イケ彩ダメ彩

最新の記事5件

このコーナー内を検索

月別一覧

世界の「見え方」

先日、ホームで電車を待っていると白杖をもった人が通りすがりました。大丈夫かなと気になって目で追ってしまったところ、その人は駅の西口方面のエスカレーターへ。でも、そのエスカレーターってホームへの上りなんです。「あっ、危ない」と思ったのもつかの間、その人は手前でくるりと回れ右。ほっとしましたが、エスカレーター脇の階段に向かうのものと思いきや、そのままこちらに戻ってくるのではありませんか。失礼だったり、相手を驚かせてしまったりするのではないかと逡巡しましたが、もし迷っているなら気の毒なので、思い切って「どちらに行かれるのですか?」と尋ねたところ「東口改札に行きたいのです」と。(ご本人はわかっていたのかもしれませんが)方向を教え、改札まで案内することになりました。

恥ずかしながらこれまで、視覚障がいの方に声を掛けたことも、ましてや誘導したこともありませんでした。こちらから相手の身体に触れてはいけないという知識だけは持っていたのですが、いちおう「どうしたらいいですか?」と指示をあおぐと、「腕につからませてください」とのこと。誘導している自分が転んだりしたら洒落にならないと緊張しっぱなしでしたが、無事、階段もクリアして改札までご案内することができました(そもそもそんなに難しいことじゃ全然無いんですけれども)。

目が見えないことがどういうことなのか、正直、私には想像もつきません。想像しても本当のところとはほど遠いでしょうし、ましてや理解できたとはとても言えたものではないでしょう。どっちが東口でどっちが西口かなど、視覚情報に頼っている人は看板があればそれで済むけれど、そうではない人もいるんだとあらためて考えさせられました。点字板があったとして、それがそこにあると、目の見えない人はどうやって知るのでしょう(なんらかのルールがあるのでしょうね、きっと。それさえ知らない……)。私たちが作っている「本」だって、そういう人たちにはそのままでは届かないですもんね……。

「障がい者」という言葉に対して生まれたであろう「健常者」という言葉は、「常に健やかなる者」という意味合いなのかもしれませんが(なんだかおこがましいなあ……)、「常識」と同じで、「常」といったところで不変でも、普遍でもない。自分が知覚している世界を、他の人はどのような方法でどのように把捉しているのか、どのように生きているのか(そこには私の知り得ない豊穣だってあるのでしょう)、ということにときどきでも立ち止まってせめて思い致すことだけでもせねば、と罹患者の大半はテニスが原因じゃないという「テニス肘」の痛みに耐えながら、いつもながらに思うのでした(思ってばっかりじゃいけないんですけれども)。

それにしても、びっくりするほど感じのよい青年でした。こんな人ほんとにいるんだ、ってぐらいに。

(マルタケ)