ワンピースのマンガ学

【著者紹介】

見崎 鉄(みさき てつ)
1965年、長野県生まれ。ライター。
マンガ学の著書に『ドラゴンボールのマンガ学』(彩流社)、歌詞論関係の著書に『阿久悠神話解体』(彩流社)、『Jポップの日本語』(彩流社)、『さだまさしのために』(KKベストセラーズ)、『音楽誌が書かないJポップ批評』(共著、宝島社)。サブカル批評に『ドラゴンボールはいつ終わるか?』(風塵社)、『船井幸雄大研究』『2時間ドラマ大事典』『エヴァンゲリオン完全攻略読本』(以上、共著、三一書房)他がある。

記事一覧

【巻12】

ここからルフィたちは「追われる立場」になる。すでに海軍から指名手配されたときから「追われる立場」ではあるものの、バギーは「クソゴムとの決着」(100)をつけるため、スモーカー大佐は上官に逆らうことを覚悟で管轄を離れてまで、部下のたしぎはゾロを「仕留め」(100)るため、つまり彼らは海軍の任務を超えた私的な思惑から、ルフィらを追って「偉大なる航路(グランドライン)」に入るのである。
物語はここから転調して神話的なおもむきをおびてくる。すでにルフィの強運には「天」の介在がほのめかされてはいたが、物語世界は日常のルールを超越したものになる。一旦はスモーカーに捕まったルフィは、ここでも突風によって逃れる。ドラゴンという謎の男が登場し意味ありげな言葉を口にする。もしかしたらルフィを助けたのは「天」ではなくこの男なのかもしれない。
「偉大なる航路(グランドライン)」の入り口は「リヴァース・マウンテン」という山である。船が山を越えないと目的の「偉大なる航路(グランドライン)」に辿り着けない。船が山を登るというのは意想外だが、「不思議の国のアリス」のように、ここでは「さかさま(リヴァース)」のことが起こるのだ。「船頭(せんどう)多くして船山に上(のぼ)る」という諺は、指示する人が多いため方向が定まらず見当違いなことになるという意味だが、「偉大なる航路(グランドライン)」は、そうした「見当違い」な理屈に支配され、それがあたりまえなのである。「偉大なる航路(グランドライン)」では、これまでの海の知識が通用せず、「季節・天候・海流・風向き、全てがデタラメに巡り、一切の常識が通用しない」(104)という。「偉大なる航路(グランドライン)」に入る前に全ての価値が反転し、価値が混乱させられるのである。
「偉大なる航路(グランドライン)」とは、広い海のある一帯のことを指してそう呼んでいる。両側が「凪の帯(カームベルト)」にはさまれている。「凪の帯(カームベルト)」は海に棲む巨大な怪物(海王類)の「巣」になっており、人間の船など簡単に壊されてしまう(モームはここから連れてこられたのだろう)。
船が山を越えるというありえないことは、マンガでは合理的に説明される。山には運河が掘られており、四つの海の海流が山で合流して、その勢いで山の運河を頂上までかけ登るとされる。では実際にそれがどのようになされるのか。海水が下から上へ逆流するのだから流れは相当に激しい。狭い運河をうまく通らなければ岸に激突して大破する。その急な流れに乗って船が山を登るということなのでかなりの危険が伴うと思われるが、船がぶつかりそうになったとき、ルフィの「ゴムゴムの風船」だけで危難を切り抜け、案外あっさりと通過してしまうのである。ページにして四ページでうまく流れに乗り、五ページめで山の頂上に達し、「あとは下るだけ!」(101)になっている。事前のおどろおどろしい説明の割には、これはちょっともの足りない肩すかしをくった描写だ。
船が山を登るという、通常では考えられない状況は遊園地のアトラクションのようだ。そういう状況がルフィたちの行為をどのようにアフォードするかというのは興味深いが、それが「ゴムゴムの風船」による切り抜けだけでは寂しい。アフォーダンスというのは環境が人に与える意味のこと。例えば『機動戦士ガンダム』では宇宙、地上、海中、空中など様々に環境が変わり、アフォーダンスが変化することでアムロがとるべき行動も変わるが、それが最も顕著なのは大気圏突入のときだろう。ここでは、燃え尽きる前に限られた時間内で重力に逆らいながら戦うというアフォーダンスが存在し、それに応じたミッションが実行される。「リヴァース・マウンテン」の山越えはガンダムの大気圏突入のようなものだ。この山越えの場面で敵との戦いをからませれば話はもっとふくらんだであろう。
「リヴァース・マウンテン」では、四つの海の海流が山で合流し云々というのは地図から推測したナミの解釈だが、実際そのとおりになっていた。いわばナミの説明をなぞっただけで簡単に山を通過してしまったのだ。「リヴァース・マウンテン」の描写が簡単だった代わりに、ここでクジラのエピソードが出てくる。
「リヴァース・マウンテン」は、「赤い土の大陸(レッドライン)」を横切って「偉大なる航路(グランドライン)」へ入るための境界である。だからこの付近では、日常のルールが一旦停止させられ、次々に不思議なことが起こる。

運河の出口では、とんでもなく大きいクジラが頭を立てて行く手を遮っていた。行き先を塞いでいるので、これを避けて通るわけにはいかない。「凪の帯(カームベルト)」の生物は見た事もないような異形だったのに対し、このクジラは普通のクジラで、たんに桁外れに大きいのである(後にこのクジラは「西の海」p89にのみ棲息する世界一でかい種とされる)。ルフィはこのクジラに喧嘩をふっかける。大砲を撃ったりパンチを繰り出したりする。しかしあまりに巨大すぎてモームのときのようにはいかず、怒ったクジラに船ごと呑み込まれてしまう。クジラの腹の中は、そこはまたひとつの世界になっていた。空があり、海の中に小さな島があって、老人が住んでいてた。だが、空はよく見ると胃壁に描かれた絵であり、島は船、海は胃液だった。不思議の国のアリスのように根本からおかしなことが起きているのではなく、おかしいことはおかしいのだけれど、合理的な理由が語られてなんとなくわかった気にさせられるというおかしさである。
クジラの中に呑み込まれたゴーイング・メリー号は案外簡単に外に出ることができた。そこで彼らは何をしたわけでもない。それなら、いったいクジラのエピソードには何の意味があったのだろう。巨大な魚に呑み込まれる話といえば、旧約聖書の預言者ヨナやピノキオの物語を思い出す。ピノキオは魚(クジラや鮫とされる)から吐き出されるという経験を経て人形から人間になることができた。巨大な魚は象徴的な死と再生を経験させる通過儀礼の装置なのだ。とすれば、このマンガでも、クジラに呑み込まれ、そこから吐き出されることで、これまでとは何かが変わっているはずである。「さかさま(リヴァース)」の山により価値観が反転・混乱させられ、次いで死と再生を経験するという二重の手続きを経て、彼らは「偉大なる航路(グランドライン)」へと乗り出してゆくことになる。
しかし実は主人公であるルフィはこのクジラに呑み込まれていないのだ。ルフィは呑み込まれる寸前にクジラの背の上に逃げる。そこでハッチをみつけてクジラの内部へと入り込むのである。クジラはその中に住む老人によって改造されていた。実は老人は灯台守であると同時に医者で、大きくなりすぎて「外からの治療は不可能」(104)となったクジラを、体の中から治療していたのだ。ラブーンと名づけられたクジラは本来「西の海」に棲息していたが、親しくなった海賊たちの船を追って「リヴァース・マウンテン」を越え、ここに来てしまった。そしてクジラを残して旅立った海賊たちを待っていたが、大きくなりすぎて岩穴から出られなくなった井伏鱒二の「山椒魚」のように、五〇年たつうちに巨大になり、故郷である「西の海」にも戻れなくなってしまった。その後、クジラは岸壁に頭を打ち続けたり大声で吠えるようになった。このクジラは人間と心を通わせるし、人間くさいところがある。これまでこのマンガに出てきた動物の中で最も人間に親しんでいるのではないか。
ルフィがクジラの中に呑み込まれることがなかったということは、ルフィの強い意志を示している。呑み込まれるということは受動性を表している。そしてそれは受動的な経験ながらも、その人の人生を変えてしまうような経験の質を持っている。しかし、そういうものを拒否したところで、ルフィは外側から仲間を呑み込んだクジラそのものを見つめる。そしてクジラそのものの「秘密」を見つける。人生の経験の装置を超越的な視点から眺めているのだ。
医者の爺さんは中からクジラを「治療」しようとした。爺さんが胃の中に住んでいる理由だ。一方、ルフィのとった行動は、外からクジラに働きかけるというものだ。爺さんは内側から大きな注射で鎮痛剤を打つ。ルフィは外側からマストをクジラの頭に刺す。ルフィはクジラと喧嘩して「引き分け」とし、ライバルという関係をつくる。そして、旅に出たあとまた戻って会いにくるから、と約束する。クジラに比べたらルフィは小さく、極端に非対称だ。しかしここでは対等な関係をつくっている。他の者たちがみな、クジラの大きさに驚いたり手をこまねいているときに、ルフィは見かけの大きさにまどわされず、一対一の関係をつくってしまうのだ。モームもそうだったが、この巨大なクジラも図体は大きいけれど、意外にやさしいというか気が弱い。見かけによらず弱い。もちろん大きいから暴れたら手が付けられないけれど、実は見かけほど強いのではない。
ルフィはクジラに大砲を撃ち込んだり、パンチをしたり、折れたマストを頭に突き刺したりしてクジラを痛めつける。クジラは「神の使い」とされるのに、ルフィはそんなことおかまいなしだ。考えてみればこのクジラは体内を勝手に改造されて通路を作られたり、胃に扉をつけられたり、絵を描かれたりして結構もてあそばれている。治療だというがやりすぎで、秘密基地みたいになっている。しまいには頭にドクロマークを描かれ、ハーロックのアルカディア号みたいになってしまった。マークを描いたのは、頭を岸壁にぶつけないようにするためだ。神聖さを剥奪されて人間にいいようにされている。
ルフィはクジラの頭にマストを打ち込むときに「ゴムゴムの生け花」と叫ぶ。これは爺さんの頭が花のようで、遠くから見ると花に見えることに対応している。爺さんはクジラに外側から刺されるべき花なのだ。

今後の物語を規定することになる重要なアイテム「記録指針(ログポース)」が登場する。「偉大なる航路(グランドライン)」では磁気異常のため羅針儀(コンパス)が通用しない。そのため、島づたいに磁気をたどっていく「記録指針(ログポース)」が必要となる。「記録指針(ログポース)」は、その島の磁気を記録するために一定の滞在時間が必要となる。その時間が経たないと、その島から出ることができないということになる。つまり、ここで二つの制約が生じることになった。

1 島づたいにいくこと
2 一定の滞在時間を必要とすること

1は、『銀河鉄道999』が途中の星々に停車し、そこで下車した鉄郎に物語が待ち受けていたように、ルフィたちを強制的に途中の島々に立ち寄らせることで物語を生じさせようとする。2は、そこでの滞在時間を規定する。危険な島でも長時間いなければならない場合がある。いずれも、嫌だからといってすっ飛ばすことができないものだ。つまり、物語をゲーム化するのである。

「偉大なる航路(グランドライン)」への第一歩は、「歓迎の町」ウイスキーピークである。この町を選んだのは、クジラを捕獲しにきた怪しい男女の二人組がそこからやってきたためである。次の町への道案内として二人組が登場するのはヨサクとジョニーと同じである。『ONE PIECE』の世界はルフィの言動以外は素直で率直なものはない。「歓迎の町」はその名前からして胡散臭い。どういう意味で歓迎しているのか、何やら裏がありそうだ。そもそも「偉大なる航路(グランドライン)」は価値が反転・錯綜した世界なので、「歓迎」という言葉にも裏がありそうだと予想される。海賊が一般人に歓迎されるはずがないのにルフィたちは無警戒だ。いや、価値が狂っている世界だからこそ、海賊が「歓迎」されてもおかしくないと思ったのだろうか。「歓迎」というのは片務的な言葉だ。歓迎するのは迎えるほうの態度を表しているだけであって、「歓迎」という贈与を受けることによって生じる、迎えられるほうの負債を隠している。
ゴーイング・メリー号は全てがデタラメな海である「偉大なる航路(グランドライン)」に翻弄される。乗組員は舵をとったり修理をしたりと一所懸命だが、ゾロ一人だけ眠りこくっている。何とかウイスキーピークに近づくと、そこには刺だらけのサボテンのような山がいくつも見えた。このゾロの居眠りもサボテンのような山も伏線である。サボテンの山は作者がまた遊び半分で描いたものだろうと読者を油断させておいて、実はこういう理由だったっとあとでタネが明かされる。
この町の町長はイガラッポイという。名は体を表すで、町長はいつも喉に何かつっかかっている感じだ。スムースに声が出ないのだが、これは町長の無意識の表れだろう。この町の住人たちはみなバロックワークスという犯罪集団に属する賞金稼ぎで、「意気揚々と”偉大なる航路(グランドライン)”へやってきた海賊達を出鼻からカモろう」(107)としているのだ。正体を隠して海賊たちに酒を飲ませて酔いつぶし、船に積んである金品を奪い、政府がかけている賞金をいただく。それが「歓迎」の意味だ。サボテンのトゲと見えたものは、拡大すると数えきれないほど多くの十字架の墓標だとわかる。だが、その墓標は誰のものだろうか。「殺してしまうと3割も値が下がってしまう」(107)というから海賊たちのものではないはずだ。彼らは殺した者たちをこっそり葬らずに、律儀にも墓標をたててやっている。それもまた「歓迎」したことの証なのだろう。ルフィたちが酒と疲れで寝入ってしまったとき、船で充分睡眠をとっていたゾロは一人起きていて、百人の賞金稼ぎを相手に奮闘することになる。
正体を隠すというのはクロがそうだったが、ここでは町の住人全員がいい人を演じていた。その、正体を隠すという後ろめたさや緊張感が無意識のうちに町長の身体に影響し、「いがらっぽさ」という不調となって表れるのだろう。イガラッポイは、正体がばれないよう気をつけてばかりいるから、たえず自分を意識して「マーマーマー」と修正するのだ。
サボテン岩は近くでみないとその正体がわからない。クジラは逆に大きすぎて近くで見たらよくわからない。大きいものは離れて相手にする必要がある。逆に、サボテン岩やこの島の住民たちはその内側に入りこまないとよくわからないのだ。住民たちも表面的にはいい人たちに見えるが、実はそうではない。隠されていること、そして住民の全員がそうだということが重要だ。