるから、それなりの威力は見込める。なにより相手にとっては意外性があるので不意打ちのぶん効果が高い。『シグルイ』で柄の握りかたを変えることで刀が伸びるのと同じだ。ちなみに、ルフィの腕のポアソン比(伸びた分だけ幅が縮む)については、絵で見ると、腕が伸びたからといって腕がそれほど細くなるわけではないことがわかる。

マンガ表現

ルフィのポーズの特徴は気持ちよさそうに手足をおもいっきり伸ばしていることだ。典型的なのが第1話の最終ページだ。船の舳先で、「海賊王に おれはなる!」と言って両手を空に伸ばし、両足を開いて立っている。肘や膝は曲がっていない。筋肉の表現も省略された棒のような手足だが、こういう身体がルフィの精神的な部分までもよく表している。鬱屈していない、ストレートな心持ちの人物なのだ。こんなに気持ちのいい身体はマンガではめずらしい。あるいは巻1の表紙の絵。こちらも跳び跳ねて両足を開き、片手を空に突き出している(もう片手は帽子が落ちないように押さえている。これは帽子が大事だ、ここに注目せよといういうことを意味している)。また第2話の1ページ目。小船に座ったルフィが甲板でおもいきり両足を伸ばしている。足の裏のサンダルの模様がクローズアップされている。こうしたパース(遠近法)をきかせた絵はこの作者の特徴だが、それも手足を伸ばすせいだろう。こうした伸び伸びした身体を極端化したものがゴム人間である。ゴムのように伸びる手や足は、ルフィの性格の身体的表現でもあるのだ。
このマンガで一番多く使われるオノマトペは「どん!」である。バリエーションとして「どんっ!」「どーん!」「どどん!」「ドン!」「DON!」などがあるが、いずれも擬音語ではなく、擬態語である。人が初めて登場するときや、決めのポーズのときなどに使われる。人だけでなく、建物(p88)、船(p202)、など、インフレぎみに使われている。
「どん!」は重量感のある響きだ。海賊旗(p62)のような軽量物にも使われるように、たんなる物理的な重さではなく、感覚的な「重み」、つまり重要なものなので注目せよということだ。「どん!」がつくと、堂々とした感じ、どっしりした感じ、開けっぴろげな感じ、隠したところがない感じがする。本当は、その「どん!」という言葉で表される存在感を絵として表現しなければならないのだが、マンガではオノマトペも絵の一部なので、これはこれでいいとしよう。
ギャル語の「チョー」がどうでもいいことにでも付くように、何にでも付く「どん!」は、強調の意味が弱くなってゆく。お笑い芸人である夙川アトムの業界用語ネタに「タイトルドン!」「ハイ来た、ドン!」などがあるが、『ONE PIECE』の「どん!」もこれに似て、ちょっとした場面転換を印象づける意味あいになっている。また、「どん」には接頭語としては、まさにそのものであるという強調の意味がある。「ど」を一層強めたものだ。どんびき、どんくさい、どんづまり。オノマトペと接頭語では意味がちがうが、共通するのは、普通とはちょっと程度が違うよ、ということを喚起するときに使われているということだ。

『ドラゴンボール』と『ONE PIECE』

『ONE PIECE』は『ドラゴンボール』の連載が終了して2年ほど後に連載開始された。両者ともに「週刊少年ジャンプ」の看板マンガとして長年続いた(ている)。これまでもたびたび『ドラゴンボール』と比較してきたがもう少し続けてみよう。ちなみに作者の尾田栄一郎は鳥山明を尊敬しているらしいので作風が似てきている部分もあるかもしれない。ルフィは『ドラゴンボール』の悟空に似て小さいことにこだわらず(大きなことにもこだわらない)、あっけらかんとして、度が過ぎた楽天家だ。海賊として手持ちが何もない。海賊として必要な設備である船もなく、小船があったがそれすらも壊れてしまう。仲間もいない。ゼロから始めることになる。しかしルフィは馬鹿ではないし、他人に関心がないのではない。よく見ているし人情の機微にも通じている。

このマンガも繊細である。いくつか挙げてみよう。ゾロの子供の頃の記憶に出てきたくいなは女だてらに剣術が滅法強いのだが、「女の子はね、大人になったら男の人より弱くなっちゃうの…」(5)と、デリケートな胸の内を明かす。

海賊という言葉も、海軍に、君らは海賊かと問われたルフィは、「そうだね、一人仲間もできた事だし。じゃ今から海賊って事にしよう!」(7)と答えている。これまでルフィは海賊になりたかっただけだが、ここでやっと海賊になれたということだ。海賊は複数でなければならないとルフィは思っていて、その言葉を慎重に使っているのだ。

ルフィが食べたゴムゴムの実はメロンのような形をしていて表面は唐草模様だが、ルフィはそれを知らずに食べていた。マンガを読みなおすと、たしかにルフィがそれを食べている1カットがある。しかしそれはさりげなく描かれていて見過ごしてしまいそうだ。再読したときも見過ごしてしまい、もう一度ページを戻したくらいだ。ゴムゴムの実を食べたことはルフィにとって一大事なのだが、それがわからないほどさりげなく描かれているのだ。それが意図的な演出だとしたら、この作者は解読するにあたって、かなり手強い相手になりそうだ。『ONE PIECE』はその絵柄に反して意外にしっかり読むことを私たちに要求しているのだ。それは斜め読みでは読みとばしてしまうものがあることを示唆する仕掛けなのだ。
※2011.7.26更新 見崎鉄

【巻0】

2011 年 6 月 11 日 土曜日

『ワンピース』についての事前知識はほとんどない。知っているのは、夏休みに蝉とりでもするような麦わら帽子に半袖半ズボンの姿の少年が主人公だということ、それが格好に似合わず海賊の物語であるということ、そしてワンピースという言葉の響きだけである。それが服のワンピースなのか、 one peace なのか one piece なのかさえ知らない。インターネットで調べればあるていどのことはわかるが、これからマンガを読んでいくので偏見をもたないように、これも見ない。
にもかかわらずこのマンガについて書いてみようと思ったのは、二〇一〇年に第60巻の初版発行部数が国内最多の340万部だったとか、累計2億部を突破したとか、また、これは二〇〇九年の一二月だが、朝日新聞の朝刊に、9ページにわたって広告が掲載されていて驚いたからだ。
テレビのトーク番組やあるいは私の身の周りでも同世代の人がこのマンガについて面白いと口にしているのに、私自身はこのマンガについて全く知らない。特に知ろうとも思わなかったのは好きな絵柄ではなかったからだ。だからこれから全巻を読んで批評するといっても、もしかしたら第1巻で挫折してしまうかもしれないし、あるいは5、6巻で飽きて投げ出してしまうかもしれないし、あるいはまとめて読み出したら面白くて最後まで読み遂げるかもしれない。私としては「世間に追いつく」ためにどちらかといえば最後者を期待しているし、世の中の多くの人が面白いといっているのだからそこには何かあるのだろうからそれを知りたいと思う。何の知識もなく読み始めるのは、読んでいくうちに私の考えが変化していく過程も記したいからだ。
書き方としては、コミックスを1冊ずつ読んではその巻の批評をしてゆくというやり方をとる。だから、第1巻について書いているときは、第2巻以降どのような展開になるかわからないで書いていることになる。ここに書いている「0巻」というのは、まだマンガそのものにはふれていない状態で書いている。近々上梓する『ドラゴンボールのマンガ学』との最大の違いは、『ドラゴンボール~』の方は、連載が終了し、全体を眺めわたすことができる地点から、自由に随所を参照し、その構造を取りだしていたのにたいし、今回の『ワンピース~』は、1冊ずつ読んでは、いわばライブ感覚で批評し、それを積み上げてゆくことにある。

とりあえず、じっさいに読み始める前に手持ちの知識だけで書き出してみよう。
まずタイトル。もしこれが『one peace』だったらどうか。 peace というのは平和とか平穏という意味だ。少年マンガで平和というと偽善に聞こえるし、平穏では冒険が始まらない。となると one piece だが、one piece は辞書的には服(水着)のワンピースが一般的だが、海賊の物語にはそぐわない。 piece という語からはシェル・シルヴァスタインの絵本『ぼくを探しに』(THE MISSING PIECE)が思いうかぶ。これは、失われたピース(かけら)を探しもとめるという「本当の自分探し」の話である。何かの piece であるという前提があると、全体の中の一部ということで喪失した全体性を取り戻す運動がはじまる。あるいはジグソーパズルのように最後の一片ということなら、これも埋めるべき欠如があるということで、最後の一かけらを探すべく旅がはじまる。すでに完結して充足しきったものでなく、一部分、かけらであることが重要だ。
ところが one piece という熟語になると、one とか piece といった断片的な意味の言葉が反転して、ばらばらになっていない、分裂していないという意味になる(水着のワンピースも同じだ)。それ自体で充足したひとつのまとまり。『ドラゴンボール』は七つにばらばらになった球(宝物)を集めることが運動を喚起していたが、one piece ならそれとは逆に一つのものをめぐる冒険になるだろう。
次は「海賊」ということである。海賊は山賊よりカッコいい。山賊は身なりが汚く埃くさいイメージがあるが、海賊はゴシックふうの衣装でオシャレなイメージである。船という閉鎖的な空間に暮しているので疑似家族的な共同体になっている。居住場所は閉鎖的だが、大海原という広大な空間を旅し見聞が広く、先進的なものを媒介する。山賊は山の中で獲物が通るのを待っているだけだが、海賊はこちらから出かけてゆく(交易が盛んな場所で待ち伏せていることも多いが)。同じ賊でも海と山ではアフォーダンスがまるで違うから行動原理も異なる。海は山より環境がはるかに不安定だから環境との戦いもある。
マンガの『宇宙海賊キャプテン・ハーロック』とか、映画の『パイレーツ・オブ・カリビアン』『カットスロートアイランド』など海賊は人気がある。人気のある泥棒は匪賊だが義賊でもある。身なりの面からすると、このマンガの主人公は海賊なのに身を飾っていない。永遠の夏休みにある少年の夢の中としての海賊であるかのようだ。