ワンピースのマンガ学

【著者紹介】

見崎 鉄(みさき てつ)
1965年、長野県生まれ。ライター。
マンガ学の著書に『ドラゴンボールのマンガ学』(彩流社)、歌詞論関係の著書に『阿久悠神話解体』(彩流社)、『Jポップの日本語』(彩流社)、『さだまさしのために』(KKベストセラーズ)、『音楽誌が書かないJポップ批評』(共著、宝島社)。サブカル批評に『ドラゴンボールはいつ終わるか?』(風塵社)、『船井幸雄大研究』『2時間ドラマ大事典』『エヴァンゲリオン完全攻略読本』(以上、共著、三一書房)他がある。

記事一覧

【巻9】

ゲンゾウ

魚人アーロンが支配する村の駐在はゲンゾウという。これまでのパターンでは、訪れた村や町の長が代表となってルフィたちと関わり、それまでの経緯を語るというものだったが、今回は駐在がその立場にある。駐在は全身切り傷だらけである。変わっているのは帽子に風車が付いていることだ。見ようによってはシュールだが、もし現実にこんな人がいれば頭がおかしいのではないかと思われてもしかたない。頭の上にいつも日の丸の旗を立てている赤塚不二夫のハタ坊(『おそ松くん』に登場するキャラクター)みたいだ。
なぜ、彼の頭の上では風車がまわっているのか。風車といっても「風車(かざぐるま)の矢七」のようなカッコいい記号ではない。
この風車はいつも「カラカラ…」という音をたててゆっくりまわっている。絶えず風が吹いているわけではないのに、不思議なことにいつもまわっているのだ。風車の存在感はこの「カラカラ…」という乾いた音にある。風車はゲンゾウの心の虚無感を表象しているかのようだ。彼ら村人は魚人の支配に手も足も出ずに、言いなりになるしかない。そうした虚しい気持ちが表されている。何の音もしないより、「カラカラ…」という乾いた音のほうが虚しさをひきたてる。
風車はゲンゾウがどんな危機にあってもそれと無関係に音をたててまわっている。アーロンに痛めつけられ血を流しているときも、それを小馬鹿にするかのように「カラカラ…」とまわっているのだ。深刻な場面でも、読者はこの「カラカラ…」という音を聞くことによって物語にのめりこむことから距離をとることになる。
太宰治に「トカトントン」という短編小説がある。八月一五日の終戦の日に玉音放送を聞いたとき「トカトントン」という金槌で釘を打つ音が聞こえてきて、憑きものがおちたように白々しい気持ちになってしまった。以来、何事かにのめりこみそうになると、この「トカトントン」という音が遠くどこからともなく聞こえてきて、「何もかも一瞬のうちに馬鹿らしくな」ってしまうのだ。この音は「トントントン」という威勢のいいリズムのある音ではなく、「トカ」とはずれており、それが人を小馬鹿にしたような軽みを生んでいる。
駐在の頭でまわる風車の「カラカラ…」という音は、この「トカトントン」という音と同じだ。どちらも何事かにのめりこむことから距離をとらせる軽い音につきまとわれている。人の心の奥に突き刺さったり沁みてくる音ではなく、表層のところでとどまり流れてゆく。風車は、駐在という、村での権力を象徴する人物の頭に据えられることで、より効果的に、この物語が深刻になろうとすることから脱力させているのだ。そしてその風車が、帽子という、本来、駐在としての威厳を示すものに飾られていることは風車が駐在の本質の一部になっていることを示している。
この風車にツッコミをいれるのは唯一ルフィだけである。「なんで、あのおっさん、頭に風車さしてんだ!」(80)と驚いている。他の人には風車はみえないが、ルフィにはゲンゾウの虚しさがみえるのである。

アーロン

アーロンはサメの魚人である。特徴は、鋸歯状の鼻と末端肥大した大きなアゴである。このノコギリのような鼻のギザギザは、鼻翼がいくつも連続したもののようにも見える。またそれは歯のギザギザと照応している。ギザギザが多いせいでよけい凶悪そうな顔に見える。人間の顔において鼻は目立たないほうがいいということはバギーのところでふれておいた。だがアーロンはバギー以上に鼻が目立つ。ウソップも鼻が長いが、ウソップ以上に鼻にひっかかりがある。顎が大きいのはこの鼻とバランスをとるためでもあるだろう。
このアーロン編からは刺青が目立つ。ナミがアーロンの仲間であることを証明するのが刺青だし、他の仲間もサメや太陽の刺青をしている。アーロンの一味ではないノジコさえ刺青をしている。それに比べたらルフィの一味はきれいな体をしている。

騙すことと信じること

アーロンと同じく長い鼻のウソップが今回は活躍しそうである。しかしウソップの特技はウソをつくこととパチンコだ。海賊クロのような頭脳系の相手ならともかく、力自慢の魚人にウソは通用しそうにない。パチンコもおもちゃじみていて、魚人を遠くから不意打ちすることができるだけだ。しかし実は魚人たちを騙すのはナミである。ウソップのウソはその場限りにひねりだした一発芸のようなものだが、ナミは八年をかけて関係をつくっているうえでのウソである。捕まったゾロやウソップを救い出したのはナミのウソだ。特にウソップのときは自分の手を刺すという犠牲を払っている。ナミはルフィたちを騙してお金をまきあげたが、今度はアーロンを騙してウソップたちを救おうとする。ナミは二重に騙しているのだ。このときはアーロンは騙せたが、しかしもっと大きな文脈ではナミはアーロンに騙されてしまう。ナミは八年かけて一億ベリーためるが、それをアーロンによってご破算にされてしまうのだ。ナミは、「アーロンは話のわかる奴よ、お金で全て事が運ぶから」(72)などと気楽なことを言っていた。そんなにアーロンを信用していいものか、読者はナミのナイーブさに心配になる。これは人質が犯人に好意を持ってしまうストックホルム症候群だったのだろう。アーロンを信用するしか他に方法がないからそうなってしまうのだ。
ナミは、「裏切りはあの女の十八番(オハコ)だ」(73)とか「お前は頭が良すぎる」(74)とアーロンの仲間に言われている。だが実は「裏切り」をするのはアーロンのほうだし、ナミよりアーロンのほうが頭がまわり周到だ。アーロンは部下たちがナミに対する疑いを口にしても、自分はそれに乗らなかった。しかしそれもこれも最後にナミとの約束をひっくりかえすためだったのだ。
村の人たちもアーロンの仲間になったナミを嫌って無視しているかのように思えたが、実はナミの行動の意味は見抜かれており、ナミを助けるためにそうしていた。ナミは自分の意図を隠して村人を騙しているつもりだったが、実は騙されていたのはナミのほうだった。アーロンを騙し、村人を騙し、「魔女」と言われるほどのナミだったが、実はアーロンも村人もさらにその上をいっていたのだ。
サンジがレストランを離れる時、言うことと心の中がくい違っていた。このマンガはこのように、口にしたことや態度は内面を正確に反映しているわけではないので、表面の言動に目くらまされずに、きちんと真実を把握せよ、ということが通低している。
ルフィは、ナミが仲間を裏切ったとか、島で起きているややこしい話を聞かされて「フッ…」と倒れるように道の真ん中で寝てしまう。「この島で何が起きてんのかも興味ねェし…」(76)と言う。ナミの裏切りが信じられないし、いろんな話を聞かされても表面的なことしかわからないから、その都度変化する情報に踊らされないようにするためだろう。徹底して信じることで、裏切りが、隠されたその裏へとさらに反転するのを待つのだ。ルフィはナミと出会ったときの最初の直感を信じ、一貫して態度を変えないために情報の入力を制限する。
ルフィはまた、ノジコがナミの過去を話そうとするときにも、「あいつの過去になんか興味ねェ!」(77)と言って何も聞かずにスタスタ歩き去ってしまう。ルフィがなぜナミの過去を聞かないかというと、ナミを無条件に信用しているからだ。話を聞くということは、聞いた結果、「~だから」という理由を知らされて、それなら信じられるとか、それなら信じられないという条件のもとに相手を見ることになる。だから聞く必要がないのだ。だが無条件に信用されたほうはキツイ。無条件に信用するということは、聞く耳を持たないということだ。仮にナミが自分は人を騙すような下劣な人間だからほっといてほしいと言ったとしても、いやお前は仲間を裏切るような人間ではないと信用されていれば、ナミは原理的に裏切ることはできないのだ。裏切るという枠組でものを捉えないから、何をしても裏切ることができない。もしナミが裏切ったように見えたとしても、それは一時的なもので、何か理由があるのだということになる。そしてその理由すら聞こうとはしないのだから行動を正当化できない。香港映画『インファナル・アフェア』のように、マフィアが警察組織に潜入して本当の警察官と同じにふるまえば、もはやマフィアと警察官の違いはなくなる。仮にナミがアーロンの手先だったとしても、ルフィの仲間のごとくふるまえば仲間なのである。
ちなみに、ルフィが「過去には興味がない」と言うとき、関連して思い出されるのは、アーロンに復讐しようとしてナミに止められた少年である。この少年が着ているパーカーには、書かれた日本語の意味もわからず外国人が着ているオリエンタル趣味のTシャツのように、胸のところに漢字で「今」と大きく書かれている。これはジョニーの顔にある「海」という漢字より関係がわかりにくい。だが、ルフィのこの言葉が解答となって、過去は関係ない、今を生きろというナミにつながるメッセージとして響いてくる。

ナミの過去

コッミクスの小口を見ると、一部分が黒くなっている。コマの枠部分が黒く塗られた過去の語りが長く続いている部分である。今回はナミの番である。サンジのときは二回連載分あったが、今度は三回連載分もあり、回想が長くなっている。ゾロの回想は一〇頁にも満たなかったことを思うとどんどん長くなっていることがわかる。しかも八年前の回想のなかに、さらにその三年前の過去の回想があるという具合に、重層的な入れ子構造になっている。この二重の過去はコマの外縁だけでなく、コマの中もグレーに網かけがされている。
ナミの物語として何が語られているかみてみよう。
一一年前、ココヤシ村のベルメールは海兵として荒れ果てた戦場にいた。そこで赤ん坊のナミを抱いた三歳のノジコに出会う。二人を村に連れて帰り、自分の子ども同然に育てる。ナミとノジコは姉妹ではない。戦火の中でたまたま出会っただけのようだ。ナミの両親はどうなっているかわからない。数年後のある日、魚人海賊団から分裂した海賊のアーロンが村を襲う。ナミとノジコを海賊から助ける代わりにベルメールは殺されてしまう。海図を描く才能のあるナミはアーロンに見初められ、その手下となった。
よくわからないのはナミの海図を作る才能だ。ナミのつくる正確な海図は「アーロン帝国」を築くために不可欠だとされている(p84)。だがナミは子どもの頃から地図を描くのが好きだというほか、本を読んで航海術を学んだだけであり、「私は、私の航海術で世界中の海を旅して、自分の目で見た”世界地図”を作るの!」(77)と言う。海賊が跋扈する世界なのに、現役の海賊より詳しい「航海術」を本を読んで学べるのかという疑問があるが、この世界は海流や気象に関する知識がかなり遅れている世界なのだろう。また、近代的な測量も行われていないようだ。子どもがお絵描きの延長で描いただけの地図を見てアーロンは、「ホウ…こりゃたまげた…。この見事な海図を、このガキが…!?」(79)と驚いている。ナミの素性は不明だが、もしかしたら両親は航海に関わる仕事をしていたのかもしれない。その「血」がナミに流れているということだろう。
第71話でアーロンはナミについて「我らがアーロン一味の誇る有能な”測量士”だ。実に正確ないい海図を作ってくれる!」と言っている。このマンガでナミに求められる技能が、航海術・海図の作成・測量術などごちゃまぜになっている。おそらくナミは当初、優れた航海術を持つ者として登場したのだが、それだと現役の海賊にかなうわけがないから、優れた測量士ということに変化していったのだろう。ナミが本格的に測量を学んだ形跡もないのに優れた測量士ということにするのに必要な途中段階として、子どものときから優れた海図を描く天才というエピソードが挟み込まれたのだと思われる。アーロンは「偉大なる航路(グランドライン)」からやってきた海賊だが、ナミは「偉大なる航路(グランドライン)」へ至る海図をバギーから盗まなければならないほど経験が浅い。航海術でアーロンに勝るわけがない。そこで海図の作成や測量という、実地の経験よりも知識として学べる技術やセンスに優れた者としての側面が強調されたのであろう。先に引用した第71話のアーロンのセリフの後でナミは、「あんた達とは脳ミソの出来が違うの。当然よ!」と言っているが、ナミに求められているのは簡単に言えば頭のよさ、アーロンやルフィの肉体的なぶつかりあいに対置される頭脳労働的なものなのだ。だが、このマンガではアーロンはたんなる肉体派のおバカキャラではなく、魔女のナミより上手(うわて)の賢さを持っているのだ。ナミが村人やルフィたちを裏切る非情な魔女を演じていたように、アーロンもまた肉体派のバカを演じていたのである。
この過去の回想でわかることがもう一つある。第74話でアーロンの部下クロオビがナミの家で「古ぼけた宝の地図」を見つけた。その地図には宝の隠し場所としてココヤシ村を指していた。クロオビは、ナミが金を貯めてこの村を買おうとするのは、その財宝を狙ってのことだったと判断したのだ。そのときナミは、「これは私の宝(もの)よ!」と地図をひったくっている。アーロンもその宝の地図にこだわらない。奇妙なエピソードだと思っていたが、その謎が過去の回想でわかる。その地図はナミが子どものときに描いたもので、「夢の一歩」だとベルメールに誉められた地図なのだ。当然、財宝のありかを示すものではない。そういう比喩的な意味でその地図は「宝」なのであって、クロオビが勘違いしたように財宝の隠し場所を示した地図ということではない。先のナミのセリフもよくみると「これは私の宝(もの)よ!」と「宝」に「もの」というルビがふられてはいるが、あえて「宝」という漢字を使って読者をミスリードしている。この作品は随所に仕掛けが満ちているのだ。

自己犠牲の連鎖を断ち切れ!

鈍感な読者でも、ルフィの仲間のエピソードには共通した構造があることがわかるだろう。ルフィ、ゾロ、サンジのいずれも両親や兄弟は描かれない。これは彼らの出自を明かすのを留保することで、今後ののびしろを確保するためである。また、ルフィ、サンジ、ナミに共通するのは、彼らを助けてくれる他の誰かの自己犠牲を引き換えにしていることだ。ルフィを助けたシャンクスは片腕をなくし、サンジを助けたゼフは片足をなくし、ナミを助けたベルメールは命をなくしている。彼らは幼いながらも、助けられる価値ある者として見出されているのである。この価値付与と自己犠牲は彼らには重荷になる。彼らを助けた人たちがなくしたものを背負っていかなければならないからだ。そのため彼らは曲げられない夢を持たされることになる。
これらの過去の回想はいずれもどこかで聞いたことのあるような、似たような古くさい話の繰り返しだ。回想であるため急(せ)いた語りになって骨格がわかりやすくなるせいだろう。『ONE PIECE』のユニークさが、物語を装飾するものだということがわかる。
ナミは他者の自己犠牲によって生かされているという規定性を持っている。このため、その後のナミの行動は構造的に他者への自己犠牲を強いられることになる。ナミはゾロやウソップを救うためにアーロンの一味から疑われるような危険を犯している。ウソップのときは自分の手を刺すというケガも負っている。他者の犠牲によって命を救われたナミは、自分もまた他者を救うことを構造的に宿命づけられているのだ。
ナミが自己犠牲によって救っているものがもうひとつある。育ったココヤシ村だ。村を救うためにナミはこの八年を犠牲にしている。自分を育ててくれた共同体を守るためにそこにとどまろうとするのはサンジと同じである。ナミもサンジもそういう自分の気持ちは共同体のなかにうまく伝わっていないと思っている。ナミが村に戻ると住人たちはナミを避けるように隠れてしまう。しかし村人たちはナミの本心を知っていた。しかしナミが逃げ出したいと思ったときに、「私達の期待が足を引っぱってしまうと、知らぬフリをしていた」(80)のである。態度と真意は異なっていたのである。このマンガは、そのように、表層的に現れる態度とは異なる真意を見抜けということが隠れた主題になっている。あるいは隠されたそれがはっきりわかるときに感動が生まれる仕組みになっている。というのも自己犠牲によって守ってきたものが、ちゃんとその犠牲を理解していてくれたということだからであり、それは無駄ではなかったからである。そしてその自己犠牲の連鎖から解放されることが彼らにとっての救いになる。

仲間との絆

ナミ、ノジコ、ベルメールの三人は家族のように暮していたが血のつながりはない。ナミたちも養母のことを「おかあさん」とは呼ばず、「ベルメールさん」と「さん」付けで距離のある言い方をする。喧嘩をして興奮し「血がつながってない」からという話になる。家出をしたナミにゲンゾウは、「お前達には、血よりも深い絆がある」(77)と諭(さと)す。なぜ養母・養女に「血よりも深い絆がある」とされるのか。この時点では理由は語られない。血縁を超えた絆にこのマンガはロマンを見出している。このマンガはテレビや雑誌などで仄聞するところ、仲間の絆を重視しているとされる。それもこういう直接的な描写があるからわかりやすい。彼らは家族の血縁を断ち切られたところで登場している。そしてあらためて家族に似た関係を築いているわけだが、それが家族なみに強固なものであるべきために、「血よりも深い絆がある」とされる。
ゲンゾウの、「お前達には、血よりも深い絆がある」というセリフは、ベルメールがナミを守ってアーロンに殺され、母親という地位を手に入れるのと引きかえに、事後的に真実となる。「血よりも深い」というのは、もとからの自然に成立した家族ではなく、家族になろうという決意のもとで形成された家族だからである。そしてその成立と同時に、つまりベルメールの死により実体は消滅した、幻想の家族であるからだ。
また、家族になろうとしてベルメールが死んだように、つながりを強固にするために選ばれるのが自己犠牲である。自分の犠牲によって他者を活かすこと。血縁内の自己犠牲(例えば、親が川に落ちた子どもを救うといった)において、これは個体のレベルでは利他的だが、個体を超えた遺伝子のネットワークのレベルで考えれば、自分の遺伝子を残すことになるから利己的なふるまいになる。血縁が自己犠牲を要請するものであれば、その形式を真似ることで血縁的な絆をつくることができる。しかもそれはあえてそうするという意志があるぶんだけ血縁よりも「濃い」ものになる。
テレビや書籍などで、このマンガの魅力として語られる「仲間との絆」は、マンガの批評としてはあまりにも表面的で大雑把すぎる。マンガの形式や表現の細部を読みとばして倫理や道徳といった人生論的な主題を引き出しているだけではマンガでなくてもいいことになる。また実際、このマンガから「仲間との絆」が大事だということを学んだとしても、現代の若者がそれよりもっと学ばなければならないことは、「仲間以外との絆」なのである。「仲間と認めた者以外はみな風景」に見えてしまうような若傍無人さ、冷徹さでは困る。仲間以外の人間も、自分と同じ感情を持つ人間なのだという共感能力をはぐくむことこそが必要であろう。狭小な仲間世界のなかで絆を強固にするのは少なくとも若者のあいだではもう達成しているのではないか。自分と同質の仲間は、自分の鏡像でしかない。そこには他者が不在だ。「仲間との絆」が大事だとされるのはNHK的に言えば無縁社会にあって家族のいない単身生活者であろう。そこでは家族以外の者との支えあいの関係が模索されつつある(例えばルームシェアなどもそうだ)。
初めて村を襲ったときアーロンは大人一人10万ベリー、子ども一人5万ベリーを取り立て、全部で二千五百万ベリーを徴収した。この金額を毎月上納することになるようだ(第78話)。ナミが一億ベリーでアーロンから村を買う約束だったが、それは毎月の上納金の4か月分でしかない。ナミが個人で貯めるには高額だが、村を解放するには安すぎる。アーロンが本気で約束する金額ではない。簡単な計算で辻褄があわないことがわかるが、問題はそういうところにはない。問題はアーロンが金を要求し、ゲンゾウたちも「金で解決できる問題もある!」(78)とそれに妥協し、ナミもまた一億ベリーで村を買うというように金で解決しようとしたことにある。アーロンと同じ方法をナミも選んだのだ。しかし金で解決するという方法は最後には破綻し、暴力という手段に訴えることになる。金により自力で解決できると思っていたナミはルフィたちを、「他所者がこれ以上この土地のことに首つっこまないで!」(76)、「あんたには関係ないっ! さっさと島から出てって!」(80)と冷たくあしらっていたが、ついには涙ながらにルフィに助けを求める。「当たり前だ!」(81)と引き受ける場面は感動的なシーンとされるだろう。暴力による解決こそがこのマンガのルールだ。暴力こそが、金よりもっと根本的なものにふれているのである。
ついでに書いておくと、このマンガが広い世代の読者を獲得しているのは、どの読者年齢でも楽しめる要素をいれてあるからだ。今引用したようなシーンはマンガからベタな感動を得ようとする読者を満足させるものだし、先のほうで引用した「宝」にかかわるさりげないダブルミーニングは注意深い読者をニヤリとさせるものである。低年齢の読者にはウソップのようなその場を切り抜けるウソが面白く見えるだろう。ウソップは大局を理解せず場当たり的に行動する者として描かれている。低年齢の読者は物語の大きな流れを理解して読んでいるというよりは、短い場面で完結する面白さに反応する。

ナミとノジコ

ノジコの役割はなんだろう。どうしても必要なキャラだろうか。ベルメールが戦場で見つけるのはナミ一人でもよかったし、海賊に襲われて生き残るのはナミ一人でさしつかえなかった。ノジコはなぜいなければならないのだろう。それは姉妹のように育ったノジコがいないと、ナミの理解者が誰もいなくなってしまうからだ。ルフィやサンジのようなガサツな連中では話にならない。同性のノジコがいることでナミの細やかで揺れ動く気持ちを受けとめられる。これまで、通しで登場する女性キャラがナミしかいないので、ナミと一緒に育ってその人柄をよく知っている人物としてノジコが必要とされるのだ。
ノジコはナミと対になって描かれるキャラクターだ。似たような年齢と背格好、姉妹とも言えるほど近い顔立ちだが、平凡なノジコとは対照的に、運命に翻弄されるかのようなナミ。生き方の違いが、二人の人生に分岐があったことを示している。ノジコがいることで、ナミの激しい生き方が際立つ。
ナミとノジコの顔を見比べてみると、大きな違いは、髪型と眉の形であることがわかる。他にも、ノジコのほうが唇を表す線がはっきり描かれていたり、目と眉のあいだの線の位置が微妙に違うので、ナミのほうは二重まぶたに見えるのに、ノジコのほうは目がややくぼんでいるように見える。まつ毛の量もことなる。ナミのまつ毛は二本、ノジコは四本が基本である。明らかに細部においても両者は描き分けられているのだが、これらはよく目を凝らしてみないとわからない。全体の雰囲気の差異を決定している要素はやはり髪型と眉の形の違いである。ノジコは額をだし、しかも前髪が落ちてこないようにヘアバンドというかバンダナのようなもので髪を上げている。一方、ナミは前髪を大きく垂らしている。このせいでナミのほうが童顔に見える。髪型だけで判断すると、気性が激しく行動的なのはノジコのほうに見える。眉は両者とも一本の線で描かれている(但し、線の強弱がつけられている)。しかしナミの眉はほぼ直線的なのに、ノジコの眉は眉山のところではっきりと折れ曲がった「く」の字型の眉になっている。ノジコはこのせいで老(ふ)け顔になっているし、クセのある顔になっている。ナミの顔のほうが没個性的だが、嫌みがないのだ。顔の研究では、美人顔というのは平均的な顔のことであるとよく言われるが、個性の少ないナミはその点でノジコより美人だということになる。
そういった絵柄よりもノジコを特徴づけるのは何といってもその名前である。女性キャラに「ノジコ」はないだろう。辞書的に言えばノジコの由来は野路子で、ホオジロ科の鳥である。だがその音の響きはノコギリでジーコジーコ挽いているみたいだ。名前からするとノジコはノコギリ鼻のアーロン系である。また、この名前は『ルパン三世』の女盗賊、峰不二子にも似ている。ナミと不二子の共通性はすでに指摘しておいた。他方、ノジコは不二子に名前が似ているが生き方は似ていない。ナミが平凡な名前なのに波瀾にとんだ生き方をしているのに対し、ノジコは奇妙な名前なのに生き方じたいに特徴はないという転倒がある。

約束と服従

ナミはアーロンに約束を守れと詰め寄るが、アーロンは「おれが約束をいつ破った!? 言ってみろ!」(80)と逆ギレする。ナミの貯めた金を海軍に横取りさせたのだが、ナミがアーロンに金を渡せなくなったことには違いない。アーロンの言うことは一応論理的である。海軍は海軍でナミが盗賊だから盗品を没収しただけである。これはこれで筋がとおっている。全体を見渡すとおかしいが、部分部分では理屈がとおっている。全体のおかしさを立証するにはアーロンと海軍が通じあっていることを立証しなければならないが、それは困難だ。ナミはアーロンに言い返すことができず、悔し涙にくれるのみ。うまく説明できないけれどおかしいところがあると思ってもナミがそれ以上強く言えないのは、アーロンが最終的な解決手段として暴力をもっているからだが、それだけではない。見てきたように、アーロンは実質的には約束を破っているが形式的には約束を守っている。たんに暴力で屈服させるだけでは不満がつのり、いつか暴力によって覆(くつがえ)されてしまう。そこで形式的にでも約束を守ることで、相手に同意させ反論を封じるのだ。相手も、言い返せないことによって多少なりとも自分で納得せざるをえない部分があることになり、それが弱みになって手も足もでない。自発的に服従させておくのが、支配するのに一番経済的だ。ヤクザもそうだがたんに暴力に訴えかけてくるのでなく、必ず相手に「いいがかり」をつけることによって発端を開いている。相手にも弱みをつくらせておくのだ。

構図の意味

八五頁と一九二頁のカットはそっくりだ。人々が喧々囂々騒ぎ立てているときに、それを遮断するように不意にナミが登場するシーンである。手前に、背後からのナミの膝から下を描き、その足のあいだに人々を配置するという距離感を強調した構図で、ナミの声がそのカットにかぶさっている。西部劇なんかでよくありそうなショットである。画面の最前には足しか映らず観客(読者)には顔はわからないから、それが誰であるかは、遠くにいる相手がその存在に気づくことによってである。その存在の全てを見せるのでなく、一部をまず晒す。観客(読者)にとって不意に現れたように、相手にとっても不意に現れた存在である。意外性のある存在ということだ。つまり親しい仲間ではない。よく知った仲間がそんなもったいぶった登場の仕方をするわけがない。このときナミはルフィや村人たちにとって仲間ではなかった。そのため、外からやって来た者としてまず足から描かれるのである。
※2012.10.12更新 見崎鉄