ほんのヒトコト

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第50回 自伝のようなもの、どのようにしてペソアの『不安の書』の翻訳者になったのか?
──高橋都彦(『不安の書【増補版】』訳者)

長らく書店の棚から姿を消していたフェルナンド・ペソアの『不安の書』が彩流社から復刊されました。2007年の初版(新思索社版)と比べると、新たに断章を6篇と断章集を巻末に付け加えました。『不安の書』はペソアの死後に刊行され、厳密に言うと、作者の手で作られたポルトガル語のオリジナル版と言えるものは存在しません。上記の初版はアントニオ・クワドロスが編纂した460の比較的短いテクストを底本にしたものです。このペソアの傑作のジャンルを分類することはとても難しく、主人公ベルナルド・ソアレスの自伝的な告白、身辺を記した日記のほかにも文学、宗教などさまざまな分野の思索、散文詩などから成り、テクストの多くは、タイプ打ちされたものもありますが、ありあわせの紙になぐり書きされたものもあり、完成したものというよりも断片のような印象を読者に与えます。そのためそのようなテクストは断章(ポルトガル語でfragmento)と呼ばれています。

新たに加えた断章は別の編纂者のものから選びました。それに断章集というのは、466篇の断章のタイトル(タイトルがない場合もあります)、と断章の最初のセンテンスだけを原則として抜き出し、通し番号順に配置しました。普通より少々詳しい目次の役にもなり、以下のように使えば、索引の役にもなります。本文は縦書きですが、こちらは横書きです。横書きの方が、我々の目は早く文字を追えるからです。本書を最初から順番に断章を読みすすみたい気分でないときは、この断章集の箇所を開き、最初のセンテンス(作家は最初のセンテンスに力を入れます)を読み、気に入れば、その続きがある本体のほうに移ったり、気に入らない場合には次の通し番号の最初のセンテンスに移ったりする、というように使うこともできます。その他の利用法もあるかもしれません、ぜひ探してみてください。

フェルナンド・ペソア記念館(リスボン)(筆者撮影)

さて復刊の出版にあたり、彩流社から「ほんのヒトコト」というコラムを執筆するように依頼されました。コラムのタイトルが気に入り、軽い気持ちで引き受けてしまいましたが、いろいろ考えてみても、正直申し上げて、復刊が完成してほっとしたせいか、梅雨明け後の猛暑のせいか、なかなか良いテーマが頭に浮かびません。そこで気取らず自分のことについて書くしかないという結論に達しました。『不安の書』の主人公ベルナルド・ソアレスのようにはいかないことは十分に承知していますが、臆面もなく自伝を書こうという気になったのです。

その中で核となるのは、私がどのようにして『不安の書』の翻訳者になったかということです。すぐに答えを言ってしまえば、運命によるものだと自分では思っています。ちなみに『不安の書』の断章は今回増補して466になりましたが、そのうちの43の断章でソアレスは「運命」という言葉を使っています。運命とはなにか、手元の国語辞典をみると「人間の意志を超越して人に幸、不幸を与える力。また、その力によってめぐってくる幸、不幸。」とあります。私は神とか造物主とかという存在をあまり信じないので、私が遺伝的に受け継いだ性格を中心に積み重なれて作られた行動様式が自分の運命だと考えています。たとえば、自分の目の前にいくつか途(みち)があって選択しなければならない場合、進む人間が少数なものを選ぶという私の習性が運命をつかさどっているのではないかと思っています。つまり競争の少ない方が好きだということです。たとえば、大学の選択にあっては、実際には私は将来の進路をよく考えたうえで大学の学部・学科を選ぶような賢明な高校生ではありませんでしたが、学生数の少ない東京外国語大学、その中でも1学年の定員が20名であったポルトガル語学科を選んでいます。中学・高校時代、英語が好きだとか、得意科目だったなどということはまったくありませんでした。どういうわけか予備校の進学相談会で、模擬テストの結果を見て意外にも外語大を受けなさいというアドバイスを受けました。

その時はいい加減なアドバイスだと、浅はかにも考えましたが、一浪でしたので外語大も受験し、合格し、本命は落ちたので外語大に入学しました。最初、周りの人たちは英語の達人ばかりに思え、それでは専攻語のポルトガル語では負けないように頑張ろうという気持ちが出て、結果的によかったと思っています。クラブ活動には、部員数の少ない中南米経済研究会を選びました。経済学は好きな科目ではなく、クラブには同好の士はいませんでしたが、一人でもブラジルの文学をやってみたくなりました。日本全体でも、ブラジル文学を本格的に研究している人がいなかったからです。そのためにクラブ名から経済を消すことを提案し、他の部員はあまり反対せず賛成してくれました。

肝心の授業の方ですが、ポルトガル語学科の教員もポルトガルに関する科目とブラジルに関する科目とに分かれていました。当然、教員の数も限られており、中南米研究会の顧問をされているS先生と接触することが多く、その先生のお供で、ブラジル移住を希望する人にポルトガル語を教えるために赤城山中の海外移住事業団(現在のジャイカ)の研修所に行ったこともあり、先生の代講もやったことがありました。S先生は文学を専門としてはいませんでしたが、視野が広くブラジル文学にも強い関心があり、ブラジル文学に関するアメリカの研究者の本などを教えていただき、今でも学恩を感じています。残念なことにS先生は私が4年になったときに他大学に移られてしまいました。そのため、ポルトガル文学が専門の主任教授の卒論ゼミを取りましたが、ゼミ生は私ひとりで、私の研究テーマがブラジルの作家ジョルジ・アマードだったので、普段は研究室にこなくてもよいと言われ、最終試験以外ほとんど接触はありませんでした。

当時ブラジルの書籍を手に入れることは東京でも困難で、大学図書館にもブラジル現代文学関係のものは少なく、非常勤講師の日系ブラジル人にお願いしブラジルの書店から取り寄せていただきました。また、ポルトガル語学科の同級生で、2年のときに早くもブラジルへ行ったT君がブラジルで有名な女性詩人セシリア・メイレレス(1901-64)の娘さんと知り合い、彼女が日本人と文通したいということでT君は彼女のペンフレンドとして私を推薦してくれました。彼女は日本がとても好きで、私がブラジル文学を研究対象にしていることにとても喜び、ブラジルの小説を何冊も送っていただき、大変感謝しております。ちなみに彼女は後にブラジル政府派遣のポルトガル語講師として京都外国語大学に来られました。

東京外大の修士課程に入り、ブラジル文学の研究を続けるためには、さらに多くの資料が必要なので、少なくとも修士論文を書くのに必要な文献を集めるためには、ブラジルに行くしか方法がないと考えていました。幸いブラジル政府(外務省)が6カ月の奨学金と日本に帰る飛行機代を出してくれるということを知り、日本の文部省経由で1968年3月に応募しました。しかしブラジル人のやることは悠長で、なかなか返事が来ず、やっと6月に合格の通知が届きました。その月に東京―リオ・デ・ジャネイロ便を開設したブラジルのヴァリグ航空で羽田空港から約27時間かけて1968年7月25日にリオ・デ・ジャネイロのガレアン国際空港に到着しました。この時から帰国する1970年4月15日まで日本を離れていたことは、本当に幸運だと思っています。その間に日本でも学園紛争が起き、母校でも例に漏れず、老朽化した学生寮のことから端を発した紛争が起き、大学は封鎖され、授業などができないひどい状況に置かれたことが、家族からの便りにより、また帰国後には、学生たちに痛めつけられた教授たちの話からも知らされました。

学園紛争は、日本だけでなく世界の多くの国、地方で起き、ブラジルでは、私の到着した時期には、リオ・デ・ジャネイロでは大分収まっていましたが、学期の開始は遅れていました。くわえて私の通った連邦リオ・デ・ジャネイロ大学文学部は当時、移転が行なわれたばかりで、校舎などはまだ未整備の状態でした。ここでの私の生活の詳細はこのコラムの本題とは離れるので割愛しますが、もしブラジルに行っていなかったなら、ご多聞に漏れず外大の紛争に巻き込まれ、学生と教授たちとの間で板挟みになっていただろうと想像されます。そういう意味で、地球の裏側で多少複雑な思いもありましたが、日本で多くの学生、教員が感じて苦しんだトラウマなしに過ごせたことはつくづく幸運であったと思っています。

本題に戻ると、ブラジルでは当時すでにフェルナンド・ペソアの詩は若い人、学生の間でもかなり人気がありました。ペソアの詩が初めて全集という形で1巻本ながら刊行されたのは、ポルトガルではなく、ブラジル、リオ・デ・ジャネイロのアギラール社から出たポルトガル人マリア・アリエテ・ガーリョス編の『詩作品』(1960)でした。この編者は『不安の書』の最初の版の編纂にも参加しています。貧乏留学生の私にとっては高い買い物でしたが無理して購入した『詩作品』(第2版、1965)をひもとく余裕はありませんでした。もっぱらブラジル文学、それも小説を読むことで手いっぱいの状態でした。しかしペソアと私は、その時に、何色かは分からないが見えない細い糸でつながったのだ、と後年、自分に都合よく考えました。

そして1971年3月外語大の修士課程を修了してからは、上智大学外国語学部ポルトガル語学科でブラジル現代文学講読、立教大学ラテンアメリカ研究所の一般人向け講座の非常勤講師としてポルトガル語を担当し、ブラジル文学の教員、研究者の「狭い」途に一歩進みました。その後、母校の東京外国語大学ポルトガル・ブラジル学科でブラジル文学講読、拓殖大学では第二外国語のひとつブラジル・ポルトガル語、日本大学農獣医学部でも第二外国語ブラジル語の非常勤講師、また早稲田大学語学教育研究所の講座ポルトガル語の非常勤講師として採用され、1979年ようやく拓殖大学商学部の専任講師に採用されました。

再び、それも真剣にフェルナンド・ペソアを意識するようになったのは1990年、『不安の書』の翻訳についてパピルスの鶴ヶ谷真一氏から依頼を受けた時でした。鶴ヶ谷氏は出版社パピルスを設立される前は白水社におられ、私は富野幹雄氏(南山大学名誉教授)と共著で白水社で最初のポルトガル語学書を刊行し、白水社に出入りすることがあり、その関係で鶴ヶ谷氏から、パピルスからフランスのベルナール・ピヴォー他編『理想の図書館』を翻訳刊行するにあたり、そのなかの「ポルトガル語の文学」を翻訳するように依頼されました。この本は、フランスで刊行された国内外の書物、「古典から漫画まで、世界の書籍を分野別に2400冊選んで解説し、詳細な邦訳情報を付した」もので、私の担当したのは、ペソアの『アルヴァロ・デ・カンポスの詩』をはじめとするポルトガルの作家・詩人の作品とアマードなどブラジルの作家・詩人の作品、合計49作品についてでした。鶴ヶ谷氏は引き続き『不安の書』の翻訳刊行を考えられ、私に白羽の矢が立ったということです。ペソアの詩についてはすでに恩師・故池上岑夫先生が『ポルトガルの海』(彩流社、1985/増補版1997)の翻訳など立派な仕事をなされていたので、私は自分よりも池上先生のほうがはるかに適任だと先生にお話ししたのですが、先生は「君がやれよ」というお答えでした。実はその年の春に心筋梗塞で1カ月入院し、さらに前からの約束の長い仕事も平行して行なわなければならず、悩んだ挙げ句、ペソアといえども散文ならば、何とかなるだろうと結局引き受けることになりました。しかし『不安の書』の翻訳刊行はなかなか捗らず、また出版業界の不況ということが重なり、パピルスからの刊行は不可能になりました。しかし最後まで編集を担当していただいた鶴ヶ谷氏のお世話により新思索社から16年後の2007年に刊行に漕ぎつけることができたのです。

それから12年、今度は彩流社のお世話、編集により復刊の運びになりました。考えてみると、私のような語学の才能に自信のない者が、世界の37カ国語に翻訳されているフェルナンド・ペソアの作品のなかでも傑作『不安の書』の翻訳者になったのは、次のようなことがあったからなのだと思います。ペソアがポルトガル語というマイナーな言語を母国語とし、私が上記のような考えをする習性があるがゆえに、たまたまそのマイナーな言語の文学を(ポルトガルよりもブラジルの方の文学に力を入れていましたが)日本で専門にしている数少ない者の一人だったからだと私は考えています。

もちろん、数々の幸運に恵まれたこと、特に、若い頃は引っ込み思案で、人付き合いがあまり上手ではなかった割に、素晴らしい人たちに会えて薫陶を受けられたことは運命に恵まれていたということ以外には考えられないことです。しかし、不運に悔しい思いや悲しい思いをしたことも、当然何度もあったのは言うまでもありません。

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