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芝浦と場へ

昨日、芝浦と場(とじょう)に見学に行った。屠場とは、牛やブタを屠畜解体し、肉にするところだ。
正式には「東京都中央卸売市場食肉市場」という名称で、東京都の直営の施設になる。
ゲート近くのトラックに、たくさんの(まだ生きた状態の)牛たちが並んで乗っているのが見えたのにまずギョッとしたが、このような施設が品川駅から徒歩3分のところにあるというのも意外である。
屠畜の現場は、刃物を多く使っていることもあり見学できないことになっている。現場の詳細については『世界屠畜紀行』(内澤旬子、解放出版社)というルポがお勧め。詳細なイラストと文章で描かれており、芝浦と場についても詳しい。

前にいた出版社で、『いのちって何だろう』という本を作った。そのなかで、ニワトリを殺して食べる授業の是非を考える部分がある。先生が子どもたちと時間をかけて準備し、保護者への十分な説明や子どもたちの心のケアにも配慮した企画だったのに、直前でPTAと教育委員会の反対にあい、結局はつぶされてしまったという小学校の事例もあった。

死の体験から隔離されているいまの子どもたち(大人もだが)が、いのちを切実に感じるような教育として、自分たちが毎日食べているニワトリを屠畜する体験は何にも代え難いと、本のなかで村井淳志氏は言っている。

かくいう私は、海外旅行先で肉の入ったメニューを頼むと裏庭でトリが絞められる声が聞こえた、という程度の体験しかなく、昨日も屠畜現場は見学できなかったから、「そのとき」どんな感情を自分が抱くのかは、(こんな本を作ったわりには)実はよくわからない、という現代っ子である。
相当ショックを受け、大泣きすることは避けられそうにもないのだが。

それでも、解体されて枝肉となった大きな牛や豚のかたまりが、ずらーっとぶら下がっているセリを見学して、「生きた牛が、こうなって、これを食べているんだ」という当然のことが腑に落ちた気がする。

腑に落ちなかった点と言えば――。
森も野草も動物も、こうして大きなシステムのもと、大量に人間の役に立っている。そして生きている限り、他のいのちをいただかなくてはならない、という。生きるというのはそういうことだ、とまで言われることがある。でも、それなら人間は、他の命のために、無償で何か役に立っているのだっけ…、という点。

いままで、自分の食やいのちについて考えれば、屠畜の現場を見て、こうして動物が殺されている事実を知らねばならない、そこに否定的な感情をいだくのは大いなる自己矛盾だ!という理屈だけに押されていた自分だったが、やっぱり「感じる」部分を落として消し去ってはいけないのだと、思い知らされた。今回の見学は貴重な体験となった。
現場は、正しいと思ってきたことをやっぱり正しかったと確認しにいく場ではなく、どうしてもこぼれ落ちてしまうことがこんなにあるんだなあと感じる機会だと思う。
だから現場はおもしろいのだ。(出口)