ワンピースのマンガ学

【著者紹介】

見崎 鉄(みさき てつ)
1965年、長野県生まれ。ライター。
マンガ学の著書に『ドラゴンボールのマンガ学』(彩流社)、歌詞論関係の著書に『阿久悠神話解体』(彩流社)、『Jポップの日本語』(彩流社)、『さだまさしのために』(KKベストセラーズ)、『音楽誌が書かないJポップ批評』(共著、宝島社)。サブカル批評に『ドラゴンボールはいつ終わるか?』(風塵社)、『船井幸雄大研究』『2時間ドラマ大事典』『エヴァンゲリオン完全攻略読本』(以上、共著、三一書房)他がある。

記事一覧

【巻8】

いよいよルフィとクリークの一騎打ちが始まる。クリークは自分だけ完全な防御と武器の重装備をして、遠くからルフィたちを威嚇していただけだった。その方法も、相手を騙したり、命令に従わない部下を殺そうとしたりといった卑劣なもので、親分としてだけでなく、人間としても最低の奴だという印象が読者に刷り込まれていた。鋼鉄の鎧と多彩な武器で身を固めたクリークと、草履に麦わら帽子というへたりやすいものを身にまとい素手で戦うだけのルフィはあまりに対照的だ。これまでの憂さを晴らすかのように「ゴムゴムの~」が繰り返し炸裂する。
だが実はクリークとの戦いはあまり面白くない。というのも次々に繰り出されるクリークの武器が、爆弾・槍・毒ガスなどバラエティに富んではいるが、通常の武器と変わらないもので、その効果が想定内のものだからだ。バギーとの戦いで見られたような「バラバラ砲」のようなユニークさはそこにはない。クリークも卑劣な策略を弄するものの普通の人間で、「1t(トン)もあるあの超重量の大槍を軽く振り回す」ほどの「あの怪力(パワー)こそ首領(ドン)の最強たるゆえんだ」(64)と言われるように、クリークが強いとされる秘密は、たんに馬鹿力があるというシンプルなものなのだ。
『ONE PIECE』の登場人物たちは殺伐とした言葉を交わしている。ルフィはクリークの放った毒ガスで死にかけているギンに、「あんな奴になんか、殺されるな! 意地で生きろ! わかったな!? あいつはおれがブッ飛ばしてやるから」(63)と言っている。この前後の会話も「死ぬぞ!」「死なねェよ」というものである。つまりここでは「殺す」「生きる」「死ぬ」といった極限的な会話が続いており、それは実際、生死を賭けた戦いの場面なのだが、そうした「死ぬ」とか「生きる」といった極限的な状況の中でルフィは相手をどうすると言っているかというと「ブッ飛ばしてやる」と言っているのである。「あいつはおれがブッ殺してやるから」ではなく「ブッ飛ばしてやる」。ちょっと脱力するが、それがルフィの「いいところ」とされるのである。というのもルフィはこれまでも最終的に相手を殺すことはせず、殴って気絶させるところで終わらせているからだ。クリークも殴って終わりである。読者にとってもルフィの方が強いということが示されればそれでカタルシスが得られるのだから、それ以上は必要ない。
クリークが次々に繰り出す武器に、ルフィはただ正面から何度も突っ込んでいく。クリークは「またつっ込んで来るとは」(63)と馬鹿にしている。謀略家のクリークと単純なルフィが対置されている。作品はここで、策略をはりめぐらすより、ものごとには単純に正面からぶつかっていったほうがいいというメッセージを送っている。その象徴は、クリークの放つ槍を体に受けながらもなおも突っ込むルフィが、生け花のときに使う剣山のような針でできている「剣山マント」を素手で殴りつけるところだろう。敵がどんな小賢しい手段にでようと、自分は武器を持たずに馬鹿正直に正面から行くというポリシーを曲げない。こんなことができるのはルフィが不死身だからだ。ルフィは悪魔の実を食べて身体がゴム状になっただけでなく、ほぼ不死身ともいうべき身体を手に入れている。もちろんそれはゾロもサンジも同じである。ルフィは生き延びるのに必要な基本的な能力を持っている。そこに戦略が加わればなお生存率が加わる。しかしルフィは戦略的に生きることを嫌う。正確に言えば、「嫌う」というより馬鹿だからそうできないという設定である。「嫌う」ということじたいが小賢しい。たんに駆け引きをせずに直情径行なのである。
クリークとの戦いのあとのことだが、ギンはルフィについてこう言っている。
「覚悟決めりゃあ、敵が恐(こえ)ェだの、てめェが傷つかねェ方法だの、くだらねェこと考えなくて済むことをその人に教えて貰ったよ…!」(67)
「打算っつーのかね、ためらいとか…。そういうのバカバカしく思えてくるぜ、その男見てると…!」(67)
ルフィは一旦こうと決めたら、いろいろ考えず、剣山でもためらいもなく素手で殴りつけ、相手と駆け引きもせず、敵に突っ込んでいく。クリークのように相手を騙して効率よく勝利しようなどと考えない。だが、ルフィが戦略なしでも通用するのは不死身の身体を持っているからである。だからルフィの言うことを現実的な生身の身体を持つ読者が真に受けることはできない。だが周囲で観戦しているゼフが、「おれは、ああいう奴が好きだ」(63)と支持することで、読者もそう思わないといけないような気持ちになってゆく。私わちは日々戦略的に生きているので、何も考えずまっすぐな信念をつらぬいて行動する主人公たちに胸がすくのである。
ゼフはまた、こんな「名言」も吐く。「全身に何百の武器を仕込んでも、腹にくくった”一本の槍”にゃ敵(かな)わねェこともある」。前者がクリークのことを、後者がルフィのことを評している。むろんこれは精神論だ。ここまではっきり言われると、クリークがアメリカでルフィが第二次大戦の日本のように思えてくる。「最強の武器」であり「触れれば即、木端微塵(こっぱみじん)」(64)になる大戦槍(だいせんそう)の爆撃を何発もくらっても立っていられるほど不死身のルフィだからこそ、精神論が通用するのである。そして「剣山マント」を素手で殴りつけたように、鋼鉄の鎧も素手で叩き壊してしまう。
クリークとルフィの戦いは、いろんな意味をもたされて周囲の人物に読み込まれてゆく。『ドラゴンボール』では戦いはたんにエンターテイメントにすぎなかったが、『ONE PIECE』ではそこに様々な教えが仮託されているのだ。ゼフは二人の戦いからサンジに教訓を与えようとする。それは信念を持って腹をくくらないと何も貫徹できないということだ。サンジはゼフに対する恩義のため自分を犠牲にし、クリーク一味に歯向かえなかった。これはもっと言うと、ゼフのために自分の夢を犠牲にしていることを意味する。サンジはオールブルーを探すという夢があるのだが、恩を返すためにレストランを離れられないでいる。ゼフにはそれがもどかしいのだ。「ゼフの教え」は、のちにサンジがレストランを離れルフィについていく伏線になる。

ヤクザ映画は時代劇の衰退と入れ替わるように大ブームとなり、東映がほぼ独占、『実録ヤクザ映画で学ぶ抗争史』(山平重樹、ちくま文庫、二〇一一年)によれば、一九六三年、鶴田浩二の『人生劇場 飛車角』から、一九七二年、藤純子の引退映画『関東緋桜一家』までの一〇年間が仁侠路線、翌一九七三年の『仁義なき戦い』から四年間が実録路線、一九七七年からの『日本の首領(ドン)』シリーズは仁侠路線と実録路線の折衷だという。なかでも仁侠路線は、「その熱狂的な支持者の最たる観客が、全共闘を始めとする新左翼学生運動の担い手たちだったといわれる。(略)新左翼の低迷と軌を一にするように、東映仁侠路線も下火となり、学生運動の終焉とともに幕を閉じることになる」(p10,11)。一九六八年は任侠映画ブームの頂点であり、学生運動のピークでもあった。そして仁侠路線の終わりを象徴する『関東緋桜一家』の公開は、新左翼運動の退潮の象徴となる連合赤軍事件が起きたのと同じ年なのである。もちろん大衆一般とはいえない少人数にすぎない左翼学生の支持だけで映画が大ヒットするわけではないだろうが、これはよく耳にする説でもあるし、「熱狂的な支持者」という点ではそうなのかもしれないと思う。
この本の解説を書いている蜷川正大は、学生への任侠映画の影響として橋本治が作った六八年の東大駒場祭のポスター(背中の刺青を見せたヤクザ風の若者が「とめてくれるなおっかさん」と言っている)を指摘し、「当時の東映の仁侠映画が、若者達の正義感や自己犠牲、変革の思想の手本となったのである。/それは日本人の美的原点とも言われる『義理と人情』を描き、たとえ、敗れると分かっていても信念のためには自己犠牲もいとわない真の男の姿を、変革を志す人たちが己の生き様に重ね合わせたのである」と書く。(p283)
ここで蜷川が掲げる若者達を駆り立てる「正義感」「自己犠牲」「変革の思想」の三つのうち、仁侠映画に関係してくるのは「自己犠牲」だろう。ヤクザに「正義感」や「変革の思想」があるとも思えない。その他に、追いつめられたときに爆発する暴力的なものへの共感もあるかもしれない。「自己犠牲」は、組織や他の誰かへの忠誠や恩義のために自分を犠牲にすること。ヤクザなら、組・親分・義兄弟、左翼学生なら、人民・組織・革命の思想といったところだろう。右翼と左翼という相反するものが自己犠牲の感覚を共有している(この場合、右翼=ヤクザは専ら虚構の中の存在だが)。
『ONE PIECE』には仁侠ものの匂いがあり、それは主として「恩」とか「忠義」といった言葉や態度から感じとれるものだ。『ONE PIECE』の登場人物たちもまた自己犠牲に殉じようとしている。サンジはゼフから受けた恩のために死のうとするし、ギンも親分への忠義とサンジへの恩の板挟みになって死のうとする。しかし『ONE PIECE』の物語の進行はそうした利他的な態度を改めるように求める。「ゼフの教え」はまさにそうした恩に報いる自己犠牲を否定し、恩という過去の呪縛に迷わされず、自分の夢を叶え自己実現することをすすめるものだ。
『ONE PIECE』は、一見仁侠もののように見えるがそうではなく、実はきわめてシンプルな個人志向をすすめている点で今の時代にマッチしている。なぜ利他性を遮断するのか。ゼフから与えられた恩恵は、もともと縁もゆかりもない他人であるゼフからサンジが無償で贈与されたものだから、それを返さねばならないという返報性の原理がはたらく。だが贈与がそのように続いた場合、その形式により無限の連鎖と消耗におちいることがある。それを防ぐために、贈与を起動させた初回の意思のみを尊重することで、その志を活かそうとするのだ。ゼフの場合なら、片足を失ってまで救ったサンジに死なれてはゼフがサンジを救った意味がなくなるので、サンジには恩を恩と感じず自由に生きて欲しいのである。それが恩を活かす道なのだ。恩はゼフに返されればゼフとサンジのあいだで循環するだけだが、それをもっと広く解き放ったほうが、ゼフの気持ちもまた活かされる。サンジやギンは古くさい恩や義理にとらわれていて、その他の人は近代的に自律した個人なのだ。
自己犠牲ということでは、最初に恩を与えたゼフが究極の自己犠牲の体現者である。『宝島』のジョン・シルバー以来、片足というのは危険な戦いをくぐり抜けてきたということを示す海賊の記号になっている。だがゼフの場合、ちょっと奇妙な来歴だ。というのも彼が片足になったのは戦いによってではなく、食糧を確保し少年を活かすために自分で決断した苦渋の選択だったからだ。略奪を稼業にする海賊らしさの記号が、他人に恩恵を施すという海賊らしくない行為の結果によるものだったのである。
もう一人、ルフィの戦いを見て教訓を得たものがいる。ギンだ。これまでの『ONE PIECE』の登場人物のなかで最も渡世人っぽいギンは、自分を殺そうとした親分であるクリークを最後まで慕っていた。そこまで入れ込む理由はよくわからない。ギンはクリークが「最強」(66)だからだと言うがそれだけではなく、一旦親分と決めたからには最後までついてゆこうという意地も大きいだろう。そんなギンもついには、「何が首領(ドン)への忠義だ! おれは今まで首領(ドン)・クリークの名を”盾”に逃げてただけだ」と言い、「今度はおれの意志でやってみようと思う…好きな様に」と悟るようになる。それをルフィに「教えて貰った」(67)と言う。セリフでは「盾」が括弧で括られ強調されている。クリークもパールも盾を持っていたが、ギンもまた心に盾を持っていたということで、比喩に連続性がある。ギンの場合は恩返しではなく、クリークの強さへの尊敬が変化した忠誠心による滅私奉公である。それも自己犠牲のひとつの形式だが、それを捨て、自分の「好きな様に」やろうと心境が変化している。また、ギンも「教えて貰った」と言っているように、『ONE PIECE』では戦い(人の行為)はそれ自体のほかに何か別の意味も持っているのである。

サンジがレストランを出て行くシーンも見せ場のひとつである。サンジの執着を断ち切るために仲間のコックたちがサンジの料理をクソミソにけなす。もちろんサンジはそれが反語的な言動であることをよくわかっている。仲間を旅立たせるために嫌われ役を演じるのは、第1巻でコビーを見送るためにルフィがとった行為と同じだ。彼らのコミュニケーションは目的と見かけにズレが生じており、表面の裏側を読み込むことが要求される。今回はもう少し複雑になっている。それは、それまでしつこくスカウトしていたルフィが喜ぶかと思いきや反対に掌をかえしたように、サンジを連れて行くのは「いやだ」(68)と言うからだ。作者は物語がすんなりではなく、いかに摩擦をおこしながら進ませるかを考えている。そこにはサンジが自分から行く気にならなければ連れて行かないという合理的な理由がある。
サンジはレストランを離れるにあたって土下座してお礼を言う。この極端なパフォーマンスは、ヤクザが組を抜けてカタギになるときに指を詰めるように、サンジなりの「おとしまえ」である。マンガでは、この場面はサンジの靴裏をアップにした視点で、しかも頭を床にこすりつけたサンジの目の高さから描かれている。読者にしてみればサンジを上から眺めおろすわけではないし、彼の足の裏と尻を見せられているわけだから、ここにはレストランの仲間に対する礼儀はあるが、読み手への礼儀はない。つまりサンジは土下座しているけれどもプライドは保たれているのだ。
サンジのトレードマークになっているくわえタバコの由来が明かされる。ゼフはサンジのことをいつも「チビナス」と呼び子供扱いしているが、それが気に入らないサンジはタバコを吸うことで「へへ…大人だろ!」(68)と認められようとしたのだ。タバコを吸うこと自体に特別な意味があるとは誰も思っていなかったのに、それが「チビナス」という呼称と組み合わされることで伏線として発見されたのである。サンジにはまだ謎が多い。眉毛がなぜクルクルしているのか、両親はどうなっていて、何故小さい時からコック見習いとして客船に乗っていたのか、ゼフの蹴りを継承するほどの身体能力の高さはどこからくるのか、コックなのに他の仲間のような白服ではなく一人黒服を来ているのは何故なのか、そういったことはわからない。これからも解明されることはないかもしれない。ここでは、とりあえずタバコの由来がわかっただけである。

ルフィ一行は新たな舞台へとおもむく。そこが「どんなに恐ろしい奴のもとか」ということをヨサクは解説する。以前に「偉大なる航路(グランドライン)」についての地理的情報や、そこから生還したものの様子が語られることはあった。今回はその勢力図が説明される。
「偉大なる航路(グランドライン)」には三大勢力が君臨している。そのうちの一つが世界政府公認の七人の海賊たち(王下七武海(おうかしちぶかい))であり、その一人が既に登場した鷹の目のミホークである。ルフィたちがこれから相手にしようとしているのは、七武海の中の一人、魚人(ぎょじん)海賊団の頭(かしら)ジンベエと肩を並べる魚人海賊アーロンである。アーロンの実力はクリークを上回るという。
バトルマンガにはよく三兄弟とか四天王とか七人衆とかが出てきて順繰りに戦うシステムになっているが、ここでは三大勢力、七武海というように複数勢力の二層構造になっている。ルフィがピラミッドの頂点にたどりつくまで時間がかかりそうだ。
「偉大なる航路(グランドライン)」の勢力の見取図といっても三大勢力のうちの一つである七武海のうちの一人しかまだ姿を現していないから、全体のことはよくわからないままだ。ルフィが海賊王になるためには、この強さの階層をよじ登ってゆかなければならない。三大勢力の全てを倒さねばならないとしたら、単純に考えてもミホーク相当の相手を3×7=21人倒さねばならないことになる。また、世界政府そのものを転覆することになるとしたらさらにその上を行くことになる。このマンガでは世界政府のもとにあると思われる海軍は決して正義の味方ではないから、いつか海軍と衝突する日がくるだろう。海賊王が海賊のチャンピオンだとしても、その存在が世界政府と両立するとは思えない。気が遠くなるような遥か彼方に目標は設置されている。とりあえず姿を見せたミホークは人間離れした神秘性を持っていて、ルフィのゴムゴムていどの力では太刀打(たちう)ちできそうにない。次なる対戦相手である魚人アーロンは七武海レベルを相手にするにはまだ早いと思われているためか、七武海の中の一人と「肩を並べる」海賊とされている。『ドラゴンボール』で言えば、天津飯レベルの相手だろうか。このマンガもまた、強さがエスカレートする徴候を示している。
ルフィが向かったのはアーロンが支配するアーロンパークだ。アーロンは魚人で、彼や仲間の魚人たちは人間と魚が融合した身体をしており、「海での呼吸能力を身につけた”人間の進化形”」(71)である。映画『ウォーターワールド』のエラを持つミュータントのように、生活圏にふさわしい身体に変容したのである。人間より進化したのが魚人であるということは、この惑星はもともとはもっと陸地が多かったのだが、水没して海の面積が増えて、そうした環境の変化にともない魚人に進化したということなのだろうか。
魚人は、「生まれながらに人間の10倍の腕力を持つ」(70)と言われる。魚人のザコキャラであっても、強さが底上げされていることになる。彼らは「偉大なる航路(グランドライン)」にある魚人島から流れてきた者たちだろう。また、アーロンは、魚人は人間より「上等な存在」で、「『万物の霊長』は魚人だ」(71)と言う。村の人間たちも、アーロンのことを、「種族主義」で、「人間を殺すことを何とも思っちゃいない」(71)と言っている。魚人と人間の関係は、分類学的には、同じ「ヒト科」ではあっても、「ヒト属」と「ゴリラ属」くらい違うのだろう。だから人種主義ではなく「種族主義」と言っているのだ。
『ONE PIECE』にはこれまで、変形した身体を持つフリークスが何人も登場した。悪魔の実を食べたルフィやバギー、珍獣の島に出てきた箱の中にすっぽりとおさまったガイモン。腕と斧が融合したモーガン大佐。人間だが人間離れした身体能力を持つゾロやサンジ、海賊クロ。人間なのに動物めいた姿をしたブードル町長や猛獣使いのモージなどをそこに加えてもいいかもしれない。しかし彼らは人間であり、ルフィやバギーは人間をはるかに超えているが、そうなるには悪魔の実を食べるという要件を必要とした。だが魚人というのはもはや人間ではない。悪魔の実を食べる必要もなく人間とは違う姿をしているのだ。そういう存在を認めるということは、他にも似たような人間ではない存在が次々に出てくることを許可することになる。もともとバラエティ豊かな登場人物たちが出てきていたが、人間という制約から自由になって人間以外の何でもありになって、今後ますますそれに拍車がかかるだろう。
アーロンパークにはゾロやウソップが先行して到着している。ルフィやサンジは重傷だったはずがいつのまにかすっかり回復しているのに、ゾロは包帯を巻いたままだ。この間、ゾロは物語の主舞台から姿を消していたからだ。画面に登場しない人物の時間は停止しているのである。
ナミはアーロンに村ごと両親を殺されたらしい。今はアーロンに取り入って一味の幹部になっている。アーロンは「人間は嫌い」だが「女は別」(69)だと言っている。
※2012.6.5更新 見崎鉄