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吉本隆明・芹沢俊介『幼年論』の??立ち読み?≠

遅れに遅れておりました吉本隆明・芹沢俊介対談『幼年論竏?21紀の対幻想について』、いよいよ刊行となりました。だいたい6月20日頃には書店の店頭に並ぶと思いますが、そのまえに吉本さんの「まえがき」と芹沢さんの「あとがき」の一部を「立ち読み」してみてください(目次は書名をクリック)。

▼「まえがき」より
……幼児期の内働きの主役であった母親の授乳と排泄から学童期にいたる間に、とくに「軒遊び」の時期を設定してみせた柳田国男の考え方は、たんに民俗学や人類学の概念の基礎を与えただけではない。存在論の倫理としていえば、母親による保育とやがて学童期の優勝劣敗の世界への入り口の中間に弱肉強食に馴染まない世界が可能かも知れないことを暗示しようとしているともいえる。そして誰もが意識するか無意識であるかは別として、また文明史がそれを認めるか認めない方向に向うかは別として、この中間をもつことは人間力の特性につながっていると思える。……

▼「あとがき」より
……幼年とは、私たちの定義からすると、母親が傍にいることが必要な時期である。母親の存在を傍らに感じているとき、子どもは安心して、安定的にひとりになることができる。ひとりになれるということは、「軒遊び」の時間を過ごすことができるということを意味する。
だが現在、子どもたちは社会においても家族においても、このような幼年期の核となる軒遊びの時間を生きることが困難になってきている。子どもは生まれて間のない時期から〈ある〉ことだけでは許されず、いつも教育のまなざしのもとで何か〈する〉ことを求められるのだ。幼年という子どもの時間が子どもたちに保証されがたくなったのである。極端にいうと、幼年という概念はいまや消滅寸前である。
それほどまでにないがしろにされている幼年期が、人が人間になっていくためにいかに大切かということをめぐって、対談はおこなわれている。そして一言付け加えるなら、この幼年についての議論は、対幻想論の新しい裾野に確実に触れているはずである。……

【05.6.10オフサイド通信・杉山】