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第21回 文学研究とヒューマンウォッチング
──平林美都子(『「語り」は騙る──現代英語圏小説のフィクション』)

 本書『「語り」は騙る──現代英語圏小説のフィクション』では小説における語りの不透明性をあれこれと分析してきた。考えてみれば、現実においても「語りが騙り」というのは明らかなことである。対人関係を円滑にするために人々はお世辞も言うし、ときには嫌な頼まれごとを笑顔で引き受けたりもする。表現と内面の乖離状態は何も小説内の登場人物に限ったことではない。とりわけ私が興味をそそられているのは、「真実」を語っているように見えながら、それが「騙り」であることを当の本人も気が付いていないように思われる場合である。

 私事になるが、十数年前に亡くなった母は、長年にわたり手帳にメモ書きを残していた。そこには、父にどんな食事を作っただとか三人の子どもたちや孫の来訪のことなどの日常茶飯事が記されていた。ただし、父と口喧嘩をしたことや近所付き合いでの嫌な出来事はひとつも書いていなかった。ときおり母の愚痴を聞いていた私には、メモ書きの末尾のほとんどが「幸せだ」とか「楽しい」とかで締めくくられているのを見て、釈然としない思いを感じた。生前の母が不幸だったとは思わないが、文面どおりにいつも楽しく幸せな毎日だったとも思えない。しかし母は嘘を書いたのではなく、おそらくは美辞麗句の表現でしか日常生活を語れなかったのだろう。

 小説を読む醍醐味のひとつは、登場人物の発言とそれに矛盾するような行動から内面を探っていく、いわばヒューマンウォッチングの体験である。心理学者でない私には現実の人間を安易に分析することはできないが、小説内の人物に関しては許される。そしてヒューマンウォッチングとしては、掴みどころのない人物に焦点を当てる方が良い。今から思えば、『「語り」は騙る』で扱った小説や短編は、こうした分析対象として興味深い登場人物であるために選んだのかもしれない。

 短編「至福」(キャサリン・マンスフィールド)のバーサと「青ひげの卵」(マーガレット・アトウッド)のサラはよく似ている。既婚者の二人は自分たちの夫を完全に理解しているような気になっている。こういう人は周囲にも結構いる。「人の心なんてわかる訳ないのに」と醒めた目で短編を読んでいくと、案の定、最後にどんでん返しが待っている。さて、裏切られた彼女たちは夫にどう対応するのだろう。バーサの今後はわからないが、たぶん現状維持で収まるのだろう。もともと夫婦関係がなかった彼女の場合、それでも結婚生活は続けられるはずだ。夫への依存度が高かったサラの場合は問題だ。現実を直視しようとする彼女の心の中の「赤く息づく卵」から、ひょっとすると夫に復讐する怖いサラが誕生するのかもしれない。

 『英国の友人』(アニタ・ブルックナー)のレイチェルは、本書で取り上げた中で最も掴みどころのない人物だ。彼女は書店経営をしているから一応の生活基盤はある。にもかかわらず、夜な夜な街中を歩きまわるという奇妙な行動をとるのは、どんな不満があってのことなのだろうか。大人は誰でも多かれ少なかれAC(アダルト・チルドレン)らしい。もともとアダルト・チルドレンとは、問題ある家庭で育ったことによる喪失体験から、成人してもなおトラウマを持っている人を指す。しかし大人になることイコール喪失体験だとすれば、誰もがアダルト・チルドレンだとも言えるわけだ。一方、ある種の特別な喪失感を抱くレイチェルは、それを語ることができないばかりか、自分自身に対しても「騙り」でしか語れない。ヘザーに対する執着心も偽って語り、最後にそれを暴かれる(見抜かれる)とパニックに陥る。レイチェルはその後、再び自分の殻に閉じこもり、「騙り」の生活を送りそうである。

 フランク・カーモードと同名の『終わりの感覚』(ジュリアン・バーンズ)は、理論書である前著をパロディ化したような軽い文体で書かれている。しかし内容は重い。40年後に自分の過ちを明かされるというトニーの体験は通常の人間にも起こり得るものであり、私自身、読後のショックは大きかった。若い頃、友人を非難して、酷いことを容赦なく手紙に書いたりしたとする。しかし年月が経つうちに、本人の記憶の中で手紙の内容の辛辣度は薄まり、ひょっとすると忘れてしまうかもしれない。他方、言われた相手は、たとえば『終わりの感覚』のエイドリアン、ヴェロニカ、そして彼女の母のように、人生が大きく変わってしまうこともありえるだろう。責められるべきはトニーであり、彼が「加害者」であることは間違いない。しかし自分が引き起こしたこととはいえ、退職後の静かな生活を送り、手紙に何を書いたのかも忘れてしまっている現在のトニーもまた、40年前のトニーの被害者だといえないだろうか。もちろん、過去の行為を忘れてしまったら許されるという訳ではないが、人生の終わり近くになり、「こんな酷いことをした人間」が自分だと認めなければならないとしたら、この先どうやって生きていったらよいのだろう。過去の行為が招いたその後の結末……何とも重いテーマである。

 小説上のヒューマンウォッチングをしてみると、問題を抱えた人たちがいかに多いことか。しかし「語りと騙り」の狭間にこそ現実があるとしたら、これこそが現実世界なのだろう。人は誰もが語り合いながら、騙り合い、現実とフィクションをうまく生きているのだと思う。

◉『「語り」は騙る──現代英語圏小説のフィクション