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久しぶりのCD購入・・・

2009 年 7 月 2 日 木曜日

6/末で給料が出たので(給料遅配、または出ない、会社倒産、そもそも失業の方には「全くいい身分」な話で反感を買いそうですが)、いつもの買うだけ買って「読まない(というより読む能力を伸ばすのを放棄している)」本の購入は後回しにして、タワーレコードで久々CDを買いました。ついつい「目的買い」ということばかりで「味気ない」、更にその後、若干飲んで帰って寝ながら聴いてCDの最後は忘れて朝起きるという、これまた味気ない「消費消費の浪費タイム」(目的買いが、何も得られない無目的買いに)という私の今の人生そのもののお金の使い方(時間の使い方)になってしまうものの、取り合えず今回、本当はワールドミュージック棚のジョルジュブラッサンスと並ぶらしい1950年代のフランス女性歌手(同性愛スキャンダルかなんかで忘れられたらしい)のCDや1920~40年代ぐらいの「世界の気温の暑い?南方系女性歌手」(SP盤を、作家かなんかが蒐集していたものの復刻)CDとか気になったものの「工藤冬里・工藤礼子の「これから」」と1200円のシリーズ「南インドの古典歌謡」みたいなCDを買いました。工藤礼子さんのは、眠りから覚めた朝聞き、もうひとつまた別の形の消費となりましたが、最初のCD「ファイア・インサイド・マイ・ハット」が、音の粒子が異様なほど研ぎ澄まされて、とても落ち着いたいいアルバムで、10年ぐらい前、山形の雪降る中、車で営業中、雪のおかげで周りも静かになっているところ車内で聞くと、はまり愛聴していたため、期待通りの傍らでつぶやいているような「私はこの男は知らない」のような、前から好きなアフリカの楽器コラのCDのような「まどろみ音楽」でよかったです。もう一つの「インド」ものは「唸る歌に、節を追うバイオリン」の1960年代録音で、これは近々ウチで出た「魅せられてインド陰陽紀行」の「アジアの本の会」フェアの「ポップ」書きのイメージを掴もうと買ってみて、いつものインド節とも、やはりインドだともなんとも、インドの方は途中で寝てしまったので、再聴?して見ないとなんとも言えませんが、それでも朝、工藤さんのCD聞きつつ、「めこん」さんのインド文学の読まなくてほっておいた「マレナード物語」のあとがきのみ少々読んだりと、睡眠中に若干刺激があったようです。・・・と今回もあまり内容なくブログ終了・・・。(玉崎)

「第11回 権太楼一門会」の直販に行った!

2009 年 6 月 29 日 月曜日

初夏恒例の「柳家権太楼一門会」での書籍の直販に行ってきた。

一門会では毎年「Tシャツ」を製作しているのだが、今年は権太楼師
の師匠・柳家つばめ師が描く粋な「美人画」がモチーフだった。
つばめ師といえば、名著の誉れ高い『創作落語論』がせんだって
河出文庫で復刊されたばかり。

ともあれ、著書『権太楼の大落語論』のほうは、一門会に来るお客さん
には行き渡っているということもあってか、動きのほうはあまり芳しく
ないのだが、サイン入りなので品物を置けば必ず売れるのだ。
一方、同じテーブルに並べてあるDVDとCDはものすごい勢いで売れた。
PHP文庫も単価がお手頃ということもあってやはり売れた。

もちろん、Tシャツの売れ行きはいうまでもない。

物販ブースで落語会を差配するプロデューサー氏より仄聞したのだが、
演芸モノのCDやDVDを製作している大手レコード会社のV社だが、
折からの不況のため、「演芸部門」をごっそりリストラしてしまったらしい。
とにかく落語会の音や映像を収録したテープやビデオがたんまりと残さ
れているそうだ。製作コストがかかっているとはいえ、「原盤権」の問題
等もあって、そうカンタンには「転売」できないのだ。
いやはや、こうやって陽の目をみることなくお蔵入りしてしまう、原稿・
音源・映像等、水面下にある氷塊のように、これまでもダイヤの原石が

たくさんあったのだなぁと痛感させられたのであった。

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[筆・南葵亭樂鈷]

鈴木邦男さんの『愛国と米国』

2009 年 6 月 29 日 月曜日

先日、たまたま平凡社新書の鹿島茂著『吉本隆明1968』を読んだ直後、鈴木邦男さんから同じ新書の『愛国と米国』が送られてきた。ともに「新書創刊10周年記念」ということで編集者の意気込みが著者に呼応して書かれた力作であった。
『愛国と米国』は全9章で構成されているが、特に印象に残ったのは「日米戦争に反対した右翼・赤尾敏」と「ナチスの「思想戦争」に籠絡された日本」の二つの章についてである。
赤尾敏は大日本愛国党総裁で銀座数寄屋橋で演説する姿を何度も見かけたことがある。赤尾は、戦前の東條英機内閣時代に、戦争を遂行する内閣に対して批判をして、「翼賛政治会」を除名された、国会議員待遇を剥奪されている。また戦争に反対した日本共産党の宮本顕治を高く評価していたということである。
愛国党は浅沼社会党委員長を刺殺した山口二矢や、夢の中での天皇殺害を描いた深沢七郎の『風流夢譚』の発売元である中央公論社嶋中社長宅を襲った小森一孝を生み出したが、その総裁の「反共産主義」思想の根底に「米国」と戦争せずの冷静な戦略があったとのことである。

「ドイツ・ナチス」についてであるが、戦中に日本はなぜ米英と戦争をして、ドイツと防共協定を結んだのかという疑問に、鈴木さんは1938年のヒトラーの明治神宮参拝やドイツの徹底した思想戦、宣伝戦に日本の見事にのせられた結果であると述べている。
「60年安保とケネディ大統領」は、小社から『ケネディ-時代を変えた就任演説』など5冊のケネディ本を出している土田宏さんの中公新書『ケネディ-「神話」と実像』を使ってケネディのアメリカを論じている。

本書で鈴木さんは、謙虚に自らの「反米愛国」思想を豊富な読書量をもとに分析していく。そこには左翼を反面教師として学んできた軌跡に、さらに右翼をも同じ視点で総括する「弁証法」を見ることができる。

『吉本隆明1968』は、いまだに「吉本主義者」を自任する仏文学者鹿島茂が若い世代のために書いた「リュウメイ本」であった。吉本を理解するには『共同幻想論』や『心的現象論』を読んでもダメで、初期作品の『初期詩集』をはじめ『芸術的抵抗と挫折』『擬制の終焉』『自立の思想的拠点』『高村光太郎』などを読むことが重要であると、自らの同時代体験を語りながら書いている。
特に印象的なのは、『高村光太郎』である。智恵子との関係を含む戦争賛美へ傾斜していく過程の分析は、改めて吉本の時代との葛藤を鮮やかに再現していて、われらの世代には懐かしい。(S)

「東京かわら版」巻頭に円丈師登場!

2009 年 6 月 26 日 金曜日

最新号「東京かわら版」(2009年7号)の巻頭インタビューに、

著書『ろんだいえん』とCD『三遊亭円丈コレクションVol.8』
(7月中旬発売予定)を出した三遊亭円丈師が登場した。

聞き手は、円丈師との共作「一ツ家公園ラブストーリー」の
作者でもおなじみの稲田和浩さん。
対話相手が稲田さんということもあってか、円丈師はいつも
以上に舌鋒鋭く、ガツンガツンとヘヴィーなコメントを連発
している(かなり過激であるなぁ)。
書籍の「生前贈与」というオビ文がまったくのウソではないと
いうことがここでも証明されたのであった(ホンマにスゴイ!)。

そして、CD制作のワザオギ・レーベルのディレクター川崎隆章
さんのお誘いもあって、6月23日にUsenの系列会社が発行
する「MusicStar」誌と、紀伊國屋書店が発行するWEB媒体
「フォレスト」の円丈師へのインタビューに同席した。
話題は円丈師の来歴や芸談を中心に、著書とCDの発売に
ついても触れるものだった。

とりわけ、円丈師の「《いま》のお笑い」のTV番組についての
批評は興味深く、「エンタ~」「レッド~」「オンエア~」と
「あらびき~」との製作意図というか番組哲学というか、その

「根本」の違いについての円丈師の批評はじつに明解で鋭い
ものだった(師のコメントは近日発行予定の上記の二誌を
ご覧ください)。

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[筆・南葵亭樂鈷]

構想力

2009 年 6 月 18 日 木曜日

このあいだ出た精神分析の勉強会で「カントの構想力については、それは何と書いてある?」と言われ、答えられなかったため2~3年前に古本で買って読まずにいた文庫クセジュ「カント哲学」を朝の起きがけに5分ほどめくってみた。が、本腰入れて全部読まないと理解し難い感触でありながら、また中途で挫折になるか踏ん張りどころという感じ。それで今日外出ている合い間、合い間にちょこちょこ読んだので、気になったところを引用してみる。前の方には「カントによれば、哲学というものは挙げて、いっさいを支配するただ一つの問いに答えることを目的としている。すなわち「われわれの理性には、合法的に何がなしうるのか」という問いである。」というのだが、理性と合法は対立しているということか??いつも「パッパラパー」で生きていることが多い私には、「理性(パッパラ)」と「合法(常識〕」の対立というのは、よく分かるが誤読かもしれない。後の方には「「超越論的感性論」は、理性と感性とを対立させることで満足していた。もっと後に書かれた分析論は、この両者を構想力〔想像力〕によって結びつけようと努力している。」とか「直観と感覚とを区別する必要がある。感覚は主観にのみかかわるものであるが、直観は客観にかかわる。・・・われわれの感性には、その形式をつくりなしているような法則があるわけであり、この形式は必然的に感覚におしつけられはするが、それ自体は感覚ではありえない・・・カントはこの形式を純粋直観と呼ぶ。・・・この直観がいっさいの経験に先だって存在するという意味ではなく、すべての経験のうちに偏在しているという意味なのである。・・」なにやら難しくなってきて、中央線で寝てしまったものの、感覚(実感)から離れて、理性の前提の前提をつかむ(概念)=純粋直観??=認識???ということと誤読したのか、夜の脂ぎったワンタンがたたったか朝おなかをこわし蒸し暑く動機が上らないスタートだった今日の仕事も、この認識で、書店員さんの気持ちに関係なく「勝手に(前提の前提が分かった気になったのだから)動機があがり」中だるみせず、「主観」的には書店を回れましたが、当の書店員さんが「また、なにも考えていない営業が来てめんどくさい・・・」と考えていたのでは、と認識(誤読)のオンパレードの中??恐い思いで今日のブログ当番終了・・・(玉崎)

『1Q84』の書評について

2009 年 6 月 16 日 火曜日

「…最近亡くなった安原顕さんのことで思い出しましたが、村上春樹の『海辺のカフカ』を、多くの批評家が絶賛するなかで図書新聞(2002-9-23)で駄作(「例によって思いつきの謎(のようなもの)が多数ちりばめられているが、それらの「落とし前は」は一切なく、ただ無意味に長いだけだからだ…」だとして切って捨てています。その文壇の権威におもねない姿勢が強烈に焼き付いています。小社のトバイアス・ウルフの『兵舎泥棒』(迫光訳)が出たときは、好きな作家らしく、いろんなところに紹介文を書いていただきました。」

これは2003年2月に書いた「編集部だより」の一部です。このあと、村上春樹本人による安原顕批判(「ある編集者の生と死-安原顕氏のこと」『文藝春秋』2006-4)が話題になったことをご記憶になっている方も多いと思います。
『海辺のカフカ』のときもそうでしたが、『1Q84』も同様に競うように各紙誌に書評が出ています。いまのところ毎日新聞(6-14)の沼野充義さんの書評をのぞいて、どこも絶賛に近い内容のオンパレードです。
沼野さんは書いています。「…作家はこの小説に自分の持つものをすべて盛りこもうとしたのだろう。…その意図が野心的なものであるだけに、刊行された第二巻まででは、作家自らに与えた課題にまだ十分に応え切っていない。ここでは村上春樹の卓越した技術と文体は、見通せないほど深い人間の心の闇の周りを、まだ測量しようとしている段階のように思われる。」
刊行からすぐに書かれた書評では、これが読んだ者にピタリとくる内容のように思います。

そういえば「村上特需」という言葉が生まれていますが、ジョージ・オーウェルの『1984年』の新訳が高橋和久訳で同じ早川書房から7月(?)に刊行されるようです。小社のオーウェルの新訳『葉蘭を窓辺に飾れ』も余波を受けコンスタントに売れています。(S)

(*)

アップした後、社で取っている本日付けの『読売新聞』で村上春樹本人のインタビュー記事を見つけました。読売の名物文芸記者の尾崎真理子さんによるスクープ(?)記事です。(上)なので明日も続くのでしょう。
『村上春樹さん「1Q84」を語る-オウム裁判裁判の傍聴に10年以上通い、死刑囚になった元信者の心境を想像し続けた。それが作品の出発点になった。… 僕らの世代が1960年代後半以降、どのような道をたどってきたか。同時代の精神史を書き残す意図もあった』と語っています。
あれどこかで…と思ったら小社の『カルト漂流記オウム篇』の著者・早見慶子さんは書いています。「サリン事件によって叩かれてきた彼らは口をつぐむそかなかった。そう「オウム」という名前すら残すこともできずに。悲惨な結末に終わってしまったオウム真理教という組織。それは貪欲に煽られてただひたすら消費する社会、そして消費するために必要なお金を得るために働く、という冷え切った社会を変えようという理想に燃えていたのである。…」

パーカー写経への道はまだまだ続く…

2009 年 6 月 12 日 金曜日

愛器T-Saxのメンテナンス後の定期診断というわけで、

豊洲の友人宅まで行った。

すると友人(パーカー写経のグル)は、EとFのキーの
締まり具合がいまいち、というのであった。

実際、カラオケボックスで音出ししてみると、低音部の
サブトーンがしっかりと出ない。すぐに改良してもらうよう
依頼した(代楽器として、グル所有の古楽器、パーカー
も使ったことのある「CONN」社製A-saxを借りた)。

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同時にマウスピース(MP)のハードラバーとメタル、

そしてMPの「ローバッフル」と「ハイバッフル」の違いも、
いろいろと試してみたのであった。
メーカーは「ブリルハート」「ポンゾル」「ギャリー・シュガル」
「オットーリンク」など。

いやあ、これまで意識的に考えてみたことなどまったく
なかったが、せいぜいMPのメタルとハードラバー、そして
リードの組み合わせぐらいまでしか考えたことなどなかったが、
MPのバッフルの「ロー(低い)」と「ハイ(高い)」でこれほど
までに「音色」「音質」「音量」に違いがでるものかと痛感させ

られたのであった。

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かつて、パーカーはMPの内部にガムを詰めていたとか、
コルトレーンはMPを自前で改良していてなかなかうまく
いかず、その間に『バラード』を録音したとか、いろいろ逸話
が残っている。コルトレーンはたぶん、MPの不具合で速い
パッセージを吹くことができなかったのだ、と思う。

というようなわけで、「息(エアー)」がもっとも重要な管楽器
(木管も金管も)のMPがいかに繊細で微妙で、それゆえに

いかに大事なのかということを、深く考えさせられた一日なの
であった。

[筆・南葵亭樂鈷]

緊急報告!『裸の女房』出版記念パーティが盛大に開催

2009 年 6 月 8 日 月曜日

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6月6日(土)16:30より、銀座のど真ん中にあるグランド・キャバレー
「白いばら(青春のキャンパス)」にて、伊藤文学さんの著書『裸の女房』
の出版記念会が盛大に開催された。

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SM文学の巨匠・団鬼六先生、「月刊WiLL」編集長・花田紀凱さん、
SMの女王・早乙女宏美さんなど、当初の予定を遙かに超える総勢約
150名のみなさんが会場に集まった。

著者・伊藤文学さんの開会辞で会がスタート。団先生、花田さん、弊社
社長の祝辞が続いた。

その間も、かつて「伊藤ミカ」さんが『O嬢の物語』の鮮烈なラストシーンで、
全裸に鳥毛を着けて夜の舞踏会に登場する姿を再現した早乙女さんが
フロアのテーブルをところ狭しとまわって接待していた。

夕闇迫る18時からはキャバレーの通常営業時刻となり、出勤してきた
ばかりのホステスさんがあちこちのテーブルに着きはじめた。
まさにキャバレー! ここからは本格的なショータイムとなり、華やかな
歌とダンスで会の最後を締めくくったのであった。

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愚生は10数年の編集稼業であるが、「キャバレー」での出版記念会は

もちろん初めてだった。弊社のT社長と女性編集者W女史は人生で
初めて。いやはや、こんな出版記念会なら何度でもやりたい!

[筆・南葵亭樂鈷]

『イザベラ・バードを歩く』

2009 年 6 月 6 日 土曜日

以前にも書いた表題の本、ようやく入稿メド立ちました。

なんとか6月中には書店に並びそうです。

131年前の今日、6月6日イザベラ・バードは『日本奥地紀行』への本格的な出発を前に、横浜のヘボン博士邸に滞在していました。

いま、横浜市は開港150周年のイベントが目白押しですが、当時横浜に住んでいたヘボン博士開いた私塾は現在の明治学院大学の前身です。

この時期に来日していた外国人たちの交流に思いを馳せつつ
『日本奥地紀行』とともにお楽しみいただければ幸いです。

T.T

売れる本の周辺

2009 年 6 月 4 日 木曜日

いく書店、書店で、村上春樹本を手に取る若い女性ばかりが目に付く今日この頃で、書評のメルマガでも乙女派書店員さんが、初速の良さと、久々の同じ書店に勤める書店員同士の・・・また、日頃は若干距離のある「他書店間」にまで渡る「なんとも言えない連帯感のうれしさ」等・・・「この本」が発売されたからこその「書店員冥利」??を綴られておられます。村上春樹、実はまったく読んだことがなく、W村上と言われたこともある村上龍も読んだ記憶がありません。エッセイぐらいは読んだことあるかもしれませんが。流行りに乗れないたちなのか、そのほかでも小説をちゃんと読んだという記憶があまりありません。高校の時に野坂昭如の短篇をよく読んだ気がしますが・・・。半年ぐらい前も「親の家を片づけながら」(リディア・フレム著、友重 山桃訳、ヴィレッジブックス、1,260円(税込)、200710 発行、ISBN 978-4-7897-3128-7)を読みかけ(何度も増刷したらしい。しかし、2匹目の泥鰌 パート2はダメだったみたい・・・すぐにブックオフに出回っていたため推測)、やはり電車の中で「同じ行が頭でループ」してしまい、やはり途中で挫折・・・。営業中にもらう「無料版元PR誌」のせいぜい2、3ページとか、図書新聞、週刊読書人が会社に送られてきたのをコピーして読むというのが、電車読書では「楽」なようです。このモードでは、当然書店営業でも「売れる本」を置いてもらうこともできなければ、そもそも「売れる本」を自社から発掘して、売っていくこともできないのでは、とも思いましたが、既にもう十年弱まえから、書店さんからは「また売れねぇ版元来た」とか「来なくていいのに何しに来たんだ」モードばかりで、実際「書店利益」と「書店員がうれしい売り上げつくる本」など自分の周辺では考えたことも見たことも望んだこともないというのが板についてしまい、現在の村上春樹本もどこか自分には関係のない話・・・という業界人にあるまじき、営業マンにあるまじきという状態です。書店にも取次にも委託倉庫会社にも運送さんにも?貢献しない版元というのは、また凄い殿様商売というところですが、以前書店員氏も「村上本が年に2回出てくれると助かる」とのことでしたので、とにかく書店が助かる本(売れる本)となると小社では、もういい加減ブームにならならい「連合赤軍」関係の本(累計3万部(ではなく、7万部、10万部クラスもあると連赤担当編集から言われましたので補足)と小社総務部長)、ちょうど自分が入社する直前にいい書評が出て増刷したと言う「スペイン伝説集」でも何万とはとてもとても・・・などと考えても、まるっきり出てこない有様。アマゾンで評価して戴いている「カルト漂流記 オウム篇」もバカ売れまでは難しそう・・・(でも平易に「問題点」、オウム評価(信仰)を落とそうという「なんらかの政治的陰謀」による事態、を批評していていい本という評価)。書店に一切貢献しない版元という本ぐらいしか作れない感触・・・。「売れる本」とは何か?という概念定義(マーケティング)をしっかりすべきなのでしょう・・・。(玉崎)