ワンピースのマンガ学

【著者紹介】

見崎 鉄(みさき てつ)
1965年、長野県生まれ。ライター。
マンガ学の著書に『ドラゴンボールのマンガ学』(彩流社)、歌詞論関係の著書に『阿久悠神話解体』(彩流社)、『Jポップの日本語』(彩流社)、『さだまさしのために』(KKベストセラーズ)、『音楽誌が書かないJポップ批評』(共著、宝島社)。サブカル批評に『ドラゴンボールはいつ終わるか?』(風塵社)、『船井幸雄大研究』『2時間ドラマ大事典』『エヴァンゲリオン完全攻略読本』(以上、共著、三一書房)他がある。

記事一覧

【巻1】

ルフィ

物語はルフィが子供のころの話から始まる。小さな村の少年であるルフィは、村にやってきた海賊に仲間にしてくれと頼むが、幼いからと相手にされない。10年後、青年になったルフィは、海賊になるため小さなボートで大海原に漕ぎだし、仲間を集める旅に出た。
ルフィには謎めいたところがどこにもない。ルフィの顔にある傷がどうしてできたか(根性を見せるため)、ルフィがいつもかぶっている麦わら帽子の由来(船長にもらった)、ルフィがゴム人間になった経緯(ゴムゴムの実を食べた)、といったことが第1話で次々と明かされてしまう。ふつうは少し後になってからのエピソードで、実はこういう由来があったのだと過去を振り返って明かされるものだが(例えばインディ・ジョーンズだと、トレードマークになっているソフト帽や鞭の来歴が明かされるのは映画の3作目だ)、そうしたもったいをつけずに惜しげもなく明快に、ルフィというキャラができあがる過程を、時系列に沿ってどんどん語っていく。『ドラゴンボール』でさえ、悟空には何故シッポが生えているのかという「謎」があったのだが、ルフィにはそうした「謎」がない。ただし、ルフィが子供から青年に成長する10年間は省略されている、いわば「失われた10年」なので、この間に何があったのかは「謎」になるかもしれない。また、ルフィの親がどういう人かはわからない。親がわかれば子供のことは半分わかる。親が謎のままなのでルフィが将来どういう人間になるかわからない。最初は限りなく薄っぺらい人物で、物語の進行とともに厚みが加わってゆくタイプのキャラなのだろう。

シャンクス

ルフィが最初にあった海賊の頭(かしら)がシャンクス。強くてカッコよくて仲間から信頼されていてルフィを守ってくる理想の大人である。「こんな男にいつかなりたいと心から思った」(1)とルフィは思う。ルフィの海賊への憧れはシャンクスによって一層強化される。見本があるからルフィにも迷いがない。理想の大人が海軍にいれば海軍をめざしたかもしれない。
シャンクスは大人といっても20代前半くらいで、青年と大人の中間的な存在だ。それはあとに出てくる女海賊アルビダや海軍大佐モーガンが恰幅のいい大人であり、「大人は悪」という図式になっているのに比べて、シャンクスは大人になりきっていない中間的な存在として描かれている。それは彼の格好にもよく表れている。女海賊アルビダも海軍大佐のモーガンもそれらしい威厳のある格好をしているがシャンクスはとてもラフな遊び人風情だ。ルフィはこのシャンクスのミニチュアである。格好もそうだが性格もそうだ。シャンクスはルフィを守るために海獣に片腕をくいちぎられてしまう。しかしそんなことは気にかけないといった平気な顔をしている。ルフィもまた、どんなピンチでも平気な顔をしている。男の度量ともいうべき、極端な楽天ぶりも受け継いでいる。第1話の時点ではシャンクスがどういう人物であるかはわからない。ただ、シャンクスは睨みつけただけで海の怪物を退散させるほどの迫力があるから、並の人間ではない。来歴には謎がありそうだ。
シャンクスは別れ際、ルフィに帽子を預け、「いつかきっと返しに来い」(1)と言って消える。「返しに来い」という言葉もまたルフィを動かす原動力となる。巻1の時点で、ルフィを動かすのは、宝物ワンピースを探すこと(=海賊王になること)、シャンクスと再会することなど複数あることになる。そして、とりあえずそれらの前段として仲間集めがある。もちろん良き仲間に恵まれることは、宝探しのための手段ではなくて、それじたいが宝なのである。
アルビダとモーガン
ルフィは旅の途中で女海賊アルビダや海軍大佐のモーガンと出会う。彼らは威張りちらしていて、部下や住民を恐怖で支配している。一介の「大佐」が島を支配しているのは奇妙な感じがするが、リビアの事実上の元首として40年以上君臨しているのが「カダフィ大佐」であることを思えば、雰囲気は理解できる。その彼らを倒し、人々を解放し自由にすることが、ルフィの仲間探しの旅の副次的な効果としてもたらされる。ルフィは水戸黄門のようだ。後に出会うゾロたちは助さん格さんである。
ルフィは圧倒的に強いため、アルビダやモーガンとの戦いはあっさりしている。『ドラゴンボール』は長く続く戦いじたいが野球の試合のようなドラマ性をもっていたが、『ONE PIECE』では戦いは欠かせないがそれは最後の締めくくりに過ぎず、物語の主要な部分ではない。たいていはルフィの「ゴムゴムの銃(ピストル)」や「ゴムゴムの鞭」の一撃で勝敗が決まってしまうのだ。物語の主要な部分は人情噺である。ルフィは悟空のように盛り上がった筋肉をしていないが、それは戦いが主要な見せ場ではなく、人情を主軸とした物語を語ることがこのマンガの主題なので、ルフィに必要とされるのは、戦いに特化した身体ではなく、人情のもつれを捌く機転をきかせた行動だからである。
アルビダやモーガンはとても理想の大人ではない。男も女も大人にはろくなのがいない。町の住民の大人たちは寄らば大樹の陰で右往左往するばかりだ。状況を変えるのはルフィのようにその社会に属さず外部から来てやがて去って行くアウトロー、しかも大人のような訳知りでない者なのである。
ルフィの仲間集めは、アルビダやモーガンが暴力や権力(大佐という肩書)といった支配関係(上下関係)とは逆をいくものだ。ルフィの旅はまず海賊のメンバーをスカウトする旅としてはじまる。同じく義賊のヒーロー、ルパン三世の場合、仲間である次元や五右衛門がどういう経緯でつるむようになったのかよくわからないが、命令する親分子分の上下関係ではなく対等な仲間であり、ルパンのことが気にいっているから行動をともにする。ルパンのほうも次元や五右衛門の銃や剣の腕前に一目置いている。

コビー

コビーは女海賊アルビダの雑用係で、ルフィが最初に出会った仲間である。航海の知識などもあり、この先、ルフィと行動をともにするかと思われたが、あっさり別れてしまう。『未来少年コナン』のコナンとジムシーや『ドラゴンボール』の悟空とクリリンなど最初にたまたま出会った仲間が将来の重要な仲間になるのだが、コビーは海軍に入る道を貫徹するのであって、ルフィの仲間になるというふうに人生を変えられることはない。ゾロはルフィによって人生が変わりそうなのだが、コビーは自分が思ったように生きるのだ。それはコビーにとってはいいことだが、このマンガのキャラとしては見放されたということでもある。
コビーはルフィと対照的だ。コビーはいわばルフィの引き立て役である。貧相なコビーが出ることでルフィのおおらかさがきわだつ。ルフィは海賊の仲間に入れてもらいたかったのに入れてもらえず、一方、コビーは釣りに行こうとして海賊船に「間違って乗り込んでしまった」(2)のである。ルフィは希望したのに海賊になれず、コビーは希望しないのに海賊にさせられてしまう。
筆者(私)はまだ1巻しか読んでいないのでコビーがどう扱われるかわからない。コビーは一旦は退場したが、このあと再び重要な役どころで登場するかもしれない。海軍に入ったのでルフィのライバルとなって、しかもそのときにはかなりハンサムな青年になっているだろう。ルフィはコビーの恩人だが、職務と義理の葛藤するだろう。もちろん巻1の時点ではこのマンガがどこまで連載が続くのかわからないので、作者はそんな計画をしていないかもしれないが、話が長く続けば伏線を探し出すときにコビーのことを思いつくはずである。ただし名前がコビー(媚を売るのでそう名づけられたのだろう)ではやりにくい。

ゾロ

ゾロはルフィが最初にスカウトした一人である。ゾロは当初、黒いタオルで頭を包み、腹巻とニッカポッカという土方ファッションの人として登場する。頭に巻いている黒いタオルは、名前がゾロで、「快傑ゾロ」の連想から覆面の変わりとなるものだろう。タオルからのぞいている目は鋭く印象的だが、タオルで眉が隠れてしまうという難点がある。マンガでは表情を描き分けるのに眉の動きを使うことが多いから、眉が見えないということは表情がワンパターンになってしまうおそれがある。そのためか、このタオルはそのうちなくなってしまう。かわりにそれは左のニの腕に結びつけられる。なくしたくないものなのだろう。残った腹巻がルフィの麦わら帽子と同じくゾロのトレードマークになる。
ゾロは剣の達人になるという夢がある。これもまた秘密ではなく、すぐに由来のエピソードが明かされる。剣の達人のイメージとゾロのラフな衣装はちぐはぐだ。このちぐはぐさはルフィが海賊なのに麦わら帽子をかぶっているという点もあわせて考えると、このマンガの戦略なのかもしれない。
ゾロは海賊狩りとして町の人に怖れられているが、意外にやさしい。女の子のさしいれた「おにぎり」が泥まみれになっても食べる。見かけによらないのだ。これはルフィも同じだ。ルフィは海賊になりたいのに、まるで海賊らしからぬカジュアルないでたちをしている。ルフィも見かけによらないのだ。
ルフィがゴムのように伸びるという過剰な身体をもっているように、ゾロは二刀流を超えた三刀流という過剰な剣の使い手だ。そして一人は海賊王を、一人は世界一の剣豪をめざすというように対象的な関係にある。

ナミ

ナミが特別な女性であることはナミの髪を見ればよくわかる。ナミはこのマンガに出てくる女性ではじめての金髪の女性なのだ。第1話の酒場の店主マキノも第3話のゾロにおにぎりをさしいれたリカも、ゾロの思い出に出てくるくいなもみんな黒髪だ。女海賊アルビダも黒髪。だがナミだけが金髪なのである。アルビダを除いて、このマンガに出てくる女性はみな額(ひたい)が広く理知的な顔だちをしていて、髪もショートで、それぞれよく似ている。名前も和風だ。ナミという名前は海に関係する「波」からきているのだろう。『サザエさん』の波平と同じだ。ナミも額が広く髪もショートだが、金髪であることで特別な存在になっている。
海賊らしさとは何か
ルフィは帽子を大切にしている。シャンクスにもらったものだからだが、なぜ帽子なのか。海賊といえば帽子と眼帯がトレードマーク。まさに「少年ジャンプ」のマークがそうだ。だがルフィの帽子は海賊帽子ではなく、西条八十が「母さん、僕のあの帽子、どうしたでせうね?/ええ、夏碓井から霧積へ行くみちで、渓谷へ落としたあの麦稈帽子ですよ」と詩で書くような、センチメンタルな夏の思い出とともにありそうな麦わら帽子なのである。しかも麦わら帽子は1シーズンかぶればすぐへたってしまい、翌シーズンには忘れてしまいそうな消耗品的な作業用の簡易で粗末な帽子である。しかしそれを大事にしているということは、麦わら帽子に象徴される、忘れられやすく、壊れやすく、高級でもないもの、つまり子供の頃の夢を大事に守り続けているということである。帽子に象徴される夢に、いつも頭(思考)は覆われていて、帽子が外形において頭を支配しているように、夢に支配されているのだ。キャラを立たせるための小道具としては、ルフィは『ドラゴンボール』の悟空のように印象に残る髪型をしていないので、作者は、髪型をマンガチックなものにする代わりに(髪型に知恵をしぼる代わりに)、麦わら帽という奇抜なものをかぶせて一気にユニークなキャラにしてしまったのである。
ルフィの目の下の傷は眼帯の換喩だろう。眼帯をさせると印象が暗くなってしまうのでそれは避け、同じく海賊の記号である頬の傷に近いところに傷をつけたのである。奇妙なのは、その傷は戦いでつけられた「勲章」ではなく、自分でつけたものであるということ。子供のルフィは海賊になるために海賊の記号を身につければいいと考えた。頬の刀傷が海賊の記号となっていく歴史を無視して、その結果だけをとりこんだのだ。そうしたイカサマは、海賊になるために仲間を集めるという行為にも表れている。劇団員やバンドのメンバーを募集するような気軽さでルフィは海賊になる仲間を探そうとする。ルフィの世界では海賊は悪とされている。そういう誘いにのってくる人はゼロに近い。私は海賊に関する知識はほとんどないが、常識的に考えて、海賊の起源というのは、既にある集団が困窮して追いつめられるなどして海賊「化」するのであって、はなから海賊をめざして人が集まってくるわけではない。これもまた、頬の傷と同じく、それができあがる歴史を無視して、何の土壌もないところに人工的に海賊なるものをつくろうとする行為だ。いわば社会契約説が社会の成り立ちの始源をフィクションで説明したように、ルフィは海賊の成立を、信じあえる仲間との共同体という理想そのままとして実行していく。海賊ごっこであり、海賊のパロディであるが、それは理想的なフィクションをじっさいやてみようという試みでもある。
子供が大人社会に参入するとき、既にある集団に入っていくことになるので、その集団のルールに従わなければならない。それが嫌なら自分で新しい集団をつくらなければならない。大人たちで構成される海賊の集団にルフィが入っていったとしてもコビーのように雑用係にされるのがオチだ。コビーはルフィが既存の海賊集団に入った場合の悪しき例なのだ。仮に特殊能力をもったルフィが腕力の面で大人たちより強くて、ルフィが船長になったとしても、今度は逆に、そんな若造のいうことは聞けないと大人たちが逃げ出してまとまりがつかないだろう。結局ルフィが自分の実力にふさわしい人望と地位を得るには、もっと大人になるまで待つか、自分を信じてくれる仲間を自分で集めるしかない。後者を選んだルフィはいわば起業家なのだ。

ゴム人間

ルフィはゴムゴムの実を食べたことと引き換えに泳げなくなる。第1話で、泳げないのは海賊にとって致命的だと言われている。海賊をめざすルフィにとって大きな障害があるという設定だ。しかし第2話で小船が渦に呑み込まれたルフィは、泳げないので死んでしまうはずだが、樽に乗って生き延びる。そのことについて何の困難もない。これならルフィは超人であり泳げないことは弱点でも欠点でもない。悪魔の実を食べたことによる代償が小さいのだ。
身体がゴムのように伸びるのは映画にもなった『ファンタスティック・フォー』のリーダーもそうである。超能力としてはゴム人間はそれほどいいとは思えない。ゴムのように伸びても結局は身体の延長であり、鋼鉄の壁のような障壁があれば突き破れない。念力のように遠隔操作できる能力のほうが使い勝手がよさそうだ。村長が言うように「何の役にたつんじゃ。体がゴムになったところで!」(1)。しかしルフィはゴム人間だからアルビダの金棒も海軍の射撃の弾丸も効果がなく、それが決めゼリフのひとつである「効(き)かないねえっ!」にもなるわけで、つまりゴムだからいいこととしては可塑的で防御能力が高くなるということだ。論理的に考えると、反対に、ルフィの身体は弾丸すら受けとめる超弾性体のため、その柔らかい体は武器としては使えないはずである。柔らかい体のルフィに殴られても相手は痛くないはずだ。一方で、ゴムゴムのロケットのように、ゴムの弾性をバネとして使い体を跳躍させることはできる。しかしよく考えると、バネを伸ばすにはそもそも外力を加えなければならない。マンガのポーズを見ると、野球の投手のような格好をすることがあるのでルフィはそれを遠心力でやっているようだ。伸ばされて変形した物体は「フックの法則」により元に戻ろうとする力が生じる。それがゴムゴムのロケットだ。一応理屈はとおっている(もちろんマンガ内部の)。しかしゴムゴムの銃(ピストル)はどうか。これは拳をロケットパンチのように相手に打ち込む技だ。腕が伸びるのはいいとして、それを遠心力のみでやっている。伸ばしたとき元に戻ろうとする力がはたらくから、相手が遠くにいるほど打撃力は弱くなってしまう。遠くまで届いた拳はかろうじて相手にパンチをあてることができるくらいの力しかもっていないはずだ。けれど、ルフィは普段は普通の人間と同じなので、自分で自分の体の弾性率を自由に変えられるのだろう。腕を伸ばすとき弾性率を極度に小さくしていれば、引き戻す力は考えなくてよくなるから、それなりの威力は見込める。なにより相手にとっては意外性があるので不意打ちのぶん効果が高い。『シグルイ』で柄の握りかたを変えることで刀が伸びるのと同じだ。ちなみに、ルフィの腕のポアソン比(伸びた分だけ幅が縮む)については、絵で見ると、腕が伸びたからといって腕がそれほど細くなるわけではないことがわかる。

マンガ表現

ルフィのポーズの特徴は気持ちよさそうに手足をおもいっきり伸ばしていることだ。典型的なのが第1話の最終ページだ。船の舳先で、「海賊王に おれはなる!」と言って両手を空に伸ばし、両足を開いて立っている。肘や膝は曲がっていない。筋肉の表現も省略された棒のような手足だが、こういう身体がルフィの精神的な部分までもよく表している。鬱屈していない、ストレートな心持ちの人物なのだ。こんなに気持ちのいい身体はマンガではめずらしい。あるいは巻1の表紙の絵。こちらも跳び跳ねて両足を開き、片手を空に突き出している(もう片手は帽子が落ちないように押さえている。これは帽子が大事だ、ここに注目せよといういうことを意味している)。また第2話の1ページ目。小船に座ったルフィが甲板でおもいきり両足を伸ばしている。足の裏のサンダルの模様がクローズアップされている。こうしたパース(遠近法)をきかせた絵はこの作者の特徴だが、それも手足を伸ばすせいだろう。こうした伸び伸びした身体を極端化したものがゴム人間である。ゴムのように伸びる手や足は、ルフィの性格の身体的表現でもあるのだ。
このマンガで一番多く使われるオノマトペは「どん!」である。バリエーションとして「どんっ!」「どーん!」「どどん!」「ドン!」「DON!」などがあるが、いずれも擬音語ではなく、擬態語である。人が初めて登場するときや、決めのポーズのときなどに使われる。人だけでなく、建物(p88)、船(p202)、など、インフレぎみに使われている。
「どん!」は重量感のある響きだ。海賊旗(p62)のような軽量物にも使われるように、たんなる物理的な重さではなく、感覚的な「重み」、つまり重要なものなので注目せよということだ。「どん!」がつくと、堂々とした感じ、どっしりした感じ、開けっぴろげな感じ、隠したところがない感じがする。本当は、その「どん!」という言葉で表される存在感を絵として表現しなければならないのだが、マンガではオノマトペも絵の一部なので、これはこれでいいとしよう。
ギャル語の「チョー」がどうでもいいことにでも付くように、何にでも付く「どん!」は、強調の意味が弱くなってゆく。お笑い芸人である夙川アトムの業界用語ネタに「タイトルドン!」「ハイ来た、ドン!」などがあるが、『ONE PIECE』の「どん!」もこれに似て、ちょっとした場面転換を印象づける意味あいになっている。また、「どん」には接頭語としては、まさにそのものであるという強調の意味がある。「ど」を一層強めたものだ。どんびき、どんくさい、どんづまり。オノマトペと接頭語では意味がちがうが、共通するのは、普通とはちょっと程度が違うよ、ということを喚起するときに使われているということだ。

『ドラゴンボール』と『ONE PIECE』

『ONE PIECE』は『ドラゴンボール』の連載が終了して2年ほど後に連載開始された。両者ともに「週刊少年ジャンプ」の看板マンガとして長年続いた(ている)。これまでもたびたび『ドラゴンボール』と比較してきたがもう少し続けてみよう。ちなみに作者の尾田栄一郎は鳥山明を尊敬しているらしいので作風が似てきている部分もあるかもしれない。ルフィは『ドラゴンボール』の悟空に似て小さいことにこだわらず(大きなことにもこだわらない)、あっけらかんとして、度が過ぎた楽天家だ。海賊として手持ちが何もない。海賊として必要な設備である船もなく、小船があったがそれすらも壊れてしまう。仲間もいない。ゼロから始めることになる。しかしルフィは馬鹿ではないし、他人に関心がないのではない。よく見ているし人情の機微にも通じている。

このマンガも繊細である。いくつか挙げてみよう。ゾロの子供の頃の記憶に出てきたくいなは女だてらに剣術が滅法強いのだが、「女の子はね、大人になったら男の人より弱くなっちゃうの…」(5)と、デリケートな胸の内を明かす。

海賊という言葉も、海軍に、君らは海賊かと問われたルフィは、「そうだね、一人仲間もできた事だし。じゃ今から海賊って事にしよう!」(7)と答えている。これまでルフィは海賊になりたかっただけだが、ここでやっと海賊になれたということだ。海賊は複数でなければならないとルフィは思っていて、その言葉を慎重に使っているのだ。

ルフィが食べたゴムゴムの実はメロンのような形をしていて表面は唐草模様だが、ルフィはそれを知らずに食べていた。マンガを読みなおすと、たしかにルフィがそれを食べている1カットがある。しかしそれはさりげなく描かれていて見過ごしてしまいそうだ。再読したときも見過ごしてしまい、もう一度ページを戻したくらいだ。ゴムゴムの実を食べたことはルフィにとって一大事なのだが、それがわからないほどさりげなく描かれているのだ。それが意図的な演出だとしたら、この作者は解読するにあたって、かなり手強い相手になりそうだ。『ONE PIECE』はその絵柄に反して意外にしっかり読むことを私たちに要求しているのだ。それは斜め読みでは読みとばしてしまうものがあることを示唆する仕掛けなのだ。
※2011.7.26更新 見崎鉄