イケ彩ダメ彩

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高校野球の季節

2015 年 7 月 30 日 木曜日

暑くて溶けそうです…。 (続きを読む…)

「考える」の質

2015 年 7 月 29 日 水曜日

ちょっと前の話になりますが、某政治家が「たいていの憲法学者より私は考えてきた」とのたまっておりましたが、あれってある種の至言だなあ、と感心しております。 (続きを読む…)

三橋國民「鎮魂70年目の夏」

2015 年 7 月 25 日 土曜日

造形家・三橋國民(みつはし・くにたみ)さんの
「鎮魂70年目の夏」を見に行った。
三橋さんは、アジア太平洋戦争の激戦地ニューギニアから奇跡的に帰還した元兵士で、
『鳥の詩』という本が著作の中では代表作である。
こんなに詩情豊かな文章を書く人が、どんな美術作品を作るのだろうと、前から一度は見てみてかった。

初めて見た三橋さんの作品に、えーーっ、と。
言葉を飲み込むような美しさで、「びっくり」してしまった。
むごい体験に、ではなく、作品の「美しさに」、涙がにじんできた。
もちろんその美的な力は、地獄のようなジャングルの体験、仲間たちの死に支えられているわけだが。

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新人日記4

2015 年 7 月 22 日 水曜日

こんにちは。梢です。
絶賛、一日遅れ投稿を継続中です。ごめんなさい。

「新人日記」と題していましたが、そろそろ「新人」期間も終りなのではと思っています(もうとっくに終ってるのかもしれません……)。
何故なら私は今月誕生日をむかえ、誕生日の翌日に初めての入稿をむかえて、来週には見本ができるからです。嬉しいやら怖いやら、どことなく気恥ずかしさもあり、反省もたくさん……とても複雑な気分です。

一つ終えてみて、また一つ始めてみて、やっぱり仕事上での客観的な視点の持ち方って難しいなと、日々ひしひし感じています。
「読者の皆さんが、本を手に取った時にピン!とくるポイントはどこにあるんだろう?」
帯文とか、タイトルとか、小見出しとか、フォントとか、それからきっと、今後は企画の目のつけどころとかも、選択に迷うときが来るでしょう。いつかきっと自分のペースとセンスが身につくと信じて、今はただ目の前の山を一歩一歩登るかぎりです。自己満足だけではやっていけない、学生と社会人の大きな違いですね。
以前、通っていた脚本家教室で、面白い課題を出されたことがあります。
「教室にいる全員が、絶対観ていると思う映画を挙げてみて!」
『となりのトトロ』、『スターウォーズ』、『ターミネーター』、『ショーシャンクの空に』……何を挙げても、全員一致で観ているタイトルがありません(教室に通っているなら観ておけよ、というツッコミは置いておいてくださいまし)。このとき、これが客観的な、一般的な視点を持つことの難しさなのだと痛感しました。「全員が知っていること」なんて、「誰も知らないこと」を学ぶことに必死だった学生の私は、考えたこともなかったのです。
誰も知らないこと、話題になっていないことに目をつけるアンテナ。それと同時に誰でも知っていることを察知するアンテナも持つ。前者は学生時代に育み、社会に出てから忘れないようにすること、後者は社会に出てから育み続けることを、心がけたいところです。そしていずれ、誰もが感じていたけれど誰も表現していなかったこと、に気づくアンテナを持てればいいのですが、それはきっと来世の話でしょう……。生まれ変わる時がきますように!

それでは、次回からは「新人日記」というタイトルに頼らずきちんとタイトル考えます。
たぶんお盆休みの話題です。
(そういえば前回報告しませんでしたが、最近は親父ギャグってそもそも何だろうと思って研究しはじめました。博士になりそうです)

(梢)

人文学不要論に対峙する

2015 年 7 月 17 日 金曜日

僕が編集者として所属している彩流社の書籍のジャンルの大きな柱が人文学である。

過日、文部科学省が、全国の国立大学に対して、人文、社会学系の学部を減らすべしという実に愚かな指示を出したという。
専門学校化してどうするのだ?
これは、この国の叡智を汚すものである。

整理すると、学問には、社会科学系と自然科学系と人文科学系がある。
すでに死語であるが、かつての大学には、一般教養というものがあり、
かならずこれら3つのジャンルからあまねく単位を履修しなければ卒業できなかった。
自分がたまたま文学部出身だからというわけではないが、何が実社会で役に立つというのだろう。
理科系は理科系で実に社会に役に立つし、法律などの社会科学系の学問も社会に出てからそれに関連した職業につけば学問が社会と直結して、社会に役立つ学問と言えるでしょう。
しかしながら、医者でも弁護士でも、どのような職業につこうとも、たいていは人間と付き合う事になる(むろん、例外も多々あるが…)。

そこで必要なのが、人文学的想像力である。自分の振る舞い、自分の表情、自分の言葉、自分の髪型、自分の服装、などなどが、それに接する相手(人間)にどのような影響を与えるのかという想像力である。
人を簡単に殺す、あたかも怪物の仕業としか思えないような残虐な事件が連日報道されている。
なぜ、人を殺すのか? それは、憎い相手に愛する人間、愛される人間がいて、死をもって悲しむ人間がいることを瞬時に想像できないからである。
ましてや、憎くもない人間を殺すのは、その人間をとりまく人間関係を想像できないからである。

これは何も、人殺しばかりではない。日常の会話ひとつとっても、仕事上での会話をとっても、相手の取り方を想像する力が必要になるのではないか。
それを養うのが、人文学に違いない。
読んで字のごとしである。

それらの学問を廃止するとは、社会の人間関係を断絶し、ましてや、人殺しのような凶悪な事件を量産してしまうことになるだろう。

その想像力は自分を対象化し、自省する場合にも生かされもので、実に重要なものである。

以前、自分自身のfacebookにも書き込んだことをあえて繰り返すが、間もなく刊行予定の『英語修得の思想と方法』という本の中に、次のような一節が出てくる。

「人の知性は優れたものであり、またこれを教育し発達させることは、それ自体素晴らしいことである。このような知性はその持ち主とその周囲の人々全てにとって、真のそして高度な意味において有用である。これを行う「自由教育」が善であるなら、それは必ず有用でもある、と述べる。大学は「自由教育」の場である、その教育の目的はあくまで学生の知性の教育と訓練であり、職業のための手段ではない。だが鍛えられた知性は実用的要請に充分応えることが出来る」。

J.H.ニューマンの『大学の理念』を説明している文章からの抜粋である。
「自由教育」を受けて社会に出た学生ほど、実用的要請に充分応えることが出来る。
僕なりの理解では、この実用的要請に応えることができる「鍛えられた知性」こそが人文学的想像力である。

たとえば、文学理論をかじった人間であれば、脱構築をごぞんでしょう。至極簡単に言えば、「内破」。
つまりは、相手の理論を否定するのではなく、相手の理論の内側から破っていくものであり、
相手は、自分を否定しているわけではないからぐうの音もでなくなる。否定すればするほど、自分を否定するジレンマに陥ってしまうのであるから。
別段、ぐうの根も出なくすることが目的ではなく、常に相手の出方を想像していくということも、僕なりの理解では人文学的想像力の一つである。
それなくして、会話をしていても、翻弄されるばかりで相手の言っていることが理解出来ず、
最後には相手が人間に見えなくなっていき、それに映じる自分が怪物に見えてきて、
人間関係をおかしなものにしていってしまう。

人文学は、怪物にならないために必要である。
(小鳥遊)

 

久しぶりの大阪出張!

2015 年 7 月 9 日 木曜日

昨日はほんとうに久しぶりに大阪へ出張(行って帰るだけですが)。 (続きを読む…)

七夕です

2015 年 7 月 7 日 火曜日

今日は7月7日ということで、七夕です。

ですが私はこのイベントが何なのか、今イチよく分かりません。

彩流社のHPを見てくださってる方々は、色んな知識をお持ちかと思いますので、

敢えて概要を調べて載せる様な、愚考は致しません。

ぼんやり覚えているのは、幼稚園の時に短冊にお願い事を書いて、笹につるしたような記憶があります。

その為に浴衣を着て、お寺(幼稚園は寺)に集まって、歌って。なんとなく楽しかったような・・・・・・

 

今日も雨が降ったり止んだりですが、お願い事をしてみようかと思います。

・・・・・・なんて言っておきながら、帰ると色んな事、すぐ忘れるんですよね。

雨が降ってなくたって、夜空を見上げる余裕の無い大人の眼には、天の川はうつらないのかもしれない。

 

「あの雲の中に、天の川があるきがする!!」

 

事務員

 

庭先より2

2015 年 7 月 2 日 木曜日

先日報告しました倒れた植木鉢の芽は全滅いたしました…。まっっっっさらになりました。 (続きを読む…)

半分

2015 年 7 月 1 日 水曜日

今年ももう半分が過ぎました。いつものことながらあっという間です。あっという間の積み重ねで、今も未来もあるわけですが、2020年のオリンピック、どうなるんでしょうね。汚染水とか、競技場とか……。

などと言ってみたところで、実のところ現時点での将来についての一番の心配事は、近々の梅雨明けのタイミングを見誤らず、うまく梅干しを干せるか、だったりもするのですが。

 

(マルタケ牧場)

 

 

 

新人日記3(某改革への長い呟き)

2015 年 6 月 24 日 水曜日

こんにちは。
ブログも3回目となりました。ということは入社して3ヶ月!あっという間な気もしたり、学生時代が遠い昔のような気もしたり……。
そんな私はちょっと前に「新人が2ヶ月で会社をやめていく」という内容の記事をネットで見ました。「そんなバナナ」と思っていたら、身近な人から「うちの会社、すでに新人は一人辞めて、もう一人は契約書を見せろと言ってきている」という話を聞いて、なんだかバナナを一気食いした気分になりました。
私は効率が悪くて、「面倒」という感覚が欠落していて、義理人情にめっきり弱くて、もう人間としてはこの上なくキレの悪い子なので、せめて愛情と感謝と真心だけは忘れないように生きています。だから「契約書を見せろ」とか「面倒だから辞める」とか、スッパリ斬っていく発想がありません。案の定、2ヶ月で辞めてしまう新人には“優秀で期待された人材”が多いようです。
私の大学生活を振り返るに、いかに物事を斜めから見て否定できるか、いかに莫大な情報を得られるか、いかに最小限の出席日数で単位を取り、暇を自分の趣味や活動に充てられるか、という力を養っていた学生が多かった気がします。グローバル化の競争のなかでは、システム化や自己主張は必要不可欠な能力ですから、デジタルな感覚を持つ彼らは人材として完璧です。そして真心や愛情や感謝は、「面倒くさい」し「論理的じゃない」ので、「効率」や「自己主張」の前では二の次だった気がします。
しかしやはり、デジタルな感覚を重視する優秀な新社会人が、会社を2ヶ月で辞めてしまう実態もある……。そう考えると、一見、非論理的でアナログに見える愛情、真心、感謝もどこかで学びなおす必要があるんじゃないかと思うんです。
私たちは死に物狂いで働かなくても、人生を背負わなくても、命懸けで伝えなくても、なんとなく生きていけてしまう世代です。でもだからこそ、やらせていただく感謝や真心というアナログな感覚って自分を律してでも持つべきなのではないかしら、と思います。
自分を律するには、文学、歴史、文化を追求した時に養われる想像力が必要なのではないでしょうか。如何に互いの国を思いやれるのか、過去の痛みを感じられるか、書物に隠された訴えを感じ取れるか。これこそが、愛情、真心、感謝といった、人間同士の向き合い方に対して自分を律する指針になるような気がしてならないのです。
こうすると競争に勝ち抜くためのグローバルな人材ではなく、もう一つのグローバルな人材が見えてくるはずです。互いにたたえ合い、真剣に向き合う……1964年の東京オリンピックが掲げた「世界はひとつ」という感動こそがグローバルのもう一つの姿ではないでしょうか。2020年がグローバル化の大きな一歩になるなら、やはり文系学部の学生は想像力を養い「おもてなし」を創造する役割があるのではないかと思うのです。
ということで、今じわじわと話題になっている某改革について文系学部出身(私立大学出身ですが)として考えるところを、新人の身近な出来事への視点から書いてみました。
私はチャップリンの「独裁者」のスピーチを聞きながら、バナナを食べて筆をおきます。

(梢)