ワンピースのマンガ学

【著者紹介】

見崎 鉄(みさき てつ)
1965年、長野県生まれ。ライター。
マンガ学の著書に『ドラゴンボールのマンガ学』(彩流社)、歌詞論関係の著書に『阿久悠神話解体』(彩流社)、『Jポップの日本語』(彩流社)、『さだまさしのために』(KKベストセラーズ)、『音楽誌が書かないJポップ批評』(共著、宝島社)。サブカル批評に『ドラゴンボールはいつ終わるか?』(風塵社)、『船井幸雄大研究』『2時間ドラマ大事典』『エヴァンゲリオン完全攻略読本』(以上、共著、三一書房)他がある。

記事一覧

【巻10】

いよいよ対決のときである。ルフィたち四人は敵の本拠であるアーロンパークに乗り込んでいく。アーロンは「帝国」を築くと言っていたが、幹部が数人とあとは多数の下っ端という単純な階層の組織で、いくつかの村落を脅して「奉貢」を納めさせるという小規模なヤクザ組織であり、とても「帝国」にはなりえない。そこに乗り込んでいくルフィたちも、脅されて耐えに耐えてきた村人たちに代わって鬱憤を噴出させるために殴り込みをかけるヤクザの高倉健みたいなのだ。
だがルフィの怒りは村人を不当に支配してきたことには向いていない。「うちの航海士を、泣かすなよ!」(82)と、もっぱらナミ個人の仇討ちが目的である。村人たちの恨みはルフィにとって他人のことであり首を突っ込むことではないが、ナミは「仲間」だから自分のことなのである。
ところで、この「うちの航海士を、泣かすなよ!」というセリフを、先に引用したアーロンの言葉と比べると面白い。アーロンはナミを「測量士」と言っていた。だがルフィはナミを「航海士」として扱っているのである。「測量士」より「航海士」のほうが総合的な知識が必要とされるから扱いが「上」であろう。測量士が作る地図は航海士にとって判断材料のひとつにすぎない。ルフィたちのほうがメンバーが少ないから乗船経験が浅くても責任のある役割を任される。両者の呼び方の違いが、仲間としての重要性を表している。
ルフィは海獣モームを投げ飛ばすときに両足をコンクリートの中にねじ込んだため足が抜けなくなってしまい、アーロンによってコンクリートの塊とともに海に放り込まれてしまう。ルフィの活躍が封じられているあいだ、ゾロとサンジ、ウソップがアーロンの手下と戦うことになる。
ルフィはこれまでも動きを封じられていたことがある。バギーのときは檻に入れられ、クロのときは船のマストの下敷きになっていた。いずれも抜け出せない状態でもなさそうなのに、見せ場を後回しにするために動きを封じられているのだ。今回も足が抜けないという作者の胸先三寸でどうにでもなりそうな冗談のような状況が死活的な問題としていつまでも続く。悪魔の実を食べたルフィは海に弱い。海の中では力が出ない。一方、海の中で真の威力を発揮できる魚人の存在はルフィと正反対の位置にある。
ルフィはサンジによってコンクリートを破壊されることで救出されるが、そのときサンジは、「だいたい、てめェが全部、話をややこしくしたんだ…!」(89)と愚痴っているように、ルフィがコンクリートに足をとられて海中に沈まなければ、その間の話はとばされていたであろうはずのものだ。ルフィが復活することで話がつながるのである。
戦う相手を観察してみよう。アーロンはノコギリザメの魚人であり、その部下の魚人どもは、タコのはっちゃん、エイのクロオビ、キスのチュウなどで、同じ魚人ではあるが、それぞれ外見がかなり異なっている。彼らは人間から魚人に進化したとされているけれども、それならもう少し似ていてもいいはずなので、たんなる進化というより、分岐的進化をしていったのだろう。結果的に、人間と魚の融合体というべきものになっている。映画の『スパイダーマン』や『ザ・フライ』などがそうだが、人間と異生物との融合はなぜか元の存在より格段にパワーアップしている。人間やクモやハエはそのままだとたいしたことはないけれど、融合することで桁違いに能力が増すという神話的思考がうかがえる。
具体的に登場する魚人は、ノコギリザメ、タコ、エイ、キスであった。これらのうち形態がうまく利用できている魚人はノコギリザメとタコであり、エイとキスは能力と形態的な必然性の結びつきが弱く、こじつけていどである。名前や姿にあった技を使うのはタコのはっちゃんである。六本の腕で刀を持ったり墨を吹いたりするが、それはタコにしかできない。
エイの魚人(クロオビ)は空手使いである。なぜエイが空手使いなのか疑問だったが、p60で「エイッ!」という掛け声で正拳突きをしたので、そこからきているのだろうか。エイの特徴は扁平なことだ。クロオビは胸びれにあたる部分が上腕外側に刃のように突き出ている。これを武器にした「腕刀斬(わんとうぎ)り」p94という技がある。また、クロオビは満州族の弁髪(べんぱつ)のように後ろ髪を長く伸ばしているが、これはエイの鞭のような細長い尾なのだろう。この鞭のような髪を使った「イトマキ組手(くみて)」p95という技もある。おそらく、エイの長い尾から弁髪を連想し、そこから拳法使い→空手→クロオビとなったのだろう。「エイッ!」という掛け声はたんなる語呂合わせだろう。
陸上での戦いに終始するタコのはっちゃんやキスのチュウに比べたら、エイの魚人であるクロオビは魚らしく海中での戦いが描かれる。クロオビの技は空手だから、魚人らしいといよりも人間っぽい。魚人らしさは海中で戦うことで担保される。クロオビと戦うのはサンジだが、サンジが苦戦するのは空手にではない。水中で空気が吸えないことに対してである。得意のキックも水中では威力が半減する。クロオビに殴られてふっとび岩が砕けるが、普通の人間であるはずのサンジはそんなことは平気である。クロオビさえ「まったく呆れた打たれ強さだ…。人間とは思えん」(86)と言っているくらいだ。
サンジが我慢できないのは殴られたり蹴られたりすることではなく、呼吸ができないことである。つまりクロオビに対してというより海中というアフォーダンスがサンジの戦いを不利にしている。だからこの環境を逆手にとって、エラ呼吸をしているクロオビのエラに空気を「ブチ込む」ことでクロオビから逃げるのである。クロオビは力の強さは「水中だろうと陸上だろうと同じこと」(86)だと言っているが、陸に上がった魚人空手はサンジに通用しない。二頁でケリがついてしまう。ここでもサンジは空手に苦戦していたのではなく、水中という場に苦戦していたのだということが確認される。クロオビとの戦いは彼の魚性が押し出されたものではなく、魚人と関係づけられた海というアフォーダンスが主題化された戦いになっているのである。
キスの魚人であるチュウの名の由来は書くまでもない。顔は魚のキスの特徴である口先が前に出ているように描かれている。しかし魚のキスには他にこれといって特徴はないので、チュウも口が極端に出ているほかは普通の人間である。チュウの武器は口から出る強力な水鉄砲である。それならキスではなく鉄砲魚(てっぽううお)の魚人にすればよかったと思われるが、それだと名前と技があまりに「つきすぎ」ておりヒネリがないのでキスにしたのだろう。
チュウの技である水鉄砲というのは陸上でしか使えない。水中で水鉄砲を使っても水の抵抗が大きくて破壊力がのぞめない。そういう意味ではチュウは魚人なのに水中で活かせる技を披露していないのである。水鉄砲はまた、チュウと戦う相手としてウソップを引き寄せている。ウソップはパチンコで「火炎星」や「鉛星」を撃つが、それは水鉄砲と似たような飛び道具である。特に「火炎星」はチュウに対して三回もくらわしている。(p39,110,127)水鉄砲の「水」に対して、反対の「火」で対抗しているのだ。いずれにせよ、水鉄砲もパチンコも子どもの遊び道具の延長のようなものであるから、それを武器にする者どうしが戦いの組み合わせにされるのである。
タコのはっちゃんは形態的に最もユニークなタコを素材にした魚人なので特徴をだしやすいキャラである。はっちゃんと戦うのはゾロで、八本足のうち六本の手を使ったはっちゃんの六刀流は、ゾロの三刀流と対決させやすい。戦いが噛み合いやすいのだ。六刀流というのは過剰な剣技である。ところで、『ドラゴンボール』には天津飯というキャラがいた。天津飯の特徴は三つ目であることだ。普通の人間より目が一つ多い。彼の使う技は、背中から腕が出て四本腕になる「四妖拳」や、四人に分裂する「四身の拳」(分身の術ではなく四人ともホンモノ)である。三つ目という過剰さを特徴とする天津飯の技は、手や身体の数も過剰になる傾向にある。何かを増やそうという方向で相手を上回ろうとしているのである。
タコのはっちゃんも、剣を持つ手の多さによって相手を上回ろうとしている。ゾロの三本より六本の剣のほうが量において勝っているというわけだ。しかし天津飯が試合で悟空に負けてしまったように、はっちゃんもゾロに負けてしまう。ゾロのほうが量でなく質で勝っているというわけだ。少年マンガではこういう場合、たいてい量において不利なほうが最終的に勝つことになっている。物量を増やすというのは発想としてつまらない。たんなる足し算である。物量が多いほうが勝つという物語なら、そんなものは読む前から結果がわかっている。だからそれをひっくりかえすような結果が好まれる。実はゾロの三刀流も過剰な技だ。ゾロははっちゃんに「おれとお前の剣の一本の重みは同じじゃねェよ!」(85)と言っているが、このセリフは、ミホークとゾロのあいだにもあてはまる。一本の小さな剣でゾロの三刀流をはじき返したミホークの剣はゾロの剣より「重み」があるのである。
村人たちはこれまでアーロン一味の圧倒的な暴力の前に無力なままでいるしかなかった。しかしサンジやゾロの活躍を見たノジコはこう言う。「今までずっと抑えてきた、信じられない気持ちだけど、この戦いに、希望すら湧いてきたよ!」(87)
サンジやゾロは、個人の意志や行動が状況を変えることを先頭に立って示した。ヤクザのような彼らの行動は、個人は無力ではないということを示す実存的な行動で、ヤクザ映画と学生運動と実存主義が流行っていた時期が重なるというのはよくわかる。
そして、ナミは村人たちにこう言う。「ごめん、みんな! 私と一緒に、死んで!」(88) 武器を手にした村人たちも「ぃよしきたァ!」とこれに呼応する。虐げられていた住人たちは、これまでのエピソードでは陰に隠れているだけだったが、ここでは武器を持って気勢をあげるところまで「進化」している。もちろん彼らの力ではアーロンに太刀打ちできない。しかし彼らが覚悟を決めたときに、それを待っていたかのようにルフィが復活する。
ルフィは首を伸ばされるが、首の断面積が小さくなるし、水が吐き出される距離が長くなるので、仮死状態から水を吐き出すのにはかえってよくない。首の体積がそのままなら、伸びれば糸のように細くなるはずだ。また、もし細くなったときに皮膚の強度しかなければ容易に裂けてしまうだろう。しかし首は細く伸びてもそれなりの強度があるようだ。これがルフィの頑丈さの秘密なのかもしれない。
アーロンの鼻はノコギリの形状をして目立つが武器にはならない。それを剣のようにふりまわすこともできないし、先端からビームを発射することもできない。ウソップの鼻も彼の特技である嘘とは直接関係ないようにアーロンの鼻も彼の武器とは関係ない。ふつう、目立ったところや変わったところがあると、人はそこに注目し、そこに何らかの意味ある機能を求める。例えばウルトラセブンは額に小さな球体が埋め込まれているが、そこからビームが発射されるし、『ドラゴンボール』のピッコロは額から突起が出ているが、やはりそこから光線が発射される。そのような目立つ部分がありながら何もないと、どこかものたりなく思えてくる。そこからビームが発射されると、ああそのためにあったんだねと納得するのだ。アーロンの鼻は目立つが、ノコギリの形状をしているだけであって、何か意味のある突出ではない。虚仮威しの飾りとしては役にたっているが実用性はない。ただしこの鼻は意外に丈夫で、ゾロの剣によっても斬ることはできなかった。そのかわりアーロンの武器になるのは強力な顎である。すでに9巻(p76)で、海軍の船が放った砲弾をその顎で噛み砕いていた。また、その強力な歯と顎で石柱を砕いてしまった。
アーロンはルフィに殴られ歯を折られてしまうが、サメの歯は生え変わるので、アーロンの歯も瞬時に元に戻ってしまう。さらにアーロンは自分の歯を入れ歯のように取り出して両手に持ちガブガブ噛みついてくる「歯(トゥース)ガム」という攻撃を仕掛けてくる。ユニークではあるがしみったれた技である。喧嘩で組み敷かれた奴が苦し紛れに噛みついてくることがある。殴りあいでは負けたけれど最後に残された武器が歯だというわけだ。歯を使うというのは動物的でもある。動物がもっている武器は歯(牙)と爪。歯で噛みついてくるというのは弱い感じがするし、動物的・原始的でもあるのだ。この点、全身を人工的な武器で固めたクリークとは対照的だ。
「歯(トゥース)ガム」攻撃はユニークだが、これなら刀を振り回したほうがいい。実は、石柱を噛み砕いたときもルフィは手で殴って石柱を砕いてみせ、「別に、噛みつかなくても、石は割れるぞ」(90)と言っており、結局、アーロンの攻撃はユニークだけれど原始的で、どれも他に有効で代替的な攻撃方法があるものばかりなのだ。ところで、ルフィは石柱を壊すほどのパンチ力があるなら、コンクリートにねじ込んだ足が抜けないなどと言っていないで自分でコンクリートを壊して脱出すればよかったのである。ルフィを死ぬも生かすも作者次第なのだ。この時点ではまだ物語を進めるほうが優先されていて、キャラのもつ力は物語の都合により随時変更されるのである。

こんな会話がかわされている。

アーロン「そんなプライドもクソもねェてめェが一船(いっせん)の船長の器か!? てめェに一体何ができる!」
ルフィ「お前に勝てる」(90)

この「器」という言葉はこれまでにも幾度か出てきた。

クリークとの戦いのとき。

クリーク「さァ言ってみろ、おれかお前か、どっちが海賊王の器だ!」
ルフィ「おれ! お前ムリ!」(60)
キャプテン・クロとの戦いのとき。
クロ「(ウソップには勝てないといったルフィに対し)何が勝てねェのか言ってみろ!」
ルフィ「器だよ。お前は本物の海賊を知らないんだ!」(38)

アーロンもクリークもクロも、いずれもルフィより経験を積んだ大人である。そんな彼らからみれば名前も知らない小僧にすぎないルフィに、海賊の「器」じゃないと見下されるのだ。ルフィのこの自信はどこからくるのだろう。ルフィはこれまでも「おれは海賊王になる」とか、ビッグマウスぶりを披露していた。「海賊王になる」という場合は自己成就予言を意識した宣言ととれなくもないが、「器」ということになると、何の経験もないルフィにそこまで人を見る能力があるわけがないので、たんなる肥大した自尊感であることを感じさせる。
ルフィは、魁偉なアーロンや巨漢のクリーク、キザで狡猾そうなクロに比べたら、見かけは平凡で普通の男の子だ。その平凡な男の子が怪物的な大人たちを相手に、自分のほうが上だと言う。ここには「人は見かけによらない」という、見かけと内実の逆転がある。
※2012.12.26更新 見崎鉄