ワンピースのマンガ学

【著者紹介】

見崎 鉄(みさき てつ)
1965年、長野県生まれ。ライター。
マンガ学の著書に『ドラゴンボールのマンガ学』(彩流社)、歌詞論関係の著書に『阿久悠神話解体』(彩流社)、『Jポップの日本語』(彩流社)、『さだまさしのために』(KKベストセラーズ)、『音楽誌が書かないJポップ批評』(共著、宝島社)。サブカル批評に『ドラゴンボールはいつ終わるか?』(風塵社)、『船井幸雄大研究』『2時間ドラマ大事典』『エヴァンゲリオン完全攻略読本』(以上、共著、三一書房)他がある。

記事一覧

【巻11】

アーロンは「歯(トゥース)ガム」攻撃の代わって、魚人ならではの攻撃を見せる。水中に潜り、陸上の敵めがけて加速をつけ、とがった鼻でダーツのごとく相手を狙い撃ちする「鮫・ON・DARTS(シャーク オン ダーツ)」である。サメというよりトビウオのような攻撃である。このとき頑丈な鼻が役にたっている。とがった鼻は伊達ではなかった。ちゃんと攻撃の機能をもっていたのだ。対象を突くという機能からして、この鼻はツノのようなものである。逆にいえば、たかがツノでしかない。それが鼻だから珍しいが、ツノなら牛やサイにもある、ありふれたパーツである。顔の中心の突起であるという点では部位的にはサイに近い。
アーロンとルフィの戦いは案外あっさりしている。アーロンパークの中心にそびえる塔の最上階にたどりついたルフィは、そこが、ナミが八年間ものあいだ海図を描かされていた「測量室」だと知る。ルフィはそこからナミを解放するために「ゴムゴムの戦斧(オノ)」でアーロンパークをぶち壊す。同時にアーロンもやっつけてしまう。アーロンは案外簡単にやられてしまうのだ。アーロンとの戦いがあまり面白くなかったのは、アーロンの外見的な特徴、つまり歯(顎)と鼻にこだわったせいだろう。特徴のある外見をしていれば、どうしても、それを活かしたものにしたくなる。見かけに技がひきずられてしまったのだ。そういう意味では、見かけに特徴がないほうが自由な技を使わせやすいとも言える。
アーロンはキリバチという巨大なノコギリの歯がついたような刀を持ちだす。自分の身体を使った技が通用しなくなったので、武器に頼るようになったのだ。だが怒ったルフィによってキリバチは砕かれてしまう。コンクリートに足をとられたくらいで死にかけたルフィだが、実はとんでもない力を持っているのだ。ルフィをどう使うか、このあたりはかなり作者の恣意にまかされている。逆にいえば、ルフィというキャラの能力や性質の設定がまだはっきり固まっていないからだともいえる。こういうことが続くと、ルフィは『ドラゴンボール』の悟飯のように、怒るととんでもない力を出すキャラだということになる。それは隠された能力ではあるが、同時にルフィの未熟さを示すものになる。自分を操作できず、感情の波に弄ばれる人物は大人とはいえないからだ。
ルフィはその怪力で、ゾロの刀をも受け付けなかったアーロンの鼻を折ってしまう。その後もアーロンはあらたな技をだしてくるがルフィには効果がない。アーロンとの戦いはその特異な鼻をめぐる戦いであった。
アーロンとルフィの戦いは、一人の女をどちらの共同体の所有にするかという争いである。ルフィたち「海賊」は男だけだし、魚人たちも見たところ女はいないようだ。ルフィもアーロンもナミの航海術や海図を描く能力を必要だとか言っているのだが、実はそれは女性の帰属をめぐる争いである。もっとわかりやすく翻訳すれば、海図を描けというのは、自分の子どもを産めということの隠喩である。
アーロンはナミのことを「天才」だと認めている。「世界中探してもこれ程正確な海図を描ける奴ァそういるもんじゃねェ…! あの女は天才だよ」(92)と言う。各地を旅してきたアーロンの言葉だけに重みがある。そのうえでナミの能力が自分の野望のために必要だと思っている。一方、ルフィがナミを必要な理由はよくわからない。たまたま会っただけの相手であり、ナミがどの程度の能力なのかわかっていないはずだ。航海術をもった人と出会ったのはナミが最初なので比べようがないのだ。ルフィのほうがアーロンよりもナミの必要性が小さい。
アーロンのナミの遇し方はそんなに悪いのだろうか。アーロンはこう言っていた。「若い女を監禁などしたくねェ。お前にはできれば望んで測量士を続けてほしいもんだ」(88)。もちろんこれは詭弁だ。村人を人質にとっているから、ナミには自由な選択などできない。しかしアーロンが「できれば望んで測量士を続けてほしい」と思っていることも事実だ。アーロンはナミに徹底的に強制することもできたはずだが、「メシだって与える。好きな服も買ってやるさ! 生きるのに事欠くことは何もねェ」(93)、「今日からここがお前の部屋だ! お前の机! お前のペン! 必要な物は全て揃ってる!」と言い、しかも組織の幹部として遇している。ナミは奴隷ではない。しかもアーロンは、「持ち合わせた才能を無駄にすること程不幸で愚かなことはねェ! ここで海図を描き続けることがナミにとって最高の幸せなのさ!」(92)と、ナミのことを考えているのだ。
しかしナミの不幸は、岡林信康が、ブタ箱の臭いメシが多少うまくなろうと、汚い壁が塗り替えられようとブタ箱には変わりない、〈俺達が欲しいのはブタ箱の中でのより良い生活なんかじゃないのさ/新しい世界さ 新しい世界さ〉(「それで自由になったのかい」作詞、岡林信康、一九七〇年)と歌うように(岡林は、漸進的な改良主義は現実を糊塗するだけで本質は変わらない、安住するな、革命による〈新しい世界〉をめざそうと言っているわけだ)、見せかけの環境の変化によっては懐柔されない強い主体をもっていることにある。ナミがアーロンのくびきからのがれられないことは誤魔化しようがない。
資本家が労働力の再生産のために労働者の福利厚生を考えるように、アーロンもナミを優遇したほうがナミの能力が発揮されやすいからそうしているだけなので、結局はアーロンのためである。カントが言うように、「他者を手段としてのみならず、目的として扱え」という倫理からすれば、ナミ自身の人生の「幸せ」は副次的に生じる結果にすぎない。
ルフィはアーロンの「てめェにこれ程効率よくあの女を使えるか!?」(92)という言葉に対し「つかう?」と反応する。ルフィはアーロンの「手段」としての側面に反応する。しかしナミはアーロンに与えられた環境によって測量士の才能を伸ばすことができたといえる。「効率よく」人を「使う」のは管理者に必要な能力だ。村人を人質にとったり、嫌がるナミに無理強いするのはいけないが、「使う」という言葉に過剰に反応するのは、大人の現実主義に反発する子供の理想論である。
ルフィはナミが使っていたペンが血でにじんでいたことを怒る。このあたりはマンガ家らしい発想だ。マンガ家も血のにじむような思いでマンガを描いている。ではマンガ家はマンガを描くのが嫌でしかたないのだろうか。苦しいけれど楽しいから続けられるのではないか。つまりペンが血でにじんでいたことそれ自体はナミの苦しみを表すものではない。
ナミの描いた海図は魚人たちの役にたっている。アーロンはナミの海図によって世界中の海を知ることが帝国を築く基礎だとさえ思っている。もしナミが、何の役にもたたない海図をシジフォスのように描き続けさせられていたとすればたんに苦役でしかないが、ナミの仕事は大いに役にたっている。問題なのはそれがどんな役にたっているかということだが、アーロン帝国の是非についてはこのマンガでは問題にされていない。問題なのはナミがアーロンとの関係に「永遠に」閉じ込められていることだ。ルフィはそこからの解放者として現れている。閉じ込められている理由の良し悪しは問題とされていない。
ナミが特に不幸なのは発端が悪いからである。ナミは自発的にアーロンのもとで海図を描くことを選んだのではない。自由意志が認められていない最初が問題だが、それをのぞけばアーロンはいい上司である。どんな仕事でも自分の思い通りのことができるものはない。ルフィが与えたのは自由かもしれない。しかしアーロンのもとで働いていたほうがナミは大きな仕事ができた可能性が高い。

最後に、ゲンさんの風車の意味が明かされる。ナミが幼い頃、顔が恐いゲンさんは、ナミを笑わすために帽子に風車をさした。村がアーロンから解放され、ナミの笑顔が戻った今、風車はゲンさんの頭から消え、ベルメールの墓に供えられる。ナミの笑顔というのは、たんなる笑い顔のことではない。風車はたんに子どもの笑顔を誘うものではない。ゲンさんはナミがいないところでもいつでも風車をさしていたし(だから変人に見える。子どもの前でだけならたんに子どもをあやすためだと理解できるが)、ナミが大人になってもゲンさんはそれをさしている。ナミが笑顔を取り戻すことは喜びを取り戻すことの象徴である。風車が必要ないということは、風車がなくてもナミは笑っていられるということだ。あるいはナミを笑わせるのはゲンさんではなくルフィたちであるという意味もある。
なるほどと思う反面、理屈として説明されてしまうと、なんだそれだけのことかと思わなくもない。このていどの腑に落ちてしまうような俗な解釈なら、解明されないほうがよかったかもしれない。わからないほうがゲンさんの狂気や深い絶望がうかがえて面白い(風車の話はアーロンに征服される前からのことだが先取りしていたのだ)。ゲンさんは膾(なます)のように切り刻まれたせいで全身の皮膚がつぎはぎだらけで不気味だし、きちんと制帽をかぶっているのにラフな半ズボンでスネ毛をだしているというちぐはぐないでたちで、それが精神のバランスを崩した感じを表していた。全身からシュールでイカれた雰囲気がただよっており、その決定打が、場違いなところで音をたててまわっている風車だったのだ。
合理的に解釈されてしまうと、実はそれによっては理解しきれない部分があるにもかかわらず、表面的にわかったと思い込んでしまい、狂気が覆い隠されてしまう。わかりやすさが覆い隠してしまうものがある。風車がそういう説明をされてしまうと、風車のないゲンさんはたんに普通のオジさんに戻ってしまうのだ。
風車が大事なのはその形や動きよりも「カラカラ」という音の方である。この音は執拗に書き込まれる。ゲンさんがアーロンによって勢いよく地面にたたきつけられるときも音を立てているし、ゲンさんがカッコいいセリフを口にしているときもそれを小馬鹿にするかのように「カラカラ」と虚ろな音をたてている。いつも風が吹いているわけでもあるまいに、途切れることなくまわっている。まわる音も、勢いよく「シャーッ」とまわるのではなく、空疎な響きのする「カラカラ」なのだ。ゲンさんに起こる表面的な出来事とは無関係に風車は回転しているように見える。風車は何か別の独自の原理で動いている。それはゲンさんの見かけの事情とは無関係かもしれないが、ゲンさんの内面に激しいものがあって、それが動力となって風車を動かしているのかもしれない。風もないのに風車が動く理由はそれである。途切れることなく深いところで溜め込まれたエネルギーが風車を動かしているのだが、そのエネルギーは自分の無力さを自覚したニヒリスティックなものなのだ。虚無から吹いてくる風が、風車を回転させているのである。
ナミはアーロン一味の刺青を消し、風車とミカンの刺青をいれる。ミカンはベルメールさんが愛したものだ。ゲンさんはナミたちの父親になりたかったようだから、風車とミカンが一体として描かれるということはナミもそれを認めたということだろう。この刺青はデザインはかっこいいが、ハーケンクロイツ(鉤十字)の紋章にも似ている。現代では刺青はヤクザのシンボルだが、明治になるまでは日本人もよく刺青をしていた。明治初期の日本を旅したイザベラ・バードは、貧しくて服を着ることができない人々について、彼らが刺青をしているのは「装飾として好まれたばかりでなく、破れやすい着物の代用品でもあった」と記している。(宮本常一『『日本奥地紀行』を読む』平凡社ライブラリーp56)

アーロンと通じていた海軍のネズミ大佐をコケにしたルフィは指名手配されてしまう。大物海賊団の賞金は以下のとおり。道化のバギー1500万、ドン・クリーク1700万、アーロン2000万、そしてルフィは3000万である(単位、ベリー)。この数字は『ドラゴンボール』でいえば戦闘力のようなものだ。ルフィは偶然にも、強い相手と順番に戦ってきたのである。私は、戦闘力の数字とはおカネのことだ、と『ドラゴンボールのマンガ学』という本で指摘しておいた。ここでは逆に、おカネの学が強さを反映しているのである。
海軍本部の様子が描かれる。海賊という「悪」を駆逐するために、海軍は「絶対的正義」となって民衆を守る。彼らの白いマントの背には「正義」という文字が大きく書かれている。どこか暴走族の総長の集会のようでもある。「絶対」も「正義」もうさんくさい。そもそも世の中には「絶対」というものはない。「正義」は、時代や社会によって変化する相対的なものだ。そのウソくさい言葉を二つ連ねたことで一層ウソくさくなっている。それが的外れの批判ではないことは、これまでに出てきた海軍大佐のモーガンやネズミが権力を嵩にいばるロクでもない奴で、海軍という組織が、私的に操られることのある腐敗しきった組織であるということで明らかだ。特に辺境にある末端の組織ほど独裁的になっているようだ。
末端は組織として腐敗している一方、本部はイデオロギー的に狂信的な集団である。自分たちがやっていることが「絶対的正義」だと信じて、それを他者に押しつける者ほどたちが悪いものはない。しかも海軍は強大な暴力装置を手にしている。

ルフィたちは、ローグタウンに足を踏み入れる。ここは「かつての海賊王G(ゴールド)・ロジャーが生まれ…そして処刑された町」(96)であり、別名「始まりと終わりの町」である。かつて、というのは二二年前である(99)。
このあたりで物語は一区切りをつける。これまでの軽い「まとめ」とでもいうように、深い因縁のある者たちが続々再登場する。女海賊アルビダ、道化のバギー、赤髪のシャンクス、鷹の目のミホーク、そしてゾロの幼なじみくいなに似た女性(たしぎ)である。三刀流のゾロは二本の刀をミホークとの戦いで失っていたが、新しい刀として「三代鬼徹(さんだいきてつ)」を賭けによって手にいれる。この刀は呪われた刀であり、また、ゾロは自分の腕が切り落とされるか否かを賭けて手にいれたので、これは剣士として一旦死んだゾロが再生したということになる。
一方、ルフィもまた死と再生の劇を演じていた。ルフィはロジャーが最後を迎えた処刑台の上になぜか上がる。そしてそこで首枷をかけられバギーに殺されそうになる。だがその寸前でバギーは落雷を受け、ルフィは難を逃れる。ルフィはここでかりそめの死を迎えたといえる。一旦死に、そして蘇った。ルフィは海賊王ロジャーの人生をなぞったのである。ロジャーは死ぬ前に処刑台で笑った。ルフィもかりそめの死を迎える直前に処刑台で笑った。ここでもルフィがロジャーをなぞっていることが強調される。
ルフィたちが海軍の包囲網から脱出するのにあわせるかのように、海軍の火薬は雨で濡れて使えず、風は船の出航におあつらえむきになった。落雷で助かったこととあわせ、海軍のスモーカー大佐はこう思う。
「これが全て偶然か…!? まるで”天”が、あの男を生かそうとしてる様だ!」(99)
スモーカーはここでルフィに特別なはからいをする超越的なものに「天」という名前を与え、存在をほのめかしている。まだ空想の範囲内の存在ではあるが、今後こうした「偶然」が積み重なると、どんどん実体化してゆくことになる。『ONE PIECE』にはこれまで、「悪魔の実」とか、人間より進化した魚人だとかが登場していて、不思議なものが存在する世界ではあったが、ここでさらに人間を超越した存在が想定されることになった。しかもルフィはそれに見込まれた人間のようであり、たんに「悪魔の実」を食べて特殊能力を持っただけの存在ではないという道筋がつけられたのである。そしてそれはこれまで何故かルフィがとんでもなく強い敵に勝利してきたことや、「おれは海賊王になる」という大それた宣言をするに値する選ばれた人物であると読者に受け入れさせるための、これまでのもろもろの偶然を必然としてとらえなおさせるために構造的に必要な仕掛けである。
ルフィの仲間たちをみてみよう。ゾロは強運の持ち主だ。放り投げた刀で運試しをしたところ腕が切り落とされることがなかった。ナミは海図を描く天才だとされているが、気圧の低下で嵐が来ることを(p147,162,168)人より早く察知する能力があるなど、特異な体質である。サンジは木でも石でもなんでも叩き割ってしまうほどの強い足蹴りを持っているし、魚人空手との戦いでは、海底の岩が壊れるほど強く叩きつけられても平気だった。(10-p98) 三人とも通常の人間の能力を超えている。
彼らはルフィがどうしても仲間になってくれとしつこく勧誘したという共通性がある。旅の途中でたまたま出会っただけの彼らであるが、その特異な能力を見る前から何故か猛烈に惚れ込み、アタックしているのだ。このように人を見抜く目もルフィは持っているということである。もちろん続きものの物語のつねとして、彼らはルフィと行動をともにしているうちに次々と難易度の高い敵に遭遇することになるから、それにあわせて能力も向上せざるをえず、それが結果的に特異能力を潜在的に持っていたということになってくるのだが、能力の高い者を仲間にしたという偶然性も、ルフィが「天」に見込まれているという構造を持ちこむことで必然性としてとらえなおしているのである。
では、この「天」とは何かというと、海賊王ロジャーが二二年前に死に、ルフィはその後に生まれているから、もしかしたらルフィはロジャーの生まれかわりなのかもしれず、それを図ったのが「天」であるとも考えられる。そう考えればルフィが、「おれは海賊王になる」と口にすることも理解できる。ルフィはいわば前世の記憶を持っていて、自分は前世では海賊王だったから、今世でもそうなると言っているように聞こえる。

ここまで読んできて『ONE PIECE』と『ドラゴンボール』の一番の違いは、悟空は強い相手と戦うために修業を重ねていたのに対し、ルフィは戦う相手がどんどん強くなっているにもかかわらず、また、特別な訓練をしているわけでもないのに、少しのケガを負うだけで負けもせず、相手に勝てていることだ。ウルトラマンや仮面ライダーのように同じ強さの相手と戦うというわけでもない。ルフィは元々かなりの実力があって力を小出しにしていたということなのだろうか。そういえばこれまでのルフィの戦いはどこか余裕があるようにも見えなくはない。悟空のように全力を出し切っていないというか。ルフィは「悪魔の実」の力が与えてくれたもの以上のものをもともと持っていたと考えるしかない。そこから「天」に選ばれた者という説明が必要とされるのである。『ONE PIECE』はヒーローものの反措定である。ルフィは服も普段着だし、体もゴムのようにやわらかく、筋肉で硬くなったマッチョなヒーローの身体ではない。そうなると、自分の身体能力以外に頼るべきものが必要になってくる。それは一つには協力してくれる仲間であろう。もう一つが「天」が与えてくれる「運のよさ」なのである。