ワンピースのマンガ学

【著者紹介】

見崎 鉄(みさき てつ)
1965年、長野県生まれ。ライター。
マンガ学の著書に『ドラゴンボールのマンガ学』(彩流社)、歌詞論関係の著書に『阿久悠神話解体』(彩流社)、『Jポップの日本語』(彩流社)、『さだまさしのために』(KKベストセラーズ)、『音楽誌が書かないJポップ批評』(共著、宝島社)。サブカル批評に『ドラゴンボールはいつ終わるか?』(風塵社)、『船井幸雄大研究』『2時間ドラマ大事典』『エヴァンゲリオン完全攻略読本』(以上、共著、三一書房)他がある。

記事一覧

【巻13】

ウイスキーピークの住人たちとの戦いが続く。町長のイガラッポイは、ラッパのかたちをした散弾銃(イガラッパ)の他に、イガラッパッパという小型のミサイルも持っている。イガラッポイの頭髪は大きくカールしていたが、その渦巻き状のカールの間に隠されている。目立つ頭髪には理由があったのだ。それもまた伏線になっていたのである。また、ミス・ウェンズデーも同心円模様の服を着ていたが、それは模様を凝視させ相手にめまいをおこさせるための「武器」だった。彼らのキャラデザインには意味があったのだ。だが彼らは意外に弱い。ゾロにあっさりやられてしまう。イガラッパッパは秘密兵器のはずだが、それでもかなわない。
バロックワークスから男女ペアの刺客が送り込まれる。彼らは悪魔の実の能力者だ。男の方は、鼻クソを丸めてとばす「鼻空想砲(ノーズファンシーキャノン)」というフザケた武器を使う。鼻空想=鼻クソという駄洒落だ。「ボムボムの実」によって全身を爆弾に変えることができる。かなり手強い相手で、こんな奴とどうやって戦えばいいのかと思うが、眠りから覚めたルフィに簡単にやられてしまう。戦いの場面すら描かれないほどだ。実際に爆弾男との戦いを描くことになったらルフィはかなり苦戦するはずだ。だがここではそれは省略される。
もう一人の女の能力者は体重を自在にあやつることができる。しかしこれもまた相手にならない。彼らは登場したときはもったいぶったカッコいいキャラだったが、あまり活躍する間もなく舞台から去っていったのである。だが、本部から派遣されてきた彼らにとって、ウイスキーピークは、「こんな前線」(110)であり、偉大なる航路(グランドライン)の「果て」(110)に過ぎなかった。ルフィたちはようやく偉大なる航路(グランドライン)にたどりついたが、まだそこは中心からほど遠いところなのだと貶められるである。
ミス・ウェンズデーはアラバスタ王国の王女であり、イガラッポイは護衛隊長だったことがわかる。バロックワークスはアラバスタ王国の民衆を煽動し暴動を起こし、国をのっとろうとしていた。その謎の組織の正体を調べるために、彼らは身分を隠して組織に潜入していたのだ。彼らは二重に正体を隠していたことになる。ウイスキーピークの親切な町の住人、実は海賊目当ての賞金稼ぎの犯罪者集団、実は王国の王女と護衛隊長、というわけである。このあとイガラッポイはもう一段階「変身」する。王女を逃がすために王女と同じ扮装をし、自分がおとりになろうとするのだ。彼らの武器は銃やミサイルだけではない。このように人の知覚を混乱させる、騙すことも武器なのだ。
この巻では少しだけ登場するバロックワークスのエージェント、Mr.3(ミスタースリー)は、先にもふれた「ボムボムの実」の能力者である爆弾男についてこう言う。
「どんなにすごい悪魔の能力(ちから)を手に入れようとも、それを使いこなすことのできない能力者ほどムダな存在はいない。優れた犯罪者は優れた頭脳によって目的を遂行するものだガネ」(117)
爆弾男はルフィに簡単にやられてしまった。それは彼が自分の能力を有効に使えなかったからだ。それに対してルフィはどうだろう。ゴム人間という、あまりたいしたことができそうもない能力なのに、それをフル活用している。これまでも「くだらない能力」とバカにされてきたが、ことごとく強敵を倒している。ゴムゴムの能力を「使いこな」しているのである。ルフィは一見バカに見えるけれども、自分の能力を活用することについては、実は「優れた頭脳」を持っているのである。『ONE PIECE』は、たんなる力と力のぶつかりあいではなく、 Mr.3(ミスタースリー)が言うように、頭脳合戦の側面も持っているのだ。
ルフィとゾロが突然殺しあいのケンカを始める。読者は、ゾロがルフィの腹をトランポリのように踏み台にしたことを怒ったのだと一瞬思うが、そうではなく、ごちそうをしてくれた町の住人をゾロが斬ったことを、事情を理解せぬルフィが、「恩知らず」だと怒ったのだ。なぜルフィはそこまでせっかちなのか。ウイスキーピークでの戦いはゾロ一人でカタがついてしまった。ルフィは出番がなかった。物語の構造からして、ルフィはそれに怒ったのだ。そして敵と戦う代わりに仲間のゾロを相手に戦いを始めたのだ。彼らの戦いはナミの仲裁で子どものケンカになってしまう。

ルフィたちは王女を国へ送り届けるためアラバスタ王国を目指す。何か目的をもって針路を決めていくというのはウイスキーピークのときと同じだ。このときは謎の二人組を送り届けるためにそこを目指したのだった。『水戸黄門』で、旅の途中で悪者から助けた若い娘さんが次に立ち寄る宿場で関わってくるように、旅の途中で出会った者によって、ルフィたちの今後も決まってくる。誰に出会うかわからないという意味では、サイコロによってとりあえず次の目的地を決めるようなものだ。ただし、経過地はどこを経ようと、ゴールとして「ラフテル」という偉大なる航路(グランドライン)の最終地点にたどりつくことになる(105)。
アラバスタ王国に着く前に、記録指針(ログポース)によりリトルガーデンと呼ばれる島に滞在しなければならなくなった。(p99) この島もかなり厄介な島だとされている。物語は直線的に進むのではなく、途中でいくつもの迂回を経ることになる。今かかえているだけでも、ラフテルに着く前にアラバスタ王国に行き(ここでバロックワークスと戦うことになるだろう)、その前にリトルガーデンに行かねばならない。併せて、ルフィたちが突破しなければならない者たちも層をなしている。バロックワークス、王下七武海(おうかしちぶかい)、海軍。バロックワークスは王下七武海(おうかしちぶかい)の下にあり、王下七武海は海軍の下にある。これらが階層的になっているとともに、それぞれの組織もまた階層的である。さらに強い者が背後に隠れているという二重の階層構造を持っている。
まず目の前にあるのがリトルガーデンの謎だ。リトルガーデンはその名前からして可愛らしい庭園のような島を想像してしまうが、歓迎の島が、その島の住人の視点からみた歓迎であるということと同じく、リトルガーデンのリトルも、その島の住人から見てリトルだということである。そこは巨人の住む島だった。
リトルガーデンはまた、コナン・ドイルの小説『失われた世界』のように、太古の生物が住む島である。王女の説明によれば、「”偉大なる航路(グランドライン)”にある島々は、その海の航海の困難さゆえに、島と島との交流もなく、それぞれが独自の文明を築き上げている」(115)ということである。『失われた世界』と異なるのは、太古のまま残された島もあれば、「飛び抜けて発達した文明を持った島」(115)もあるということである。『銀河鉄道999』で、停車駅になっている星が多様な姿を見せるのと同じだ。『999』の汽車が、このマンガでは船になっている。汽車や船が人を、まだ見ぬ世界の入り口まで運んでくれるという構造である。
少し脱線するが、『銀河鉄道999』にふれておく。『ONE PIECE』を通して『999』を読むと、このマンガがとてもシンプルな構成を持っていることがわかる。同じく順次経過地をまわっていく構造は同じだが、『999』は鉄郎とメーテルの二人だけの旅である。そして二人の関係は恋人でも親子でも友人でも同志でもない、不思議な関係である。しいて言えば、メーテルは鉄郎が終着駅までたどりつけるように見守る導き手、案内人のような存在だろうか。いずれにしても『999』は二人だけの冒険なので、そんなに複雑で面倒なことは起こらない。『水戸黄門』でさえ一緒に旅を続ける仲間(家来)は五、六人はいてにぎやかなのに、それに比べたら二人だけというのがいかにシンプルかというのがわかる。また、二人だけなので関係も閉塞的で息苦しいものになる。もし『ONE PIECE』が、ルフィとナミの二人だけの旅だったら、あまり楽しいものにはならないだろう。
鉄郎とルフィは似たところがある。彼らはともに、どこにでもいるような身なりの若者である。ルフィが「海賊王になる」とその特別さを自ら宣言するのと同じように、実は鉄郎も旅立ちのときからメーテルというお目付役を付けられるほど特別な選ばれた存在なのである。また、特別な存在の証として、ルフィがシャンクスから帽子をもらったように、鉄郎も戦士の銃を託される。
島には巨人族ブロギーとドリーがいた。彼らはもめごとを起こしたため自分たちの島を放逐され、この島で二人で決闘を続けている。それがもう百年にもなる。戦う理由は「とうに忘れた」(116)と言う。目的なき純粋な戦いなのだ(実は永久指針(エターナルポース)をめぐる争いでもあったのだが)。ウソップは彼らの戦いぶりを見て、そこに、これぞ自分が目指す「勇敢なる海の戦士」を見出す。めったに訪れる者のない太古の環境が残った島で、人知れず続けられる巨人どうしの決闘は神々の戦いを思わせる。ウソップが感じいったのは、体の大きさが精神的なものも拡大して感じさせるからだろう。
巨人のドリーは諌山創(いさやまはじめ)の『進撃の巨人』に出てくる超大型巨人に顔の感じが似ている。『進撃の巨人』はドリーにヒントを得ているのかもしれない。
ルフィはドリーと戦うことになりそうだ。体の大きさがあまりに違うので勝負にならなさそうであるが、ここで、前に登場したモームが活きてくる。ルフィやサンジは牛に似た大型の魚であるモームを簡単に追い払ってしまった。彼らの能力をもってすれば体の大きさは強さに関係がないということを既にモームにおいて示してみせていたので、ルフィがドリーと戦うことになっても、それほど無理があるとは思えない。体の大きさというのも持って生まれた「才能」のひとつだが、先に紹介したMr.3(ミスタースリー)のセリフにあるように、「どんなにすごい悪魔の能力(ちから)を手に入れようとも、それを使いこなすことのできない能力者ほどムダな存在はいない」(117)のである。体が大きいことを戦いにおいてどう使うかということが問題なのだ。
この巻では、ルフィは危険や冒険の予感があると、「なんかぞくぞくするなー」(113)と言ったり、体が喜びで満ちて「ぞぞぞ~!」(115)とか、「うきうきうき」(115)といった擬態語で表現される。『ドラゴンボール』でいえば、悟空の「わくわく」に相当する。
冨樫義博の『HUNTER×HUNTER』では、主人公のゴンのこんなセリフがある。「殺されるかもしれない極限の状態なのにさ、オレ、あの時少しワクワクしてたんだ」(第10話)これも悟空と同じである。しかもこの後、占いババの宮殿のような浮遊舞台での一対一の決闘まである。作者の冨樫義博は天下一武道会のような対戦システムが嫌になり『幽☆遊☆白書』を放り出したのではなかったか。それが何故また『ドラゴンボール』に戻ってしまうのだろう。『ドラゴンボール』の影響、あるいはそれと同じものを求める読者の欲望はかくも強いのである。

先にも紹介したMr.3(ミスタースリー)のセリフ、「どんなにすごい悪魔の能力(ちから)を手に入れようとも、それを使いこなすことのできない能力者ほどムダな存在はいない」(117)というのは重要である。悪魔の実の能力者がどんどん登場してきたが、ルフィはそれほど苦戦することもなく打ち破っていく。それは「ゴムゴムの実」の能力が、彼らの能力より勝っているからではない。「使い方」が工夫されているのだ。身体が伸びるという「ゴムゴムの実」の能力が戦いにおいていったいどういう利点になるのかと普通は思うのだが、作者はさまざまなアイデアをつぎこんでマンネリにさせない。ウルトラマンや仮面ライダーが毎回スペシウム光線やライダーキックといったおなじみの決め技を同じ角度で見せるのと違い、状況に応じてゴムゴムの技を使い分け、新たに使い方を生み出してゆく。ひとつの能力をいろいろに使いまわす器用仕事である。サイボーグ009の特殊能力は「加速装置」という地味なものだ。「加速装置」はそれじたい何の武器にもならない。004のような兵器ではないし、空を飛ぶ002のようなわかりやすい使い方ができるのでもない。たんに早い動作ができるだけだ。しかしそれはすべてのベースとなりうる能力でもある。いろいろ応用できる。つまり使い方、その過程が見せどころということである。
※2013.7.19更新 見崎鉄