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早見慶子と「さそり」

模索舎プレゼンツ『1970年代以降のオルタナティブ運動』は、早見慶子『カルト漂流記オウム篇』の出版を記念して7月14日、新宿ネイキッドロフトで行われた。

その他の出演者は、宇賀神寿一(元東アジア反日武装戦線「さそり」メンバー)、 山田守(山谷労働者会館活動委員会)で、司会は『新左翼とロスジェネ』の著者である鈴木英生。
「東アジア反日武装戦線」といえば1974年8月の三菱重工爆破事件であまりにも有名であるが、正確にいうとこのグループは「狼」を名乗り、服毒自殺した斎藤和らの「大地の牙」、今回の出演者の宇賀神寿一らが名乗っていた「さそり」の3グループがあり、共同行動を含む形で三井物産、鹿島建設、大成建設、間組などに対する爆弾闘争を行った。
これらの大企業を狙ったのは、「日本帝国主義のアジアの民衆に対する歴史的罪業」の先兵企業であり、無反省への報復という意味合いを持っていた。
宇賀神寿一は、逃亡7年、獄中21年で5年前に出所したとのことである。彼の発言で印象的だったのは「東アジア反日武装戦線」の各メンバーの横のつながりはなかったこと、他人から強制されて行動したのではなく、個々が納得のうえでのアナーキーな「確信犯」であり、連合赤軍などのような粛清は考えられなかったという発言である。
山谷の山田守は、1984年12月の山谷のドキュメンタリー映画を撮っていた映画監督佐藤満夫が金町一家西戸組の組員によって刺殺、86年1月、山谷争議団の山岡強一が金町一家金竜組の組員によって射殺された二つの事件は、「山谷暴動」という言葉に象徴されるように、現在の「派遣切り」反対運動とは別次元の空間が生み出されていたことを生々しく語った。
早見慶子は自らの党派「共産同戦旗派」での70年代から80年にかけての活動を語った。最初はソ連系の流れを汲む民学同という組織に入ったが、豊かになり始めていた中では物取り闘争に終始する活動に疑問を感じ、それとは違う純粋な運動体と感じた戦旗派に入った。
しかし、三里塚闘争での中核派との内ゲバ問題、皇居ロケット弾闘争による右翼との抗争などによって非合法組織の傾向を強めていった。そのことによって組織の引き締めや官僚的傾向が強まり、自由な発言や行動が制限されることに反発し、結果的には脱党することになった。
その後、友人がオウム真理教に入っていた関係もあり、一時接触をはかったりした。死刑判決を受けている井上嘉治の話や情報に新左翼とはスケールの違うオウムの組織力に惹かれたりした。そうこうしているうちにサリン事件などが起こったと語った。(S)