ワンピースのマンガ学 見崎鉄

彩流社HP初のWEB連載!!

世界的ベストセラーコミック、尾田栄一郎の『ONE PIECE』(ワンピース)を、『ドラゴンボールのマンガ学』の見崎鉄が全巻批評!!

しかしちょっと変わったルールを設けた全巻批評を目指します。

マンガ『ワンピース』について知識ゼロから、コミックスを1冊づつ読んでは書いていき、コミックス以外は参考にしません。インターネットも『ワンピース』に関するものは一切参考にしません。ただし、新聞・テレビ・雑誌などにある周辺情報は、積極的に求めないまでも、自然に耳目に入ってくるものについては利用します。

以上のルールを踏まえての全巻批評をこの連載では進めていきます。

乞うご期待!!

まずは序章【巻0】と第1巻の批評【巻1】からお読みください。
第2巻以降の批評も、随時更新を予定しております。

 

【巻0】

『ワンピース』についての事前知識はほとんどない。知っているのは、夏休みに蝉とりでもするような麦わら帽子に半袖半ズボンの姿の少年が主人公だということ、それが格好に似合わず海賊の物語であるということ、そしてワンピースという言葉の響きだけである。それが服のワンピースなのか、 one peace なのか one piece なのかさえ知らない。インターネットで調べればあるていどのことはわかるが、これからマンガを読んでいくので偏見をもたないように、これも見ない。
にもかかわらずこのマンガについて書いてみようと思ったのは、二〇一〇年に第60巻の初版発行部数が国内最多の340万部だったとか、累計2億部を突破したとか、また、これは二〇〇九年の一二月だが、朝日新聞の朝刊に、9ページにわたって広告が掲載されていて驚いたからだ。
テレビのトーク番組やあるいは私の身の周りでも同世代の人がこのマンガについて面白いと口にしているのに、私自身はこのマンガについて全く知らない。特に知ろうとも思わなかったのは好きな絵柄ではなかったからだ。だからこれから全巻を読んで批評するといっても、もしかしたら第1巻で挫折してしまうかもしれないし、あるいは5、6巻で飽きて投げ出してしまうかもしれないし、あるいはまとめて読み出したら面白くて最後まで読み遂げるかもしれない。私としては「世間に追いつく」ためにどちらかといえば最後者を期待しているし、世の中の多くの人が面白いといっているのだからそこには何かあるのだろうからそれを知りたいと思う。何の知識もなく読み始めるのは、読んでいくうちに私の考えが変化していく過程も記したいからだ。
書き方としては、コミックスを1冊ずつ読んではその巻の批評をしてゆくというやり方をとる。だから、第1巻について書いているときは、第2巻以降どのような展開になるかわからないで書いていることになる。ここに書いている「0巻」というのは、まだマンガそのものにはふれていない状態で書いている。近々上梓する『ドラゴンボールのマンガ学』との最大の違いは、『ドラゴンボール~』の方は、連載が終了し、全体を眺めわたすことができる地点から、自由に随所を参照し、その構造を取りだしていたのにたいし、今回の『ワンピース~』は、1冊ずつ読んでは、いわばライブ感覚で批評し、それを積み上げてゆくことにある。

とりあえず、じっさいに読み始める前に手持ちの知識だけで書き出してみよう。
まずタイトル。もしこれが『one peace』だったらどうか。 peace というのは平和とか平穏という意味だ。少年マンガで平和というと偽善に聞こえるし、平穏では冒険が始まらない。となると one piece だが、one piece は辞書的には服(水着)のワンピースが一般的だが、海賊の物語にはそぐわない。 piece という語からはシェル・シルヴァスタインの絵本『ぼくを探しに』(THE MISSING PIECE)が思いうかぶ。これは、失われたピース(かけら)を探しもとめるという「本当の自分探し」の話である。何かの piece であるという前提があると、全体の中の一部ということで喪失した全体性を取り戻す運動がはじまる。あるいはジグソーパズルのように最後の一片ということなら、これも埋めるべき欠如があるということで、最後の一かけらを探すべく旅がはじまる。すでに完結して充足しきったものでなく、一部分、かけらであることが重要だ。
ところが one piece という熟語になると、one とか piece といった断片的な意味の言葉が反転して、ばらばらになっていない、分裂していないという意味になる(水着のワンピースも同じだ)。それ自体で充足したひとつのまとまり。『ドラゴンボール』は七つにばらばらになった球(宝物)を集めることが運動を喚起していたが、one piece ならそれとは逆に一つのものをめぐる冒険になるだろう。
次は「海賊」ということである。海賊は山賊よりカッコいい。山賊は身なりが汚く埃くさいイメージがあるが、海賊はゴシックふうの衣装でオシャレなイメージである。船という閉鎖的な空間に暮しているので疑似家族的な共同体になっている。居住場所は閉鎖的だが、大海原という広大な空間を旅し見聞が広く、先進的なものを媒介する。山賊は山の中で獲物が通るのを待っているだけだが、海賊はこちらから出かけてゆく(交易が盛んな場所で待ち伏せていることも多いが)。同じ賊でも海と山ではアフォーダンスがまるで違うから行動原理も異なる。海は山より環境がはるかに不安定だから環境との戦いもある。
マンガの『宇宙海賊キャプテン・ハーロック』とか、映画の『パイレーツ・オブ・カリビアン』『カットスロートアイランド』など海賊は人気がある。人気のある泥棒は匪賊だが義賊でもある。身なりの面からすると、このマンガの主人公は海賊なのに身を飾っていない。永遠の夏休みにある少年の夢の中としての海賊であるかのようだ。

 

【巻1】

ルフィ

物語はルフィが子供のころの話から始まる。小さな村の少年であるルフィは、村にやってきた海賊に仲間にしてくれと頼むが、幼いからと相手にされない。10年後、青年になったルフィは、海賊になるため小さなボートで大海原に漕ぎだし、仲間を集める旅に出た。
ルフィには謎めいたところがどこにもない。ルフィの顔にある傷がどうしてできたか(根性を見せるため)、ルフィがいつもかぶっている麦わら帽子の由来(船長にもらった)、ルフィがゴム人間になった経緯(ゴムゴムの実を食べた)、といったことが第1話で次々と明かされてしまう。ふつうは少し後になってからのエピソードで、実はこういう由来があったのだと過去を振り返って明かされるものだが(例えばインディ・ジョーンズだと、トレードマークになっているソフト帽や鞭の来歴が明かされるのは映画の3作目だ)、そうしたもったいをつけずに惜しげもなく明快に、ルフィというキャラができあがる過程を、時系列に沿ってどんどん語っていく。『ドラゴンボール』でさえ、悟空には何故シッポが生えているのかという「謎」があったのだが、ルフィにはそうした「謎」がない。ただし、ルフィが子供から青年に成長する10年間は省略されている、いわば「失われた10年」なので、この間に何があったのかは「謎」になるかもしれない。また、ルフィの親がどういう人かはわからない。親がわかれば子供のことは半分わかる。親が謎のままなのでルフィが将来どういう人間になるかわからない。最初は限りなく薄っぺらい人物で、物語の進行とともに厚みが加わってゆくタイプのキャラなのだろう。

シャンクス

ルフィが最初にあった海賊の頭(かしら)がシャンクス。強くてカッコよくて仲間から信頼されていてルフィを守ってくる理想の大人である。「こんな男にいつかなりたいと心から思った」(1)とルフィは思う。ルフィの海賊への憧れはシャンクスによって一層強化される。見本があるからルフィにも迷いがない。理想の大人が海軍にいれば海軍をめざしたかもしれない。
シャンクスは大人といっても20代前半くらいで、青年と大人の中間的な存在だ。それはあとに出てくる女海賊アルビダや海軍大佐モーガンが恰幅のいい大人であり、「大人は悪」という図式になっているのに比べて、シャンクスは大人になりきっていない中間的な存在として描かれている。それは彼の格好にもよく表れている。女海賊アルビダも海軍大佐のモーガンもそれらしい威厳のある格好をしているがシャンクスはとてもラフな遊び人風情だ。ルフィはこのシャンクスのミニチュアである。格好もそうだが性格もそうだ。シャンクスはルフィを守るために海獣に片腕をくいちぎられてしまう。しかしそんなことは気にかけないといった平気な顔をしている。ルフィもまた、どんなピンチでも平気な顔をしている。男の度量ともいうべき、極端な楽天ぶりも受け継いでいる。第1話の時点ではシャンクスがどういう人物であるかはわからない。ただ、シャンクスは睨みつけただけで海の怪物を退散させるほどの迫力があるから、並の人間ではない。来歴には謎がありそうだ。
シャンクスは別れ際、ルフィに帽子を預け、「いつかきっと返しに来い」(1)と言って消える。「返しに来い」という言葉もまたルフィを動かす原動力となる。巻1の時点で、ルフィを動かすのは、宝物ワンピースを探すこと(=海賊王になること)、シャンクスと再会することなど複数あることになる。そして、とりあえずそれらの前段として仲間集めがある。もちろん良き仲間に恵まれることは、宝探しのための手段ではなくて、それじたいが宝なのである。
アルビダとモーガン
ルフィは旅の途中で女海賊アルビダや海軍大佐のモーガンと出会う。彼らは威張りちらしていて、部下や住民を恐怖で支配している。一介の「大佐」が島を支配しているのは奇妙な感じがするが、リビアの事実上の元首として40年以上君臨しているのが「カダフィ大佐」であることを思えば、雰囲気は理解できる。その彼らを倒し、人々を解放し自由にすることが、ルフィの仲間探しの旅の副次的な効果としてもたらされる。ルフィは水戸黄門のようだ。後に出会うゾロたちは助さん格さんである。
ルフィは圧倒的に強いため、アルビダやモーガンとの戦いはあっさりしている。『ドラゴンボール』は長く続く戦いじたいが野球の試合のようなドラマ性をもっていたが、『ONE PIECE』では戦いは欠かせないがそれは最後の締めくくりに過ぎず、物語の主要な部分ではない。たいていはルフィの「ゴムゴムの銃(ピストル)」や「ゴムゴムの鞭」の一撃で勝敗が決まってしまうのだ。物語の主要な部分は人情噺である。ルフィは悟空のように盛り上がった筋肉をしていないが、それは戦いが主要な見せ場ではなく、人情を主軸とした物語を語ることがこのマンガの主題なので、ルフィに必要とされるのは、戦いに特化した身体ではなく、人情のもつれを捌く機転をきかせた行動だからである。
アルビダやモーガンはとても理想の大人ではない。男も女も大人にはろくなのがいない。町の住民の大人たちは寄らば大樹の陰で右往左往するばかりだ。状況を変えるのはルフィのようにその社会に属さず外部から来てやがて去って行くアウトロー、しかも大人のような訳知りでない者なのである。
ルフィの仲間集めは、アルビダやモーガンが暴力や権力(大佐という肩書)といった支配関係(上下関係)とは逆をいくものだ。ルフィの旅はまず海賊のメンバーをスカウトする旅としてはじまる。同じく義賊のヒーロー、ルパン三世の場合、仲間である次元や五右衛門がどういう経緯でつるむようになったのかよくわからないが、命令する親分子分の上下関係ではなく対等な仲間であり、ルパンのことが気にいっているから行動をともにする。ルパンのほうも次元や五右衛門の銃や剣の腕前に一目置いている。

コビー

コビーは女海賊アルビダの雑用係で、ルフィが最初に出会った仲間である。航海の知識などもあり、この先、ルフィと行動をともにするかと思われたが、あっさり別れてしまう。『未来少年コナン』のコナンとジムシーや『ドラゴンボール』の悟空とクリリンなど最初にたまたま出会った仲間が将来の重要な仲間になるのだが、コビーは海軍に入る道を貫徹するのであって、ルフィの仲間になるというふうに人生を変えられることはない。ゾロはルフィによって人生が変わりそうなのだが、コビーは自分が思ったように生きるのだ。それはコビーにとってはいいことだが、このマンガのキャラとしては見放されたということでもある。
コビーはルフィと対照的だ。コビーはいわばルフィの引き立て役である。貧相なコビーが出ることでルフィのおおらかさがきわだつ。ルフィは海賊の仲間に入れてもらいたかったのに入れてもらえず、一方、コビーは釣りに行こうとして海賊船に「間違って乗り込んでしまった」(2)のである。ルフィは希望したのに海賊になれず、コビーは希望しないのに海賊にさせられてしまう。
筆者(私)はまだ1巻しか読んでいないのでコビーがどう扱われるかわからない。コビーは一旦は退場したが、このあと再び重要な役どころで登場するかもしれない。海軍に入ったのでルフィのライバルとなって、しかもそのときにはかなりハンサムな青年になっているだろう。ルフィはコビーの恩人だが、職務と義理の葛藤するだろう。もちろん巻1の時点ではこのマンガがどこまで連載が続くのかわからないので、作者はそんな計画をしていないかもしれないが、話が長く続けば伏線を探し出すときにコビーのことを思いつくはずである。ただし名前がコビー(媚を売るのでそう名づけられたのだろう)ではやりにくい。

ゾロ

ゾロはルフィが最初にスカウトした一人である。ゾロは当初、黒いタオルで頭を包み、腹巻とニッカポッカという土方ファッションの人として登場する。頭に巻いている黒いタオルは、名前がゾロで、「快傑ゾロ」の連想から覆面の変わりとなるものだろう。タオルからのぞいている目は鋭く印象的だが、タオルで眉が隠れてしまうという難点がある。マンガでは表情を描き分けるのに眉の動きを使うことが多いから、眉が見えないということは表情がワンパターンになってしまうおそれがある。そのためか、このタオルはそのうちなくなってしまう。かわりにそれは左のニの腕に結びつけられる。なくしたくないものなのだろう。残った腹巻がルフィの麦わら帽子と同じくゾロのトレードマークになる。
ゾロは剣の達人になるという夢がある。これもまた秘密ではなく、すぐに由来のエピソードが明かされる。剣の達人のイメージとゾロのラフな衣装はちぐはぐだ。このちぐはぐさはルフィが海賊なのに麦わら帽子をかぶっているという点もあわせて考えると、このマンガの戦略なのかもしれない。
ゾロは海賊狩りとして町の人に怖れられているが、意外にやさしい。女の子のさしいれた「おにぎり」が泥まみれになっても食べる。見かけによらないのだ。これはルフィも同じだ。ルフィは海賊になりたいのに、まるで海賊らしからぬカジュアルないでたちをしている。ルフィも見かけによらないのだ。
ルフィがゴムのように伸びるという過剰な身体をもっているように、ゾロは二刀流を超えた三刀流という過剰な剣の使い手だ。そして一人は海賊王を、一人は世界一の剣豪をめざすというように対象的な関係にある。

ナミ

ナミが特別な女性であることはナミの髪を見ればよくわかる。ナミはこのマンガに出てくる女性ではじめての金髪の女性なのだ。第1話の酒場の店主マキノも第3話のゾロにおにぎりをさしいれたリカも、ゾロの思い出に出てくるくいなもみんな黒髪だ。女海賊アルビダも黒髪。だがナミだけが金髪なのである。アルビダを除いて、このマンガに出てくる女性はみな額(ひたい)が広く理知的な顔だちをしていて、髪もショートで、それぞれよく似ている。名前も和風だ。ナミという名前は海に関係する「波」からきているのだろう。『サザエさん』の波平と同じだ。ナミも額が広く髪もショートだが、金髪であることで特別な存在になっている。
海賊らしさとは何か
ルフィは帽子を大切にしている。シャンクスにもらったものだからだが、なぜ帽子なのか。海賊といえば帽子と眼帯がトレードマーク。まさに「少年ジャンプ」のマークがそうだ。だがルフィの帽子は海賊帽子ではなく、西条八十が「母さん、僕のあの帽子、どうしたでせうね?/ええ、夏碓井から霧積へ行くみちで、渓谷へ落としたあの麦稈帽子ですよ」と詩で書くような、センチメンタルな夏の思い出とともにありそうな麦わら帽子なのである。しかも麦わら帽子は1シーズンかぶればすぐへたってしまい、翌シーズンには忘れてしまいそうな消耗品的な作業用の簡易で粗末な帽子である。しかしそれを大事にしているということは、麦わら帽子に象徴される、忘れられやすく、壊れやすく、高級でもないもの、つまり子供の頃の夢を大事に守り続けているということである。帽子に象徴される夢に、いつも頭(思考)は覆われていて、帽子が外形において頭を支配しているように、夢に支配されているのだ。キャラを立たせるための小道具としては、ルフィは『ドラゴンボール』の悟空のように印象に残る髪型をしていないので、作者は、髪型をマンガチックなものにする代わりに(髪型に知恵をしぼる代わりに)、麦わら帽という奇抜なものをかぶせて一気にユニークなキャラにしてしまったのである。
ルフィの目の下の傷は眼帯の換喩だろう。眼帯をさせると印象が暗くなってしまうのでそれは避け、同じく海賊の記号である頬の傷に近いところに傷をつけたのである。奇妙なのは、その傷は戦いでつけられた「勲章」ではなく、自分でつけたものであるということ。子供のルフィは海賊になるために海賊の記号を身につければいいと考えた。頬の刀傷が海賊の記号となっていく歴史を無視して、その結果だけをとりこんだのだ。そうしたイカサマは、海賊になるために仲間を集めるという行為にも表れている。劇団員やバンドのメンバーを募集するような気軽さでルフィは海賊になる仲間を探そうとする。ルフィの世界では海賊は悪とされている。そういう誘いにのってくる人はゼロに近い。私は海賊に関する知識はほとんどないが、常識的に考えて、海賊の起源というのは、既にある集団が困窮して追いつめられるなどして海賊「化」するのであって、はなから海賊をめざして人が集まってくるわけではない。これもまた、頬の傷と同じく、それができあがる歴史を無視して、何の土壌もないところに人工的に海賊なるものをつくろうとする行為だ。いわば社会契約説が社会の成り立ちの始源をフィクションで説明したように、ルフィは海賊の成立を、信じあえる仲間との共同体という理想そのままとして実行していく。海賊ごっこであり、海賊のパロディであるが、それは理想的なフィクションをじっさいやてみようという試みでもある。
子供が大人社会に参入するとき、既にある集団に入っていくことになるので、その集団のルールに従わなければならない。それが嫌なら自分で新しい集団をつくらなければならない。大人たちで構成される海賊の集団にルフィが入っていったとしてもコビーのように雑用係にされるのがオチだ。コビーはルフィが既存の海賊集団に入った場合の悪しき例なのだ。仮に特殊能力をもったルフィが腕力の面で大人たちより強くて、ルフィが船長になったとしても、今度は逆に、そんな若造のいうことは聞けないと大人たちが逃げ出してまとまりがつかないだろう。結局ルフィが自分の実力にふさわしい人望と地位を得るには、もっと大人になるまで待つか、自分を信じてくれる仲間を自分で集めるしかない。後者を選んだルフィはいわば起業家なのだ。

ゴム人間

ルフィはゴムゴムの実を食べたことと引き換えに泳げなくなる。第1話で、泳げないのは海賊にとって致命的だと言われている。海賊をめざすルフィにとって大きな障害があるという設定だ。しかし第2話で小船が渦に呑み込まれたルフィは、泳げないので死んでしまうはずだが、樽に乗って生き延びる。そのことについて何の困難もない。これならルフィは超人であり泳げないことは弱点でも欠点でもない。悪魔の実を食べたことによる代償が小さいのだ。
身体がゴムのように伸びるのは映画にもなった『ファンタスティック・フォー』のリーダーもそうである。超能力としてはゴム人間はそれほどいいとは思えない。ゴムのように伸びても結局は身体の延長であり、鋼鉄の壁のような障壁があれば突き破れない。念力のように遠隔操作できる能力のほうが使い勝手がよさそうだ。村長が言うように「何の役にたつんじゃ。体がゴムになったところで!」(1)。しかしルフィはゴム人間だからアルビダの金棒も海軍の射撃の弾丸も効果がなく、それが決めゼリフのひとつである「効(き)かないねえっ!」にもなるわけで、つまりゴムだからいいこととしては可塑的で防御能力が高くなるということだ。論理的に考えると、反対に、ルフィの身体は弾丸すら受けとめる超弾性体のため、その柔らかい体は武器としては使えないはずである。柔らかい体のルフィに殴られても相手は痛くないはずだ。一方で、ゴムゴムのロケットのように、ゴムの弾性をバネとして使い体を跳躍させることはできる。しかしよく考えると、バネを伸ばすにはそもそも外力を加えなければならない。マンガのポーズを見ると、野球の投手のような格好をすることがあるのでルフィはそれを遠心力でやっているようだ。伸ばされて変形した物体は「フックの法則」により元に戻ろうとする力が生じる。それがゴムゴムのロケットだ。一応理屈はとおっている(もちろんマンガ内部の)。しかしゴムゴムの銃(ピストル)はどうか。これは拳をロケットパンチのように相手に打ち込む技だ。腕が伸びるのはいいとして、それを遠心力のみでやっている。伸ばしたとき元に戻ろうとする力がはたらくから、相手が遠くにいるほど打撃力は弱くなってしまう。遠くまで届いた拳はかろうじて相手にパンチをあてることができるくらいの力しかもっていないはずだ。けれど、ルフィは普段は普通の人間と同じなので、自分で自分の体の弾性率を自由に変えられるのだろう。腕を伸ばすとき弾性率を極度に小さくしていれば、引き戻す力は考えなくてよくなるから、それなりの威力は見込める。なにより相手にとっては意外性があるので不意打ちのぶん効果が高い。『シグルイ』で柄の握りかたを変えることで刀が伸びるのと同じだ。ちなみに、ルフィの腕のポアソン比(伸びた分だけ幅が縮む)については、絵で見ると、腕が伸びたからといって腕がそれほど細くなるわけではないことがわかる。

マンガ表現

ルフィのポーズの特徴は気持ちよさそうに手足をおもいっきり伸ばしていることだ。典型的なのが第1話の最終ページだ。船の舳先で、「海賊王に おれはなる!」と言って両手を空に伸ばし、両足を開いて立っている。肘や膝は曲がっていない。筋肉の表現も省略された棒のような手足だが、こういう身体がルフィの精神的な部分までもよく表している。鬱屈していない、ストレートな心持ちの人物なのだ。こんなに気持ちのいい身体はマンガではめずらしい。あるいは巻1の表紙の絵。こちらも跳び跳ねて両足を開き、片手を空に突き出している(もう片手は帽子が落ちないように押さえている。これは帽子が大事だ、ここに注目せよといういうことを意味している)。また第2話の1ページ目。小船に座ったルフィが甲板でおもいきり両足を伸ばしている。足の裏のサンダルの模様がクローズアップされている。こうしたパース(遠近法)をきかせた絵はこの作者の特徴だが、それも手足を伸ばすせいだろう。こうした伸び伸びした身体を極端化したものがゴム人間である。ゴムのように伸びる手や足は、ルフィの性格の身体的表現でもあるのだ。
このマンガで一番多く使われるオノマトペは「どん!」である。バリエーションとして「どんっ!」「どーん!」「どどん!」「ドン!」「DON!」などがあるが、いずれも擬音語ではなく、擬態語である。人が初めて登場するときや、決めのポーズのときなどに使われる。人だけでなく、建物(p88)、船(p202)、など、インフレぎみに使われている。
「どん!」は重量感のある響きだ。海賊旗(p62)のような軽量物にも使われるように、たんなる物理的な重さではなく、感覚的な「重み」、つまり重要なものなので注目せよということだ。「どん!」がつくと、堂々とした感じ、どっしりした感じ、開けっぴろげな感じ、隠したところがない感じがする。本当は、その「どん!」という言葉で表される存在感を絵として表現しなければならないのだが、マンガではオノマトペも絵の一部なので、これはこれでいいとしよう。
ギャル語の「チョー」がどうでもいいことにでも付くように、何にでも付く「どん!」は、強調の意味が弱くなってゆく。お笑い芸人である夙川アトムの業界用語ネタに「タイトルドン!」「ハイ来た、ドン!」などがあるが、『ONE PIECE』の「どん!」もこれに似て、ちょっとした場面転換を印象づける意味あいになっている。また、「どん」には接頭語としては、まさにそのものであるという強調の意味がある。「ど」を一層強めたものだ。どんびき、どんくさい、どんづまり。オノマトペと接頭語では意味がちがうが、共通するのは、普通とはちょっと程度が違うよ、ということを喚起するときに使われているということだ。

 

『ドラゴンボール』と『ONE PIECE』

『ONE PIECE』は『ドラゴンボール』の連載が終了して2年ほど後に連載開始された。両者ともに「週刊少年ジャンプ」の看板マンガとして長年続いた(ている)。これまでもたびたび『ドラゴンボール』と比較してきたがもう少し続けてみよう。ちなみに作者の尾田栄一郎は鳥山明を尊敬しているらしいので作風が似てきている部分もあるかもしれない。ルフィは『ドラゴンボール』の悟空に似て小さいことにこだわらず(大きなことにもこだわらない)、あっけらかんとして、度が過ぎた楽天家だ。海賊として手持ちが何もない。海賊として必要な設備である船もなく、小船があったがそれすらも壊れてしまう。仲間もいない。ゼロから始めることになる。しかしルフィは馬鹿ではないし、他人に関心がないのではない。よく見ているし人情の機微にも通じている。

このマンガも繊細である。いくつか挙げてみよう。ゾロの子供の頃の記憶に出てきたくいなは女だてらに剣術が滅法強いのだが、「女の子はね、大人になったら男の人より弱くなっちゃうの…」(5)と、デリケートな胸の内を明かす。

海賊という言葉も、海軍に、君らは海賊かと問われたルフィは、「そうだね、一人仲間もできた事だし。じゃ今から海賊って事にしよう!」(7)と答えている。これまでルフィは海賊になりたかっただけだが、ここでやっと海賊になれたということだ。海賊は複数でなければならないとルフィは思っていて、その言葉を慎重に使っているのだ。

ルフィが食べたゴムゴムの実はメロンのような形をしていて表面は唐草模様だが、ルフィはそれを知らずに食べていた。マンガを読みなおすと、たしかにルフィがそれを食べている1カットがある。しかしそれはさりげなく描かれていて見過ごしてしまいそうだ。再読したときも見過ごしてしまい、もう一度ページを戻したくらいだ。ゴムゴムの実を食べたことはルフィにとって一大事なのだが、それがわからないほどさりげなく描かれているのだ。それが意図的な演出だとしたら、この作者は解読するにあたって、かなり手強い相手になりそうだ。『ONE PIECE』はその絵柄に反して意外にしっかり読むことを私たちに要求しているのだ。それは斜め読みでは読みとばしてしまうものがあることを示唆する仕掛けなのだ。

※2011.7.26更新 見崎鉄

 

【巻2】

物語を追いながら分析を加えていこう。
ナミは道化の海賊バギーに取り入るためルフィをグルグル巻きにして差し出す。巻2で驚かされるのは、前半ではルフィが縛られて檻にいれられ、主人公にほとんど動きがないことである。もう少し詳しくいうと、ルフィは22ページでナミにロープで縛られ、91ページでライオンに檻を壊されて解放されるまで拘束された身の上にあった。話数でいうと第10話から第12話にかけてである。アンケート至上主義の「少年ジャンプ」の連載10回の試練をくぐり抜けて一段落したところである。主役を少し休ませて脇役をふくらませていこうということだろうか。ルフィはゴム人間なので、格子の粗いこのていどの檻なら抜け出せるはずだが、作者はそうさせなかった。考えてみれば、そもそも、いくら油断していたにしても怪力のルフィがナミに縛られるにまかすなんてありえないし、ゴム人間なので縄抜けも簡単にできそうだがそれをせず、大砲で打たれて殺されかけるなど、冗談半分に見えた展開が、かなり深刻な状態になっていったのである。
ルフィが手も足もだせない状態なら、ナミやゾロが活躍するしかない。ここはルフィの動きを封じることで、ナミやゾロの動きをみせるために作られた状況なのだ。
ナミはルフィを裏切ったかのように思えたが、そうではなかった。巻2で描かれるのはナミが仲間になる馴れ初めである。ナミは最初計算高い女として描かれるが、無意識のうちにルフィを助ける行動をとる。これは心の底では裏切る人間ではないから仲間にふさわしいということを示すためのエピソードとして必要とされた。そもそもルフィが嫌がるナミをしつこく海賊になるよう勧誘するのは、ナミが可愛い女の子だからそうするのではない。ナミが「航海術」をもっているという合理的な理由からだ。ナミは容姿ではなく、あくまでその技術を買われたわけだ。だがそれがウソくさいのは第2話で登場したコビーも「お前にはどういう訳か人一倍海の知識があるから生かしておいてやってるんだ」と女海賊に言われているのに、コビーがその知識によってルフィにスカウトされることはなく、可愛いナミが選ばれているからである。コビーは海軍に入ろうと思っていたからどうせ海賊になるのを断っただろうと思われるかもしれないが、ナミもまた海賊が大嫌いなのにしつこくルフィは誘ったのだ。しかしコビーにはそうしなかったのである。
ゾロは、縛られたルフィと対称となる。巻1では、ゾロは90ページで登場したときから147ページに至るまで、ずっと十字架に磔(はりつけ)にされていた。ルフィがゾロを助けたように、今度はゾロがルフィを助けることになる。ゾロが脇腹を切られながらも無理をしてルフィを助けたのは、同じ境遇にあった自分を助けてもらったから、そうしないと均衡がとれないからである。
檻に入れられたルフィとナミがピンチとなったところでゾロが二人を救い出しに来る。ゾロは普段は黒いタオルを腕に巻いているが、いざ戦いのさいは、それを頭に巻くことで変身する。ゾロにはルフィのような特殊な技があるわけではないから、戦闘モードに入ったことを外見でわかりやすく示すためにそれが必要なのだ。だが、実はこの救出に入ったさいはまだタオルを頭に巻いていない。タオルを巻くのは、もっと本格的にバギーを倒そうとするときである。ゾロは普段は気持ちタレ目ぎみに描かれることがあるのだが、タオルで目の上側1/3を隠されることで、睨みのきく吊り上がった目になる。同時に目の下側に歌舞伎の隈取りのような濃い影が入り、性格までも変わったかのように見えることになる。
悪魔の実(バラバラの実)を食べているバギーはゾロに斬られても平気だった。ここで、新たに登場した敵、海賊バギーについて考えてみよう。バギーの特徴は二つある。一つは外見がピエロそっくりだということ、もう一つは体がバラバラになることだ。
ピエロの外見をしている残忍な存在は、これまでも物語の中で数々描かれてきた。『バットマン』のジョーカー、スティーブン・キング原作の映画『IT』、『帰ってきたウルトラマン』のナックル星人等々。人を楽しませる道化師が反対に悪魔的存在だったという設定は、道化師を笑っていた人々をぎょっとさせる。ピエロを嗤い蔑んできた人達には後ろめたい気持ちがあるから、それを復讐のように感じてしまう。ピエロの表象はそれじたいに被害者に内在しているマイナス価の行動力を潜ませているのである。バギーは顔の真ん中にぶらさがっている大きく赤い鼻をひどく気にしていて、それを馬鹿にされるととても怒る。ここでもやはりバギーの攻撃性は己に向けられた嘲笑をはねかえすために発揮される。バギーは大砲を武器として使うのを好んでおり、特に「特製バギー玉(だま)」は威力があり、小さな町ならそれ一発で吹き飛ばしてしまうほどである。なぜバギーは大砲にこだわるのか。バギーの赤く大きな鼻はマンガでは黒い球体のように描かれる。これは同じく大砲の玉である黒い球体を類想させる。
マンガでは鼻の描写は省略される場合がしばしばあるように、人間の顔では鼻というパーツは目立たないほうがいい。鼻は呼吸という重要な役割をはたしているとはいえ、空気の出し入れという比較的単純な行為なのに鼻は顔の真ん中に居座って、必要以上に複雑な形をしているように思える。鼻はそれじたい滑稽な形をしているから、目立たないほうがいいとされるのだろう。そうでなければ、禅智内供(ぜんちないぐ)の鼻のように、ただそれが目立つというだけで物語ができてしまうのだ。人はコミュニケーションをとるとき目と口に注目するから、その間にある鼻は目立たないほうがいい。目立つと気が散ってしまうのだ。さて、バギーの鼻はデザイン的にもう一つの意味をもっている。バギーのキャラデザインはこれまでの敵の中でも凝ったものになっている。額には大腿骨が十字に組み合わされた模様が描かれているが、それは鼻の球体とセットで、海賊帽子に描かれたドクロマークと上下が対称になっていると見なすことができる。
バギーがピエロの姿をしていることは、このマンガにおける登場人物の表象をいっぺんに多様化させる方向に道を開くことになった。海賊がピエロの姿をしていることはありえないが、それを許してしまうことは、この先もう何でもありということを認めることになる。そしてその多様さは系統だった統一感のある多様さ(ダイバーシティ)ではなく、まとまりのないてんでバラバラの多様さ(バラエティ)なのである。じっさい、バギーとルフィの戦いにおいては、服装のコードがちぐはぐで、それは異なる価値観の者の対決になっているのである。ルフィやゾロ、ナミといった仲間たちはみんな普段着のようなチープな服装なのに、バギーはそれなりに凝った、威厳のある、その役割にふさわしい服装を身につけている。それはこれまで戦ったアルビダ、モーガンといった敵たちも同じである。現代日本の読者にとって、ルフィたちの服装は無徴で、アルビダやモーガンたちは何らかの「らしさ」が漂っているという意味で有徴だ。バギーはそこへさらに見世物小屋的な猥雑さを持ちこんだのである。この先、手下として登場する猛獣使いや曲芸師も、多様さが連想の向く方向に伸びてゆくことをよく表している。
バギーのもう一つの特徴はバラバラ人間であること。「バラバラの実」を食べたことにより、切断した身体を遠隔で自在に操ることができる。ロケットパンチのような「バラバラ砲」も可能だ。これはルフィのゴム人間と対照的だ。ルフィの場合は身体が伸びるが、バギーは伸びずに切断される。ルフィはワイヤードで、バギーはワイヤレスという違いはあるが、「ゴムゴムの銃(ピストル)」も「バラバラ砲」も意表をつく遠距離まで手が届くという点で同じである。むしろルフィの場合、伸びきった身体の途中が隙だらけで、そこが切断される恐れがあるが、バギーにはその点で弱点はない。海軍大佐モーガンは片腕が斧になっていたし、バギーは両腕を飛ばすことができる。作者には奇形の身体への思い入れがあるのかもしれない。それはこの先どうなってゆくのだろうか。悪魔の実が身体の変形を伴うものだとすれば、多様な身体をもった異形の者どもが多く現れることになるだろう。
バギーがなぜピエロの姿をしているのかはここまでのところなんの説明もない。おそらく悪魔の実を食べたことによる代償だろう。バラバラになる身体は奇術のようなものと認識され、そのため手品との類縁からピエロが想起されたのであろう。一方、ピエロとサーカスとの連想から、手下には猛獣使いとか曲芸師が配置されるのである。海賊たちはサーカスの団員としてのまとまりをもっているのだ。
バギーのもとから逃げ出したルフィたち三人は町でしばし休息する。住民はバギーを恐れ全員町はずれに避難していたが、犬と町長だけが町を守るため海賊に立ち向かおうとしていた。ここでバギーとの争いのさなかに犬と町にまつわる「ちょっといい話」が挟まれる。飼い主が死んだとも知らずその帰りをずっと待っている犬がいる。飼い主との思い出の家がバギーの手下に壊されそうになったとき、その犬が必死に抵抗する。次いで、バギーがとどまっている町はその住民が、40年前に荒地を開拓して少しずつ大きくしていったもので、その町が壊されるのを見かねた町長が立ち上がるというエピソードが語られる。犬にとって飼い主との思い出の家は「宝」であるとされている。一方、ゼロからつくられた町も町長にとって「宝」であるとされている。家を守る犬と、町を守る町長は相似なのだ。拡大され反復されているのである。そう考えると、町長のおかしな格好もよくわかる。実はこの町長は名前がブードルで、見かけも犬のプードルに似ているのであるが、それはこの町長が犬と同じく町を守る立場にあるという物語中での役割の相似をわかりやすく表したものなのである。違う言い方をすると、この町を守ろうとしているものの象徴が犬なのである。そしてこの犬は、海賊たちによる被害を避けるために大切な町から避難している住民と対比されている。住民たちは自分は安全なところにいて町長を批判するばかりだ。犬や町長は海賊たちから「宝」を守るために戦うのであるが、それはこうした多くの住民が海賊から逃げてばかりいることを逆照射してしまう。これまでも海軍のモーガンから住民たちは逃げていた。ルフィは住民たちを批難する言葉を口にすることはないが、逃げずに挑む者たちを支援することで間接的に疑問を投げかけているのである。
巻2では「宝」があからさまなキーワードになっている。ルフィの帽子も「宝」であるとされるように、「宝」は物そのものに備わっている価値ではなく、それを大事にしている人がいるから「宝」になるのだ。人は誰も大切な「宝」をもっていて、それを守るために戦うのは価値のあることだということを町長たちは示している。一方、「宝」は、既に手にしているものではなく、どこかにあってそれを探し求める吸引力を発揮するものでもある。『ONE PIECE』というマンガじたいワンピースという大きな最終的な「宝」をめぐる物語であるから、いろんなものが「宝」の隠喩で語られるのは当然だろう。「宝」である町を捨てて逃げている住民たちは大切な「宝」の価値を理解していないという点で『ONE PIECE』の論理からは批判されるべき存在だ。
「宝」は探し求めるべき価値のあるものであり、そこに辿り着くべきゴールであるから、さらに演繹されて「目的」と等値される。ルフィの仲間たちはみな何かの目的をもっている。ルフィは海賊王になること、ゾロは世界一の剣豪になること、コビーは海軍に入ること。そして、ナミは1億ベリー稼いで村を買うことである。みんなそれぞれバラバラの方向を向いており、寄せ集めといった感じで、仲間意識はあるものの、一緒に海賊をやろうというまとまりとは異なっている。目的は違っているものの、お互いの人間的魅力が吸引力になっているようだ。この点についてはもう少し仲間が増えてから再検討しよう。
目的ということで言えば、ルフィはそろそろ気づいてもいいのではないか。これまでに出会った海賊はロクでもない連中のほうが多いのである。いい人たちであるシャンクやその仲間は海賊の典型ではなく例外だ(もっとも、シャンクが海賊行為をやているのは間違いないから、後にシャンクの嫌な面が描かれることになるだろう。ルフィは今のところシャンクのいい面しか見ていないのである)。ルフィはシャンクに憧れてシャンクのようになりたいと思ったのであって、海賊に憧れて海賊になりたいというのは階層を取り違えているのである。シャンクは海賊だが、海賊がみなシャンクのようだというわけではない。ゾロもナミも海賊は嫌いだったし、住民たちも海賊は嫌いだ。ルフィは反社会的な性格というわけでもない。それなのに何故ルフィはその嫌われる海賊になろうとするかというと、海賊とシャンクを混同しているからだ。ただ、巻2では、海賊への憧れがシャンク個人に由来するばかりではなく、共同体の雰囲気にもあることがわかる。ルフィはバギーの手下が飲んでどんちゃん騒ぎをしているのを見て、「あー楽しそうだなー。やっぽこうだよなー海賊って!」(10)と言ってる。実はここでも取り違いが起きている。海賊の本質は「楽しくわいわいやる」ことにあるのではなくて(それは他の集団にもある)、略奪行為にあるのだ。ルフィは二重に勘違いしていることになる。
バギーの手下、「猛獣使いのモージ」が現れ、ルフィと戦う。モージは巨大なライオンにまたがり、自身も犬のような格好をしている。モージも町長も人間なのに犬に似た姿をしている。『ドラゴンボール』では人身犬頭の国王が出てきたが、このマンガでは今のところそういう人獣混淆のファンタジーはなく、あくまで人が犬に似ているにすぎない。
鋭い牙をもったライオンは獰猛で強そうだが、ただ大きくてパワーがあるというだけでしょせんはただの動物にすぎないので、特殊能力をもったルフィの敵ではない。一撃で倒されてしまい、戦いじたいが見せ場とはならない。この巻で出てきたルフィの新技は、二本の腕を捩ってスクリューのように回転させる「ゴムゴムの槌(つち)」と、腹をふくらませて大砲の玉を受け止めはじき返す「ゴムゴムの風船」である。巻1で出てきたのは「ゴムゴムの銃(ピストル)」「ゴムゴムの鞭」「ゴムゴムのロケット」であった。ルフィの技は体の弾力性や伸縮性を使って既存の何かを隠喩的に模倣するものだ。
次に現れた敵は「曲芸のカバジ」。一輪車に乗って次々と珍妙な技を繰り出す。これも特殊能力ではあるが、鍛錬のたまものであって、ルフィのような超能力ではない。カバジに対するのはゾロ。ゾロの剣技も超絶的ではあるが、鍛錬のたまものであり、超能力ではない。だからカバジとゾロの対決は押しつ押されつで戦いじたいが見どころになっている。
バギーがそれまでの敵と違うのは、猛獣使いや曲芸師のように、有能な手下がいることだ。親分であるバギーにたどりつくには、この二人を倒さねばならない。敵の布陣に厚みが出てきた。作者が敵のキャラを大切に扱うようになった。
以上、巻2の物語を追いながら適宜感想を挟んでみた。以下はマンガ的な表現について若干述べる。
マンガの表現としてはこの巻では魚眼レンズ的な描写がめだつ。地面は水平ではなく、内側に湾曲し、外側に近いものほど拡大して描かれる。例えば、53ページ、56ページ、180ページ、183ページなどが印象的だ。このマンガはパースのきいた絵が特徴的だが、魚眼的な描写ではそれが強調される。
魚眼レンズは極端な広角レンズなので、写り込む像が小さいが多くなる。広角的な絵の特徴は、一枚の絵の中にたくさん情報がつめこめること、像の周囲がゆがむため、極端にパースのきいたものになること。これはどういうことかというと手前にあるものほど大きくなるので、コマの中に絵が描きこまれたとしても手前に配置された主題的な人物は大きくなるということが両立できるのだ。また、パースがきいているので一枚の絵(コマ)の中に動きがある。動きがあるということは、一枚の絵の中に流れている時間がその動きを目で追う分だけ長くなるということでもある。よくアニメの絵コンテのように、コマをいくつも重ねて連続する動きをこまかく描くマンガがあるが、このマンガはそうでなく、コマとコマのあいだに時間的な断絶がかなりあるマンガなのである。例えば41ページではナミが太腿に括りつけた3本の棒を組み合わせて悟空の如意棒のような棍(こん CUDGEL)にするのだが、このとき、ナミが3本に分割された棒に手を伸ばすコマの次に敵の姿のコマが一つ挟まれて、次のコマでは既に長い棍を手にもっているのだ。そのコマには「ガチン、ガチン」という擬音語が書かれている。つまり組み立てる過程のコマを省略し、たった1コマでそれを描いてしまったということだ。このとき擬音語はかなり大事である。108ページから109ページにかけてはルフィが敵を引き寄せて「ガン!」と殴るところだが、ここには殴る瞬間は描かれておらず、殴ったあとのルフィと打ち倒された敵が描かれている。擬音語の「ガン!」が若干遅れて届いた遠雷の音のように空気を震わせて、そこで何が起こったかを描写しているのだ。ルフィの腕に浮かんだ血管も、その腕が何をしていたかを物語っている。このコマは殴ったあとを描いているだけだが、そこには殴る直前のシーンも俊速で畳み込まれているのだ。実は喧嘩ばかりやっている『ろくでなしBLUES』でも印象的なコマはこのようなものであった。
また、50ページから51ページにかけてのコマもそうだ。ここはゾロがバギーを斬るところだが、刀を構えていたゾロのコマの次は、ページが変わって「ズバッ!」という擬音語とともにバギーが輪切りになってる。ここにも初めと結果しか描かれていない。途中の動作は省略されている。
また、65ページに大砲の向きを変えるシーンがある。ゾロが砲口を持ち上げているコマの次にナミの顔のコマが挟まって次のコマでは「ガコン!」という音ともに砲身が180度反転している。最初の動きだしのコマと結果のコマの2つでそれを描いている。これは少しわかりにくかった。砲身の動きの途中がないからだ。私は最初、砲身が横に180度回転したのかと思ったが、再読したら、それは垂直方向に回転していることがわかった。それはゾロがのけぞるような格好をしているからなのだが、ゾロが小さく描かれているためわかりにくかったのだ。
省略的な描写はこのような動きの省略ばかりでなく、出来事の省略にまで及んでいる。例えば67ページから70ページのあいだにルフィのロープはほどかれているのだが、ロープをほどく場面は描かれていないので、読者は違和感を覚える。もちろん、その間にゾロがほどいてやったのだと推測することはできる。しかしそれは奇妙なのだ。また82ページから83ページにかけて、脇腹を刺されたゾロがほんの3コマのうちに、町長が自分の家に「休ませてきた」というセリフがあるだけで、ゾロが家の中に運び込まれる描写はないままそうなっている。
この巻で取り上げてみたい擬音語は次のような歓声だ。いずれもマジックインキのようなもので手書きされている。
「ひゃっほーう」(30) 「ういやっほーう!」(34) 「ひゃっほーう!」(45) 「ひゃっほーう」(141)
これはみな、バギーの手下の海賊どもが騒ぎ立てている声である。「やっほう」が変化したものだろう。いかにも悪いやつらが集団になって獲物をいたぶって嬉しがる感じがよくでているする。

※2011.8.16更新 見崎鉄

 

【巻3】

バギー(その2)

バギーとの戦いが本格化する。ルフィとバギーというどちらも特殊能力をもった者どうしの戦いである。巻1のところで、ルフィの身体が伸びることの弱点として伸びきったときにスキができると指摘しておいたが、バギーはその弱点を突いている。「面白ェ能力だが…! 伸びきった腕はスキだらけだな!」と刀で切ろうとする。しかしルフィもそうはさせじと「ゴムゴムの鎌」で応酬する。ただしゴム人間は弾丸には抵抗できるが、刃物には弱いという点は変わらない。
バギーも多彩なバラバラ攻撃を繰り出す。防御としての「バラバラ緊急脱出」はよく思いついたものだ。「バラバラ砲」の2段階切り離しとか、さらに細分する「バラバラファスティバル」など、身体がバラバラになるというだけなのに、それをどう活かすかについて作者はよく考えている。
バギーの弱点は身体はバラバラになってもその感覚は全体につながっていて、残された部分を攻撃されると遠隔移動しているほうにも影響がでるという弱点がある。一方、ルフィのほうはゴムのように伸びるという特性のほかに格闘センスじたいが優れている。バギーはバラバラになることに頼りすぎているのに対し、ルフィはゴムゴムはあくまで決め技として使うだけなのだ。
シャンクスとバギーの因縁も語られている。バギーは悪魔の実を食べたせいでピエロのような顔になったのではなく、昔からそう生まれついていたのだ。かつては鼻だけがピエロのようだったが、のちに唇もピエロのように塗るなど、鼻という負の特徴を中心にアイデンティティを形成していったのだ。また、悪魔の実はそれを食べたことによる能力はさまざまなのに、その代償は非対称で、一律に泳げなくなるものだということがわかる。

ウソップ

巻3で新たに登場した重要人物はウソップである。作者はかぶりものが好きらしく、ウソップも頭にバンダナを巻いている。他にも、左手にこれまた作者が好きな縞模様に塗り分けられたサポーターをし、また大きなガマ口(ぐち)を肩にかけている。このガマ口はそこに何が入っているかはわからないが、ウソップはたんなる嘘つきではなく、見かけの他に隠しもった何かがあることの隠喩になっている。縞模様といえばあとに出てくる執事のクツも縞模様だし、手下だるジャンゴの顎もファラオのマスクのように伸びた縞模様になっている。
ウソップはその名のとおりイソップとイソップ寓話のひとつである嘘つきの狼少年を混淆させたものだ。バギーのエピソードでもプードル犬に似た町長の名前がブードルであったように、このマンガでは名は体を表すという名詮自性の論理がしばしば使われている。子分のピーマン、にんじん、たまねぎはその名前そっくりの外見で描かれている。ウソップの鼻がとがっているのは嘘をつくと伸びるピノキオの鼻からきているのだろうし、唇が厚く目立っているのは、しゃべるのが特技だからだろう。ウソップのとがった鼻はバギーの丸い鼻とは正反対だが、目立つところは似ている。
はるか古代につくられたイソップの寓話は動物ものが多い。人間と動物はまだ親密な関係にあったのだ。ウソップはそれがベースにした名前が示すように、このマンガに人間と自然が分化する以前の不思議な世界の文法を持ちこむものだ。魔法的な出来事が通用したり、不思議な生き物が住んでいたりするような世界なのだ。もちろん、これまでにも悪魔の実のような魔法が存在したのだが、それはこの世界では極めて異例なことであった。ゴム人間であるルフィを見てナミは「あんた一体何なのよっ!」(15)とか「人間業(にんげんわざ)じゃないもの!」(16)と驚愕している。つまりそれは魔法がありふれた世界ではない、普通の人間が暮している世界のルールを保持しているということだ。ところが、バギーの話が終わって、ウソップの話に移るあいだに差し挟まれた宝箱に詰まって出られなくなった男の話からおかしくなってくる。この島には鶏のような犬、兎のような蛇、ライオンのような猪が住んでいるのだ。世界の文法が狂いだしている。これは次のウソップの世界を予感させるものだ。魔法的な世界は異例ではなく、普遍的になろうとしているのだ。作者は『ONE PIECE』をどのような世界観で描くか模索していて、ここにきてようやくそれがメルヘン、あるいはファタジーの方向にしようと固まってきたのではないだろうか。
勘違いしやすいが、狼少年とは嘘つきの少年のことではない。その語が由来する寓話を別の面から解釈すれば、言ったことを本当のことにしてしまう言霊の能力をもった人のことなのである。ウソップはたんなる嘘つきではなく、狼少年というコンテクストを背負っており、狼少年の能力は、嘘をつき続けているうちにいつしかそれを本当に実現させてしまうことにある。違う言い方をすれば、嘘を実現する者を呼び寄せるということだ。大富豪のお嬢様の執事は、いっけん真面目そうに見えるが、ウソップの嘘が本当のことに逆転してしまう世界では何かが逆転せざるをえないから、一番真面目で誠実にふるまう者ほど裏で悪事をはたらいている。執事は真面目そうにふるまうぶんだけ悪役にでなければならないのだ。
ウソップは嘘をついたり本当のことを言ったりする。執事も表の顔と裏の顔をもっている。道化の海賊バギーも二つの顔をもっていた。それは道化師という存在性格がそう見せるものだ。道化師が人前に見せるのは、化粧で厚く塗られて隠された表の顔だが、その他に、化粧を落とした裏の顔をもっている。道化師という言葉から人々が連想するのはそうした二面性だ。この物語にはそうした「騙し」がいくつも重ねられている。
ウソップはルフィとどこか似ている。ルフィの海賊王になるという夢は、あまりに大きくて他人にはホラに聞こえる。ウソップも自分は大海賊団のキャプテンだなどといった大ボラを吹くが、それはホラだと自覚している。自覚しているからそれは嘘になる。
ウソップは「海賊が攻めてきたぞーっ! 逃げろーっ!」とウソをつく。村人があわてふためく様を見物して「はー、今日もいい事をした! このたいくつな村に刺激という風を送り込んでやった!」(23)と楽しんでいる。愉快犯なのだが、見方を変えれば、毎日、緊急避難訓練をしているとも思える。そもそもウソップはなぜ嘘をつくようになったのだろうか。彼の父親は海賊になるため幼い息子を置いて島を出てしまった。ウソップに母親がいるのかはわからない。ウソップが「海賊が攻めてきたぞーっ!」と嘘をつくのは、海賊になった父親に戻ってきて欲しいという願望だろう。そして平和で退屈な暮しをしている村人のようにではなく、父親のように生きたいのだ。
実はウソップが「海賊が攻めてきたぞーっ!」と叫ぶのは嘘ではない。海賊は執事になりすましてカヤの家に潜り込んでいたからだ。ウソップ自身、自分の言っている言葉が何を意味しているか気がついていなかったのだ。

箱男

ここで、バギーとウソップのあいだに挟まれた箱男の物語について若干ふれておく。箱男はそうした「騙し」に対極的な誠実さを象徴する。箱男の物語はバギーの物語を一旦忘れさせ、仕切りなおす役目をはたしている。
箱男は人をあざむくには極端に不自由すぎる。むしろ彼は宝箱の中身がカラであることも確認できずに20年も過ごしたのだ。宝を見るためには大岩の上に登らなければならないが、地を這ことしかできない箱男にはそれができない。箱男は人をあざむくよりむしろ自分をあざむく者である。箱男は結局ルフィによっても救出されなかった。20年のうちに体が箱に「ミラクルフィット」しており、箱を壊したら体がいかれてしまうからだ。箱男はいろんなものの象徴である。箱男のいびつな体は、海賊の財宝を獲得したいという欲望にとりつかれた者たちのいびつな欲望の象徴である。また箱男が大切に守ってきた宝箱がカラだったというのは、ひとつなぎの財宝であるワンピースも、もしかしたらそんなものは存在しないものなのかもしれないことを暗示している。そして宝を守るうちに、いつしか島の珍獣たちに愛着がわき珍獣を守ることが生きがいになったように、宝探しは宝そのものが重要ではなく、宝を見つける過程が重要であり、それじたいが喜びなのだということを教えるものだ。そもそもルフィはワンピースを見つけてそれで贅沢な暮しをしようというわけではない。ただ海賊王の名誉が欲しいだけだ。このマンガはその最初からワンピースという目的は、目的それじたいではなく、別のものが指向されていたのである。
箱男のエピソードで、このマンガの地理が具体的に説明される。地球は紐のように細長い陸地が惑星を一周して海を二分しているという、神話的な配置になっている。こういう不思議な地形では、いろんな不思議なことがおこりそうだ。松本零士の『惑星ロボ ダンガードA(エース)』のプロメテがちょうどこんな感じだった。

キャプテン・クロ(執事)と催眠術師ジャンゴ

富豪のお嬢様カヤの執事クラハドールは海賊のキャプテン・クロが化けた姿なのだが、この執事には眼鏡を両手で「クイッ、クイッ」と持ち上げる癖がある。それはマンガのキャラ造形として面白いのだが、一方、私たちの現実においても、眼鏡がずり落ちるのを気にしてブリッジの部分を指で押し上げる人がいて、それはじっさいにずり落ちるのを防ぐほかに、緊張をやわらげる、間を持たすといったような意味合いでブリッジに触れる場合がある。この執事が眼鏡を神経質に気にするしぐさを見て読者は、この執事の無意識のふるまいには何か隠されているものが違うやり方で露にされているのだと感じるのである。眼鏡がきちんとかけられているかということに絶えず気を使うのは、この執事の芝居の役がうまくこなせているかということに絶えず気を使っているということだ。
執事とカヤは対照的だ。執事は黒髪で上下黒服なのだが、カヤは髪も服もベッドもシーツも枕もみんな白だ。アニメなどでは着彩されるかもしれないが、白黒二価のマンガでは白なのである。執事の仲間のジャンゴも黒い帽子に黒いスーツと、これまた同類であることを示している。
面白いキャラクターがまた一人出てきた。「うしろ向き男」こと催眠術師ジャンゴである。ジャンゴは海賊クロの手下だ。『鏡の国のアリス』の住人のように背中からあべこべの向きに歩くのである。マイケル・ジャクソンのムーン・ウォークをパロディにしたものだ。黒い帽子や足つきなどもマイケルを模している。「うしろ向き男」のあべこべは、黒人のマイケルがあべこべに白人になろうとしたように、嘘と本当が反転するこのエピソードを象徴している。誠実な執事は実は財産の乗っ取りをたくらむ海賊で、にもかかわらず彼はウソップを誹謗して、「財産目当てにお嬢様に近づく…!」「何か企みがある」(25)と言っている。それは自分のことなのにあべこべに他人に向かってそう言うのである。ジャンゴは催眠術師なのに、あべこべに自分が術にかかって寝てしまう。催眠術というのもまた、起きている状態とはあべこべの状態にしてしまうものだ。
ウソップはカヤの屋敷に忍び込んで口からでまかせの物語を聞かせてはカヤを慰めている。ウソップの嘘は、たんなる嘘ではなく物語作者としての才能が発揮されたものだ。アラビアンナイトのようにカヤに聞かせるには作り話という枠組みがあるからいいのだが、村人の日常にそれを直に持ちこむと嘘になってしまうのである。海賊クロは「計算された略奪をくり返す事で有名」(26)である。クロとの戦いはバギーのように体を使った戦いではない。頭脳戦だ。クロは「忠実な執事がお嬢様から遺言で財産を相続する」という物語を3年かけて築きあげた。それを打ち砕くためにウソップによる対抗物語が必要なのだ。
このマンガの特徴のひとつに回想が多いことがあげられる。回想部分はコマの枠線の「外側が黒く塗られるのでよくわかる。この巻では、バギーとシャンクスの若い頃、箱男が箱のはまった経緯、ルフィとウソップの父親とのからみなどが回想されている。回想は過去を謎として持ち越し引きずるのではなく、その場ですぐ解き明かしてしまう。明快でじれったさがない。また、時間的な現在だけでなく過去を織り込んでゆくことで物語に厚みが出る。

※2011.9.5更新 見崎鉄

【巻4】

ウソップ(その2)

執事クラハドールの正体を知ったウソップは、海賊が攻めてくると本当のことを言ったが、誰にも信じてもらえなかった。そのため村人たちに知られないように海賊を退治しようとする。「おれはこの海岸で海賊どもを迎え撃ち! この一件をウソにする! それがウソつきとして! おれの通すべき筋ってもんだ!」(27)と決意する。『ONE PIECE』にはこういう、ちょっと気のきいたセリフがときどき入っている。それがほとんど「名言」のない『ドラゴンボール』とは違うところだし、これだけ広い読者を集めているゆえんだろう。またこうしたセリフは『ガンダム』の「名言」のようにヒネったものでもない。ベタでストレートである。しかし心意気が感じられる。セリフは『ONE PIECE』のキャラクターの人気の大きな部分を占めるのではないか。このマンガは全般的にセリフがよく考えられている。作者は小説家になってもそこそこのものを書くであろうことを思わせる。
ウソップの嘘に話を戻すと、巻3のところで、「嘘が本当になる」と書いたが、巻4では「本当が嘘になる」のである。ウソップは「嘘つき」というアイデンティティを保持しつつ、同時に「嘘つき」であることのけじめをつけようとするのだ。そのけじめの付け方は海賊と戦って死ぬかもしれないという代償である。しかしウソップはそうした試練をくぐりぬけることで負のアイデンティティを清算し、ルフィの仲間になることができるのである。
巻3のところでウソップがいつも肩から下げているガマ口(ぐち)が大きいので、中に何が入っているか気になると書いておいたが、巻4でその中味が明かされる。鉛玉を飛ばす強力なパチンコが入っていた。パチンコはゴムを使う飛び道具であることからわかるように、パチンコはウソップにとってルフィの「ゴムゴムの銃(ピストル)」である。ルフィはいつも手ぶらで戦うが、ウソップのような普通の人間には何か武器が必要なのだ。そのウソップのガマ口はパチンコと玉を入れるだけにしては大きすぎる。そう思っていたら、海賊との戦いでガマ口を「ゴソゴソ」さぐって「まきびし」をたくさん出したて。ドラえもんのポケットのように、たぶんこの先も状況にあった秘密兵器が出てくるのだろう。ウソップのバッグは特殊能力の代わりなのだ。

キャプテン・クロ(その2)

キャプテン・クロのクロとはクロネコのことだった。海賊船の舳先にも黒猫のデザインが付いている。これまでの海賊はシャンクス、バギー、アルビダなど洋風だったが、クロネコは日本語である。またその固有名が外見と一致している。「赤髪のシャンクス」や「道化のバギー」の場合は、名前の前に外見を表すニックネームがつけられていたが、クロの場合は「黒猫のナントカ」ではなく「ナントカのクロネコ」なのである(これは巻5では「百計のクロ」であるとされている)。クロの武器は猫のような長い爪である。映画『シザーハンズ』の主人公のように両手指の先が長い刃物になっている。その手下もやニャーバン兄弟など、猫にかかわる扮装である。
クロの目的はわかりにくい。海賊という海軍に追われるような生き方をやめて、平穏な暮しをしたいという。そのために富豪の財産を乗っ取る必要がある。財産といっても海賊が求めるような金銀財宝ではなく、その多くは土地や家屋敷といった不動産であろう。それを手に入れるということは、その土地に住まねばならないということだ。海の上を漂泊する生活から陸に定住する生活に変化しなければならない。クロは乗っ取り計画に三年を費やす。忠実な執事としてふるまい、両親をなくし孤独なお嬢様を油断させ遺書を書かせた後で手下の海賊に襲わせて殺す。同時に、一連の出来事が不自然に見えないように村に溶け込む。そして「ここで3年をかけて培った村人からの信頼はすでに、なんとも笑えて居心地がいいものになった」(34)と述懐する。クロは村を支配したいのではなく、村人と仲良くやっていきたいようだ。クロは正体を隠し仮面をかぶっていたのだが、いつかその仮面が本当になってしまっていたのである。仮面(嘘)がいつのまにか素顔(本当)と逆転してしまった。
作者はなぜクロを執事にしたのだろうか。普通はお嬢様であるカヤの恋人にでもするはずだ。恋人なら結婚してカヤの財産も問題なく相続できる。カヤを殺すならそのあとでもいい。深窓のお嬢様が流れ者に恋をする物語はいくらでもある。お嬢様が遺書で執事に財産を譲るというのも飛躍がある。そもそも正体がよくわからない者を執事にとりたてるものだろうか。その家のしきたりなどルールも知らないはず。せいぜい使用人どまりだ。カヤの両親はふらっと村に現れたクロを、カヤの話し相手として雇ったのかもしれない。
クロが執事なのは問わないとして、カヤがクロに信頼以上の恋愛心を寄せているようになったということであれば、のちにそれが結婚につながり相続も問題ない。カヤがクロに眼鏡をプレゼントするというくだりがあるので、淡い恋心のようなものはあったのかもしれない。そうであれば、クロはかつての仲間の海賊の力を借りなくても財産を乗っ取ることができただろう。しかしクロとカヤが恋愛関係にあると困る人物がいる。ウソップだ。家に閉じこもって一人きりのカヤはウソップが話すとほうもないウソに夢を見ていた。しかし恋人がいれば恋人が幻想を見せてくれるのでウソップは必要なくなってしまう。つまりカヤとクロが恋人になってしまうと、擬似的な恋愛関係にあるウソップが物語上、入り込む余地がなくなってしまう。だからクロはカヤに対して執事という大人の立場に立つにとどまる。だがここには微妙な三角関係があるらしいこともたしかだ。
巻3のところで、このマンガは、名は体を表すという名詮自性の論理で描かれていると書いた。では執事らしい執事の姿とはどういうものだろうか。それはいっけん、黒づくめの正装をし頭髪をオールバックになでつけたクラハドール(クロ)の姿がそれであるかのように見える。しかし子供たちが「執事」を「羊」と聞き間違えたように(第25話)、このマンガの中では、執事の正しい名詮自性の姿は「羊」として描かれるのである。その正解の姿がもう一人の執事である。彼は羊そっくりの顔をしている。クロにより瀕死の重傷を負わされる。カヤが倒れている彼を見つけて「メリーッ!」とその名を叫んだとき、「プッ」と吹いた読者は少なくないだろう(第31話)。実はこのメリーは既に第24話で1カットだけその姿を見せている。作者は用意周到にも執事の正しい姿は羊であることを読者に示していたのである。その正しい執事の姿に比べると、クラハドール(クロ)はいっけん執事らしい格好をしてはいるが、本当の執事の役をはたしていないことをその姿によって明らかにしていたのだ。クラハドールのスーツにはウンコのような模様が描かれている(作者は読者からの質問に、それはウンコだと答えている(巻4、110頁)。つまりクラハドールは執事のふりをしているが、そんなものはクソだとその姿で伝えているのである。

催眠術のジャンゴ

クロが船を降りているあいだ新たに船長になったのがジャンゴである。だがマヌケな感じのジャンゴは船長などという器なのだろうか。ジャンゴの催眠術は意外な使われ方をする。手下どもに「傷は完全回復し! だんだんだんだん強くなる!」(30)という暗示をかけると、本当に人間以上の馬鹿力を発揮するようになるのだ。ジャンゴの催眠術は魔術ではない。しかしそれは魔術のような効果をもっている。船長の資質は部下を操り指揮する能力だとすれば、ジャンゴは催眠術という操作能力をもっていることになる。それは船長としては過剰な操作能力だともいえるが、部下からすれば、自分の能力以上のものを引き出してくれるすぐれたリーダーということになる。
ジャンゴは登場したときこそマヌケな役だったが、次第に船長らしくなってくる。ジャンゴはウソップの俺には一億人の部下がいるという嘘に簡単にだまされてしまい、手下に「なんて信じやすい人だ…!」(29)と呆れられている。その信じやすさは、ジャンゴが自分の催眠術に自分がかかってしまうというということに代表される。しかしその欠点は第30話で克服される。「ワン・ツー・ジャンゴ」で催眠術にかけるのだが、最後に帽子のツバで「さっ!」と目を隠すのだ。もともとジャンゴはきどって帽子に手をあてる癖があったのだが、それが伏線としてここで見出されている。
一方、ルフィも簡単に催眠術にかかってしまう。ナミは「なんて単純な奴なの、人の催眠にかかるなんて」(30)と言っている。作者は、読者からの、ルフィはどうしてあんなに緊張感がないのかという質問に対し、「ばかだから」と答えている。実はマンガのヒーローというのは強いけれど頭が悪いという設定が多い。『ドラゴンボール』の悟空もそうだし、『ろくでなしブルース』の大尊もそう。『ONE PIECE』のルフィも簡単に催眠術にかかるなど「単純さ」が強調される。三年越しの長期計画をたてる海賊クロとは対照的だ。ルフィが単純だということは人を騙せないということだ。逆に鉄人28号と同じように、他人に操られることがある。それは良い意味では利己的な理由では動かないということでもある。強大な力を自分のために使わない。ルフィは理屈ではなく情で動く。このマンガに特徴的なセリフの一つに「おれはお前が好きだ/嫌いだ」というものがある。好きなもののために動く。善か悪か、正しか間違いかではない。ウソップは「おれはこの村が大好きだ! みんなを守りたい…!」(27)と言い、それを聞いたルフィらはウソップを好きになり加勢するようになる。これまではルフィが信じたものがたまたま読者も共感できるような正しさのあるものだからよかった。しかしルフィがへんなものを好きになったらどうなるのか。実はそうはならない。それがルフィは「ばか」だからという設定だ。「ばか」だから人の自然な情理に沿ったものしか受け入れない。多くの人が共感するものから大きく逸れることがない。ところが理屈で動くと、ちょっとした論理の違いが大きなズレを生んでしまう。例えば『デスノート』では頭脳明晰な主人公が世の中をよくしたいと思い人を殺す。だがルフィは世の中をよくしたいとも思っていない。そもそも全員が共有できる善なるものを探すのは難しい。だからその場その場で好きなもののために動くしかないのだ。
NHKの『クローズアップ現代』で『ONE PIECE』が特集されたことがある(二〇一一年二月九日放送)。未見だが、番組情報によると、マンガの登場人物たちの「強い絆」に焦点があてられているらしい。NHKのことだから、無縁社会を生んだ現代社会の孤立した人々のありようが理想を求めてヒットしたとか、絆の大切さが参考になるとかいった解説をしたのではないだろうか。ルフィが仲間を大切にしているのは確かだ。問題はルフィは誰も彼もを仲間とみなしているわけではないということだ。ルフィが「好き」になった者はしつこく仲間に勧誘し、そうでない者は去り行くにまかせ、さらに「嫌い」な者はやっつける。仲間は大切にし守るが、仲間とみなさない者にはたいして気をつかっていない。ルフィは海賊に襲われた町に来ても、そこを逃げた住民たちのために戦うわけではない。残って侠気を見せる一人のために戦うのだ。ルフィが「好き」になる条件はかなりハードルが高い。よほど勇敢でなければ気に入られない。このマンガを「仲間との絆を大切にする」という観点から読んで感動するのは結構だが、それは非常に狭い仲間のことでしかなく、仲間には強い勇気や潔さや相互の信頼といった高い仁義立てが求められていることを忘れてはならない。
ルフィは仲間たちと行動をともにしているが、彼らの目的は一致していない。例えば、ルフィやゾロはウソップとともに村を守るために戦うのだが、ナミは宝のために戦うと方向性が違う。ルフィは「結果オーライ それがお前だ!」(34)とナミを認めている。ナミはちょうど『ルパン三世』の峰不二子みたいな感じでルフィたちと行動をともにしているのだ。海賊になりたいルフィが盗賊であるルパンだとすれば、ゾロは石川五右衛門、パチンコを飛ばすウソップは拳銃の名手である次元大介だ。

ルフィ

この巻ではルフィの謎が指摘されている。ゴム人間だから崖から落ちても船の下敷きになっても体が柔らかいから死なないという理屈はとおる。しかし一方で刃物で斬られることに対しては弱いとされていた。しかしジャンゴのチャクラム(円盤状のナイフ)が頭部に刺さってもなんともないのだ。ジャンゴはルフィがゴム人間であることを認めたうえでこう言う。「だがおれのチャクラムをくらって立ってられるのはどういう理屈だ!?」(35)。ルフィにはまだ謎がありそうである。

ゾロ

ゾロの三刀流はよくわからなくなってきた。三本目は口にくわえているから可動域が狭く防御にしか役立たない。しかも刃は片側を向いているから体の片方の側面しか守れない。しかもそちら側の手の動きを肩以上に動かすのに妨げになるし、刀がからまりあってしまう。防御力が低い割に攻撃力の妨げになる。まったく合理的ではない。モーガン率いる海軍のときはそれでも一度に大勢がかかってきたから防御になっていたが、曲芸のカバジやニャーバン兄弟のような少数の相手と戦うときは二刀流で十分だろう。にもかかわらずゾロが三刀流にこだわるのは、もちろん幼なじみのくいなの思い出のためである。くいなと一緒に世界一の剣豪になるためだ。ゾロにくいなが憑依しているから強くなっているともいえる。ジャンゴの催眠術のようなものだ。ゾロは自己催眠をかけているのである。また、三刀流くらい過剰でないとルフィについていけないからだ。
ゾロには「鬼斬り」とか「虎狩り」といった決め技がある。技の名前は違うが、そこで何が起きているかは、コマの途中を省略する描き方をする作者ゆえによくわからないのだ。名前から想像するしかない。

小道具

海賊クロのエピソードでは眼鏡がよく使われている。クラハドール(クロ)にはメガネをくいくいともちあげる癖がある。それはたんなるキャラを立てるためのもので行為自体に意味はないと思っていたが、あとでたびたび言及されることになる。お嬢様はクラハドールの眼鏡がズレるので新しい眼鏡をプレゼントしようとする。また、彼が両方の掌底で眼鏡を持ち上げる妙な仕草は、長いツメを装着したときツメで顔を傷つけないようするためだということが明かされる。何事にも意味があるのだといことを仄めかしている。しかし、この眼鏡は戦いの途中でレンズが割れてしまうがクロはそのことにさして不便を感じていないようだ。それならそもそも眼鏡は必要ないではないか。しかし執事としてきちんと見えるように眼鏡は必要とされ、眼鏡のずり落ちをなおすことは執事の几帳面さのあらわれとされる。ところがクロは執事を装うようになる前の海賊の時代から眼鏡をかけていたことが回想でわかる。クロは海賊というよりもともと執事に向いていたのだ。
ジャンゴも眼鏡をかけている。ハート型のサングラスだ。クロが普通の眼鏡をかけているので、反対に装飾的にしたのだろう。ウソップは海賊を迎え撃つときにゴーグルを着用する。ゾロの黒いタオルと同じく、戦闘モードに入ったということだ。敵のキャプテン・クロネコやジャンゴがメガネを着けているので、敵にあわせたスタイルになっともいえる。作者の小道具好きはますますキャラデザインを多様なものにする。
ウソップはクロに似ている。二人ともカバンを持ち、メガネをかけ、周囲の者に嘘をつく。クロは猫爪を装着するための道具をカバンに入れて持ち運び、ウソップは戦闘モードにはいるとゴーグルをつけるのだ。

舞台

これまで、海賊に蹂躙される被害者として、必ずその地域の住民がセットで出てきた。ルフィはその住民たちの一部とふれあうことで彼に共感し村や町を守ろうとする。ところでその住民たちは何の仕事をしているのかよくわからない。いずれも港町なのだが、住民たちが漁に出たり交易をしたりといった様子は描かれないからだ。街並は立派で、各種商店がある。海賊バギーのエピソードでは酒場やドッグフード店もあるので、分業が相当すすんでいる町だったことがわかる。彼らは町や村全体で自給自足しているようにも見えるが、これだけ海賊が盛んだということは、海上の交易もそれだけ盛んだということだろう。カヤお嬢様は隣町の眼鏡屋にクラハドールの眼鏡を注文していた。自分の村には眼鏡屋がなかったのだ。カヤやウソップが住んでいるのは「村」と呼ばれている。一方、眼鏡屋などがある隣町は「町」だ。「村」は集落地、「町」には商店がある。バギーが占拠したのは「町」と呼ばれている。それにひきかえ海賊クロは大きなお屋敷とはえ、たかが村の屋敷の財産を狙って満足なのか。実はこの屋敷はウソップに言わせると「この村に場違いな大富豪の屋敷が一軒たってる」(23)。おそらく何か事業をやっているのだろう。そして、この村で船をもってるのはその家だけだという。やはり村の住民たちは海に関わる仕事で生活しているのではなさそうだ。小さな船でちょっとした漁に出ることはあるかもしれないが、大きな船で本格的に漁業をやってい漁村ではない。
会社もあるのかもしれない。そのように使い分けられているようだ。人が眼鏡の需要はそれほど頻繁にあるものではない。カヤの村では、遠くの町まで買いに行くのではなくかねばならないものでもない。

※2011.10.4更新 見崎鉄

 

【巻5】

海賊クロとの決着がつくこの巻では、いくつかの伏線が回収されている。伏線とはいっても事前に伏線として張られたものというより、事後的に見出されたものである。
ウソップの顔は鼻が伸びていることに特徴があり、それはピノキオから来ているものであるのだろうが、第40話では、勇敢な働きをした仲間の子供たちを相手に、「おれはキャプテンとして非常に鼻が高い!」と誉めている。またウソップが「海賊がきたぞーっ!」という嘘をつくことについて、前のほうで、それは海賊になった父親に戻ってきてほしいという願望がこめられたものだと指摘しておいたが、作者も第41話でまったく同じ解釈を示している。ウソップが初登場のとき海を眺めていたのも父親が来ないか見ていたのだと解釈できる。ウソップが嘘をつくようになった起源も語られる。それは病気の母親をなぐさめるためだった。カヤの元に通ったのも、同じく病気のカヤをなぐさめるためだったのだ。また、ゴーイング・メリー号に積んであった大砲を撃つ練習をしているとき、ウソップは飛距離を考慮し優れた命中率をみせたので狙撃手に任命されるが、この技術はパチンコによって培われたものだ。ウソップは狙撃の名手となることで、嘘つきというアイデンティティから狙撃手へと移行できたのである。このように、このマンガではいろんなことに丁寧にオチがつけられていく。オチがつくということは、それぞれのことについて意味があるということである。作者が最初からきっちりとオチを考えて伏線を張っていったかどうかわからない。たぶん違うだろう。というのも、回収されない重要な伏線もまた無数にあるからだ。例えば、クロは海賊の時代からなぜあんなきちんとした身なりをしていたのか(髪をなでつけ、眼鏡をかけていて、そのまま執事として通用している)、ジャンゴのなぜハート型の眼鏡をしているのか、ニャーバン兄弟は似ていないが本当に兄弟なのか、カヤの家はなぜ「場違い」に裕福なのか、他にも無数にあるが、そういったことはわからないままだ。おそらく伏線は後から見出されたものだ。作者もまた自分の作品にたいする読者となって解釈を示しているのである。

 

キャプテン・クロ(その3)

クロはバギーのように悪魔の実を食べたわけではない。特殊能力をもっているわけではない。その代わりルフィと対等に戦わせるために作者は「猫の爪」をもたせた。また「猫の爪」を有効に使うために「抜き足」ももっている。これは目にもとまらぬ早さで動くために透明人間であるかのように思える。姿が見えないまま斬られるのだからまるで「かまいたち」のようなのだ。その点で、クロは悪魔の実を食べて透明人間になったのと同じ効果がある。「猫の爪」と「抜き足」を組み合わせた技が「杓死(しゃくし)」である。「「抜き足」での無差別攻撃! 速さゆえ本人だって何斬ってるかわかっちゃいねェんだ! 疲れるまで止まらねェんだ!」(38)という。クロは自分でも自分が止められない。自分が何をやっているかわからない状態だ。すごい技だが、制御がきかない技はその点で中途半端な段階にあるといえる。「杓死」によって手下が負傷する。もともとクロは手下どもを最初から殺す計画だった。手下のことはたんなる忠実に動く「コマ」(38)にすぎないと言っている。ここでもまた一人の独裁者に恐怖によって支配されている者たちという構図がある。手下のことを何とも思っていないクロに比べたら、ジャンゴのほうがはるかにリーダーにふさわしい。ジャンゴは催眠術で手下をその気にさせることができる。部下の能力を最大限発揮させるのはリーダーに不可欠の技量だ。
クロの技は地味である。「ゴムゴムの槍」も「銃」も通用しなかったが、動きを見切られるたルフィにしがみつかれて、得意の動きを封じられてしまい、簡単に倒される。バギーのほうが技にひねりがあったが、クロは人間の延長でしかなかったのでそれほど人間ばなれしたことはできず、技に広がりがだせなかった。それに、クロにはどこか疲れた雰囲気がある。クロは「暴れることしか頭にねェてめェらバカどもを考慮して計画を練る」ことに「疲れた」(37)と言う。クロの眼鏡は頭脳労働のインテリの象徴なのだが、もともと海賊に向かないタイプで無理があったのだ。クロの場合は「考えること」も武器のひとつなので、それにふさわしい身なりをしているといえる。ルフィがクロを許せないもうひとつの理由はクロが早々に海賊稼業をあきらめたことにもある。ルフィは「野望」に「けいかく」(37)のルビをふる。クロの計画はたかだか3年計画で村の富豪の財産を乗っ取ることだが、ルフィのそれは海賊王になることだ。ウソップもまた「野望」にこだわる。彼は手下の3人の子供たちを集めて「お前らの野望は何だ!」(40)と聞いている。彼らはかりにもウソップ海賊団なのに、誰も「海賊になること」とは言わずに、酒場の経営、大工の棟梁、小説家といった現実的なものばかりだ。これは彼らがウソップに感化されず平凡な村人になることを示している。ウソップの存在はつかの間の撹乱にすぎなかった。
ジャンゴの能力は催眠術であって魔術で人を操るのではない。チャクラムも普通の武器である。木を切り倒すがそれ以上特別な使い方をされるわけではない。曲芸師のような突飛な技はない。格好は奇抜だが、見かけ程ではない。子供相手に手こずるほどだ。クロもまた超人的な動きをするが、人間の延長である。悪魔の実を食べた者たちのように一線を超えることはない。ジャンゴもクロも魔術的といっていい能力をもっているのだが、マンガの中では合理的な理屈で説明できる能力である。
バギーとクロのエピソードはよく似た構造をしている。海賊に狙われている町(村)へルフィたちがやってきて、そこで集団から孤立した者(町長、ウソップ)と出会い、彼らの心意気に惚れて、彼らが守るものをともに守るようになる。住民たちの誰も知らないところで海賊との激しい戦いが行われる。真実を知る者はわずかな者のみ。戦いは海賊の頭領を倒すことで決着がつく。それは同時に頭領の暴力によって支配されていた手下どもの解放でもある。海の彼方からやってきたルフィは、戦いが済むとまた海の彼方にさってゆく。それは来訪神のようだ。
バギーの造形が凝っていたせいか、クロはシンプルな見かけに描かれる。海賊らしく歌舞いた格好ではなく、スーツに眼鏡という普通の身なりだ。技も、バギーのところでは大砲が目立ったが、クロのエピソードでは、クロもジャンゴもニャーバン兄弟も斬ることが中心になっている。作者もバギーはお気に入りらしく、その後も扉ページでバギーの後日譚が延々と掲載される。

 

ルフィ

ルフィの特殊能力は体がゴムのように伸びることだ。だが大きな岩石を持ち上げたルフィを見てクロは「ただ伸びるってだけでもなさそうだな」と言い、ルフィは「そうさ鍛えてあるからな!」(38)と返している。このルフィの馬鹿力はたんに「鍛えてある」だけでは済まないだろう。ルフィはゴムのように伸びる以外にも普通でない能力を持っているのだ。じっさい、ゴム人間の能力としてはすべてクロに通用しなかった。クロは普通の人間だ。この先もっと強力な相手が出てくれば、「ゴムゴムのナントカ」は通用しなくなる。ルフィの本質はゴム人間であるということはどこまで押し通せるのだろうか。もっと隠された秘密が必要になりそうだ。巻4のところで、チャクラムが頭に刺さっても平気なルフィをジャンゴも驚いていた。チャクラムは木を何本も切り倒すほどの威力があるのだ。ゴム人間といえど刃物には弱いはずだが、ルフィは平気である。
ルフィは海賊を名のるが海賊らしいことはまだ何もしていない。つまり略奪はまだしていないのだ。しいていえばナミが他の海賊の宝を盗んでいるが、それは海賊的略奪行為というよりたんなる泥棒である。にもかかわらずルフィは海賊旗を掲げ、帆にドクロマークを描き海賊の記号に囲まれただけで海賊になったつもりでいる。ウソップは砲手に任命される。次に必要とされるのはコックだ。海賊的な略奪行為を必要としないルフィは、海賊のかたちを整えることで海賊になろうとするのである。

 

カヤとウソップ

村で「場違い」なほどの富豪のお嬢様カヤは、両親を病気で亡くしてからというもの、自身も病気で臥せっていたが、海賊との争いに巻き込まれたあと、元気に外に出られるようになった。「ここ1年の私の病気は、両親を失った精神的な気落ちが原因だった」(41)という。病気の原因が精神的なものだったのなら、信じていた執事クラハドールに裏切られて余計に病気が重くなるはずなのに、そうはならずに回復してしまうのだ。なぜか。それはカヤとウソップが一体のものだからである。ウソップが島を出るようにカヤも屋敷の外に出るのだ。ウソップのエピソードは、閉じこもっていた者がそこから外に出るということがモチーフになっている。それが可能になるのは日常の反復継続ではおこりえない。ルフィがその触媒になるのだ。カヤが心の病であるように、ウソップも父親不在による心の病のため嘘をついていたのである。
これまでウソップはルフィにもクロにも似ていると書いた。ルフィとしてのウソップは悪しき海賊を村から追い出す役割をする。クロとしてのウソップは共同体の異分子(カヤの屋敷でのクロ(クラハドール)、村のなかでのウソップ)として外部へ排除される。そしてカヤとしてのウソップもまた内から外へ出て行くという構図は同じだ。ウソップにはいくつものキャラが重層的に集約されているのだ。
ウソップ海賊団には3人の子供のメンバーがいる。6歳くらいにしか見えないが、第40話で「5年前! お前らがまだ4歳だった頃に結成した」とあるから、子供たちは9歳なのである。3人はカヤを守るなど活躍をするのだが、彼らの存在意義はどういうところにあるのか。それはウソップを一人にしないということだ。ウソップは一人だとたんなる嘘つきの変人でしかない。しかしその嘘を共有してくれる仲間がいることで、村から完全につまはじきされることなく、その周縁にとどまってやってこれたのだ。海賊団という共同体をつくって理解者を確保していることがウソップが脱社会化せずにいるためにとても重要なのだ。ウソップは村の子供をとおして村にかかわっており、この村が好きなままでいて、海賊から守ろうとしたのである。
ルフィがシャンクスに憧れて海賊になろうとするように、ウソップも父親を慕って海賊になろうとする。海賊になった父親は待っていても村に戻ってこなかった。ウソップはもう「海賊がきたぞ」と嘘をつかなくていい。自分が海賊になって父に会いにいくからだ。ウソップも村には居場所がない。嘘つきで食べていけるわけではないのだ。ウソップの場合海賊というのは、故郷の地を離れて漂泊するための手段である。ウソップは旅に出るにあたって家のなかの一切合切を大きな荷物にまとめる。ここには戻る気はないという意思が明確だ。マンガでは滑稽なほど大きな荷物であることが強調されている。その大きな荷物は、そこからガマ口に移されて、ドラえもんのポケットのようにいろんなものが出てくる根拠になるだろう。

 

ヨサクとジョニー

『ONE PIECE』は海賊の物語だとはいえ、これまでの事件はほとんど陸で起こっていた。船は事件がおこる場所である陸と陸をつなぐたんなる移動手段にすぎなかった。しかしこの巻では船上が舞台になる。
この巻で不思議な登場人物はヨサクとジョニーの二人組である。彼らはゾロのことをアニキと慕う賞金稼ぎであり、大柄で似たような体格と雰囲気をしている。彼らはなぜかルフィの船ゴーイング・メリー号に乗り込んでいた。彼らは見た目は怖いがたいして強くない。今後、どういう役回りを与えられるのか予想できない。とりあえずこの巻ではヨサクが「現実」を物語の中にもちこんでいる。ヨサクは歯が脱落し、古傷が開いて出血するという死ぬ寸前だった。ナミはそれを「一昔前までは航海につきものの絶望的な病気だった」壊血病と判断し、ライム果汁を飲ませる(42)。症状といい治療法といい現実の壊血病と同じなのだが、ゴム人間という非現実性と壊血病というそこだけリアルな事象が同居しているという奇妙な事態になっている。ウィキペディアの「壊血病」の項目には、「16世紀から18世紀の大航海時代には、この病気の原因が分からなかったため、海賊以上に恐れられた。」と書かれているのが面白い。だとすればルフィたちはここで海賊とひそかに戦ったようなものなのだ。
ゴム人間というバカバカしいまでの虚構と壊血病患者というその一点だけのリアルの同居は、実はもうひとつある。ルフィは自分が生まれた村を小さなボートで出発したが、渦に飲まれてそのボートを失い、樽に入って難を逃れた。女海賊アルビダから帆がひとつついた船を手に入れ、その後、バギーが持っていたもう少し大振りの船を手に入れ2艘になった。そして今回、2本のマストを持つさらに大きなキャラヴェル船を貰ったのである。このように船の規模をだんだん大きくしてきたわけだが、このキャラヴェル船というのはマンガの傍注に「こっちの世界でいう15世紀に造られた帆船」(41)である。「こっちの世界」というのは私たちが生きているこの世界のことだが、つまりそこだけ現実とリンクしているということだ。壊血病もまた「こっちの世界」の病気である。ルフィの世界の地球は私たちの住む地球とはかなり異なる地理をしている別の地球なのであるが、私たちとよく似ている部分があるし、一部の出来事は共有してさえいるのである。ゴム人間というありえない想定も、その世界の設定は野方図なものではなく、現実に想定されるものの制約を受けているのである。
ジョニーは細身のサングラスをし、左の頬に漢字で大きく「海」と書いた入れ墨(と思われる)がある。ヨサクは鉢巻きだかヘッドギアだかわからぬものをつけて、いつも煙草をふかしている。煙草の小道具については、続く海上レストランの副料理長サンジもそうである。ヨサクといいサンジといい日本風の名前が続く。

 

海上レストラン

ルフィが船にはコックが欲しいという。コックというのは唐突な気がするが、実はすでに第8話でコックと音楽家が仲間に欲しいと言っているのだ。また、ヨサクの壊血病も、船での食事の重要性を教える前振りになっていた。そんなわけで、コックを求めて海上レストランへ向かう。 そこには「鷹の目の男」が現れたことがあるとジョニーが言い、ゾロはそれに反応する。いかにも思わせぶりだ。また、海賊相手の賞金稼ぎであるジョニーが持っていた指名手配写真の一枚を見たナミがただならぬ反応をする。因縁がありそうだ。ここにも思わせぶりがある。これでなぜレストランに向かうのかがわかる。そこにはいろんな人が集まるからだろう。
海上レストランには海軍の船も来ていた。メリケンサックをした大尉の「鉄拳のフルボディ」にヨサクとジョニーが挑むがたった1コマでやられてしまう。この二人は賑やかしにしかならなようだ。作者はなぜ登場させたのだろう。次の敵はこの海軍大尉だろうか。海軍が撃ってきた大砲をルフィが跳ね返すが逸れてレストランに命中してしまい、そのお詫びにルフィはレストランで働くことになる。一方、レストランで、大尉と副料理長のサンジが揉めごとを起こし、大尉はこれまた1コマでやられてしまう。せっかく登場した大尉だがあっさり退場しそうだ。このあとコックどうしのドタバタが続く。海軍だろうが海賊だろうが殴り掛かっていく荒くれのコックどもだ。船上の強いコックといえば、スティーブン・セガールが『沈黙の戦艦』(一九九二年)で演じた元海軍特殊部隊員のコックがいる。強いのにそれを表に出さずにコックをしているという韜晦ぶりはワケありのニヒリストといった感じだ。サンジもいつも煙草をはすにくわえ、斜に構えたニヒリストといった風情だが、しばしば激昂する。一般的に、煙草をくわえるというのは、しゃべらなくても間を持たせるように寡黙なタイプのキャラ造形に向いているが、ゾロが刀をくわえていてもしゃべるように、サンジもまた煙草をくわえていることは話すことの障害にならない。ただ、「煙草をくわえること=口を開かないこと」という一般的に形成されているイメージは受け継いでいる。サンジは第43話のタイトルが「サンジ登場」とあるように、今後仲間となるべき重要人物だということが予想される。だがサンジはどこかゾロに似ている。前髪で片目が隠れ、眉が唐草模様のようにカールしていたり、いつも煙草をふかしているなど差別化しているが、それ以外の顔立ちや背格好が似ているのだ。髪型は違うが髪の色は(マンガでは)白い。
サンジの他にも、オーナーのゼフやコックのパティなど、登場人物が一気に増える。しかも、ヨサクやジョニー、海軍大尉のフルボディなど、意味ありげに出てくるのに力がないためすぐ脇役になってしまう人物ばかりで、作者がいったい物語をどう展開したいのかわからない。

 

表現

このマンガの登場人物が元気よく見えるひとつの理由は歯である。歯を見せることが多いのだが、歯は顔の大きさに比べて大げさに描かれ、くいしばったり、あるいは口を大きく開けたときなどは奥歯まで健康そうなものとして描かれる。
このマンガは、びっくりすると目が飛び出たり、怒ると目がつりあがり(場合によっては黒目がなくなります)歯が牙になるといったギャグマンガの表現が随所に見られる。(例、巻3、p140)。このマンガではまた口が特に大きく描かれるが、ギャクマンガのような大きな口といい飛び出る目玉といい、また巻2のところでもふれた魚眼レンズ的な構図といい、大げさな表現が特徴的である。
このマンガはバトルシーンもありシリアスな展開も見られるのにギャグマンガの表現をてばなせないのはなぜだろうか。その理由のひとつにルフィがゴム人間であるということがある。体がゴムのように伸びるのは普通に考えると気持ち悪い。「ゴムゴムの鐘」は首がろくろ首のように長く伸びるのだが、それを劇画調で描けば不気味である。バラバラ人間のバギーもただグロテスクなものにしかならない。そこでギャグマンガふうな雰囲気が必要なのだ。ギャグマンガ的表現というのはマンガ的な記号表現を極端にしたものだ。びっくりすると目玉が飛び出るが、それは悪魔の実を食べたからではない。たんにマンガ的な表現なのである。そういう表現にかこまれているから、体が伸びるということもマンガ的な表現との境界が曖昧なものとして受容されるのである。

※2011.11.4更新 見崎鉄

 

 

【巻6】

副料理長サンジ

これまでのすっきりした展開とは違って、いささか物語が錯綜してきた感が否めない。これまでのパターンは、訪問先の地で共感できる人物と出会い、それと対立する者を敵とみなし、まずは子分をやっつけて最後に大将にたどりつくというものだった。訪問先の地で共感できる人物と出会うことが必要なのは、ルフィが海賊という反社会的な存在を目指しているため、海賊イコール単純に悪とみなせないから、まずは拠り所を必要とするのだ。同じパターンを反復し、ただ新たな敵の首だけをすげ替えていくと、刺激を強くしないと満足されないので、『ドラゴンボール』のように戦う相手をどんどん強くしていかざるをえない。それを避けるために、強さ以外でキャラクターの多様性を出そうとしているのだろう。
金を持ってないからと店からたたき出された「客」であるギンにメシをめぐむサンジを見て、ルフィは仲間になってくれとしつこく頼む。そのしつこさゾロにそうしたときと似ている。だが仲間になれと誘っても、ゾロもナミもそうだったがサンジにもまた嫌だと断られる。クリークとの戦いの直前にナミが逃げ出したとき、ルフィは「あいつが航海士じゃなきゃいやだ!」(50)となぜかこだわる。ナミに根拠はよくわからない。いちど仲間になったらとことん信じるということか。
さて、ゾロの場合は強いという前評判があったのに、一目見ただけのサンジのどこがそれほど気に入ったのだろうか。サンジは後にクリークやその手下に対しても仲間の制止も聞かず、メシを与えようとするが、その一端がすでにギンに対する行動に表れていた。サンジの理屈は、相手が悪党でも関係ない、「食ういてェ奴には食わせてやる! コックってのはそれでいいんじゃねェのか!」(47)というもので、そのあとのことは考えない。他のコック仲間は悪党が腹を空かせて弱っている間に退治しようという考えなのだが、サンジは、コックは食事を用意する以外の余計なことは考えないという極端なほどの職人気質だ。とはいえ、サンジはコックらしいことを言うが身なりはコックらしくない。やっていることもウェイターだし、女を見ればくどく。それにいつも煙草をくわえている。コックらしいことを言うけれどコックらしいことをしている場面はない。それに比べたら仲間のコックたちのほうがはるかにコックらしい。コックらしいことを言う者がコックとは限らない。何にせよ、サンジはコックである以上はコックとしての筋をとおそうとする。そういうサンジをルフィは「な! なんか、あいついいだろ!」(48)と惚れている。
50隻の海賊船を束ね海賊艦隊の首領(ドン)で怪物と怖れられるクリークがレストランを襲う。クリークは鋼の鎧を身につけていて、バズーカ砲を受けてもびくともしない。鎧には何丁もの銃が仕込まれている。クリークによりオーナー・ゼフの正体が明かされる。ゼフは岩盤をも砕く蹴り技の達人として怖れられていた。クリークの艦隊は「偉大なる航路(グランドライン)」で一週間もたなかったが、ゼフはそこで一年航海したといい、その航海日誌をクリークは狙う。今のゼフにとってレストランは「宝」である(p10)。サンジやコックたちもレストランを守ろうとする。いよいよクリークの手下が攻めて来てそれを迎え撃つためにサンジの実力がわかるかと思いきや、話が別のほうへズレていく。クリークが「偉大なる航路(グランドライン)」で出会った謎めいた男、鷹の目のミホークがクリークの後を追って現れる。クリークがいざ攻めてくると思ったら大型船が寸断される。何故ミホークはクリークを狙うのか。その理由は「ヒマつぶし」(50)だという。作者は他に納得できる理由を考えられなかったのだろう。けれどここでミホークを動かしたくなったのだ。ミホークは謎めかして語られていたので、おそらくルフィがこの先いつか出会う強敵かと思われたが、こうしてあっさりとその姿を見せるのだ。

 

鷹の目のミホーク

この巻で作者が一番書きたかったのは鷹の目のミホークだろう。海賊の首領(ドン)クリークの話だったのに、ミホークが割り込んでしまった。ミホークは「偉大なる航路(グランドライン)」で突然現れ、その恐ろしさで「現実なのか…夢なのか」(48)、人の頭を混乱させるほどである。ミホークはまず噂として登場するわけだが、それだけの人物ならあとになって満を持しての登場になるかと思いきや、意外にもすぐ登場するのである。作者は待ちきれず描いてしまったのではないだろうか。その証拠にミホークが顔見せであるかのようにゾロと刀をまじえて去ったあと、また何事もなかったかのようにクリークの話に戻るのである。
ではミホークは何者だろうか。ミホークはこれまでの登場人物とは雰囲気が違う。剣で大型船を寸断してしまう。ゼフはミホークのことを「大剣豪」とか「世界中の剣士の頂点に立つ男」(50)だとか言うが、クリークが「ただの人間に大帆船をブッた斬れるとでも思ってんのか!? 悪魔の実の能力(ちから)に決まってんだろうが!」(53)と言うように「ただの人間」の頂点にすぎない剣豪ではない。しかしかといって同じく悪魔の実を食べたルフィやバギーとも異なった能力である。ルフィやバギーは身体が変形したがミホークは見かけは普通の人間である。肉体をもった存在というより霊的な存在であるかのように感じられるのである。
ミホークは奇妙なかたちの船に乗って現れる。黒く菱形をしていて、船というより神饌を置く三方(さんぽう)の上の部分が海に浮かんでいるかのようだ。海の彼方から訪れた神のようにも見える。その背中に背負っているおおぶりな剣「黒刀」も十字架そっくりだ。ミホークの造形は、帽子や髭や衣装など、ほぼ同じ頃に公開された映画『マスク・オブ・ゾロ』(1998.10.10公開。一方、ミホークの登場は同年8月頃)のスペイン人の剣士ゾロにどこか似ている。『ONE PIECE』でもゾロの名前はむしろミホークのほうがふさわしいくらいだ。その怪傑ゾロに歌舞伎の隈取りのような目をさせた和洋折衷の感じになっている。服装は海賊でも現代ふうでもなく異質である。しゃべり方も、「猛(た)ける己(おの)が心力(しんりょく)挿(さ)して、この剣を越えてみよ!」(52)などと文語的な古風な話し方をしている。しゃべり方ひとつとっても、何百年も生きているような、この世のものではない神秘性をほのめかしている。バギーが悪魔の実を食べても、その精神的な部分は変わらず、能力を使って俗物性が助長されただけだが、ミホークはそういう点でも悪魔の実の能力者とは異なるのだ。もしルフィがミホークと戦うことになれば、ルフィはあといくつか悪魔の実を食わねば対抗できないだろう。
ミホークはゾロの目標である。ルフィの目標である「海賊王」は依然曖昧なままであることに比べると、ゾロの目標は意外に早い段階で姿を現したことになる。もっとも、ゾロは現在の実力ではミホークに赤子の手をひねられるように簡単に負けてしまう。ゾロも登場したばかりのときは「魔獣のような奴」(2)だとか、その名を聞いただけで人が震え上がる危険な存在だとされていたのにである。ミホークはゾロに「強き心力(しんりょく)」(51)を見出して、つまりゾロの将来の伸びしろに期待して、ゾロを殺さないでおく。ゾロはミホークに斬られるとき正面を向く。「背中の傷は剣士の恥だ」(51)という理屈だ。これはサンジがかたくななまでにコックの論理をとおしたのと同じだ。生や死よりも剣士の誇りや意地といったものを重視するのである。ルフィはそういうプライドがあって意地があってそれを裏打ちする実力のある奴が好きなのだ。一方、ミホークもそういった精神を理解する者として描かれる。
ゾロは重傷を負う。考えてみれば、ゾロはケガが絶えない。バギーの部下カバジとの一戦でも深手を負うし、クロの部下ニューバン兄弟にも斬られている。医者に手当してもらうわけでもないし『ドラゴンボール』の仙豆のように便利な回復薬がわるわけでもないが、食べて寝るだけで回復してしまう。ゾロは普通の人間だが、重傷でも自然治癒してしまう死なない身体になっているのだ。

 

海賊の首領(ドン)クリーク

クリークの造形は海軍大佐モーガンの焼き直しのように見える。恐怖で手下を支配しているという点もこれまでの敵と同じだ。ただその地位はモーガンとは比較にならない。クリークは50隻の海賊船の船長を従える海賊の首領(ドン)であり、東の海で「最強最悪」の「怪物」(45)と恐れられている。これまで戦ってきたアルビダやバギーやクロといった船長たちよりもさらに格が上なのだ。いきなり手強い相手が登場したものだ。だがそのクリークがその強さを示そうとする直前に鷹の目のミホークが現れ、さらにその上の世界をルフィたちに見せてしまう。かなりの急テンポで、圧倒的な強さ、つまり力の格差が開示されていく。
第22話では、ルフィがいる天体の海は「2つある」と言われている。「赤い土の大陸(レッドライン)」によって「真っ2(ぷた)つに両断」されているのだ。だが第51話では設定が進化して、2つの海は「偉大なる航路(グランドライン)」によってさらに区分され、「NORTH BLUE(ノースブルー)」「SOUTH BLUE(サウスブルー)」「EAST BLUE(イーストブルー)」「WEST BLUE(ウエストブルー)」の4つに分かれていることになった。そのうち、ルフィたちが現在いる東の海は、4つの海のなかで「最弱の海」とされているのだ。4つの海に加えて「偉大なる航路(グランドライン)」がその上に位置する最強の海ということになるのだろう。はじめはたんにのっぺりとした世界だったのが、物語が進むにつれ次第に空間は分割され、上下の区分がつけられ、ルフィには登っていかなければならない階段が作られていく。「偉大なる航路(グランドライン)」に到達するまでに越えねばならない階梯が刻まれていくのだ。しかもまだ「赤い土の大陸(レッドライン)」についての情報は全く明かされていない。ミホークは「偉大なる航路(グランドライン)」から現れた今のところ最強の剣士であるが、おそらくそのうちミホークは格下の剣士ということになってしまうのだろう。

 

銃と刀剣

これまでの戦いをふりかえってみると、斬ることが重視されていることがわかる。
アルビダ 棍棒で殴る
モーガン 斧で斬る
海軍 銃で撃つ
ゾロ 刀で斬る
バギー 大砲で撃つ
バギー 短刀で刺す(バラバラ砲)
モージ 猛獣(ライオン)
カバジ 刀で斬る
クロ 猫の爪で斬る
ジャンゴ チャクラム(円盤)
ニャーバン兄弟 猫の爪、体重
手下 刀や斧
ウソップ パチンコ
ジョニー 大刀
フルボディ メリケンサック
クリーク 銃で撃つ
ミホーク 刀で斬る
刀剣と銃では銃のほうが断然有利なはずだが、なぜか両者は入り乱れて使われている。というより、剣のほうが、銃よりかっこいいものとして描かれている。ミホークなどは剣先で銃弾をかわしている。素手で戦っているのだルフィだけだ。コミックスの質問コーナーによれば、作者は幕末のマンガ『るろうに剣心』のアシスタントをやっていたというから、剣を好んでいるのかもしれない。
剣といえば、以前、ゾロの「鬼斬り」について何をしているのかわからないと書いたが、第51話のミホークとの戦いで、「鬼斬り」の瞬間が描かれ、それは3本の刀を交差させることで「敵が吹き飛ぶ大技」であることがわかる。

 

「偉大なる航路(グランドライン)」と「海賊王」をめぐる言語ゲーム

これまでこのマンガには大きなキーワードが三つでている。「海賊王」「ひとつなぎの大秘宝(ワンピース)」「偉大なる航路(グランドライン)」である。これまでわかっていることをまとめると、この三つは最終目的である「海賊王」へ至る過程であるということになる。「偉大なる航路(グランドライン)」に入り、「ひとつなぎの大秘宝(ワンピース)」を獲得し、「海賊王」になる、という順番である。
「偉大なる航路(グランドライン)」からみていこう。それは「偉大なる」と呼ばれてはいるがいささか反語的である。というのも、航路というのは文字どおり船の通る道筋だが、その「航路」は恐ろしくて通ることができないからだ。航路は陸の地形や中継地や海流、風向きや最短距離などを考慮して決まってくるものだが、「偉大なる航路(グランドライン)」は通常の航路としては避けるべき道なのだ。航路と呼ばれてはいるが使えない航路である。いわば航路からは排除されているものが航路と呼ばれていて、それが「偉大なる」と形容されているのである。
「偉大なる航路(グランドライン)」の秘密は次第に明らかにされる。まずその場所が描かれた海図は海賊バギーが持っていて、それはかなり重要な情報とみなされ、女盗賊ナミとのあいだで争奪戦がおきる。後にナミは「偉大なる航路(グランドライン)」について、それはこの天体の中心に位置する円周平面上に長く伸びた「赤い土の大陸(レッドライン)」の一番大きな町がある地点において大陸と垂直に交わる平面上にある航路のことである、といったようなことを解説する。定義からして、普通の航海のための航路というより地理的な名称に思える。ただそういう交易に必要とも思えない場所を冒険的に好んで通ろうとするから、そこも航路になったということだろう。箱男のガイモンとルフィがバギーの海図を見ても、どれが「偉大なる航路(グランドライン)」なのかわからないと言っている。だが、航路としてはとても単純なので、それを示す海図など必要だとは思えないくらいだ。それにそこには危険な海賊たちがうごめいているというから、その航路の道筋じたいは秘密めいたものでもなんでもなく、たんにナミたちが知らなかっただけなのである。バギーも海図がないとそこがわからないらしいので、バギーもまた海賊としては二流の存在なのであろう。
それまではガイモンが「以前“偉大なる航路(グランドライン)”から逃げ帰ったって海賊達を見た事があるが、まるで死人みてェに戦意を失っちまって、そりゃ見るに忍びねェ顔(ツラ)してやがったよ。何か相当恐ろしい事でもあったのか、恐ろしい海賊に遭ったのか、化物(ばけもの)にでも出くわしたか…」(22)と語るように、「偉大なる航路(グランドライン)」については、そこから戻ってきた連中の様子を通して語られるという「伝聞の伝聞」でしかなかった。しかし巻6では、ルフィはそこから戻ってきた人から直接話を聞くことになる。そこでは海賊クリークの手下ギンはこう言っている。
ギン「信じきれねェんだ…“偉大なる航路(グランドライン)に入って七日目のあの海での出来事が現実なのか…夢なのか、まだ頭の中で整理がつかねェでいるんだ。…突然現れた…たった一人の男に、50隻の艦隊が壊滅させられたなんて…!(略)あの時、嵐が来なかったら、おれ達の本船も完全にやられてた」(48)
ここでは「偉大なる航路(グランドライン)」の恐ろしさの秘密が明かされているのだが、これはちょっと意外な内容だ。というのも、これまでは“偉大なる航路(グランドライン)”が恐ろしいのは海そのもので、例えばバミューダ・トライアングルのような謎があったり、あるいはルフィたちの住む地球はとても奇妙な陸地のかたちをしているので、それによって囲まれる海も奇妙な海流の動きをしていたり波が極端に荒いといったことが恐ろしい自然現象を生んでいるのかと思ったがそうではなく、鷹の目のミホークのような悪魔の実の能力者がその原因とされている。むしろ自然現象(嵐)は救いの神だったのだ。別のところで、ミホークは悪魔の実の能力者だとクリークは語っているが、実は“偉大なる航路(グランドライン)”を守護する聖人のような存在かもしれない。
海上レストランのオーナーであるゼフは元海賊で、「偉大なる航路(グランドライン)」に入って一年間航海し無傷で帰ったという経験を持っている。それを記録した航海日誌があり、航海日誌には悪魔の実の能力者に対抗する方法やワンピースの情報が書いてあるはずとクリークは言い、それを強引に奪おうとする。バギーの海図やゼフの航海日誌など、ある場所に行くためのアイテムをゲットしながら進むというRPGゲームのような側面もこのマンガは持っている。
次は「ひとつなぎの大秘宝(ワンピース)」についてである。たんなる「お宝」ではなく、「ひとつなぎの」となっているところがミソだ。何がどのようにつながっているのかわからない。「ひとつなぎ」というから真珠のネックレスのようにつながったものを連想するが、まさかそうではあるまい。何か典拠のある言葉なのだろうが、作者がどこから見つけてきた言葉なのか今のところ不明である。とにかく普通の「宝」ではない、ということを示している。この言葉はどうとでも解釈できる。おそらくそれは単純に物質的なものではない。トレジャーハンター、インディ・ジョーンズの「失われたアーク(聖櫃)」や「クリスタル・スカルの王国」のように神秘的な遺物か宇宙人の手になるオーパーツかもしれない。
さてそのワンピースのある場所は「偉大なる航路(グランドライン)」のどこかにあることは間違いないようだが、ガイモンが言うには「その上“ワンピース”のありかに至ってはもうお手上げだ。噂が噂をよんで何が真実だかわかりゃしねェ。大海賊時代が幕開けして20余年…。すでにその宝は伝説になりつつあるのさ」(22)ということである。「偉大なる航路(グランドライン)」に入ることじたい大変なのだが、そこでワンピースを探すとなると二重に大変なのだ。そうなると、本当にワンピースなるものが存在するのかわからなくなる。いずれにしてもそれが存在することを信じて人々はつき動かされ、物語はそれの獲得を原動力として動いていく。
ワンピースはすごいものとして語られるが具体的に何かはよくわからない。読んだことはないが『ガラスの仮面』の作中劇「紅天女」もそうらしい。もし最後までワンピースが何なのか解明されなかったら、それはヒッチコックのマクガフィンのように吸引力をもつけれど空虚な何かということになるだろう。しかし登場人物たちはワンピースがいかに凄いのかを熱をこめて語る。それを見たことがないにもかかわらず。そして彼らが熱をこめて語るほどワンピースは凄い秘宝として存在しはじめる。ワンピースが何かがわからないからといってその争奪戦がつまらなくなることはない。むしろ何かわからないままワンピースと言っているだけのほうがありがたいもののように感じられる。ワンピースとはこういう財宝なのだとわかってしまったら「なーんだ、それだけのものか」ということになってしまうだろう。ワンピースはたんにお宝というだけではない。それを手にした者の威厳に関わっている。ワンピースを手にした者がもつ威光の方面を言葉にしたのが「海賊王」だ。
では「海賊王」とは何なのか。マンガの冒頭では、こんなふうに書かれていた。
「富・名声・力 かつてこの世の全てを手に入れた男“海賊王”ゴールド・ロジャー」(1)
つまり「海賊王」とは「この世の全てを手に入れた」者のことである。しかし「この世の全て」といっても抽象的なので、具体的には「富・名声・力」ということで「この世の全て」をカバーしているという考えらしい。どこか「ジャンプ」の「友情・努力・勝利」みたいだが、それはいい。「この世の全て」を手に入れたはずのゴールド・ロジャーはなぜ処刑されてしまったのか。それを手放したからか。なぜ手放したのか。そういったことは今後解明されていくだろう。
奇妙なのは、「富・名声・力」といっても、ワンピースが財宝だとしたら、「富」はわかるけれども「名声・力」とは関係ない。もちろん大富豪になれば「名声・力」は付随してくるが、それはカネにものを言わせただけであって、真の「名声・力」ではない。それに海賊は悪とされているのだから「名声・力」とはなじまない。ワンピースを獲得する困難さによって海賊内での「名声・力」は得るだろうが、それでは内輪のことであって「この世の全て」ではない。そもそも「富・名声・力」というものじたい、海賊にふさわしいものというより貴族にふさわしいものだ。そう考えてくると、どうもワンピースはたんなる財宝であることはできない。ワンピースを獲得して「海賊王」になるにはプラスアルファが必要であり、「海賊王」はたんなるお金持ちのことではなく、もっと神秘的な存在なのだ。鷹の目のミホークはこう言っている。
ミホーク「小僧、貴様は何を目指す」
ルフィ「海賊王!」
ミホーク「ただならぬ険しき道ぞ。このおれを越えることよりもな」(52)
すでに述べたようにミホークはかなり神秘的な領域に達しているのだが、「海賊王」はそれを「越える」のである。ミホークは「世界中の剣士の頂点に立つ男」(50)であり、それは「剣士」というジャンルの中の「頂点=王にすぎない。「海賊王」はそれよりもっと広い範囲をカバーする「王」であり、もっと言えば「海賊」とついてはいるが、全ての人間にとっての「王」という意味合いさえ含んでいる。クリークは50隻の海賊艦隊を率いる海賊の首領(ドン)だが、「首領(ドン)」ではあっても「王」ではない。また、クリークは東の海の首領(ドン)にすぎないから「王」ではないのではなく、四海全てを制し、千隻の海賊船を従えたとしても「王」ではないだろう。つまり海賊どもを何人従えたところでそれは海賊の首領(ドン)であって「王」ではない。「王」はそれを質的に超えるものなのだろう。「海賊王」になるための必要最低条件はワンピースを獲得することだ。ワンピースを獲得するより千隻の海賊船を従えることのほうが難しいとしてもそうなのだ。
海賊の天敵は海軍、つまり国家あるいは自治組織の軍隊であり、海賊が私設の不法軍事部隊だとしたら、公設の合法の軍事部隊である。では、ワンピースを狙うのは海賊だけなのか。国家や自治組織はそれを確保しようとしないのか。もともとワンピースは海賊ゴールド・ロジャーによって略奪されたものであろう。それならそれを取り返すべく公的機関も動くはずである。おそらく物語にはこの先そういう描写も出てくるだろう。
これまでのところ、「海賊王」がどういう状態になればそう呼べるのかはよくわからない。だが、ルフィはことあるごとに「おれは海賊王になる」と言う。しかしそれが何を意味するのかよくわかっていない。そしてルフィがそう言うと周囲の者はそれがいかに大変なことなのかを説く。
ルフィ「おれはさ、海賊王になるんだ!」
コビー「海賊王ってゆうのは、この世の全てを手に入れた者の称号ですよ!? つまり富と名声と力の“ひとつなぎの大秘宝”…あの「ワンピース」を目指すって事ですよ!?(略)海賊王なんて、この大海賊時代の頂点に立つなんて、できるわけないですよ!」(2)
コビーは「海賊王」になることとワンピースをゲットすることをイコールであるかのように言うが、もしそうであればワンピースを手に入れた者の他に「海賊王」という称号は必要ないであろう。両者は別物だからこそ違う名前がついているのだ。ワンピースの獲得は「海賊王」になるための最低条件なのか、あるいは、「大海賊時代--史上に唯一人“海賊王”と呼ばれた男G(ゴールド)・ロジャーの遺した大秘宝『ワンピース』をめぐる熱く壮絶な時代--」(7)という文を読むと、「海賊王」の遺した秘宝だからワンピースはすごいものとされるのかとも思えてくる。いずれにしても今のところ「海賊王」もワンピースもよくわからないものなので、お互いを使って定義づけあっても自己言及になってしまい、何もわからない状態を脱することはできない。また、「海賊王」というのは称号であり、人にそう呼ばれるところのものだから、ルフィが「海賊王になる」と言っても、それは自分でなろうと思ってなれるものではなく、周囲の者が「海賊王」と認める(みなす)ことによって「海賊王」になるしかないのだ。
こんな例もある。
ルフィ「海賊王になる」
バギー「フザけんなっ! ハデアホがァ! てめェが海賊王だと!? ならばおれァ神か!? 世界の宝を手にするのはこのおれだ! 夢みてんじゃねェ!」(17)
バギーにとっては「海賊王」の上は「神」なのである。それはもう人間の位としては最高のものなのだろう。コピーもバギーも「海賊王」になることがいかに不可能であるかを説く。それはルフィごときがとうてい辿り着けない夢なのだ。だが肝心の「海賊王」の内実は詳しくは語られない。しかし幸いなことに「史上に唯一人“海賊王”と呼ばれた男G(ゴールド)・ロジャー」がいる。「海賊王」はかつてたった一人だが実在していたことがあることによって、それがたしかに存在しうるものであることを証明している。彼を標本とし、そこへの道が困難であるという語りが積み重ねられることによって「海賊王」をめぐる言語ゲームがまわりはじめる。ただしゴールド・ロジャー自身がどういう人物だったのかわからないし、彼が「海賊王」と呼ばれるのはワンピースを遺したことにあり、そのワンピースの正体が不明であるため、やはり「海賊王」の内実も不明のままなのだ。
ワンピースに辿り着くための「偉大なる航路(グランドライン)」もまた、それがいかに大変な場所であるかが語られる。
コビー「ルフィさん“ワンピース”を目指すって事は…あの“偉大なる航路(グランドライン)”へ入るって事ですよね…! あそこは海賊の墓場とも呼ばれる場所で…」(2)

ルフィ「“偉大なる航路(グランドライン)”へ向かおう!」
コビー「(略)わかってるんですか!? あの場所は世界中から最も屈強な海賊達が集まって来てるんです!」(7)

バギー「あの場所(偉大なる航路(グランドライン)のこと)は名もない海賊がやすやすと通れる甘えた航路じゃねェぞ。てめェらなんぞが“偉大なる航路(グランドライン)”へ入って何をする! 観光旅行でもするつもりか!?」(17)

ナミ「史上にもそれ(偉大なる航路(グランドライン)のこと)を制したのは海賊王ゴールド・ロジャーただ一人! 最も危険な航路だと言われてるわ」
ルフィ「要するにそのラインのどっかに必ず“ワンピース”はあるんだから世界一周旅行って事か」
ガイモン「ばか言え! そんなに容易(たやす)い場所じゃねェ! 少なくとも“海賊の墓場”って異名はホントらしいからな…。以前“偉大なる航路(グランドライン)”から逃げ帰ったって海賊達を見た事があるが、まるで死人みてェに戦意を失っちまって、そりゃ見るに忍びねェ顔(ツラ)してやがったよ。何か相当恐ろしい事でもあったのか、恐ろしい海賊に遭ったのか、化物(ばけもの)にでも出くわしたか…。誰一人口を開こうとはしねェが…、その姿は充分“偉大なる航路(グランドライン)”の凄まじさを物語ってた」(22)

ナミ「私達の向かってる“偉大なる航路(グランドライン)”は世界で最も危険な場所なのよ。その上ワンピースを求める強力な海賊達がうごめいてる」(23)

ギン「“偉大なる航路(グランドライン)”だけはやめときな。あんたまだ若いんだ。生き急ぐことはねェ。(略)」
ルフィ「なんか“偉大なる航路(グランドライン)”について知ってんのか?」
ギン「……いや何も知らねェ。……何もわからねェ。だからこそ恐いんだ…!」(45)

コック「ま…まさか! “首領(ドン)・クリーク”が落ち武者!? この東の海の覇者でも…50隻の“海賊艦隊”でも…! 渡れなかったのか!? “偉大なる航路(グランドライン)”!」(47)

クリーク「ナメるな小僧! 情報こそなかったにせよ、兵力五千の艦隊が、たった七日で壊滅に帰す魔海だぞ!」(48)

クリーク「世の中じゃ伝説とまで云われてる悪魔の実の能力者も…あの“偉大なる航路(グランドライン)”にゃ、うじゃうじゃとうごめいてやがる!」(53)
ガイモンはバギーの海図を見ても、どれがその航路なのかわからない。肝心なのはその場所を知らなくても、「偉大なる航路(グランドライン)」の恐ろしさについては滔々と語ることができたということだ。ガイモンの言葉を具体的に表したのがギンだ。ギンは「偉大なる航路(グランドライン)」から命からがら帰ってきた者だが、詳しいことは何も知らないと怯えている。クリークは「偉大なる航路(グランドライン)」の恐ろしさを「悪魔の実の能力者」の恐ろしさに還元している。「偉大なる航路(グランドライン)」は恐ろしいという噂が人から人へバトンされることによって、その恐ろしさが実在し始める。鷹の目のミホークはその恐ろしさの一端をかいま見せたにすぎない。

 

悟空とルフィ

「偉大なる航路(グランドライン)」に危険なほど強い奴がいると聞いてルフィは「くーーっ、ぞくぞくするなーーっ! やっぱそうでなくっちゃなーーっ」喜んでいるので、ウソップから「てめーは少しは身の危険を知れ!」(49)とツッコミを入れられている。この「ぞくぞくする」は『ドラゴンボール』孫悟空の口癖である「わくわくする」に相当する。悟空もまた、強い相手がいると危険であることを案じるよりも「わくわく」してくるのである。そういう悟空の人間ばなれした超躁状態は、彼が実は戦いの好きな宇宙人だったという伏線になっている。ルフィもまた腕力には自信があるようなので、心配より楽しみの方が大きいようなのだが、人が怖れることすら楽しみを感じるというちょっと異常な感じはルフィもまた人間ではない何かであることを予感させるものである。
伏線といえば、読者の質問コーナーで知ったのだが(p124)、クロのエピソードで回想シーンに出てくる海軍の兵隊は巻1に出てくる斧手のモーガンだという。そういえば名もない兵士なのに「砕けたアゴ」(37)云々という具体的なセリフが出てきたのに引っかかりがあったのだが、それはモーガンの鋼の顎のことを暗示していたのだ。モーガンが大佐に昇格できたのもクロ(偽物)を捕まえたおかげだという。もちろん回想の中のモーガンは元からの伏線だったのではなく、事後的に伏線になったのである(たぶん)。
このマンガには帽子だの煙草だのといった小道具が多いし、登場人物も多い。小道具はその由来を語る伏線をつくることができるし、人物が多ければ回収できる伏線にこと欠かないことになる。それぞれの人物について簡単なエピソードが回想形式で語られるが、それはその人の一部でしかない中途半端なエピソードだ。謎はすぐ解明されると思ったら、解明されるのは一部だけだったのである。あとはいつか解明されるかもしれない将来の伏線として潜在的に存在しているのである。

※2012.1.5更新 見崎鉄

 

【巻7】

わかりやすいストーリーに戻っている。部下を二、三人倒してから敵の大将とルフィが戦うというこれまでのパターンである。あのミホークの突然の登場は何だったのかと思うが、ミホークの機能は、ゾロを一旦完膚なきまでに叩きのめし、画面から退場させるということにもあったのだ。この巻からいよいよサンジが活躍をはじめるが、サンジとゾロはキャラがかぶっているので、これまでのゾロではない新たなゾロに作りなおす必要があったのだろう。ゾロの三本の刀のうち二本は折られ、三刀流のゾロは破れた。今後も刀を手に入れて再び三刀流に戻ることは可能だが、それではもうミホークに通用しない。つまり世界一の剣豪になるという目標は達成できないことは明らかなので、ゾロは別の方法を模索する必要がある。三刀流のゾロは海に沈むとともに死に、新たな存在に生まれ変わる必要がある。そしてゾロが不在の間に台頭してきたのがサンジである。
「質問コーナー」(p.46)によれば、サンジの年齢は19歳、「ゾロとタメ」であると解説されている。この巻ではサンジの過去がモチーフの中心になっている。ゾロが出てきたとき、子供のころのエピソードが語られ、それが今のゾロを突き動かしている原動力になっていると説明されていたが、同じように、サンジも子供のころのエピソードが語られ、それがサンジの行動の説明になっているのである。両者とも過去にたいして義理がたく、自分の信念のためには死をも厭わない点も似ている。『ドラゴンボール』では天津飯やピッコロ、ベジータといった悟空の仲間たちの過去はほとんどエピソード化されていないのに、『ONE PIECE』では梁山泊のように来歴が詳しく描かれる。
サンジはゾロと背格好がよく似ているし、雰囲気も顔立ちも似ている。簡単にいえばキャラがかぶっている。これは『水戸黄門』の助さん格さん、あるいは将棋の飛車と角のような冗長的な戦略なのだろうか。ゾロがケガで活躍できないときサンジが活躍する。逆もまたしかり。
ゾロやルフィがおもいきりラフないでたちなのに対し、サンジはネクタイにダブル・スーツというきちんとした格好をしている。ダブルであるところが威圧的で、それに見合うように終始タバコをくわえて不敵さを主張している。タバコは、それを口にくわえていることでお喋りしなくて済むという、ハードボイルドの基本的な記号だ。けれどサンジは無口というわけではない。ゾロが刀を口にくわえたまま喋るようにサンジもタバコをくわえたまま喋るのである。
サンジの顔の特徴は眉尻が唐草模様のように渦を巻いていることだ。これは格好良さをくずすものだが、まるでタバコの煙が眉にかかっているようにも見える。眉というのは口とともに感情が現れやすいパーツであり注目度が高いので、そこがこうした不安定な形になっていることは、読者からの質問コーナーでも「ダサイ」とけなされているように、読み手の共感を拒むものであるかのように見える。一方で、そこで作者がいみじくも答えているように、「人はみんなくるくるによって生きてるんだぞ!!(略)それくらいサンジのマユゲはエネルギーに満ちているという事をよく覚えておけ!!」(p46) 勾玉を組み合わせたような陰陽太極図やあるいは気象衛星から見る台風もそうだが、渦巻きの形は中心から何かがさかんに生まれだしている状態を表している。作者がどのていど真面目に答えたかわからないが、渦巻きが「エネルギーに満ちている」というのはそのとおりだろう。

クリークの手下として鉄壁のパールという珍妙ないでたちの男が登場する。円盤状の盾で体の前後と肘や膝の関節を覆い、両手にも同様の盾を持っている。鋼鉄で全身を防御している点は同じく鋼鉄の鎧を身につけているクリークの系統に属する。クリークも両肩に円形の盾をもっている。だがパールは露出した部分も多く、隙だらけである。図体はデカイが足は細くひ弱。何枚もの盾が重そうで動きも鈍重。その代わり発火により攻撃する。発火の仕組みはよくわからない。強引な設定である。クリークは鉄球を武器に使うなど、防御も攻撃も鋼鉄に頼っている。その部下もまた鉄壁のパールという綽名にあるように鋼鉄に頼っている。身体そのものを鍛錬して防御や攻撃に資するよりは、人体より固いものに安易によりかかっている。
一方、パールと対するサンジの得意技は蹴りだ。ルフィと同じく武器を使わないシンプルな戦い方だが、特殊能力というわけではないので、どこまでそれが通用するか。長い足が極端なパースで描かれる。19頁は靴の裏が半分描かれているが、それが何を描いているのか理解するのに数秒かかるほどだ。
サンジの蹴りについて考えてみる。『ドラゴンボール』は宇宙人との戦いもあったが、それはカンフーのスタイルで描かれていた。亀仙人の弟子になった悟空やクリリンならわかるが、宇宙人のベジータまでもそうなのだ。ところが『ONE PIECE』にはそういう敵味方に共通する戦いのスタイルはない。ルフィの「ゴムゴムの…」は自分の身体の特性にあわせて独自に開発した技なので、類似した身体の使い方をする者は他にいないし、サンジの足蹴りはカンフーでもムエタイでもない。どんな格闘のジャンルでもなく、ケンカのようなものだ。ゾロの三刀流も、刀を使うという点では剣技ではあるが、「鬼斬り」とか「虎狩り」など、ユニークすぎてどんな流儀にもあてはまらない。『ドラゴンボール』では敵も味方もみんな似たような身体技法だったので戦いが噛み合ったし、味方どうしで組み手など修業できたのだが、『ONE PIECE』では共有できる身体技法はなく、個人で技を磨きそれを極めるしかない。
サンジの蹴りはとても気持ちよく見える。それは跳躍したり回転したり倒立したりして身体全体を使ってのびのび動いているからだろう。ルフィの「ゴムゴムの~」の技が手を使った技が中心である。足を使った技もあるが、「ゴムゴムの鞭」(6)は脛でなぎ倒すもの、「ゴムゴムの槍」(36)は足の裏を合わせてつま先で突くもの、「ゴムゴムの戦斧(オノ)」(59)は足で船を壊すというもので、蹴りらしい蹴りではない。「ゴムゴムの~」と名づけられないもので蹴りはいくつかあるけれども、決め技ではない。ルフィが足蹴りを効果的に使っていたらサンジの印象が薄れてしまう。どこの身体部位を印象的に見せるかという技の配分が行われている。
サンジの蹴りは人間業を超えている。腕におぼえのある海賊たちがこう驚いている。
「な…なんて脚力…! あの変な艦(ふね)を蹴り返しやがった…!」(54)
しかしサンジは人間業を超えているといっても悪魔の実を食べたわけではない。通常の人間である。飛び抜けた身体能力を持っているのだ。それはゾロもそうだし、見えないほどの早さで動き回る海賊クロもそうだ。サンジは蹴りがすごいだけだはなく、身体の丈夫さも尋常ではない。サンジはパールとの戦いで死んでいてもおかしくないはずなのに、その後、ギンとかなりの戦いを見せ、しかしここでも鉄球を10発もくらって骨折しているが、たいしたこともなく復活する。サンジは主要人物となるべきキャラなので作者のご都合主義が発揮されてしまうのだ。しかしこのことは結局、読者に次のことを想像させる。どうもルフィのいる世界では、悪魔の実を食べて超人的な能力を持った者(彼らを人間といっていいか迷うところだ)と、普通の人間と、その中間に、超人ではないが普通の人間とは異なる高みに達した者たちがいるようだ。また、箱男ガイモンや、腕が斧と融合している海軍大佐モーガンのように身体能力というより身体そのものが変形してしまったフリークスたちがいる。悪魔の実を食べた者とそうでない者の身体能力は隔絶したものではなく、連続的なスペクトラム構造をしているようだ。

サンジの動きを封じるためにクリークの手下のギンがオーナーのゼフを人質にとる。ゼフを人質にとられたサンジはクリークの手下鉄壁のパールにめちゃくちゃにやられてしまう。鉄板で頭を挟まれたり飛び降りされたりする。サンジはゼフを助けるために手出しせず死のうとしている。これまで、サンジと赫足のゼフとのあいだに何か因縁があるかのようにほのめかされていたが次第に明らかになる。サンジの得意技がゼフと同じく足蹴りであり、お互いを「クソジジイ」「チビナス」と呼び合い、「いつまでもガキ扱いすんじゃねェ!」(56)とサンジが怒るのを見ると、この二人は親子なのかと思えたがそうではなく、他の縁でつながっているのである。
サンジがゼフを命がけで守るのは、子供のときゼフに助けられたからである。ゼフからの贈与にたいして、サンジは贈与で返そうとしている。この巻ではその回想が中心的なモチーフになる。9年前、船が嵐で難破し、海賊のゼフとコック見習いのサンジの二人だけが無人島(岩山)に漂着した。ゼフは少ない食糧を全てサンジに与え、自らの足を切断し、それを食べて生き延びる。人肉食は、古くは武田泰淳の小説「ひかりごけ」、最近なら映画『生きてこそ』(一九九三年)、変わったところでクイズの「ウミガメのスープ」が有名だが、ゼフの場合は人肉食よりさらに過激な自食である。タコは自分の足を食べるし真核細胞も自分の成分を分解して生きている(オートファジー)が、ゼフの場合は究極の自己犠牲であり宮沢賢治の童話『グスコーブドリの伝記』のようである。二人はなんとか生還できたが、片足を失ったゼフは得意の蹴りができなくなり海賊を引退する。ゼフは鼻の下のヒゲが伸びていてその先をかわいらしいリボンで結んでおり、強面の海賊に似つかわしくない。このリボンはゼフのやさしさを象徴しているのだろう。
ゼフは自分の足を切断する前に何とかできなかったのだろうか。二人が漂着した岩山は「ねずみ返し」のように縁が反(そ)っているので、一度降りたら二度と上がってこれない。そのため魚をとりにいけないとされている。二人を飢餓状態に置くための設定である。サンデルの倫理学における「選択の問題」のような思考実験をしているといえる。ゼフが自分の足を切断すると決めた時期は意外に早い。だがその前にゼフはやることがなかったか。二人で協力し綱を作って下へ降りるとか。また吉村昭が書いた『漂流』のように、岩山は渡り鳥の休憩地にもなっているところがあるが、鳥をとって食べることもできただろう(そういう鳥は人を見ても逃げないものだ)。ところがゼフはサンジに一切接触しないように告げて島の反対側に行き、コミュニケーションを遮断してしまうのだ。協力することを最初から断念し、何も話さずに自分で早々に決断したことを黙って実行することが、ここでは男らしいとされている。
ゼフが自分を犠牲にしてまでサンジを助けようとした理由は、サンジに「オールブルー」を探す夢があることを知ったからだ。「オールブルー」とは「四つの海にいる全種類の魚達が住んでる海」(56)で、それを探すのはコックの夢である。だが多くのコックはその存在を信じておらず、探す前に諦めている。ルフィが海賊王に、ゾロが世界一の剣豪に、ナミが村を買い戻すことを夢にしているように、サンジにもまた子供のころからの夢がある。彼らには共通項があるから、仲間に向いている。ゼフとサンジの関係は、シャンクスが子供のルフィを助けようとして片腕を海獣に食いちぎられたことと同型であり、ルフィもそのことを思い出している。(p.123)ゾロもまた、子供のころくいなを亡くした過去がある。くいなの死はゾロの行為と因果関係はないが、あまりに唐突だったのでゾロの心の外傷になっている。彼らはそれぞれ、過去のトラウマと未来の夢という二つの点でつながれた直線を移動しているのだ。
飢えた経験からゼフは海上レストランを夢みている。回想のエピソードは二人の因縁の由来だけでなく、奇妙なレストランの由来をも語っている。海賊のゼフはいろんなものを略奪していたが、何故だか食料は奪わないというポリシーがあった。飢えの経験はゼフと食糧の関係をさらに強固なものにした。
ところでこの長い回想は誰が誰に語ったものなのだろう。サンジが一から十まで語って聞かせたとは思えない。要点はつぶやいたようだが、周囲の者たちはそれですぐに察知してしまったようだ。(ところで、船が遭難する前に、そもそもなぜ子供のサンジがゼフの海賊船に乗っていたのだろうか。回想は途中からなので経緯が不明だ。サンジの両親のことも語られない。サンジにはまだ回想で語られない謎がありそうだ。)
サンジの回想に多少は心を動かされたのか、クリークの手下のギンがゼフを解放し、同時にパールの盾を壊す。ギンは当初三下(さんした)であるかのように思えたが、実は海賊艦隊の戦闘総隊長だった。コックたちも「下っ端(ぱ)じゃなかったのか…」(59)と驚いている。作者は戦闘総隊長として新しいキャラを作るより既存のキャラを活かしたのだろう。ギンはいかにも普通のいでたちで、他の海賊のように歌舞いていない。服装のコードとしてはルフィたちに近い。
ギンは冷徹ゆえに「鬼人(きじん)」と呼ばれているが、サンジにメシの恩があるから殺せなかった。この巻では、第59話のタイトルが「恩」となっているように、恩によってつながった人間関係が描かれている。恩にもいろんな種類があるが、ここでは感じ方の大小によって並べてみよう。

・サンジのゼフに対する恩(自分を犠牲にし食糧を与えてくれた) 最大
・ギンのサンジに対する恩(死にそうなときに食糧をもらった) 大
・ギンのクリークに対する恩(親分への忠義) 中
・クリークのサンジに対する恩(死にそうなときに食糧をもらった) 最小

サンジとゼフ、ギンとサンジの関係は食糧をめぐるものである。サンジはかつてゼフに食糧をもらった。今はギンに食糧を与えた。これは恩を受けた、恩を与えるという鏡像的な関係に置かれていることでもある。また、ギンはサンジに恩を感じるのに、同じ境遇にあったクリークはそれを屁とも思っていない。ギンは、サンジとゼフの関係、及びサンジとクリークの関係をわかりやすく浮かび上がらせるのに一役かっている。

ゼフは足を一本犠牲にした(人生を犠牲にした)ので、サンジが恩を感じても当然だ。しかもゼフは偶然会っただけのいきずりの子供のためにそうしたのである。恩を与えた本人の負担は大きい。一方、食糧を与えるという行為は、受けとるほうの感謝の念は大きいが、与えるほうのコックにとっては負担は小さい。たんにメシを分けただけである。だがサンジの場合は、周囲の反対を押し切って嫌われ者の海賊にそうしたわけだから、相応の恩は感じてもらってよいだろう。ギンのクリークに対する恩は、自分を庇護し取りたててくれる親分への恩で、忠義の源となっている。ギンはクリークとの付き合いは長いはずだが、一瞬親切にしてくれただけのサンジへの恩が、それを上回ってしまう。濃密な関係では人は返報性を期待できるが、たまたま会っただけの人にそれは期待できないのに親切にしてくれるからわずかなことにも恩を感じるのである。

親分子分の忠義を感じるギンは、これまでで最も「仁侠もの」を思わせる登場人物だ。ギンの特徴は目の下の隈(くま)である。初めて登場したときは体力的に弱っていたことを示すために隈が描かれていたのだろうけれど、飯を喰ったあともその隈は消えることなくギンのトレードマークとなって麻薬の中毒患者のような不健康さと不気味さを演出し、海賊というよりヤクザのような雰囲気を醸しだしている。ギンという名前も、たびたび映画にもなっている鉄砲玉の夜桜銀次を彷彿とさせるチンピラふうの名前だ。ギンは結局「妙な情に流されて」(62)、親分の命令にそむくことになる。他方、クリークは、「おれはそういう甘ったれた『義』や『情』なんてモンが、最も嫌いだと常々(つねづね)言ってあるはずだ」(60)と斥ける。そして毒ガス弾のような卑劣な武器を用いても勝とうとする「合理性」がある。クリークは割り切って行動できるが、ギンはクリークへの忠義や、サンジへの一宿一飯の恩などのしがらみがあって、その板挟みになって死ぬことになる。
ギンの武器はトンファーの先にアレイの鉄球をつけたような形をしている。トンファーはカンフー映画などでおなじみの武具で、握りがついた棒である。鉄球という、鉄を使った武器はクリークの一味らしいが、ギンはクリークのような飛び道具は使わないし、パールのように自分を守る防具を身につけていない。そういう意味でギンはクリークの一味であると同時にそこから逸脱する者でもある。ギンはパールの円形の盾をトンファーで破壊する。パールの体を前後に挟んでいる盾は太鼓のようにも見えるが、だとするとギンのトンファーはその太鼓を叩くバチのようだ。二つはセットなのである。ギンの武器がトンファーに選ばれた時点で、パールの盾を壊す行動へと促されていたのである。ギンは冷酷だと言われていたのにサンジを助ける行動にでる。ギンがそういう行動にでるのは、既にパールの盾を破壊したときにその芽があった。
クリークは「ダマし討ちのクリーク」(46)と呼ばれるほど人をあざむいて略奪をはたらく。また、毒ガスを使ったり人質をとるなど卑怯な武器や手口を弄するのが得意だ。クリークはルフィたちに近づかず、自分は安全圏にいて遠くから銃や槍を使って撃つだけだ。クリークの鎧は自分の身を守るためのものである。その上さらに遠距離から敵を寄せ付けないように飛び道具で攻撃してくる。手下が毒ガスで死んでも構わない。自分さえよければ仲間の犠牲をいとわないのは「百計のクロ」もそうであったが、一言でいえば男らしくない海賊である。やっつけられても当然の悪役として描かれている。
メシを食わせてもらった恩にたいする対応の仕方でサンジとクリークは正反対に描かれる。だがサンジもゼフの極端な自己犠牲があったからその恩に報いようと思ったわけで、たんにメシを食わせてもらっただけならそこまで思わなかったかもしれない。その点で両者に極端に差があるように考えるのは違うだろう。むしろギンはたった一度メシをおごってもらっただけのサンジのために死ぬことになるわけだから、ギンよりサンジのほうが義理がたいし、サンジはゼフとギンの二人によって厚く守られたことになる。

このマンガでは「宝さがし」と同時に「仲間あつめ」が主題になっている。結局、「宝」はなかった、けれど「仲間」が「宝」として残ったというオチも短編なら可能だが、60巻以上ともなる長い物語になると、「宝」がマクガフィンというのはありえなくなる。探し求められる「宝」にもそれなりの実質がないと、物語全体を支えきれない。
「仲間あつめ」が主題になるのは、戦後の近代化で崩壊した地域共同体と、その崩壊と入れ替わるように機能してきた会社などの共同体も低成長経済下の終身雇用制の終焉とともに崩壊し、一方で最後の砦である家族もポストモダンの個人主義によって機能不全になりかけている状態にあって、「海賊」という中間共同体にあらたなつながりを見出そうとしているからだろう。

※2012.3.2更新 見崎鉄

 

【巻8】

いよいよルフィとクリークの一騎打ちが始まる。クリークは自分だけ完全な防御と武器の重装備をして、遠くからルフィたちを威嚇していただけだった。その方法も、相手を騙したり、命令に従わない部下を殺そうとしたりといった卑劣なもので、親分としてだけでなく、人間としても最低の奴だという印象が読者に刷り込まれていた。鋼鉄の鎧と多彩な武器で身を固めたクリークと、草履に麦わら帽子というへたりやすいものを身にまとい素手で戦うだけのルフィはあまりに対照的だ。これまでの憂さを晴らすかのように「ゴムゴムの~」が繰り返し炸裂する。
だが実はクリークとの戦いはあまり面白くない。というのも次々に繰り出されるクリークの武器が、爆弾・槍・毒ガスなどバラエティに富んではいるが、通常の武器と変わらないもので、その効果が想定内のものだからだ。バギーとの戦いで見られたような「バラバラ砲」のようなユニークさはそこにはない。クリークも卑劣な策略を弄するものの普通の人間で、「1t(トン)もあるあの超重量の大槍を軽く振り回す」ほどの「あの怪力(パワー)こそ首領(ドン)の最強たるゆえんだ」(64)と言われるように、クリークが強いとされる秘密は、たんに馬鹿力があるというシンプルなものなのだ。
『ONE PIECE』の登場人物たちは殺伐とした言葉を交わしている。ルフィはクリークの放った毒ガスで死にかけているギンに、「あんな奴になんか、殺されるな! 意地で生きろ! わかったな!? あいつはおれがブッ飛ばしてやるから」(63)と言っている。この前後の会話も「死ぬぞ!」「死なねェよ」というものである。つまりここでは「殺す」「生きる」「死ぬ」といった極限的な会話が続いており、それは実際、生死を賭けた戦いの場面なのだが、そうした「死ぬ」とか「生きる」といった極限的な状況の中でルフィは相手をどうすると言っているかというと「ブッ飛ばしてやる」と言っているのである。「あいつはおれがブッ殺してやるから」ではなく「ブッ飛ばしてやる」。ちょっと脱力するが、それがルフィの「いいところ」とされるのである。というのもルフィはこれまでも最終的に相手を殺すことはせず、殴って気絶させるところで終わらせているからだ。クリークも殴って終わりである。読者にとってもルフィの方が強いということが示されればそれでカタルシスが得られるのだから、それ以上は必要ない。
クリークが次々に繰り出す武器に、ルフィはただ正面から何度も突っ込んでいく。クリークは「またつっ込んで来るとは」(63)と馬鹿にしている。謀略家のクリークと単純なルフィが対置されている。作品はここで、策略をはりめぐらすより、ものごとには単純に正面からぶつかっていったほうがいいというメッセージを送っている。その象徴は、クリークの放つ槍を体に受けながらもなおも突っ込むルフィが、生け花のときに使う剣山のような針でできている「剣山マント」を素手で殴りつけるところだろう。敵がどんな小賢しい手段にでようと、自分は武器を持たずに馬鹿正直に正面から行くというポリシーを曲げない。こんなことができるのはルフィが不死身だからだ。ルフィは悪魔の実を食べて身体がゴム状になっただけでなく、ほぼ不死身ともいうべき身体を手に入れている。もちろんそれはゾロもサンジも同じである。ルフィは生き延びるのに必要な基本的な能力を持っている。そこに戦略が加わればなお生存率が加わる。しかしルフィは戦略的に生きることを嫌う。正確に言えば、「嫌う」というより馬鹿だからそうできないという設定である。「嫌う」ということじたいが小賢しい。たんに駆け引きをせずに直情径行なのである。
クリークとの戦いのあとのことだが、ギンはルフィについてこう言っている。
「覚悟決めりゃあ、敵が恐(こえ)ェだの、てめェが傷つかねェ方法だの、くだらねェこと考えなくて済むことをその人に教えて貰ったよ…!」(67)
「打算っつーのかね、ためらいとか…。そういうのバカバカしく思えてくるぜ、その男見てると…!」(67)
ルフィは一旦こうと決めたら、いろいろ考えず、剣山でもためらいもなく素手で殴りつけ、相手と駆け引きもせず、敵に突っ込んでいく。クリークのように相手を騙して効率よく勝利しようなどと考えない。だが、ルフィが戦略なしでも通用するのは不死身の身体を持っているからである。だからルフィの言うことを現実的な生身の身体を持つ読者が真に受けることはできない。だが周囲で観戦しているゼフが、「おれは、ああいう奴が好きだ」(63)と支持することで、読者もそう思わないといけないような気持ちになってゆく。私わちは日々戦略的に生きているので、何も考えずまっすぐな信念をつらぬいて行動する主人公たちに胸がすくのである。
ゼフはまた、こんな「名言」も吐く。「全身に何百の武器を仕込んでも、腹にくくった”一本の槍”にゃ敵(かな)わねェこともある」。前者がクリークのことを、後者がルフィのことを評している。むろんこれは精神論だ。ここまではっきり言われると、クリークがアメリカでルフィが第二次大戦の日本のように思えてくる。「最強の武器」であり「触れれば即、木端微塵(こっぱみじん)」(64)になる大戦槍(だいせんそう)の爆撃を何発もくらっても立っていられるほど不死身のルフィだからこそ、精神論が通用するのである。そして「剣山マント」を素手で殴りつけたように、鋼鉄の鎧も素手で叩き壊してしまう。
クリークとルフィの戦いは、いろんな意味をもたされて周囲の人物に読み込まれてゆく。『ドラゴンボール』では戦いはたんにエンターテイメントにすぎなかったが、『ONE PIECE』ではそこに様々な教えが仮託されているのだ。ゼフは二人の戦いからサンジに教訓を与えようとする。それは信念を持って腹をくくらないと何も貫徹できないということだ。サンジはゼフに対する恩義のため自分を犠牲にし、クリーク一味に歯向かえなかった。これはもっと言うと、ゼフのために自分の夢を犠牲にしていることを意味する。サンジはオールブルーを探すという夢があるのだが、恩を返すためにレストランを離れられないでいる。ゼフにはそれがもどかしいのだ。「ゼフの教え」は、のちにサンジがレストランを離れルフィについていく伏線になる。

ヤクザ映画は時代劇の衰退と入れ替わるように大ブームとなり、東映がほぼ独占、『実録ヤクザ映画で学ぶ抗争史』(山平重樹、ちくま文庫、二〇一一年)によれば、一九六三年、鶴田浩二の『人生劇場 飛車角』から、一九七二年、藤純子の引退映画『関東緋桜一家』までの一〇年間が仁侠路線、翌一九七三年の『仁義なき戦い』から四年間が実録路線、一九七七年からの『日本の首領(ドン)』シリーズは仁侠路線と実録路線の折衷だという。なかでも仁侠路線は、「その熱狂的な支持者の最たる観客が、全共闘を始めとする新左翼学生運動の担い手たちだったといわれる。(略)新左翼の低迷と軌を一にするように、東映仁侠路線も下火となり、学生運動の終焉とともに幕を閉じることになる」(p10,11)。一九六八年は任侠映画ブームの頂点であり、学生運動のピークでもあった。そして仁侠路線の終わりを象徴する『関東緋桜一家』の公開は、新左翼運動の退潮の象徴となる連合赤軍事件が起きたのと同じ年なのである。もちろん大衆一般とはいえない少人数にすぎない左翼学生の支持だけで映画が大ヒットするわけではないだろうが、これはよく耳にする説でもあるし、「熱狂的な支持者」という点ではそうなのかもしれないと思う。
この本の解説を書いている蜷川正大は、学生への任侠映画の影響として橋本治が作った六八年の東大駒場祭のポスター(背中の刺青を見せたヤクザ風の若者が「とめてくれるなおっかさん」と言っている)を指摘し、「当時の東映の仁侠映画が、若者達の正義感や自己犠牲、変革の思想の手本となったのである。/それは日本人の美的原点とも言われる『義理と人情』を描き、たとえ、敗れると分かっていても信念のためには自己犠牲もいとわない真の男の姿を、変革を志す人たちが己の生き様に重ね合わせたのである」と書く。(p283)
ここで蜷川が掲げる若者達を駆り立てる「正義感」「自己犠牲」「変革の思想」の三つのうち、仁侠映画に関係してくるのは「自己犠牲」だろう。ヤクザに「正義感」や「変革の思想」があるとも思えない。その他に、追いつめられたときに爆発する暴力的なものへの共感もあるかもしれない。「自己犠牲」は、組織や他の誰かへの忠誠や恩義のために自分を犠牲にすること。ヤクザなら、組・親分・義兄弟、左翼学生なら、人民・組織・革命の思想といったところだろう。右翼と左翼という相反するものが自己犠牲の感覚を共有している(この場合、右翼=ヤクザは専ら虚構の中の存在だが)。
『ONE PIECE』には仁侠ものの匂いがあり、それは主として「恩」とか「忠義」といった言葉や態度から感じとれるものだ。『ONE PIECE』の登場人物たちもまた自己犠牲に殉じようとしている。サンジはゼフから受けた恩のために死のうとするし、ギンも親分への忠義とサンジへの恩の板挟みになって死のうとする。しかし『ONE PIECE』の物語の進行はそうした利他的な態度を改めるように求める。「ゼフの教え」はまさにそうした恩に報いる自己犠牲を否定し、恩という過去の呪縛に迷わされず、自分の夢を叶え自己実現することをすすめるものだ。
『ONE PIECE』は、一見仁侠もののように見えるがそうではなく、実はきわめてシンプルな個人志向をすすめている点で今の時代にマッチしている。なぜ利他性を遮断するのか。ゼフから与えられた恩恵は、もともと縁もゆかりもない他人であるゼフからサンジが無償で贈与されたものだから、それを返さねばならないという返報性の原理がはたらく。だが贈与がそのように続いた場合、その形式により無限の連鎖と消耗におちいることがある。それを防ぐために、贈与を起動させた初回の意思のみを尊重することで、その志を活かそうとするのだ。ゼフの場合なら、片足を失ってまで救ったサンジに死なれてはゼフがサンジを救った意味がなくなるので、サンジには恩を恩と感じず自由に生きて欲しいのである。それが恩を活かす道なのだ。恩はゼフに返されればゼフとサンジのあいだで循環するだけだが、それをもっと広く解き放ったほうが、ゼフの気持ちもまた活かされる。サンジやギンは古くさい恩や義理にとらわれていて、その他の人は近代的に自律した個人なのだ。
自己犠牲ということでは、最初に恩を与えたゼフが究極の自己犠牲の体現者である。『宝島』のジョン・シルバー以来、片足というのは危険な戦いをくぐり抜けてきたということを示す海賊の記号になっている。だがゼフの場合、ちょっと奇妙な来歴だ。というのも彼が片足になったのは戦いによってではなく、食糧を確保し少年を活かすために自分で決断した苦渋の選択だったからだ。略奪を稼業にする海賊らしさの記号が、他人に恩恵を施すという海賊らしくない行為の結果によるものだったのである。
もう一人、ルフィの戦いを見て教訓を得たものがいる。ギンだ。これまでの『ONE PIECE』の登場人物のなかで最も渡世人っぽいギンは、自分を殺そうとした親分であるクリークを最後まで慕っていた。そこまで入れ込む理由はよくわからない。ギンはクリークが「最強」(66)だからだと言うがそれだけではなく、一旦親分と決めたからには最後までついてゆこうという意地も大きいだろう。そんなギンもついには、「何が首領(ドン)への忠義だ! おれは今まで首領(ドン)・クリークの名を”盾”に逃げてただけだ」と言い、「今度はおれの意志でやってみようと思う…好きな様に」と悟るようになる。それをルフィに「教えて貰った」(67)と言う。セリフでは「盾」が括弧で括られ強調されている。クリークもパールも盾を持っていたが、ギンもまた心に盾を持っていたということで、比喩に連続性がある。ギンの場合は恩返しではなく、クリークの強さへの尊敬が変化した忠誠心による滅私奉公である。それも自己犠牲のひとつの形式だが、それを捨て、自分の「好きな様に」やろうと心境が変化している。また、ギンも「教えて貰った」と言っているように、『ONE PIECE』では戦い(人の行為)はそれ自体のほかに何か別の意味も持っているのである。

サンジがレストランを出て行くシーンも見せ場のひとつである。サンジの執着を断ち切るために仲間のコックたちがサンジの料理をクソミソにけなす。もちろんサンジはそれが反語的な言動であることをよくわかっている。仲間を旅立たせるために嫌われ役を演じるのは、第1巻でコビーを見送るためにルフィがとった行為と同じだ。彼らのコミュニケーションは目的と見かけにズレが生じており、表面の裏側を読み込むことが要求される。今回はもう少し複雑になっている。それは、それまでしつこくスカウトしていたルフィが喜ぶかと思いきや反対に掌をかえしたように、サンジを連れて行くのは「いやだ」(68)と言うからだ。作者は物語がすんなりではなく、いかに摩擦をおこしながら進ませるかを考えている。そこにはサンジが自分から行く気にならなければ連れて行かないという合理的な理由がある。
サンジはレストランを離れるにあたって土下座してお礼を言う。この極端なパフォーマンスは、ヤクザが組を抜けてカタギになるときに指を詰めるように、サンジなりの「おとしまえ」である。マンガでは、この場面はサンジの靴裏をアップにした視点で、しかも頭を床にこすりつけたサンジの目の高さから描かれている。読者にしてみればサンジを上から眺めおろすわけではないし、彼の足の裏と尻を見せられているわけだから、ここにはレストランの仲間に対する礼儀はあるが、読み手への礼儀はない。つまりサンジは土下座しているけれどもプライドは保たれているのだ。
サンジのトレードマークになっているくわえタバコの由来が明かされる。ゼフはサンジのことをいつも「チビナス」と呼び子供扱いしているが、それが気に入らないサンジはタバコを吸うことで「へへ…大人だろ!」(68)と認められようとしたのだ。タバコを吸うこと自体に特別な意味があるとは誰も思っていなかったのに、それが「チビナス」という呼称と組み合わされることで伏線として発見されたのである。サンジにはまだ謎が多い。眉毛がなぜクルクルしているのか、両親はどうなっていて、何故小さい時からコック見習いとして客船に乗っていたのか、ゼフの蹴りを継承するほどの身体能力の高さはどこからくるのか、コックなのに他の仲間のような白服ではなく一人黒服を来ているのは何故なのか、そういったことはわからない。これからも解明されることはないかもしれない。ここでは、とりあえずタバコの由来がわかっただけである。

ルフィ一行は新たな舞台へとおもむく。そこが「どんなに恐ろしい奴のもとか」ということをヨサクは解説する。以前に「偉大なる航路(グランドライン)」についての地理的情報や、そこから生還したものの様子が語られることはあった。今回はその勢力図が説明される。
「偉大なる航路(グランドライン)」には三大勢力が君臨している。そのうちの一つが世界政府公認の七人の海賊たち(王下七武海(おうかしちぶかい))であり、その一人が既に登場した鷹の目のミホークである。ルフィたちがこれから相手にしようとしているのは、七武海の中の一人、魚人(ぎょじん)海賊団の頭(かしら)ジンベエと肩を並べる魚人海賊アーロンである。アーロンの実力はクリークを上回るという。
バトルマンガにはよく三兄弟とか四天王とか七人衆とかが出てきて順繰りに戦うシステムになっているが、ここでは三大勢力、七武海というように複数勢力の二層構造になっている。ルフィがピラミッドの頂点にたどりつくまで時間がかかりそうだ。
「偉大なる航路(グランドライン)」の勢力の見取図といっても三大勢力のうちの一つである七武海のうちの一人しかまだ姿を現していないから、全体のことはよくわからないままだ。ルフィが海賊王になるためには、この強さの階層をよじ登ってゆかなければならない。三大勢力の全てを倒さねばならないとしたら、単純に考えてもミホーク相当の相手を3×7=21人倒さねばならないことになる。また、世界政府そのものを転覆することになるとしたらさらにその上を行くことになる。このマンガでは世界政府のもとにあると思われる海軍は決して正義の味方ではないから、いつか海軍と衝突する日がくるだろう。海賊王が海賊のチャンピオンだとしても、その存在が世界政府と両立するとは思えない。気が遠くなるような遥か彼方に目標は設置されている。とりあえず姿を見せたミホークは人間離れした神秘性を持っていて、ルフィのゴムゴムていどの力では太刀打(たちう)ちできそうにない。次なる対戦相手である魚人アーロンは七武海レベルを相手にするにはまだ早いと思われているためか、七武海の中の一人と「肩を並べる」海賊とされている。『ドラゴンボール』で言えば、天津飯レベルの相手だろうか。このマンガもまた、強さがエスカレートする徴候を示している。
ルフィが向かったのはアーロンが支配するアーロンパークだ。アーロンは魚人で、彼や仲間の魚人たちは人間と魚が融合した身体をしており、「海での呼吸能力を身につけた”人間の進化形”」(71)である。映画『ウォーターワールド』のエラを持つミュータントのように、生活圏にふさわしい身体に変容したのである。人間より進化したのが魚人であるということは、この惑星はもともとはもっと陸地が多かったのだが、水没して海の面積が増えて、そうした環境の変化にともない魚人に進化したということなのだろうか。
魚人は、「生まれながらに人間の10倍の腕力を持つ」(70)と言われる。魚人のザコキャラであっても、強さが底上げされていることになる。彼らは「偉大なる航路(グランドライン)」にある魚人島から流れてきた者たちだろう。また、アーロンは、魚人は人間より「上等な存在」で、「『万物の霊長』は魚人だ」(71)と言う。村の人間たちも、アーロンのことを、「種族主義」で、「人間を殺すことを何とも思っちゃいない」(71)と言っている。魚人と人間の関係は、分類学的には、同じ「ヒト科」ではあっても、「ヒト属」と「ゴリラ属」くらい違うのだろう。だから人種主義ではなく「種族主義」と言っているのだ。
『ONE PIECE』にはこれまで、変形した身体を持つフリークスが何人も登場した。悪魔の実を食べたルフィやバギー、珍獣の島に出てきた箱の中にすっぽりとおさまったガイモン。腕と斧が融合したモーガン大佐。人間だが人間離れした身体能力を持つゾロやサンジ、海賊クロ。人間なのに動物めいた姿をしたブードル町長や猛獣使いのモージなどをそこに加えてもいいかもしれない。しかし彼らは人間であり、ルフィやバギーは人間をはるかに超えているが、そうなるには悪魔の実を食べるという要件を必要とした。だが魚人というのはもはや人間ではない。悪魔の実を食べる必要もなく人間とは違う姿をしているのだ。そういう存在を認めるということは、他にも似たような人間ではない存在が次々に出てくることを許可することになる。もともとバラエティ豊かな登場人物たちが出てきていたが、人間という制約から自由になって人間以外の何でもありになって、今後ますますそれに拍車がかかるだろう。
アーロンパークにはゾロやウソップが先行して到着している。ルフィやサンジは重傷だったはずがいつのまにかすっかり回復しているのに、ゾロは包帯を巻いたままだ。この間、ゾロは物語の主舞台から姿を消していたからだ。画面に登場しない人物の時間は停止しているのである。
ナミはアーロンに村ごと両親を殺されたらしい。今はアーロンに取り入って一味の幹部になっている。アーロンは「人間は嫌い」だが「女は別」(69)だと言っている。

※2012.6.5更新 見崎鉄

 

【巻9】

ゲンゾウ

魚人アーロンが支配する村の駐在はゲンゾウという。これまでのパターンでは、訪れた村や町の長が代表となってルフィたちと関わり、それまでの経緯を語るというものだったが、今回は駐在がその立場にある。駐在は全身切り傷だらけである。変わっているのは帽子に風車が付いていることだ。見ようによってはシュールだが、もし現実にこんな人がいれば頭がおかしいのではないかと思われてもしかたない。頭の上にいつも日の丸の旗を立てている赤塚不二夫のハタ坊(『おそ松くん』に登場するキャラクター)みたいだ。
なぜ、彼の頭の上では風車がまわっているのか。風車といっても「風車(かざぐるま)の矢七」のようなカッコいい記号ではない。
この風車はいつも「カラカラ…」という音をたててゆっくりまわっている。絶えず風が吹いているわけではないのに、不思議なことにいつもまわっているのだ。風車の存在感はこの「カラカラ…」という乾いた音にある。風車はゲンゾウの心の虚無感を表象しているかのようだ。彼ら村人は魚人の支配に手も足も出ずに、言いなりになるしかない。そうした虚しい気持ちが表されている。何の音もしないより、「カラカラ…」という乾いた音のほうが虚しさをひきたてる。
風車はゲンゾウがどんな危機にあってもそれと無関係に音をたててまわっている。アーロンに痛めつけられ血を流しているときも、それを小馬鹿にするかのように「カラカラ…」とまわっているのだ。深刻な場面でも、読者はこの「カラカラ…」という音を聞くことによって物語にのめりこむことから距離をとることになる。
太宰治に「トカトントン」という短編小説がある。八月一五日の終戦の日に玉音放送を聞いたとき「トカトントン」という金槌で釘を打つ音が聞こえてきて、憑きものがおちたように白々しい気持ちになってしまった。以来、何事かにのめりこみそうになると、この「トカトントン」という音が遠くどこからともなく聞こえてきて、「何もかも一瞬のうちに馬鹿らしくな」ってしまうのだ。この音は「トントントン」という威勢のいいリズムのある音ではなく、「トカ」とはずれており、それが人を小馬鹿にしたような軽みを生んでいる。
駐在の頭でまわる風車の「カラカラ…」という音は、この「トカトントン」という音と同じだ。どちらも何事かにのめりこむことから距離をとらせる軽い音につきまとわれている。人の心の奥に突き刺さったり沁みてくる音ではなく、表層のところでとどまり流れてゆく。風車は、駐在という、村での権力を象徴する人物の頭に据えられることで、より効果的に、この物語が深刻になろうとすることから脱力させているのだ。そしてその風車が、帽子という、本来、駐在としての威厳を示すものに飾られていることは風車が駐在の本質の一部になっていることを示している。
この風車にツッコミをいれるのは唯一ルフィだけである。「なんで、あのおっさん、頭に風車さしてんだ!」(80)と驚いている。他の人には風車はみえないが、ルフィにはゲンゾウの虚しさがみえるのである。

アーロン

アーロンはサメの魚人である。特徴は、鋸歯状の鼻と末端肥大した大きなアゴである。このノコギリのような鼻のギザギザは、鼻翼がいくつも連続したもののようにも見える。またそれは歯のギザギザと照応している。ギザギザが多いせいでよけい凶悪そうな顔に見える。人間の顔において鼻は目立たないほうがいいということはバギーのところでふれておいた。だがアーロンはバギー以上に鼻が目立つ。ウソップも鼻が長いが、ウソップ以上に鼻にひっかかりがある。顎が大きいのはこの鼻とバランスをとるためでもあるだろう。
このアーロン編からは刺青が目立つ。ナミがアーロンの仲間であることを証明するのが刺青だし、他の仲間もサメや太陽の刺青をしている。アーロンの一味ではないノジコさえ刺青をしている。それに比べたらルフィの一味はきれいな体をしている。

騙すことと信じること

アーロンと同じく長い鼻のウソップが今回は活躍しそうである。しかしウソップの特技はウソをつくこととパチンコだ。海賊クロのような頭脳系の相手ならともかく、力自慢の魚人にウソは通用しそうにない。パチンコもおもちゃじみていて、魚人を遠くから不意打ちすることができるだけだ。しかし実は魚人たちを騙すのはナミである。ウソップのウソはその場限りにひねりだした一発芸のようなものだが、ナミは八年をかけて関係をつくっているうえでのウソである。捕まったゾロやウソップを救い出したのはナミのウソだ。特にウソップのときは自分の手を刺すという犠牲を払っている。ナミはルフィたちを騙してお金をまきあげたが、今度はアーロンを騙してウソップたちを救おうとする。ナミは二重に騙しているのだ。このときはアーロンは騙せたが、しかしもっと大きな文脈ではナミはアーロンに騙されてしまう。ナミは八年かけて一億ベリーためるが、それをアーロンによってご破算にされてしまうのだ。ナミは、「アーロンは話のわかる奴よ、お金で全て事が運ぶから」(72)などと気楽なことを言っていた。そんなにアーロンを信用していいものか、読者はナミのナイーブさに心配になる。これは人質が犯人に好意を持ってしまうストックホルム症候群だったのだろう。アーロンを信用するしか他に方法がないからそうなってしまうのだ。
ナミは、「裏切りはあの女の十八番(オハコ)だ」(73)とか「お前は頭が良すぎる」(74)とアーロンの仲間に言われている。だが実は「裏切り」をするのはアーロンのほうだし、ナミよりアーロンのほうが頭がまわり周到だ。アーロンは部下たちがナミに対する疑いを口にしても、自分はそれに乗らなかった。しかしそれもこれも最後にナミとの約束をひっくりかえすためだったのだ。
村の人たちもアーロンの仲間になったナミを嫌って無視しているかのように思えたが、実はナミの行動の意味は見抜かれており、ナミを助けるためにそうしていた。ナミは自分の意図を隠して村人を騙しているつもりだったが、実は騙されていたのはナミのほうだった。アーロンを騙し、村人を騙し、「魔女」と言われるほどのナミだったが、実はアーロンも村人もさらにその上をいっていたのだ。
サンジがレストランを離れる時、言うことと心の中がくい違っていた。このマンガはこのように、口にしたことや態度は内面を正確に反映しているわけではないので、表面の言動に目くらまされずに、きちんと真実を把握せよ、ということが通低している。
ルフィは、ナミが仲間を裏切ったとか、島で起きているややこしい話を聞かされて「フッ…」と倒れるように道の真ん中で寝てしまう。「この島で何が起きてんのかも興味ねェし…」(76)と言う。ナミの裏切りが信じられないし、いろんな話を聞かされても表面的なことしかわからないから、その都度変化する情報に踊らされないようにするためだろう。徹底して信じることで、裏切りが、隠されたその裏へとさらに反転するのを待つのだ。ルフィはナミと出会ったときの最初の直感を信じ、一貫して態度を変えないために情報の入力を制限する。
ルフィはまた、ノジコがナミの過去を話そうとするときにも、「あいつの過去になんか興味ねェ!」(77)と言って何も聞かずにスタスタ歩き去ってしまう。ルフィがなぜナミの過去を聞かないかというと、ナミを無条件に信用しているからだ。話を聞くということは、聞いた結果、「~だから」という理由を知らされて、それなら信じられるとか、それなら信じられないという条件のもとに相手を見ることになる。だから聞く必要がないのだ。だが無条件に信用されたほうはキツイ。無条件に信用するということは、聞く耳を持たないということだ。仮にナミが自分は人を騙すような下劣な人間だからほっといてほしいと言ったとしても、いやお前は仲間を裏切るような人間ではないと信用されていれば、ナミは原理的に裏切ることはできないのだ。裏切るという枠組でものを捉えないから、何をしても裏切ることができない。もしナミが裏切ったように見えたとしても、それは一時的なもので、何か理由があるのだということになる。そしてその理由すら聞こうとはしないのだから行動を正当化できない。香港映画『インファナル・アフェア』のように、マフィアが警察組織に潜入して本当の警察官と同じにふるまえば、もはやマフィアと警察官の違いはなくなる。仮にナミがアーロンの手先だったとしても、ルフィの仲間のごとくふるまえば仲間なのである。
ちなみに、ルフィが「過去には興味がない」と言うとき、関連して思い出されるのは、アーロンに復讐しようとしてナミに止められた少年である。この少年が着ているパーカーには、書かれた日本語の意味もわからず外国人が着ているオリエンタル趣味のTシャツのように、胸のところに漢字で「今」と大きく書かれている。これはジョニーの顔にある「海」という漢字より関係がわかりにくい。だが、ルフィのこの言葉が解答となって、過去は関係ない、今を生きろというナミにつながるメッセージとして響いてくる。

ナミの過去

コッミクスの小口を見ると、一部分が黒くなっている。コマの枠部分が黒く塗られた過去の語りが長く続いている部分である。今回はナミの番である。サンジのときは二回連載分あったが、今度は三回連載分もあり、回想が長くなっている。ゾロの回想は一〇頁にも満たなかったことを思うとどんどん長くなっていることがわかる。しかも八年前の回想のなかに、さらにその三年前の過去の回想があるという具合に、重層的な入れ子構造になっている。この二重の過去はコマの外縁だけでなく、コマの中もグレーに網かけがされている。
ナミの物語として何が語られているかみてみよう。
一一年前、ココヤシ村のベルメールは海兵として荒れ果てた戦場にいた。そこで赤ん坊のナミを抱いた三歳のノジコに出会う。二人を村に連れて帰り、自分の子ども同然に育てる。ナミとノジコは姉妹ではない。戦火の中でたまたま出会っただけのようだ。ナミの両親はどうなっているかわからない。数年後のある日、魚人海賊団から分裂した海賊のアーロンが村を襲う。ナミとノジコを海賊から助ける代わりにベルメールは殺されてしまう。海図を描く才能のあるナミはアーロンに見初められ、その手下となった。
よくわからないのはナミの海図を作る才能だ。ナミのつくる正確な海図は「アーロン帝国」を築くために不可欠だとされている(p84)。だがナミは子どもの頃から地図を描くのが好きだというほか、本を読んで航海術を学んだだけであり、「私は、私の航海術で世界中の海を旅して、自分の目で見た”世界地図”を作るの!」(77)と言う。海賊が跋扈する世界なのに、現役の海賊より詳しい「航海術」を本を読んで学べるのかという疑問があるが、この世界は海流や気象に関する知識がかなり遅れている世界なのだろう。また、近代的な測量も行われていないようだ。子どもがお絵描きの延長で描いただけの地図を見てアーロンは、「ホウ…こりゃたまげた…。この見事な海図を、このガキが…!?」(79)と驚いている。ナミの素性は不明だが、もしかしたら両親は航海に関わる仕事をしていたのかもしれない。その「血」がナミに流れているということだろう。
第71話でアーロンはナミについて「我らがアーロン一味の誇る有能な”測量士”だ。実に正確ないい海図を作ってくれる!」と言っている。このマンガでナミに求められる技能が、航海術・海図の作成・測量術などごちゃまぜになっている。おそらくナミは当初、優れた航海術を持つ者として登場したのだが、それだと現役の海賊にかなうわけがないから、優れた測量士ということに変化していったのだろう。ナミが本格的に測量を学んだ形跡もないのに優れた測量士ということにするのに必要な途中段階として、子どものときから優れた海図を描く天才というエピソードが挟み込まれたのだと思われる。アーロンは「偉大なる航路(グランドライン)」からやってきた海賊だが、ナミは「偉大なる航路(グランドライン)」へ至る海図をバギーから盗まなければならないほど経験が浅い。航海術でアーロンに勝るわけがない。そこで海図の作成や測量という、実地の経験よりも知識として学べる技術やセンスに優れた者としての側面が強調されたのであろう。先に引用した第71話のアーロンのセリフの後でナミは、「あんた達とは脳ミソの出来が違うの。当然よ!」と言っているが、ナミに求められているのは簡単に言えば頭のよさ、アーロンやルフィの肉体的なぶつかりあいに対置される頭脳労働的なものなのだ。だが、このマンガではアーロンはたんなる肉体派のおバカキャラではなく、魔女のナミより上手(うわて)の賢さを持っているのだ。ナミが村人やルフィたちを裏切る非情な魔女を演じていたように、アーロンもまた肉体派のバカを演じていたのである。
この過去の回想でわかることがもう一つある。第74話でアーロンの部下クロオビがナミの家で「古ぼけた宝の地図」を見つけた。その地図には宝の隠し場所としてココヤシ村を指していた。クロオビは、ナミが金を貯めてこの村を買おうとするのは、その財宝を狙ってのことだったと判断したのだ。そのときナミは、「これは私の宝(もの)よ!」と地図をひったくっている。アーロンもその宝の地図にこだわらない。奇妙なエピソードだと思っていたが、その謎が過去の回想でわかる。その地図はナミが子どものときに描いたもので、「夢の一歩」だとベルメールに誉められた地図なのだ。当然、財宝のありかを示すものではない。そういう比喩的な意味でその地図は「宝」なのであって、クロオビが勘違いしたように財宝の隠し場所を示した地図ということではない。先のナミのセリフもよくみると「これは私の宝(もの)よ!」と「宝」に「もの」というルビがふられてはいるが、あえて「宝」という漢字を使って読者をミスリードしている。この作品は随所に仕掛けが満ちているのだ。

自己犠牲の連鎖を断ち切れ!

鈍感な読者でも、ルフィの仲間のエピソードには共通した構造があることがわかるだろう。ルフィ、ゾロ、サンジのいずれも両親や兄弟は描かれない。これは彼らの出自を明かすのを留保することで、今後ののびしろを確保するためである。また、ルフィ、サンジ、ナミに共通するのは、彼らを助けてくれる他の誰かの自己犠牲を引き換えにしていることだ。ルフィを助けたシャンクスは片腕をなくし、サンジを助けたゼフは片足をなくし、ナミを助けたベルメールは命をなくしている。彼らは幼いながらも、助けられる価値ある者として見出されているのである。この価値付与と自己犠牲は彼らには重荷になる。彼らを助けた人たちがなくしたものを背負っていかなければならないからだ。そのため彼らは曲げられない夢を持たされることになる。
これらの過去の回想はいずれもどこかで聞いたことのあるような、似たような古くさい話の繰り返しだ。回想であるため急(せ)いた語りになって骨格がわかりやすくなるせいだろう。『ONE PIECE』のユニークさが、物語を装飾するものだということがわかる。
ナミは他者の自己犠牲によって生かされているという規定性を持っている。このため、その後のナミの行動は構造的に他者への自己犠牲を強いられることになる。ナミはゾロやウソップを救うためにアーロンの一味から疑われるような危険を犯している。ウソップのときは自分の手を刺すというケガも負っている。他者の犠牲によって命を救われたナミは、自分もまた他者を救うことを構造的に宿命づけられているのだ。
ナミが自己犠牲によって救っているものがもうひとつある。育ったココヤシ村だ。村を救うためにナミはこの八年を犠牲にしている。自分を育ててくれた共同体を守るためにそこにとどまろうとするのはサンジと同じである。ナミもサンジもそういう自分の気持ちは共同体のなかにうまく伝わっていないと思っている。ナミが村に戻ると住人たちはナミを避けるように隠れてしまう。しかし村人たちはナミの本心を知っていた。しかしナミが逃げ出したいと思ったときに、「私達の期待が足を引っぱってしまうと、知らぬフリをしていた」(80)のである。態度と真意は異なっていたのである。このマンガは、そのように、表層的に現れる態度とは異なる真意を見抜けということが隠れた主題になっている。あるいは隠されたそれがはっきりわかるときに感動が生まれる仕組みになっている。というのも自己犠牲によって守ってきたものが、ちゃんとその犠牲を理解していてくれたということだからであり、それは無駄ではなかったからである。そしてその自己犠牲の連鎖から解放されることが彼らにとっての救いになる。

仲間との絆

ナミ、ノジコ、ベルメールの三人は家族のように暮していたが血のつながりはない。ナミたちも養母のことを「おかあさん」とは呼ばず、「ベルメールさん」と「さん」付けで距離のある言い方をする。喧嘩をして興奮し「血がつながってない」からという話になる。家出をしたナミにゲンゾウは、「お前達には、血よりも深い絆がある」(77)と諭(さと)す。なぜ養母・養女に「血よりも深い絆がある」とされるのか。この時点では理由は語られない。血縁を超えた絆にこのマンガはロマンを見出している。このマンガはテレビや雑誌などで仄聞するところ、仲間の絆を重視しているとされる。それもこういう直接的な描写があるからわかりやすい。彼らは家族の血縁を断ち切られたところで登場している。そしてあらためて家族に似た関係を築いているわけだが、それが家族なみに強固なものであるべきために、「血よりも深い絆がある」とされる。
ゲンゾウの、「お前達には、血よりも深い絆がある」というセリフは、ベルメールがナミを守ってアーロンに殺され、母親という地位を手に入れるのと引きかえに、事後的に真実となる。「血よりも深い」というのは、もとからの自然に成立した家族ではなく、家族になろうという決意のもとで形成された家族だからである。そしてその成立と同時に、つまりベルメールの死により実体は消滅した、幻想の家族であるからだ。
また、家族になろうとしてベルメールが死んだように、つながりを強固にするために選ばれるのが自己犠牲である。自分の犠牲によって他者を活かすこと。血縁内の自己犠牲(例えば、親が川に落ちた子どもを救うといった)において、これは個体のレベルでは利他的だが、個体を超えた遺伝子のネットワークのレベルで考えれば、自分の遺伝子を残すことになるから利己的なふるまいになる。血縁が自己犠牲を要請するものであれば、その形式を真似ることで血縁的な絆をつくることができる。しかもそれはあえてそうするという意志があるぶんだけ血縁よりも「濃い」ものになる。
テレビや書籍などで、このマンガの魅力として語られる「仲間との絆」は、マンガの批評としてはあまりにも表面的で大雑把すぎる。マンガの形式や表現の細部を読みとばして倫理や道徳といった人生論的な主題を引き出しているだけではマンガでなくてもいいことになる。また実際、このマンガから「仲間との絆」が大事だということを学んだとしても、現代の若者がそれよりもっと学ばなければならないことは、「仲間以外との絆」なのである。「仲間と認めた者以外はみな風景」に見えてしまうような若傍無人さ、冷徹さでは困る。仲間以外の人間も、自分と同じ感情を持つ人間なのだという共感能力をはぐくむことこそが必要であろう。狭小な仲間世界のなかで絆を強固にするのは少なくとも若者のあいだではもう達成しているのではないか。自分と同質の仲間は、自分の鏡像でしかない。そこには他者が不在だ。「仲間との絆」が大事だとされるのはNHK的に言えば無縁社会にあって家族のいない単身生活者であろう。そこでは家族以外の者との支えあいの関係が模索されつつある(例えばルームシェアなどもそうだ)。
初めて村を襲ったときアーロンは大人一人10万ベリー、子ども一人5万ベリーを取り立て、全部で二千五百万ベリーを徴収した。この金額を毎月上納することになるようだ(第78話)。ナミが一億ベリーでアーロンから村を買う約束だったが、それは毎月の上納金の4か月分でしかない。ナミが個人で貯めるには高額だが、村を解放するには安すぎる。アーロンが本気で約束する金額ではない。簡単な計算で辻褄があわないことがわかるが、問題はそういうところにはない。問題はアーロンが金を要求し、ゲンゾウたちも「金で解決できる問題もある!」(78)とそれに妥協し、ナミもまた一億ベリーで村を買うというように金で解決しようとしたことにある。アーロンと同じ方法をナミも選んだのだ。しかし金で解決するという方法は最後には破綻し、暴力という手段に訴えることになる。金により自力で解決できると思っていたナミはルフィたちを、「他所者がこれ以上この土地のことに首つっこまないで!」(76)、「あんたには関係ないっ! さっさと島から出てって!」(80)と冷たくあしらっていたが、ついには涙ながらにルフィに助けを求める。「当たり前だ!」(81)と引き受ける場面は感動的なシーンとされるだろう。暴力による解決こそがこのマンガのルールだ。暴力こそが、金よりもっと根本的なものにふれているのである。
ついでに書いておくと、このマンガが広い世代の読者を獲得しているのは、どの読者年齢でも楽しめる要素をいれてあるからだ。今引用したようなシーンはマンガからベタな感動を得ようとする読者を満足させるものだし、先のほうで引用した「宝」にかかわるさりげないダブルミーニングは注意深い読者をニヤリとさせるものである。低年齢の読者にはウソップのようなその場を切り抜けるウソが面白く見えるだろう。ウソップは大局を理解せず場当たり的に行動する者として描かれている。低年齢の読者は物語の大きな流れを理解して読んでいるというよりは、短い場面で完結する面白さに反応する。

ナミとノジコ

ノジコの役割はなんだろう。どうしても必要なキャラだろうか。ベルメールが戦場で見つけるのはナミ一人でもよかったし、海賊に襲われて生き残るのはナミ一人でさしつかえなかった。ノジコはなぜいなければならないのだろう。それは姉妹のように育ったノジコがいないと、ナミの理解者が誰もいなくなってしまうからだ。ルフィやサンジのようなガサツな連中では話にならない。同性のノジコがいることでナミの細やかで揺れ動く気持ちを受けとめられる。これまで、通しで登場する女性キャラがナミしかいないので、ナミと一緒に育ってその人柄をよく知っている人物としてノジコが必要とされるのだ。
ノジコはナミと対になって描かれるキャラクターだ。似たような年齢と背格好、姉妹とも言えるほど近い顔立ちだが、平凡なノジコとは対照的に、運命に翻弄されるかのようなナミ。生き方の違いが、二人の人生に分岐があったことを示している。ノジコがいることで、ナミの激しい生き方が際立つ。
ナミとノジコの顔を見比べてみると、大きな違いは、髪型と眉の形であることがわかる。他にも、ノジコのほうが唇を表す線がはっきり描かれていたり、目と眉のあいだの線の位置が微妙に違うので、ナミのほうは二重まぶたに見えるのに、ノジコのほうは目がややくぼんでいるように見える。まつ毛の量もことなる。ナミのまつ毛は二本、ノジコは四本が基本である。明らかに細部においても両者は描き分けられているのだが、これらはよく目を凝らしてみないとわからない。全体の雰囲気の差異を決定している要素はやはり髪型と眉の形の違いである。ノジコは額をだし、しかも前髪が落ちてこないようにヘアバンドというかバンダナのようなもので髪を上げている。一方、ナミは前髪を大きく垂らしている。このせいでナミのほうが童顔に見える。髪型だけで判断すると、気性が激しく行動的なのはノジコのほうに見える。眉は両者とも一本の線で描かれている(但し、線の強弱がつけられている)。しかしナミの眉はほぼ直線的なのに、ノジコの眉は眉山のところではっきりと折れ曲がった「く」の字型の眉になっている。ノジコはこのせいで老(ふ)け顔になっているし、クセのある顔になっている。ナミの顔のほうが没個性的だが、嫌みがないのだ。顔の研究では、美人顔というのは平均的な顔のことであるとよく言われるが、個性の少ないナミはその点でノジコより美人だということになる。
そういった絵柄よりもノジコを特徴づけるのは何といってもその名前である。女性キャラに「ノジコ」はないだろう。辞書的に言えばノジコの由来は野路子で、ホオジロ科の鳥である。だがその音の響きはノコギリでジーコジーコ挽いているみたいだ。名前からするとノジコはノコギリ鼻のアーロン系である。また、この名前は『ルパン三世』の女盗賊、峰不二子にも似ている。ナミと不二子の共通性はすでに指摘しておいた。他方、ノジコは不二子に名前が似ているが生き方は似ていない。ナミが平凡な名前なのに波瀾にとんだ生き方をしているのに対し、ノジコは奇妙な名前なのに生き方じたいに特徴はないという転倒がある。

約束と服従

ナミはアーロンに約束を守れと詰め寄るが、アーロンは「おれが約束をいつ破った!? 言ってみろ!」(80)と逆ギレする。ナミの貯めた金を海軍に横取りさせたのだが、ナミがアーロンに金を渡せなくなったことには違いない。アーロンの言うことは一応論理的である。海軍は海軍でナミが盗賊だから盗品を没収しただけである。これはこれで筋がとおっている。全体を見渡すとおかしいが、部分部分では理屈がとおっている。全体のおかしさを立証するにはアーロンと海軍が通じあっていることを立証しなければならないが、それは困難だ。ナミはアーロンに言い返すことができず、悔し涙にくれるのみ。うまく説明できないけれどおかしいところがあると思ってもナミがそれ以上強く言えないのは、アーロンが最終的な解決手段として暴力をもっているからだが、それだけではない。見てきたように、アーロンは実質的には約束を破っているが形式的には約束を守っている。たんに暴力で屈服させるだけでは不満がつのり、いつか暴力によって覆(くつがえ)されてしまう。そこで形式的にでも約束を守ることで、相手に同意させ反論を封じるのだ。相手も、言い返せないことによって多少なりとも自分で納得せざるをえない部分があることになり、それが弱みになって手も足もでない。自発的に服従させておくのが、支配するのに一番経済的だ。ヤクザもそうだがたんに暴力に訴えかけてくるのでなく、必ず相手に「いいがかり」をつけることによって発端を開いている。相手にも弱みをつくらせておくのだ。

構図の意味

八五頁と一九二頁のカットはそっくりだ。人々が喧々囂々騒ぎ立てているときに、それを遮断するように不意にナミが登場するシーンである。手前に、背後からのナミの膝から下を描き、その足のあいだに人々を配置するという距離感を強調した構図で、ナミの声がそのカットにかぶさっている。西部劇なんかでよくありそうなショットである。画面の最前には足しか映らず観客(読者)には顔はわからないから、それが誰であるかは、遠くにいる相手がその存在に気づくことによってである。その存在の全てを見せるのでなく、一部をまず晒す。観客(読者)にとって不意に現れたように、相手にとっても不意に現れた存在である。意外性のある存在ということだ。つまり親しい仲間ではない。よく知った仲間がそんなもったいぶった登場の仕方をするわけがない。このときナミはルフィや村人たちにとって仲間ではなかった。そのため、外からやって来た者としてまず足から描かれるのである。

※2012.10.12更新 見崎鉄

 

 

【巻10】

いよいよ対決のときである。ルフィたち四人は敵の本拠であるアーロンパークに乗り込んでいく。アーロンは「帝国」を築くと言っていたが、幹部が数人とあとは多数の下っ端という単純な階層の組織で、いくつかの村落を脅して「奉貢」を納めさせるという小規模なヤクザ組織であり、とても「帝国」にはなりえない。そこに乗り込んでいくルフィたちも、脅されて耐えに耐えてきた村人たちに代わって鬱憤を噴出させるために殴り込みをかけるヤクザの高倉健みたいなのだ。
だがルフィの怒りは村人を不当に支配してきたことには向いていない。「うちの航海士を、泣かすなよ!」(82)と、もっぱらナミ個人の仇討ちが目的である。村人たちの恨みはルフィにとって他人のことであり首を突っ込むことではないが、ナミは「仲間」だから自分のことなのである。
ところで、この「うちの航海士を、泣かすなよ!」というセリフを、先に引用したアーロンの言葉と比べると面白い。アーロンはナミを「測量士」と言っていた。だがルフィはナミを「航海士」として扱っているのである。「測量士」より「航海士」のほうが総合的な知識が必要とされるから扱いが「上」であろう。測量士が作る地図は航海士にとって判断材料のひとつにすぎない。ルフィたちのほうがメンバーが少ないから乗船経験が浅くても責任のある役割を任される。両者の呼び方の違いが、仲間としての重要性を表している。
ルフィは海獣モームを投げ飛ばすときに両足をコンクリートの中にねじ込んだため足が抜けなくなってしまい、アーロンによってコンクリートの塊とともに海に放り込まれてしまう。ルフィの活躍が封じられているあいだ、ゾロとサンジ、ウソップがアーロンの手下と戦うことになる。
ルフィはこれまでも動きを封じられていたことがある。バギーのときは檻に入れられ、クロのときは船のマストの下敷きになっていた。いずれも抜け出せない状態でもなさそうなのに、見せ場を後回しにするために動きを封じられているのだ。今回も足が抜けないという作者の胸先三寸でどうにでもなりそうな冗談のような状況が死活的な問題としていつまでも続く。悪魔の実を食べたルフィは海に弱い。海の中では力が出ない。一方、海の中で真の威力を発揮できる魚人の存在はルフィと正反対の位置にある。
ルフィはサンジによってコンクリートを破壊されることで救出されるが、そのときサンジは、「だいたい、てめェが全部、話をややこしくしたんだ…!」(89)と愚痴っているように、ルフィがコンクリートに足をとられて海中に沈まなければ、その間の話はとばされていたであろうはずのものだ。ルフィが復活することで話がつながるのである。
戦う相手を観察してみよう。アーロンはノコギリザメの魚人であり、その部下の魚人どもは、タコのはっちゃん、エイのクロオビ、キスのチュウなどで、同じ魚人ではあるが、それぞれ外見がかなり異なっている。彼らは人間から魚人に進化したとされているけれども、それならもう少し似ていてもいいはずなので、たんなる進化というより、分岐的進化をしていったのだろう。結果的に、人間と魚の融合体というべきものになっている。映画の『スパイダーマン』や『ザ・フライ』などがそうだが、人間と異生物との融合はなぜか元の存在より格段にパワーアップしている。人間やクモやハエはそのままだとたいしたことはないけれど、融合することで桁違いに能力が増すという神話的思考がうかがえる。
具体的に登場する魚人は、ノコギリザメ、タコ、エイ、キスであった。これらのうち形態がうまく利用できている魚人はノコギリザメとタコであり、エイとキスは能力と形態的な必然性の結びつきが弱く、こじつけていどである。名前や姿にあった技を使うのはタコのはっちゃんである。六本の腕で刀を持ったり墨を吹いたりするが、それはタコにしかできない。
エイの魚人(クロオビ)は空手使いである。なぜエイが空手使いなのか疑問だったが、p60で「エイッ!」という掛け声で正拳突きをしたので、そこからきているのだろうか。エイの特徴は扁平なことだ。クロオビは胸びれにあたる部分が上腕外側に刃のように突き出ている。これを武器にした「腕刀斬(わんとうぎ)り」p94という技がある。また、クロオビは満州族の弁髪(べんぱつ)のように後ろ髪を長く伸ばしているが、これはエイの鞭のような細長い尾なのだろう。この鞭のような髪を使った「イトマキ組手(くみて)」p95という技もある。おそらく、エイの長い尾から弁髪を連想し、そこから拳法使い→空手→クロオビとなったのだろう。「エイッ!」という掛け声はたんなる語呂合わせだろう。
陸上での戦いに終始するタコのはっちゃんやキスのチュウに比べたら、エイの魚人であるクロオビは魚らしく海中での戦いが描かれる。クロオビの技は空手だから、魚人らしいといよりも人間っぽい。魚人らしさは海中で戦うことで担保される。クロオビと戦うのはサンジだが、サンジが苦戦するのは空手にではない。水中で空気が吸えないことに対してである。得意のキックも水中では威力が半減する。クロオビに殴られてふっとび岩が砕けるが、普通の人間であるはずのサンジはそんなことは平気である。クロオビさえ「まったく呆れた打たれ強さだ…。人間とは思えん」(86)と言っているくらいだ。
サンジが我慢できないのは殴られたり蹴られたりすることではなく、呼吸ができないことである。つまりクロオビに対してというより海中というアフォーダンスがサンジの戦いを不利にしている。だからこの環境を逆手にとって、エラ呼吸をしているクロオビのエラに空気を「ブチ込む」ことでクロオビから逃げるのである。クロオビは力の強さは「水中だろうと陸上だろうと同じこと」(86)だと言っているが、陸に上がった魚人空手はサンジに通用しない。二頁でケリがついてしまう。ここでもサンジは空手に苦戦していたのではなく、水中という場に苦戦していたのだということが確認される。クロオビとの戦いは彼の魚性が押し出されたものではなく、魚人と関係づけられた海というアフォーダンスが主題化された戦いになっているのである。
キスの魚人であるチュウの名の由来は書くまでもない。顔は魚のキスの特徴である口先が前に出ているように描かれている。しかし魚のキスには他にこれといって特徴はないので、チュウも口が極端に出ているほかは普通の人間である。チュウの武器は口から出る強力な水鉄砲である。それならキスではなく鉄砲魚(てっぽううお)の魚人にすればよかったと思われるが、それだと名前と技があまりに「つきすぎ」ておりヒネリがないのでキスにしたのだろう。
チュウの技である水鉄砲というのは陸上でしか使えない。水中で水鉄砲を使っても水の抵抗が大きくて破壊力がのぞめない。そういう意味ではチュウは魚人なのに水中で活かせる技を披露していないのである。水鉄砲はまた、チュウと戦う相手としてウソップを引き寄せている。ウソップはパチンコで「火炎星」や「鉛星」を撃つが、それは水鉄砲と似たような飛び道具である。特に「火炎星」はチュウに対して三回もくらわしている。(p39,110,127)水鉄砲の「水」に対して、反対の「火」で対抗しているのだ。いずれにせよ、水鉄砲もパチンコも子どもの遊び道具の延長のようなものであるから、それを武器にする者どうしが戦いの組み合わせにされるのである。
タコのはっちゃんは形態的に最もユニークなタコを素材にした魚人なので特徴をだしやすいキャラである。はっちゃんと戦うのはゾロで、八本足のうち六本の手を使ったはっちゃんの六刀流は、ゾロの三刀流と対決させやすい。戦いが噛み合いやすいのだ。六刀流というのは過剰な剣技である。ところで、『ドラゴンボール』には天津飯というキャラがいた。天津飯の特徴は三つ目であることだ。普通の人間より目が一つ多い。彼の使う技は、背中から腕が出て四本腕になる「四妖拳」や、四人に分裂する「四身の拳」(分身の術ではなく四人ともホンモノ)である。三つ目という過剰さを特徴とする天津飯の技は、手や身体の数も過剰になる傾向にある。何かを増やそうという方向で相手を上回ろうとしているのである。
タコのはっちゃんも、剣を持つ手の多さによって相手を上回ろうとしている。ゾロの三本より六本の剣のほうが量において勝っているというわけだ。しかし天津飯が試合で悟空に負けてしまったように、はっちゃんもゾロに負けてしまう。ゾロのほうが量でなく質で勝っているというわけだ。少年マンガではこういう場合、たいてい量において不利なほうが最終的に勝つことになっている。物量を増やすというのは発想としてつまらない。たんなる足し算である。物量が多いほうが勝つという物語なら、そんなものは読む前から結果がわかっている。だからそれをひっくりかえすような結果が好まれる。実はゾロの三刀流も過剰な技だ。ゾロははっちゃんに「おれとお前の剣の一本の重みは同じじゃねェよ!」(85)と言っているが、このセリフは、ミホークとゾロのあいだにもあてはまる。一本の小さな剣でゾロの三刀流をはじき返したミホークの剣はゾロの剣より「重み」があるのである。
村人たちはこれまでアーロン一味の圧倒的な暴力の前に無力なままでいるしかなかった。しかしサンジやゾロの活躍を見たノジコはこう言う。「今までずっと抑えてきた、信じられない気持ちだけど、この戦いに、希望すら湧いてきたよ!」(87)
サンジやゾロは、個人の意志や行動が状況を変えることを先頭に立って示した。ヤクザのような彼らの行動は、個人は無力ではないということを示す実存的な行動で、ヤクザ映画と学生運動と実存主義が流行っていた時期が重なるというのはよくわかる。
そして、ナミは村人たちにこう言う。「ごめん、みんな! 私と一緒に、死んで!」(88) 武器を手にした村人たちも「ぃよしきたァ!」とこれに呼応する。虐げられていた住人たちは、これまでのエピソードでは陰に隠れているだけだったが、ここでは武器を持って気勢をあげるところまで「進化」している。もちろん彼らの力ではアーロンに太刀打ちできない。しかし彼らが覚悟を決めたときに、それを待っていたかのようにルフィが復活する。
ルフィは首を伸ばされるが、首の断面積が小さくなるし、水が吐き出される距離が長くなるので、仮死状態から水を吐き出すのにはかえってよくない。首の体積がそのままなら、伸びれば糸のように細くなるはずだ。また、もし細くなったときに皮膚の強度しかなければ容易に裂けてしまうだろう。しかし首は細く伸びてもそれなりの強度があるようだ。これがルフィの頑丈さの秘密なのかもしれない。
アーロンの鼻はノコギリの形状をして目立つが武器にはならない。それを剣のようにふりまわすこともできないし、先端からビームを発射することもできない。ウソップの鼻も彼の特技である嘘とは直接関係ないようにアーロンの鼻も彼の武器とは関係ない。ふつう、目立ったところや変わったところがあると、人はそこに注目し、そこに何らかの意味ある機能を求める。例えばウルトラセブンは額に小さな球体が埋め込まれているが、そこからビームが発射されるし、『ドラゴンボール』のピッコロは額から突起が出ているが、やはりそこから光線が発射される。そのような目立つ部分がありながら何もないと、どこかものたりなく思えてくる。そこからビームが発射されると、ああそのためにあったんだねと納得するのだ。アーロンの鼻は目立つが、ノコギリの形状をしているだけであって、何か意味のある突出ではない。虚仮威しの飾りとしては役にたっているが実用性はない。ただしこの鼻は意外に丈夫で、ゾロの剣によっても斬ることはできなかった。そのかわりアーロンの武器になるのは強力な顎である。すでに9巻(p76)で、海軍の船が放った砲弾をその顎で噛み砕いていた。また、その強力な歯と顎で石柱を砕いてしまった。
アーロンはルフィに殴られ歯を折られてしまうが、サメの歯は生え変わるので、アーロンの歯も瞬時に元に戻ってしまう。さらにアーロンは自分の歯を入れ歯のように取り出して両手に持ちガブガブ噛みついてくる「歯(トゥース)ガム」という攻撃を仕掛けてくる。ユニークではあるがしみったれた技である。喧嘩で組み敷かれた奴が苦し紛れに噛みついてくることがある。殴りあいでは負けたけれど最後に残された武器が歯だというわけだ。歯を使うというのは動物的でもある。動物がもっている武器は歯(牙)と爪。歯で噛みついてくるというのは弱い感じがするし、動物的・原始的でもあるのだ。この点、全身を人工的な武器で固めたクリークとは対照的だ。
「歯(トゥース)ガム」攻撃はユニークだが、これなら刀を振り回したほうがいい。実は、石柱を噛み砕いたときもルフィは手で殴って石柱を砕いてみせ、「別に、噛みつかなくても、石は割れるぞ」(90)と言っており、結局、アーロンの攻撃はユニークだけれど原始的で、どれも他に有効で代替的な攻撃方法があるものばかりなのだ。ところで、ルフィは石柱を壊すほどのパンチ力があるなら、コンクリートにねじ込んだ足が抜けないなどと言っていないで自分でコンクリートを壊して脱出すればよかったのである。ルフィを死ぬも生かすも作者次第なのだ。この時点ではまだ物語を進めるほうが優先されていて、キャラのもつ力は物語の都合により随時変更されるのである。

こんな会話がかわされている。

アーロン「そんなプライドもクソもねェてめェが一船(いっせん)の船長の器か!? てめェに一体何ができる!」
ルフィ「お前に勝てる」(90)

この「器」という言葉はこれまでにも幾度か出てきた。

クリークとの戦いのとき。

クリーク「さァ言ってみろ、おれかお前か、どっちが海賊王の器だ!」
ルフィ「おれ! お前ムリ!」(60)
キャプテン・クロとの戦いのとき。
クロ「(ウソップには勝てないといったルフィに対し)何が勝てねェのか言ってみろ!」
ルフィ「器だよ。お前は本物の海賊を知らないんだ!」(38)

アーロンもクリークもクロも、いずれもルフィより経験を積んだ大人である。そんな彼らからみれば名前も知らない小僧にすぎないルフィに、海賊の「器」じゃないと見下されるのだ。ルフィのこの自信はどこからくるのだろう。ルフィはこれまでも「おれは海賊王になる」とか、ビッグマウスぶりを披露していた。「海賊王になる」という場合は自己成就予言を意識した宣言ととれなくもないが、「器」ということになると、何の経験もないルフィにそこまで人を見る能力があるわけがないので、たんなる肥大した自尊感であることを感じさせる。
ルフィは、魁偉なアーロンや巨漢のクリーク、キザで狡猾そうなクロに比べたら、見かけは平凡で普通の男の子だ。その平凡な男の子が怪物的な大人たちを相手に、自分のほうが上だと言う。ここには「人は見かけによらない」という、見かけと内実の逆転がある。

※2012.12.26更新 見崎鉄

 

【巻11】

アーロンは「歯(トゥース)ガム」攻撃の代わって、魚人ならではの攻撃を見せる。水中に潜り、陸上の敵めがけて加速をつけ、とがった鼻でダーツのごとく相手を狙い撃ちする「鮫・ON・DARTS(シャーク オン ダーツ)」である。サメというよりトビウオのような攻撃である。このとき頑丈な鼻が役にたっている。とがった鼻は伊達ではなかった。ちゃんと攻撃の機能をもっていたのだ。対象を突くという機能からして、この鼻はツノのようなものである。逆にいえば、たかがツノでしかない。それが鼻だから珍しいが、ツノなら牛やサイにもある、ありふれたパーツである。顔の中心の突起であるという点では部位的にはサイに近い。
アーロンとルフィの戦いは案外あっさりしている。アーロンパークの中心にそびえる塔の最上階にたどりついたルフィは、そこが、ナミが八年間ものあいだ海図を描かされていた「測量室」だと知る。ルフィはそこからナミを解放するために「ゴムゴムの戦斧(オノ)」でアーロンパークをぶち壊す。同時にアーロンもやっつけてしまう。アーロンは案外簡単にやられてしまうのだ。アーロンとの戦いがあまり面白くなかったのは、アーロンの外見的な特徴、つまり歯(顎)と鼻にこだわったせいだろう。特徴のある外見をしていれば、どうしても、それを活かしたものにしたくなる。見かけに技がひきずられてしまったのだ。そういう意味では、見かけに特徴がないほうが自由な技を使わせやすいとも言える。
アーロンはキリバチという巨大なノコギリの歯がついたような刀を持ちだす。自分の身体を使った技が通用しなくなったので、武器に頼るようになったのだ。だが怒ったルフィによってキリバチは砕かれてしまう。コンクリートに足をとられたくらいで死にかけたルフィだが、実はとんでもない力を持っているのだ。ルフィをどう使うか、このあたりはかなり作者の恣意にまかされている。逆にいえば、ルフィというキャラの能力や性質の設定がまだはっきり固まっていないからだともいえる。こういうことが続くと、ルフィは『ドラゴンボール』の悟飯のように、怒るととんでもない力を出すキャラだということになる。それは隠された能力ではあるが、同時にルフィの未熟さを示すものになる。自分を操作できず、感情の波に弄ばれる人物は大人とはいえないからだ。
ルフィはその怪力で、ゾロの刀をも受け付けなかったアーロンの鼻を折ってしまう。その後もアーロンはあらたな技をだしてくるがルフィには効果がない。アーロンとの戦いはその特異な鼻をめぐる戦いであった。
アーロンとルフィの戦いは、一人の女をどちらの共同体の所有にするかという争いである。ルフィたち「海賊」は男だけだし、魚人たちも見たところ女はいないようだ。ルフィもアーロンもナミの航海術や海図を描く能力を必要だとか言っているのだが、実はそれは女性の帰属をめぐる争いである。もっとわかりやすく翻訳すれば、海図を描けというのは、自分の子どもを産めということの隠喩である。
アーロンはナミのことを「天才」だと認めている。「世界中探してもこれ程正確な海図を描ける奴ァそういるもんじゃねェ…! あの女は天才だよ」(92)と言う。各地を旅してきたアーロンの言葉だけに重みがある。そのうえでナミの能力が自分の野望のために必要だと思っている。一方、ルフィがナミを必要な理由はよくわからない。たまたま会っただけの相手であり、ナミがどの程度の能力なのかわかっていないはずだ。航海術をもった人と出会ったのはナミが最初なので比べようがないのだ。ルフィのほうがアーロンよりもナミの必要性が小さい。
アーロンのナミの遇し方はそんなに悪いのだろうか。アーロンはこう言っていた。「若い女を監禁などしたくねェ。お前にはできれば望んで測量士を続けてほしいもんだ」(88)。もちろんこれは詭弁だ。村人を人質にとっているから、ナミには自由な選択などできない。しかしアーロンが「できれば望んで測量士を続けてほしい」と思っていることも事実だ。アーロンはナミに徹底的に強制することもできたはずだが、「メシだって与える。好きな服も買ってやるさ! 生きるのに事欠くことは何もねェ」(93)、「今日からここがお前の部屋だ! お前の机! お前のペン! 必要な物は全て揃ってる!」と言い、しかも組織の幹部として遇している。ナミは奴隷ではない。しかもアーロンは、「持ち合わせた才能を無駄にすること程不幸で愚かなことはねェ! ここで海図を描き続けることがナミにとって最高の幸せなのさ!」(92)と、ナミのことを考えているのだ。
しかしナミの不幸は、岡林信康が、ブタ箱の臭いメシが多少うまくなろうと、汚い壁が塗り替えられようとブタ箱には変わりない、〈俺達が欲しいのはブタ箱の中でのより良い生活なんかじゃないのさ/新しい世界さ 新しい世界さ〉(「それで自由になったのかい」作詞、岡林信康、一九七〇年)と歌うように(岡林は、漸進的な改良主義は現実を糊塗するだけで本質は変わらない、安住するな、革命による〈新しい世界〉をめざそうと言っているわけだ)、見せかけの環境の変化によっては懐柔されない強い主体をもっていることにある。ナミがアーロンのくびきからのがれられないことは誤魔化しようがない。
資本家が労働力の再生産のために労働者の福利厚生を考えるように、アーロンもナミを優遇したほうがナミの能力が発揮されやすいからそうしているだけなので、結局はアーロンのためである。カントが言うように、「他者を手段としてのみならず、目的として扱え」という倫理からすれば、ナミ自身の人生の「幸せ」は副次的に生じる結果にすぎない。
ルフィはアーロンの「てめェにこれ程効率よくあの女を使えるか!?」(92)という言葉に対し「つかう?」と反応する。ルフィはアーロンの「手段」としての側面に反応する。しかしナミはアーロンに与えられた環境によって測量士の才能を伸ばすことができたといえる。「効率よく」人を「使う」のは管理者に必要な能力だ。村人を人質にとったり、嫌がるナミに無理強いするのはいけないが、「使う」という言葉に過剰に反応するのは、大人の現実主義に反発する子供の理想論である。
ルフィはナミが使っていたペンが血でにじんでいたことを怒る。このあたりはマンガ家らしい発想だ。マンガ家も血のにじむような思いでマンガを描いている。ではマンガ家はマンガを描くのが嫌でしかたないのだろうか。苦しいけれど楽しいから続けられるのではないか。つまりペンが血でにじんでいたことそれ自体はナミの苦しみを表すものではない。
ナミの描いた海図は魚人たちの役にたっている。アーロンはナミの海図によって世界中の海を知ることが帝国を築く基礎だとさえ思っている。もしナミが、何の役にもたたない海図をシジフォスのように描き続けさせられていたとすればたんに苦役でしかないが、ナミの仕事は大いに役にたっている。問題なのはそれがどんな役にたっているかということだが、アーロン帝国の是非についてはこのマンガでは問題にされていない。問題なのはナミがアーロンとの関係に「永遠に」閉じ込められていることだ。ルフィはそこからの解放者として現れている。閉じ込められている理由の良し悪しは問題とされていない。
ナミが特に不幸なのは発端が悪いからである。ナミは自発的にアーロンのもとで海図を描くことを選んだのではない。自由意志が認められていない最初が問題だが、それをのぞけばアーロンはいい上司である。どんな仕事でも自分の思い通りのことができるものはない。ルフィが与えたのは自由かもしれない。しかしアーロンのもとで働いていたほうがナミは大きな仕事ができた可能性が高い。

最後に、ゲンさんの風車の意味が明かされる。ナミが幼い頃、顔が恐いゲンさんは、ナミを笑わすために帽子に風車をさした。村がアーロンから解放され、ナミの笑顔が戻った今、風車はゲンさんの頭から消え、ベルメールの墓に供えられる。ナミの笑顔というのは、たんなる笑い顔のことではない。風車はたんに子どもの笑顔を誘うものではない。ゲンさんはナミがいないところでもいつでも風車をさしていたし(だから変人に見える。子どもの前でだけならたんに子どもをあやすためだと理解できるが)、ナミが大人になってもゲンさんはそれをさしている。ナミが笑顔を取り戻すことは喜びを取り戻すことの象徴である。風車が必要ないということは、風車がなくてもナミは笑っていられるということだ。あるいはナミを笑わせるのはゲンさんではなくルフィたちであるという意味もある。
なるほどと思う反面、理屈として説明されてしまうと、なんだそれだけのことかと思わなくもない。このていどの腑に落ちてしまうような俗な解釈なら、解明されないほうがよかったかもしれない。わからないほうがゲンさんの狂気や深い絶望がうかがえて面白い(風車の話はアーロンに征服される前からのことだが先取りしていたのだ)。ゲンさんは膾(なます)のように切り刻まれたせいで全身の皮膚がつぎはぎだらけで不気味だし、きちんと制帽をかぶっているのにラフな半ズボンでスネ毛をだしているというちぐはぐないでたちで、それが精神のバランスを崩した感じを表していた。全身からシュールでイカれた雰囲気がただよっており、その決定打が、場違いなところで音をたててまわっている風車だったのだ。
合理的に解釈されてしまうと、実はそれによっては理解しきれない部分があるにもかかわらず、表面的にわかったと思い込んでしまい、狂気が覆い隠されてしまう。わかりやすさが覆い隠してしまうものがある。風車がそういう説明をされてしまうと、風車のないゲンさんはたんに普通のオジさんに戻ってしまうのだ。
風車が大事なのはその形や動きよりも「カラカラ」という音の方である。この音は執拗に書き込まれる。ゲンさんがアーロンによって勢いよく地面にたたきつけられるときも音を立てているし、ゲンさんがカッコいいセリフを口にしているときもそれを小馬鹿にするかのように「カラカラ」と虚ろな音をたてている。いつも風が吹いているわけでもあるまいに、途切れることなくまわっている。まわる音も、勢いよく「シャーッ」とまわるのではなく、空疎な響きのする「カラカラ」なのだ。ゲンさんに起こる表面的な出来事とは無関係に風車は回転しているように見える。風車は何か別の独自の原理で動いている。それはゲンさんの見かけの事情とは無関係かもしれないが、ゲンさんの内面に激しいものがあって、それが動力となって風車を動かしているのかもしれない。風もないのに風車が動く理由はそれである。途切れることなく深いところで溜め込まれたエネルギーが風車を動かしているのだが、そのエネルギーは自分の無力さを自覚したニヒリスティックなものなのだ。虚無から吹いてくる風が、風車を回転させているのである。
ナミはアーロン一味の刺青を消し、風車とミカンの刺青をいれる。ミカンはベルメールさんが愛したものだ。ゲンさんはナミたちの父親になりたかったようだから、風車とミカンが一体として描かれるということはナミもそれを認めたということだろう。この刺青はデザインはかっこいいが、ハーケンクロイツ(鉤十字)の紋章にも似ている。現代では刺青はヤクザのシンボルだが、明治になるまでは日本人もよく刺青をしていた。明治初期の日本を旅したイザベラ・バードは、貧しくて服を着ることができない人々について、彼らが刺青をしているのは「装飾として好まれたばかりでなく、破れやすい着物の代用品でもあった」と記している。(宮本常一『『日本奥地紀行』を読む』平凡社ライブラリーp56)

アーロンと通じていた海軍のネズミ大佐をコケにしたルフィは指名手配されてしまう。大物海賊団の賞金は以下のとおり。道化のバギー1500万、ドン・クリーク1700万、アーロン2000万、そしてルフィは3000万である(単位、ベリー)。この数字は『ドラゴンボール』でいえば戦闘力のようなものだ。ルフィは偶然にも、強い相手と順番に戦ってきたのである。私は、戦闘力の数字とはおカネのことだ、と『ドラゴンボールのマンガ学』という本で指摘しておいた。ここでは逆に、おカネの学が強さを反映しているのである。
海軍本部の様子が描かれる。海賊という「悪」を駆逐するために、海軍は「絶対的正義」となって民衆を守る。彼らの白いマントの背には「正義」という文字が大きく書かれている。どこか暴走族の総長の集会のようでもある。「絶対」も「正義」もうさんくさい。そもそも世の中には「絶対」というものはない。「正義」は、時代や社会によって変化する相対的なものだ。そのウソくさい言葉を二つ連ねたことで一層ウソくさくなっている。それが的外れの批判ではないことは、これまでに出てきた海軍大佐のモーガンやネズミが権力を嵩にいばるロクでもない奴で、海軍という組織が、私的に操られることのある腐敗しきった組織であるということで明らかだ。特に辺境にある末端の組織ほど独裁的になっているようだ。
末端は組織として腐敗している一方、本部はイデオロギー的に狂信的な集団である。自分たちがやっていることが「絶対的正義」だと信じて、それを他者に押しつける者ほどたちが悪いものはない。しかも海軍は強大な暴力装置を手にしている。

ルフィたちは、ローグタウンに足を踏み入れる。ここは「かつての海賊王G(ゴールド)・ロジャーが生まれ…そして処刑された町」(96)であり、別名「始まりと終わりの町」である。かつて、というのは二二年前である(99)。
このあたりで物語は一区切りをつける。これまでの軽い「まとめ」とでもいうように、深い因縁のある者たちが続々再登場する。女海賊アルビダ、道化のバギー、赤髪のシャンクス、鷹の目のミホーク、そしてゾロの幼なじみくいなに似た女性(たしぎ)である。三刀流のゾロは二本の刀をミホークとの戦いで失っていたが、新しい刀として「三代鬼徹(さんだいきてつ)」を賭けによって手にいれる。この刀は呪われた刀であり、また、ゾロは自分の腕が切り落とされるか否かを賭けて手にいれたので、これは剣士として一旦死んだゾロが再生したということになる。
一方、ルフィもまた死と再生の劇を演じていた。ルフィはロジャーが最後を迎えた処刑台の上になぜか上がる。そしてそこで首枷をかけられバギーに殺されそうになる。だがその寸前でバギーは落雷を受け、ルフィは難を逃れる。ルフィはここでかりそめの死を迎えたといえる。一旦死に、そして蘇った。ルフィは海賊王ロジャーの人生をなぞったのである。ロジャーは死ぬ前に処刑台で笑った。ルフィもかりそめの死を迎える直前に処刑台で笑った。ここでもルフィがロジャーをなぞっていることが強調される。
ルフィたちが海軍の包囲網から脱出するのにあわせるかのように、海軍の火薬は雨で濡れて使えず、風は船の出航におあつらえむきになった。落雷で助かったこととあわせ、海軍のスモーカー大佐はこう思う。
「これが全て偶然か…!? まるで”天”が、あの男を生かそうとしてる様だ!」(99)
スモーカーはここでルフィに特別なはからいをする超越的なものに「天」という名前を与え、存在をほのめかしている。まだ空想の範囲内の存在ではあるが、今後こうした「偶然」が積み重なると、どんどん実体化してゆくことになる。『ONE PIECE』にはこれまで、「悪魔の実」とか、人間より進化した魚人だとかが登場していて、不思議なものが存在する世界ではあったが、ここでさらに人間を超越した存在が想定されることになった。しかもルフィはそれに見込まれた人間のようであり、たんに「悪魔の実」を食べて特殊能力を持っただけの存在ではないという道筋がつけられたのである。そしてそれはこれまで何故かルフィがとんでもなく強い敵に勝利してきたことや、「おれは海賊王になる」という大それた宣言をするに値する選ばれた人物であると読者に受け入れさせるための、これまでのもろもろの偶然を必然としてとらえなおさせるために構造的に必要な仕掛けである。
ルフィの仲間たちをみてみよう。ゾロは強運の持ち主だ。放り投げた刀で運試しをしたところ腕が切り落とされることがなかった。ナミは海図を描く天才だとされているが、気圧の低下で嵐が来ることを(p147,162,168)人より早く察知する能力があるなど、特異な体質である。サンジは木でも石でもなんでも叩き割ってしまうほどの強い足蹴りを持っているし、魚人空手との戦いでは、海底の岩が壊れるほど強く叩きつけられても平気だった。(10-p98) 三人とも通常の人間の能力を超えている。
彼らはルフィがどうしても仲間になってくれとしつこく勧誘したという共通性がある。旅の途中でたまたま出会っただけの彼らであるが、その特異な能力を見る前から何故か猛烈に惚れ込み、アタックしているのだ。このように人を見抜く目もルフィは持っているということである。もちろん続きものの物語のつねとして、彼らはルフィと行動をともにしているうちに次々と難易度の高い敵に遭遇することになるから、それにあわせて能力も向上せざるをえず、それが結果的に特異能力を潜在的に持っていたということになってくるのだが、能力の高い者を仲間にしたという偶然性も、ルフィが「天」に見込まれているという構造を持ちこむことで必然性としてとらえなおしているのである。
では、この「天」とは何かというと、海賊王ロジャーが二二年前に死に、ルフィはその後に生まれているから、もしかしたらルフィはロジャーの生まれかわりなのかもしれず、それを図ったのが「天」であるとも考えられる。そう考えればルフィが、「おれは海賊王になる」と口にすることも理解できる。ルフィはいわば前世の記憶を持っていて、自分は前世では海賊王だったから、今世でもそうなると言っているように聞こえる。

ここまで読んできて『ONE PIECE』と『ドラゴンボール』の一番の違いは、悟空は強い相手と戦うために修業を重ねていたのに対し、ルフィは戦う相手がどんどん強くなっているにもかかわらず、また、特別な訓練をしているわけでもないのに、少しのケガを負うだけで負けもせず、相手に勝てていることだ。ウルトラマンや仮面ライダーのように同じ強さの相手と戦うというわけでもない。ルフィは元々かなりの実力があって力を小出しにしていたということなのだろうか。そういえばこれまでのルフィの戦いはどこか余裕があるようにも見えなくはない。悟空のように全力を出し切っていないというか。ルフィは「悪魔の実」の力が与えてくれたもの以上のものをもともと持っていたと考えるしかない。そこから「天」に選ばれた者という説明が必要とされるのである。『ONE PIECE』はヒーローものの反措定である。ルフィは服も普段着だし、体もゴムのようにやわらかく、筋肉で硬くなったマッチョなヒーローの身体ではない。そうなると、自分の身体能力以外に頼るべきものが必要になってくる。それは一つには協力してくれる仲間であろう。もう一つが「天」が与えてくれる「運のよさ」なのである。

 

【巻12】

ここからルフィたちは「追われる立場」になる。すでに海軍から指名手配されたときから「追われる立場」ではあるものの、バギーは「クソゴムとの決着」(100)をつけるため、スモーカー大佐は上官に逆らうことを覚悟で管轄を離れてまで、部下のたしぎはゾロを「仕留め」(100)るため、つまり彼らは海軍の任務を超えた私的な思惑から、ルフィらを追って「偉大なる航路(グランドライン)」に入るのである。
物語はここから転調して神話的なおもむきをおびてくる。すでにルフィの強運には「天」の介在がほのめかされてはいたが、物語世界は日常のルールを超越したものになる。一旦はスモーカーに捕まったルフィは、ここでも突風によって逃れる。ドラゴンという謎の男が登場し意味ありげな言葉を口にする。もしかしたらルフィを助けたのは「天」ではなくこの男なのかもしれない。
「偉大なる航路(グランドライン)」の入り口は「リヴァース・マウンテン」という山である。船が山を越えないと目的の「偉大なる航路(グランドライン)」に辿り着けない。船が山を登るというのは意想外だが、「不思議の国のアリス」のように、ここでは「さかさま(リヴァース)」のことが起こるのだ。「船頭(せんどう)多くして船山に上(のぼ)る」という諺は、指示する人が多いため方向が定まらず見当違いなことになるという意味だが、「偉大なる航路(グランドライン)」は、そうした「見当違い」な理屈に支配され、それがあたりまえなのである。「偉大なる航路(グランドライン)」では、これまでの海の知識が通用せず、「季節・天候・海流・風向き、全てがデタラメに巡り、一切の常識が通用しない」(104)という。「偉大なる航路(グランドライン)」に入る前に全ての価値が反転し、価値が混乱させられるのである。
「偉大なる航路(グランドライン)」とは、広い海のある一帯のことを指してそう呼んでいる。両側が「凪の帯(カームベルト)」にはさまれている。「凪の帯(カームベルト)」は海に棲む巨大な怪物(海王類)の「巣」になっており、人間の船など簡単に壊されてしまう(モームはここから連れてこられたのだろう)。
船が山を越えるというありえないことは、マンガでは合理的に説明される。山には運河が掘られており、四つの海の海流が山で合流して、その勢いで山の運河を頂上までかけ登るとされる。では実際にそれがどのようになされるのか。海水が下から上へ逆流するのだから流れは相当に激しい。狭い運河をうまく通らなければ岸に激突して大破する。その急な流れに乗って船が山を登るということなのでかなりの危険が伴うと思われるが、船がぶつかりそうになったとき、ルフィの「ゴムゴムの風船」だけで危難を切り抜け、案外あっさりと通過してしまうのである。ページにして四ページでうまく流れに乗り、五ページめで山の頂上に達し、「あとは下るだけ!」(101)になっている。事前のおどろおどろしい説明の割には、これはちょっともの足りない肩すかしをくった描写だ。
船が山を登るという、通常では考えられない状況は遊園地のアトラクションのようだ。そういう状況がルフィたちの行為をどのようにアフォードするかというのは興味深いが、それが「ゴムゴムの風船」による切り抜けだけでは寂しい。アフォーダンスというのは環境が人に与える意味のこと。例えば『機動戦士ガンダム』では宇宙、地上、海中、空中など様々に環境が変わり、アフォーダンスが変化することでアムロがとるべき行動も変わるが、それが最も顕著なのは大気圏突入のときだろう。ここでは、燃え尽きる前に限られた時間内で重力に逆らいながら戦うというアフォーダンスが存在し、それに応じたミッションが実行される。「リヴァース・マウンテン」の山越えはガンダムの大気圏突入のようなものだ。この山越えの場面で敵との戦いをからませれば話はもっとふくらんだであろう。
「リヴァース・マウンテン」では、四つの海の海流が山で合流し云々というのは地図から推測したナミの解釈だが、実際そのとおりになっていた。いわばナミの説明をなぞっただけで簡単に山を通過してしまったのだ。「リヴァース・マウンテン」の描写が簡単だった代わりに、ここでクジラのエピソードが出てくる。
「リヴァース・マウンテン」は、「赤い土の大陸(レッドライン)」を横切って「偉大なる航路(グランドライン)」へ入るための境界である。だからこの付近では、日常のルールが一旦停止させられ、次々に不思議なことが起こる。

運河の出口では、とんでもなく大きいクジラが頭を立てて行く手を遮っていた。行き先を塞いでいるので、これを避けて通るわけにはいかない。「凪の帯(カームベルト)」の生物は見た事もないような異形だったのに対し、このクジラは普通のクジラで、たんに桁外れに大きいのである(後にこのクジラは「西の海」p89にのみ棲息する世界一でかい種とされる)。ルフィはこのクジラに喧嘩をふっかける。大砲を撃ったりパンチを繰り出したりする。しかしあまりに巨大すぎてモームのときのようにはいかず、怒ったクジラに船ごと呑み込まれてしまう。クジラの腹の中は、そこはまたひとつの世界になっていた。空があり、海の中に小さな島があって、老人が住んでいてた。だが、空はよく見ると胃壁に描かれた絵であり、島は船、海は胃液だった。不思議の国のアリスのように根本からおかしなことが起きているのではなく、おかしいことはおかしいのだけれど、合理的な理由が語られてなんとなくわかった気にさせられるというおかしさである。
クジラの中に呑み込まれたゴーイング・メリー号は案外簡単に外に出ることができた。そこで彼らは何をしたわけでもない。それなら、いったいクジラのエピソードには何の意味があったのだろう。巨大な魚に呑み込まれる話といえば、旧約聖書の預言者ヨナやピノキオの物語を思い出す。ピノキオは魚(クジラや鮫とされる)から吐き出されるという経験を経て人形から人間になることができた。巨大な魚は象徴的な死と再生を経験させる通過儀礼の装置なのだ。とすれば、このマンガでも、クジラに呑み込まれ、そこから吐き出されることで、これまでとは何かが変わっているはずである。「さかさま(リヴァース)」の山により価値観が反転・混乱させられ、次いで死と再生を経験するという二重の手続きを経て、彼らは「偉大なる航路(グランドライン)」へと乗り出してゆくことになる。
しかし実は主人公であるルフィはこのクジラに呑み込まれていないのだ。ルフィは呑み込まれる寸前にクジラの背の上に逃げる。そこでハッチをみつけてクジラの内部へと入り込むのである。クジラはその中に住む老人によって改造されていた。実は老人は灯台守であると同時に医者で、大きくなりすぎて「外からの治療は不可能」(104)となったクジラを、体の中から治療していたのだ。ラブーンと名づけられたクジラは本来「西の海」に棲息していたが、親しくなった海賊たちの船を追って「リヴァース・マウンテン」を越え、ここに来てしまった。そしてクジラを残して旅立った海賊たちを待っていたが、大きくなりすぎて岩穴から出られなくなった井伏鱒二の「山椒魚」のように、五〇年たつうちに巨大になり、故郷である「西の海」にも戻れなくなってしまった。その後、クジラは岸壁に頭を打ち続けたり大声で吠えるようになった。このクジラは人間と心を通わせるし、人間くさいところがある。これまでこのマンガに出てきた動物の中で最も人間に親しんでいるのではないか。
ルフィがクジラの中に呑み込まれることがなかったということは、ルフィの強い意志を示している。呑み込まれるということは受動性を表している。そしてそれは受動的な経験ながらも、その人の人生を変えてしまうような経験の質を持っている。しかし、そういうものを拒否したところで、ルフィは外側から仲間を呑み込んだクジラそのものを見つめる。そしてクジラそのものの「秘密」を見つける。人生の経験の装置を超越的な視点から眺めているのだ。
医者の爺さんは中からクジラを「治療」しようとした。爺さんが胃の中に住んでいる理由だ。一方、ルフィのとった行動は、外からクジラに働きかけるというものだ。爺さんは内側から大きな注射で鎮痛剤を打つ。ルフィは外側からマストをクジラの頭に刺す。ルフィはクジラと喧嘩して「引き分け」とし、ライバルという関係をつくる。そして、旅に出たあとまた戻って会いにくるから、と約束する。クジラに比べたらルフィは小さく、極端に非対称だ。しかしここでは対等な関係をつくっている。他の者たちがみな、クジラの大きさに驚いたり手をこまねいているときに、ルフィは見かけの大きさにまどわされず、一対一の関係をつくってしまうのだ。モームもそうだったが、この巨大なクジラも図体は大きいけれど、意外にやさしいというか気が弱い。見かけによらず弱い。もちろん大きいから暴れたら手が付けられないけれど、実は見かけほど強いのではない。
ルフィはクジラに大砲を撃ち込んだり、パンチをしたり、折れたマストを頭に突き刺したりしてクジラを痛めつける。クジラは「神の使い」とされるのに、ルフィはそんなことおかまいなしだ。考えてみればこのクジラは体内を勝手に改造されて通路を作られたり、胃に扉をつけられたり、絵を描かれたりして結構もてあそばれている。治療だというがやりすぎで、秘密基地みたいになっている。しまいには頭にドクロマークを描かれ、ハーロックのアルカディア号みたいになってしまった。マークを描いたのは、頭を岸壁にぶつけないようにするためだ。神聖さを剥奪されて人間にいいようにされている。
ルフィはクジラの頭にマストを打ち込むときに「ゴムゴムの生け花」と叫ぶ。これは爺さんの頭が花のようで、遠くから見ると花に見えることに対応している。爺さんはクジラに外側から刺されるべき花なのだ。

今後の物語を規定することになる重要なアイテム「記録指針(ログポース)」が登場する。「偉大なる航路(グランドライン)」では磁気異常のため羅針儀(コンパス)が通用しない。そのため、島づたいに磁気をたどっていく「記録指針(ログポース)」が必要となる。「記録指針(ログポース)」は、その島の磁気を記録するために一定の滞在時間が必要となる。その時間が経たないと、その島から出ることができないということになる。つまり、ここで二つの制約が生じることになった。

1 島づたいにいくこと
2 一定の滞在時間を必要とすること

1は、『銀河鉄道999』が途中の星々に停車し、そこで下車した鉄郎に物語が待ち受けていたように、ルフィたちを強制的に途中の島々に立ち寄らせることで物語を生じさせようとする。2は、そこでの滞在時間を規定する。危険な島でも長時間いなければならない場合がある。いずれも、嫌だからといってすっ飛ばすことができないものだ。つまり、物語をゲーム化するのである。

「偉大なる航路(グランドライン)」への第一歩は、「歓迎の町」ウイスキーピークである。この町を選んだのは、クジラを捕獲しにきた怪しい男女の二人組がそこからやってきたためである。次の町への道案内として二人組が登場するのはヨサクとジョニーと同じである。『ONE PIECE』の世界はルフィの言動以外は素直で率直なものはない。「歓迎の町」はその名前からして胡散臭い。どういう意味で歓迎しているのか、何やら裏がありそうだ。そもそも「偉大なる航路(グランドライン)」は価値が反転・錯綜した世界なので、「歓迎」という言葉にも裏がありそうだと予想される。海賊が一般人に歓迎されるはずがないのにルフィたちは無警戒だ。いや、価値が狂っている世界だからこそ、海賊が「歓迎」されてもおかしくないと思ったのだろうか。「歓迎」というのは片務的な言葉だ。歓迎するのは迎えるほうの態度を表しているだけであって、「歓迎」という贈与を受けることによって生じる、迎えられるほうの負債を隠している。
ゴーイング・メリー号は全てがデタラメな海である「偉大なる航路(グランドライン)」に翻弄される。乗組員は舵をとったり修理をしたりと一所懸命だが、ゾロ一人だけ眠りこくっている。何とかウイスキーピークに近づくと、そこには刺だらけのサボテンのような山がいくつも見えた。このゾロの居眠りもサボテンのような山も伏線である。サボテンの山は作者がまた遊び半分で描いたものだろうと読者を油断させておいて、実はこういう理由だったっとあとでタネが明かされる。
この町の町長はイガラッポイという。名は体を表すで、町長はいつも喉に何かつっかかっている感じだ。スムースに声が出ないのだが、これは町長の無意識の表れだろう。この町の住人たちはみなバロックワークスという犯罪集団に属する賞金稼ぎで、「意気揚々と”偉大なる航路(グランドライン)”へやってきた海賊達を出鼻からカモろう」(107)としているのだ。正体を隠して海賊たちに酒を飲ませて酔いつぶし、船に積んである金品を奪い、政府がかけている賞金をいただく。それが「歓迎」の意味だ。サボテンのトゲと見えたものは、拡大すると数えきれないほど多くの十字架の墓標だとわかる。だが、その墓標は誰のものだろうか。「殺してしまうと3割も値が下がってしまう」(107)というから海賊たちのものではないはずだ。彼らは殺した者たちをこっそり葬らずに、律儀にも墓標をたててやっている。それもまた「歓迎」したことの証なのだろう。ルフィたちが酒と疲れで寝入ってしまったとき、船で充分睡眠をとっていたゾロは一人起きていて、百人の賞金稼ぎを相手に奮闘することになる。
正体を隠すというのはクロがそうだったが、ここでは町の住人全員がいい人を演じていた。その、正体を隠すという後ろめたさや緊張感が無意識のうちに町長の身体に影響し、「いがらっぽさ」という不調となって表れるのだろう。イガラッポイは、正体がばれないよう気をつけてばかりいるから、たえず自分を意識して「マーマーマー」と修正するのだ。
サボテン岩は近くでみないとその正体がわからない。クジラは逆に大きすぎて近くで見たらよくわからない。大きいものは離れて相手にする必要がある。逆に、サボテン岩やこの島の住民たちはその内側に入りこまないとよくわからないのだ。住民たちも表面的にはいい人たちに見えるが、実はそうではない。隠されていること、そして住民の全員がそうだということが重要だ。

【巻13】

ウイスキーピークの住人たちとの戦いが続く。町長のイガラッポイは、ラッパのかたちをした散弾銃(イガラッパ)の他に、イガラッパッパという小型のミサイルも持っている。イガラッポイの頭髪は大きくカールしていたが、その渦巻き状のカールの間に隠されている。目立つ頭髪には理由があったのだ。それもまた伏線になっていたのである。また、ミス・ウェンズデーも同心円模様の服を着ていたが、それは模様を凝視させ相手にめまいをおこさせるための「武器」だった。彼らのキャラデザインには意味があったのだ。だが彼らは意外に弱い。ゾロにあっさりやられてしまう。イガラッパッパは秘密兵器のはずだが、それでもかなわない。
バロックワークスから男女ペアの刺客が送り込まれる。彼らは悪魔の実の能力者だ。男の方は、鼻クソを丸めてとばす「鼻空想砲(ノーズファンシーキャノン)」というフザケた武器を使う。鼻空想=鼻クソという駄洒落だ。「ボムボムの実」によって全身を爆弾に変えることができる。かなり手強い相手で、こんな奴とどうやって戦えばいいのかと思うが、眠りから覚めたルフィに簡単にやられてしまう。戦いの場面すら描かれないほどだ。実際に爆弾男との戦いを描くことになったらルフィはかなり苦戦するはずだ。だがここではそれは省略される。
もう一人の女の能力者は体重を自在にあやつることができる。しかしこれもまた相手にならない。彼らは登場したときはもったいぶったカッコいいキャラだったが、あまり活躍する間もなく舞台から去っていったのである。だが、本部から派遣されてきた彼らにとって、ウイスキーピークは、「こんな前線」(110)であり、偉大なる航路(グランドライン)の「果て」(110)に過ぎなかった。ルフィたちはようやく偉大なる航路(グランドライン)にたどりついたが、まだそこは中心からほど遠いところなのだと貶められるである。
ミス・ウェンズデーはアラバスタ王国の王女であり、イガラッポイは護衛隊長だったことがわかる。バロックワークスはアラバスタ王国の民衆を煽動し暴動を起こし、国をのっとろうとしていた。その謎の組織の正体を調べるために、彼らは身分を隠して組織に潜入していたのだ。彼らは二重に正体を隠していたことになる。ウイスキーピークの親切な町の住人、実は海賊目当ての賞金稼ぎの犯罪者集団、実は王国の王女と護衛隊長、というわけである。このあとイガラッポイはもう一段階「変身」する。王女を逃がすために王女と同じ扮装をし、自分がおとりになろうとするのだ。彼らの武器は銃やミサイルだけではない。このように人の知覚を混乱させる、騙すことも武器なのだ。
この巻では少しだけ登場するバロックワークスのエージェント、Mr.3(ミスタースリー)は、先にもふれた「ボムボムの実」の能力者である爆弾男についてこう言う。
「どんなにすごい悪魔の能力(ちから)を手に入れようとも、それを使いこなすことのできない能力者ほどムダな存在はいない。優れた犯罪者は優れた頭脳によって目的を遂行するものだガネ」(117)
爆弾男はルフィに簡単にやられてしまった。それは彼が自分の能力を有効に使えなかったからだ。それに対してルフィはどうだろう。ゴム人間という、あまりたいしたことができそうもない能力なのに、それをフル活用している。これまでも「くだらない能力」とバカにされてきたが、ことごとく強敵を倒している。ゴムゴムの能力を「使いこな」しているのである。ルフィは一見バカに見えるけれども、自分の能力を活用することについては、実は「優れた頭脳」を持っているのである。『ONE PIECE』は、たんなる力と力のぶつかりあいではなく、 Mr.3(ミスタースリー)が言うように、頭脳合戦の側面も持っているのだ。
ルフィとゾロが突然殺しあいのケンカを始める。読者は、ゾロがルフィの腹をトランポリのように踏み台にしたことを怒ったのだと一瞬思うが、そうではなく、ごちそうをしてくれた町の住人をゾロが斬ったことを、事情を理解せぬルフィが、「恩知らず」だと怒ったのだ。なぜルフィはそこまでせっかちなのか。ウイスキーピークでの戦いはゾロ一人でカタがついてしまった。ルフィは出番がなかった。物語の構造からして、ルフィはそれに怒ったのだ。そして敵と戦う代わりに仲間のゾロを相手に戦いを始めたのだ。彼らの戦いはナミの仲裁で子どものケンカになってしまう。

ルフィたちは王女を国へ送り届けるためアラバスタ王国を目指す。何か目的をもって針路を決めていくというのはウイスキーピークのときと同じだ。このときは謎の二人組を送り届けるためにそこを目指したのだった。『水戸黄門』で、旅の途中で悪者から助けた若い娘さんが次に立ち寄る宿場で関わってくるように、旅の途中で出会った者によって、ルフィたちの今後も決まってくる。誰に出会うかわからないという意味では、サイコロによってとりあえず次の目的地を決めるようなものだ。ただし、経過地はどこを経ようと、ゴールとして「ラフテル」という偉大なる航路(グランドライン)の最終地点にたどりつくことになる(105)。
アラバスタ王国に着く前に、記録指針(ログポース)によりリトルガーデンと呼ばれる島に滞在しなければならなくなった。(p99) この島もかなり厄介な島だとされている。物語は直線的に進むのではなく、途中でいくつもの迂回を経ることになる。今かかえているだけでも、ラフテルに着く前にアラバスタ王国に行き(ここでバロックワークスと戦うことになるだろう)、その前にリトルガーデンに行かねばならない。併せて、ルフィたちが突破しなければならない者たちも層をなしている。バロックワークス、王下七武海(おうかしちぶかい)、海軍。バロックワークスは王下七武海(おうかしちぶかい)の下にあり、王下七武海は海軍の下にある。これらが階層的になっているとともに、それぞれの組織もまた階層的である。さらに強い者が背後に隠れているという二重の階層構造を持っている。
まず目の前にあるのがリトルガーデンの謎だ。リトルガーデンはその名前からして可愛らしい庭園のような島を想像してしまうが、歓迎の島が、その島の住人の視点からみた歓迎であるということと同じく、リトルガーデンのリトルも、その島の住人から見てリトルだということである。そこは巨人の住む島だった。
リトルガーデンはまた、コナン・ドイルの小説『失われた世界』のように、太古の生物が住む島である。王女の説明によれば、「”偉大なる航路(グランドライン)”にある島々は、その海の航海の困難さゆえに、島と島との交流もなく、それぞれが独自の文明を築き上げている」(115)ということである。『失われた世界』と異なるのは、太古のまま残された島もあれば、「飛び抜けて発達した文明を持った島」(115)もあるということである。『銀河鉄道999』で、停車駅になっている星が多様な姿を見せるのと同じだ。『999』の汽車が、このマンガでは船になっている。汽車や船が人を、まだ見ぬ世界の入り口まで運んでくれるという構造である。
少し脱線するが、『銀河鉄道999』にふれておく。『ONE PIECE』を通して『999』を読むと、このマンガがとてもシンプルな構成を持っていることがわかる。同じく順次経過地をまわっていく構造は同じだが、『999』は鉄郎とメーテルの二人だけの旅である。そして二人の関係は恋人でも親子でも友人でも同志でもない、不思議な関係である。しいて言えば、メーテルは鉄郎が終着駅までたどりつけるように見守る導き手、案内人のような存在だろうか。いずれにしても『999』は二人だけの冒険なので、そんなに複雑で面倒なことは起こらない。『水戸黄門』でさえ一緒に旅を続ける仲間(家来)は五、六人はいてにぎやかなのに、それに比べたら二人だけというのがいかにシンプルかというのがわかる。また、二人だけなので関係も閉塞的で息苦しいものになる。もし『ONE PIECE』が、ルフィとナミの二人だけの旅だったら、あまり楽しいものにはならないだろう。
鉄郎とルフィは似たところがある。彼らはともに、どこにでもいるような身なりの若者である。ルフィが「海賊王になる」とその特別さを自ら宣言するのと同じように、実は鉄郎も旅立ちのときからメーテルというお目付役を付けられるほど特別な選ばれた存在なのである。また、特別な存在の証として、ルフィがシャンクスから帽子をもらったように、鉄郎も戦士の銃を託される。
島には巨人族ブロギーとドリーがいた。彼らはもめごとを起こしたため自分たちの島を放逐され、この島で二人で決闘を続けている。それがもう百年にもなる。戦う理由は「とうに忘れた」(116)と言う。目的なき純粋な戦いなのだ(実は永久指針(エターナルポース)をめぐる争いでもあったのだが)。ウソップは彼らの戦いぶりを見て、そこに、これぞ自分が目指す「勇敢なる海の戦士」を見出す。めったに訪れる者のない太古の環境が残った島で、人知れず続けられる巨人どうしの決闘は神々の戦いを思わせる。ウソップが感じいったのは、体の大きさが精神的なものも拡大して感じさせるからだろう。
巨人のドリーは諌山創(いさやまはじめ)の『進撃の巨人』に出てくる超大型巨人に顔の感じが似ている。『進撃の巨人』はドリーにヒントを得ているのかもしれない。
ルフィはドリーと戦うことになりそうだ。体の大きさがあまりに違うので勝負にならなさそうであるが、ここで、前に登場したモームが活きてくる。ルフィやサンジは牛に似た大型の魚であるモームを簡単に追い払ってしまった。彼らの能力をもってすれば体の大きさは強さに関係がないということを既にモームにおいて示してみせていたので、ルフィがドリーと戦うことになっても、それほど無理があるとは思えない。体の大きさというのも持って生まれた「才能」のひとつだが、先に紹介したMr.3(ミスタースリー)のセリフにあるように、「どんなにすごい悪魔の能力(ちから)を手に入れようとも、それを使いこなすことのできない能力者ほどムダな存在はいない」(117)のである。体が大きいことを戦いにおいてどう使うかということが問題なのだ。
この巻では、ルフィは危険や冒険の予感があると、「なんかぞくぞくするなー」(113)と言ったり、体が喜びで満ちて「ぞぞぞ~!」(115)とか、「うきうきうき」(115)といった擬態語で表現される。『ドラゴンボール』でいえば、悟空の「わくわく」に相当する。
冨樫義博の『HUNTER×HUNTER』では、主人公のゴンのこんなセリフがある。「殺されるかもしれない極限の状態なのにさ、オレ、あの時少しワクワクしてたんだ」(第10話)これも悟空と同じである。しかもこの後、占いババの宮殿のような浮遊舞台での一対一の決闘まである。作者の冨樫義博は天下一武道会のような対戦システムが嫌になり『幽☆遊☆白書』を放り出したのではなかったか。それが何故また『ドラゴンボール』に戻ってしまうのだろう。『ドラゴンボール』の影響、あるいはそれと同じものを求める読者の欲望はかくも強いのである。

先にも紹介したMr.3(ミスタースリー)のセリフ、「どんなにすごい悪魔の能力(ちから)を手に入れようとも、それを使いこなすことのできない能力者ほどムダな存在はいない」(117)というのは重要である。悪魔の実の能力者がどんどん登場してきたが、ルフィはそれほど苦戦することもなく打ち破っていく。それは「ゴムゴムの実」の能力が、彼らの能力より勝っているからではない。「使い方」が工夫されているのだ。身体が伸びるという「ゴムゴムの実」の能力が戦いにおいていったいどういう利点になるのかと普通は思うのだが、作者はさまざまなアイデアをつぎこんでマンネリにさせない。ウルトラマンや仮面ライダーが毎回スペシウム光線やライダーキックといったおなじみの決め技を同じ角度で見せるのと違い、状況に応じてゴムゴムの技を使い分け、新たに使い方を生み出してゆく。ひとつの能力をいろいろに使いまわす器用仕事である。サイボーグ009の特殊能力は「加速装置」という地味なものだ。「加速装置」はそれじたい何の武器にもならない。004のような兵器ではないし、空を飛ぶ002のようなわかりやすい使い方ができるのでもない。たんに早い動作ができるだけだ。しかしそれはすべてのベースとなりうる能力でもある。いろいろ応用できる。つまり使い方、その過程が見せどころということである。

※2013.7.19更新 見崎鉄

 

【著者紹介】
見崎 鉄(みさき てつ)
1965年、長野県生まれ。ライター。
マンガ学の著書に『ドラゴンボールのマンガ学』(彩流社)、歌詞論関係の著書に『阿久悠神話解体』(彩流社)、『Jポップの日本語』(彩流社)、『さだまさしのために』(KKベストセラーズ)、『音楽誌が書かないJポップ批評』(共著、宝島社)。サブカル批評に『ドラゴンボールはいつ終わるか?』(風塵社)、『船井幸雄大研究』『2時間ドラマ大事典』『エヴァンゲリオン完全攻略読本』(以上、共著、三一書房)他がある。