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第17回 出版後、講演依頼を受けて(その2)
──林順治(『古代 七つの金石文』)

「継体とその時代・隅田八幡鏡」

名古屋YWCA林順治講演会、2013・11・24、AM10:00~1300、主催・三河塾<日本のなかの朝鮮文化―東海フォーラム>

第14回 出版後、講演依頼を受けて(その1)より続きます】

次に継体天皇の出自と即位の問題について述べたいと思います。しかも継体天皇の出自と即位と晩年の死が学者・研究者の見解がてんでばらばらであることは冒頭に申上げました。

これらのバラバラの見解をいちいちその矛盾を明らかにすることは容易なことではありせん。もともと根拠のないものをあるかのように探しても見つからないはずです。石渡説を知るようになってからそのことがよくわかりました。

しかしこれら先学の研究や知識がすでに役に立たないというのではありません。取捨選択して取り入れ、よりいっそう有効に用いることができるようになったのです。

 

そこで石渡信一郎によって隅田八幡鏡銘文がほぼ完全に解読されたものとして、氏が隅田八幡鏡銘文をどのような史実として解読したのか述べようと思います。

石渡信一郎は隅田八幡鏡の「癸未年日十大王時」の「癸未年」を503年とし、「日十大王」を『宋書』「倭国伝」に記録されている倭の五王「讃・珍・済・興・武」の倭王済に461年に婿入りした百済蓋鹵王の弟昆支(余昆)=倭王武としました。

当時、倭王済(「記紀」に尾張連草加)は大和川と石川の合流地点(誉田陵=応神陵を中心とする古市古墳群の東端)を本拠としていました。その後、倭王武=昆支は倭王興(倭王済の子、武の義兄)の後を継ぎ倭国王となりました。そして宋の昇明2年(478)5月、宋の皇帝順帝に高句麗戦に備えて援助を要請する「上表文」を送ります。479年倭王武(昆支)は斉の武帝から鎮東大将軍に勧められ、491年昆支(倭王武)は東加羅大王=「日十大王」として百済系ヤマト王朝を立てました。

この「東加羅」は崇神を始祖王とする垂仁・倭の五王「讃・珍・済・興・武」の崇神王朝(三輪王朝)の「南加羅」に対応する王朝名で「ソカ」とも「アスカ(ラ)」とも呼ばれます。「蘇我氏」の「ソカ」も、「日本」という国名も「日十」=「日下(日のもと)」(東の意味)が好字に変化したものです。古代朝鮮語では「東」は「ソ」と読まれているからです。

506年に亡くなった倭王武=昆支が誉田(ほむた)陵(伝応神陵)に葬られたときには、すでに今の橿原神宮の南一帯の地に都が定められていました。ちなみに「誉田陵」の「誉田(ホムタ)」は昆支の「コムキ」が転訛した地名です。つまり「誉田陵」は「昆支の御陵」という意味です。

したがって百済武寧王が鏡(隅田八幡鏡)を男弟王(継体)に送った癸未年(503年)ときには、男弟王(継体)は次期皇位継承者(皇太子、左賢王)として意柴沙加宮(忍坂宮、現在の奈良県桜井市)に住んでいたのです。

 

百済武寧王が「男弟王」に長寿を願って鏡を贈ったのは、叔父の「男弟王」が父昆支の後を継いで大王になることを知っていたからであり、加羅の領有権ならびに新羅との緊張関係に対して、「男弟王」が武寧王にとってももっとも信頼できる保護者であり、叔父(父昆支の弟)であったからす。『日本書紀』継体紀に領有権に関する記事がとても多いのは継体と武寧王が叔父と甥の関係にあったからです。

以上は金石文隅田八幡鏡から検証された史実ですが、『日本書紀』によると継体(男大迹王)は応神天皇の五世孫とされ、父彦主人王(ひこうしおう)の本拠地(現滋賀県高島町)で生まれ、父が亡くなったのちは母振姫の郷里越前三国で育てられたことになっています。

武烈天皇が506年亡くなったので、大伴金村らの要請によって越前から迎えられた男大迹王は58歳の時樟葉宮(現・枚方市)で即位し、筒城宮(京都綴喜郡)→弟国宮(現向日市=むこうし)に移り、即位後20年目(継体天皇20年、526年)に初めて磐余玉穂(いわれのたまほ)宮(現・桜井市の中西部から橿原市東部)に遷都します

継体はようやく兄昆支(=応神)の宮明(あきらのみや)(橿原市大軽付近、見瀬丸山古墳古墳の近く)に宮殿を造ったのです。そのときの継体の年齢は78歳になります。しかも『日本書紀』は弟国から磐余に遷都する間の20年間については「17年武寧王が亡くなった」「18年百済太子明(聖明王)が即位した」というたった2行の記事で済ませています。

これら一連の継体天皇が即位するまでの『日本書紀』の一連の腑に落ちない記事のなかで史実に近いのは継体が即位晩年に橿原大軽の近く宮殿を造ったことぐらいです。『古事記』は継体が527年(継体21年)40歳で亡くなったとしています。

であれば桜井の玉穂宮に遷都した翌年に亡くなったことになります。しかし『日本書紀』によると継体は82歳で亡くなっています。この不一致は『日本書紀』と『古事記』の単なるが違いとみてよいのでしょうか。「記紀」編纂者が何か重大な事柄、つまり継体(男大迹)について知られては都合の悪いことを隠しているのではないかということです。

 

そして『日本書紀』継体紀でもっとも不可解な記事は継体天皇二五年(辛亥年、五三一年の次の記事です。

 

二五年天皇は磐余玉穂宮で亡くなった。年齢は八二歳である。〔ある本によると、二八年甲寅の年(534)に亡くなったという。しかし、百済本紀によると辛亥年531年に亡くなったとあるので本書はそれによる。百済本紀に「辛亥の年の3月、日本の天皇と太子・皇子はともに亡くなった」という。これによると辛亥年は二五年(531)にあたる。後に勘合する者が明らかにするだろう。

 

この辛亥年=531年は稲荷山鉄剣銘文のオワケの臣「辛亥年の七月中記す。……ワカタケル大王斯鬼宮(しきのみや)にあるとき、我天下を左治する」の「辛亥年」に関係することになるので、事はもっと重大な古代史論争になるので時間の制限もありますので、石渡氏の本か私の本を読んでいただければわかるはずです。

ここで一言申し上げおきたいことは、現在中高で使われている検定済日本史教科書は稲荷山鉄剣銘文の「辛亥年」を「471年」とし、ワカタケル大王を雄略天皇としています。しかし石渡説は「辛亥年=531年」「ワカタケル大王=欽明天皇(天国押排開広庭天皇)です。

 

最後に継体天皇の出自について現在私知りうることを皆さんにお話して終りにしたいと思います。

 

 

『宋書』倭国伝大明二年(458)条によると、前年、鎮東大将軍に就いた百済蓋鹵王(余慶)は、宋朝に「行冠軍右賢王余紀等11人」の叙正を求め、認可されています。認可された将軍の序列を上から列記すると征慮将軍(左賢王余昆)・冠軍将軍(余紀)・輔国将軍(余都)です。

輔国将軍の余都は余昆(昆支)・余紀の叔父百済王二二代文周王です。文周王は蓋鹵王が高句麗より475年の侵略によって殺害された後に即位した百済王二二代目の王です。文周王は漢城(現・ソウル)が陥落したので熊津(ゆうしん)(現・忠誠道公州市)に遷都します。文周王は『三国史記』では蓋鹵王の子になっていますが、これは虚構であり、じつは昆支の母方の伯父であることが明らかになっています。

さて、百済史の研究において大きな業績をあげている坂本義種は「百済においても左賢王が大王に次ぐ地位ですが、今回の叙正願は行冠軍右賢王余紀等11人とあるので、右賢王余紀が高位にあるかのように思えるが、左賢王の地位が上である」と指摘しています。しかし中国史に詳しい東アジア史詳しい歴史学者の鈴木靖民は「余紀」が特に叙正を乞う上表の筆頭に挙げられている理由はわからないとしています。

余昆(昆支)と余紀も姓が「余」であることから、二人は高句麗同様、扶余族を出自とする百済王族の兄弟です。『三国史記』は后妃の名や序列は何も記録していないので推測になりますが、ヒ有王(余ヒ)には蓋鹵王を長子として余紀を末子とする腹違いの子が多くいたと考えられます。余紀を生んだ母が余昆(昆支)を生んだ母より序列が上だったかもしれません。むしろ百済系王朝を出自とする日本の天皇と后妃の関係を見ればむしろ歴然としているといってもよいくらいです。

石渡氏の研究では昆支は440年の生れですから征慮将軍任官の時の年齢は18歳です。先述したように石渡氏は隅田八幡鏡銘文から「日十大王」と「男弟王」(継体天皇)は兄弟と見ていますが、継体=「男弟王」が昆支の弟の誰であるか文献学的には具体的には特定していません。

おそらく氏は隅田八幡鏡銘文を自明とするあまり検証することを失念していたかもしれません。あるいは氏の学問的姿勢から余紀が『宋書』倭国伝大明二年条に一度しか登場していないことと、『三国史記』をふくめてその他中国の史料にもその名が見えないことから論証不可能とみてそのまま保留状態にしていたのかもしれません。

四世紀から六世紀にかけて、倭国西部から朝鮮半島を席捲した巨大氏族紀氏なる集団が『日本書紀』にたびたび登場しますが、巨大氏族紀氏の謎は継体天皇における前半生の不可解さに共通するものがあります。継体系王統下の「記紀」編纂者は、徹底して昆支こと応神が百済で生まれたことを隠そうとした以上に、自らの始祖王継体が昆支と兄弟であることを隠そうとしたにちがいありません。「継体紀」の一連の腑に落ちない記事がそのことを物語っています。

 

このことは秦氏についてもいえます。秦氏は『日本書紀』の「応神紀」「雄略紀」に登場する謎の氏族です。来月出版予定の『法隆寺の正体』に書きましたが、応神天皇一四年条に百済から120県人を率いて帰化したと記されている弓月が秦氏の祖であると記されています。『新選姓氏録』で秦の始皇帝の末裔とされていますが、秦氏は東漢(やまとのあや)と同族で百済を出自とするのが正解です。

応神天皇が昆支(倭王武)の分身であり、また雄略天皇が昆支晩年の子欽明の分身であるとすれば、秦氏の記事が「応神紀」「雄略紀」に類似する記事が多く載っているのは当然といえます。

『日本書紀』における秦氏についての著名な記事は、天国排開広庭天皇=欽明の冒頭の秦大津父(はだのおおつち)です。欽明が皇太子のころ夢でみた2匹を狼が噛み合うのを止めさせた人物として秦大津父を以後寵愛するという話です。秦氏についてごく簡単にのべましたが、この秦氏も継体の出自に深く関係していると私は見ています。

したがって、458年百済が宋に出した叙正願いのメンバーの中の右賢王余紀が「男弟王」(継体)の可能性が高いという私の独自の想定のもとに、以下お話をすすめます。

すでに『隅田八幡鏡』の「はじめに」に発表した説です。現段階では私の知る限りでは古代史関係の研究者からは何の反応もありませんが、こうして皆さんの前でこの説をお話できる機会を得たことに深く感謝しています。

もし、これが本当のことであれば継体天皇の出自と曖昧に放置されている隅田八幡鏡の存在がその「意味と価値」において東アジア全体の宝として不朽の位置を占めることができるからです。

さて、『日本書紀』によると継体天皇は五三一年、八二歳で亡くなっているので、余紀=継体とすれば余紀は四五○年前後の生れということになります。すると冠軍将軍の余紀の年齢は八歳前後です。余紀が兄の昆支より年が若く、位の低い官軍将軍であるにもかかわらず、蓋鹵王の上表のトップに名を連ねているのは、百済蓋鹵王の正統なる後継者に予定されていたか、あるいは兄昆支が三年後(461)に倭国に婿入りすることが決まっていたからかもしれません。

何故なら昆支が倭国王済のもとに婿入りするとすれば、百済王の王位継承権の最右翼は扶余族直系の余紀であるからです。余紀が渡来せず、高句麗侵略のときに戦死せず生きていたとしたら、文周王より後継者として早く百済王として即位していたはずです。

百済国内の激変により、昆支(余昆)が渡来するとき弟余紀は兄昆支と共に渡来したか、あるいは少し遅れて渡来した可能性が大です。余紀が王位継承者の第一候補であれば、余紀の渡来はもっと遅れて蓋鹵王が高句麗の侵略で殺害された四七五年前後の可能性もあります。その時の余紀の年齢は25歳です。

しかし済(尾張連草香)の娘目子媛の婿となった余紀は、465年勾大兄(安閑)と466年に檜隈高田(宣化)をもうけているので、余紀の渡来は465年以前と考えなければなりません。

ちなみに兄昆支(応神)は済の娘目子媛の姉仲姫(なかつひめ)と結婚していす。余紀(継体)が結婚した相手の目子媛と昆支(応神)が結婚した相手の仲姫とは時代が全然ちがうのではとお思いになるでしょうが、『日本書紀』が男大迹王を応神の五世孫とした訳もこの作為のなかにあり、そもそも応神は昆支=倭王武の分身ですから干支四運(60年×4=240年)ほど遡らせて神功皇后の子とされているのです。

 

事実、『日本書紀』によれば応神は仲姫の間に仁徳を生んでいます。しかし先述しましたように仁徳から武烈までの10人の天皇は倭の五王と崇神・垂仁の代わりに造られた架空の天皇です。

現在では大山古墳(伝仁徳陵)と誉田陵(伝仁徳陵)の実年代は520年前後の築造であり、仁徳陵と応神陵の差は10年前後で仁徳陵は応神陵の築造規格を模倣しているとされています。しかも仁徳陵と応神陵の間は東西同一線上にありその距離は15キロメートルも離れていません。昆支(応神)と継体が兄弟であることを如実に物語っています。

 

余紀(継体)の倭国渡来とその後に話をもどします。余紀が兄昆支とともに461年に渡来したとすれば、石渡信一郎の著作『倭の五王の秘密』によれば倭王済は461年に亡くなり、その子の倭王興は477年に亡くなっているので、昆支は倭王武として478年に即位したと考えられます。

余紀(男弟王)はその時に左賢王(皇太子、次期皇位継承者)の地位に就いたと想定できます。余紀こと継体が28歳のときです。昆支こと倭王武が先述したように491年百済系ヤマト王朝を立てたときは余紀こと継体の年齢は41歳です。まだ左賢王=皇太子として兄倭王武=昆支の補佐役として行政面に専念していたにちがいありません。

『日本書紀』継体紀元年(507)正月条に注目すべき記事があります。大伴金村大連・物部麁火(あらかい)大連・許勢男人大臣の三人が男大迹(気継体)を即位させようとして節旗(みはた)をもって三国(福井県坂井郡)間で迎えに行く場面です。『日本書紀』は次のように書いています。

 

 

内心疑いのあった男大迹は皇位に就こうとしない。たまたま男大迹を知っていた河内馬飼首荒籠(こうちのうまかいのおびとあらご)が使者を送ってひそかに大臣・大連たちの本意をくわしく説明した。まるまる二日三夜経って男大迹は即位することを決意した。

天皇(継体)は嘆息して「よかった。馬飼首よ、お前がもし使者を送って知らせなかったら、危うく天下の笑い者になるところであった。世の人が『貴賤を論じるな、ただその心だけを論じよ』と言うのは荒籠(あらご)のような者をいうのだろう」と言った。そして即位するにあたり荒籠を寵遇した。その年の正月二四日、天皇は樟葉宮に到着した。

 

継体が即位した樟葉宮は淀川に臨む交通上の要衝地です。おそらく淀川沿岸部は馬飼部

の本拠地であったにちがいありません。『日本書紀』は継体の父が近江国の高島郡(滋賀県湖西地方)を本拠としているばかりか、継体の妃稚子(わかこ)媛や広媛の父は近江国の高島郡を本拠にしたとし、大伴金村大連・物部麁火(あらかい)大連・許勢男人大臣を三国まで迎えに行ったよう書いています。

しかし河内馬飼部の本拠が淀川の樟葉あたりです。『日本書紀』の編纂者は、河内馬飼部と男大迹の本当の関係がわかれば、継体=男大迹の河内湖の開拓王として過ごした即位前の前半生が明らかになるので、継体の居場所を近江が三国に変えたのでしょう。近江・三国は継体が左賢王(皇太子)時代に支配下においた近江地方の加羅系豪族か河内首の同族と考えられます。

「継体紀」にえんえんと記録されている任那分割における百済・新羅・高句麗・倭国との4国の紛争は、加羅系渡来集団によって建国された日本古代国家の建国事業が、母国を去った二人の王子兄昆支こと余昆と弟余紀の百済系王統に引き継がれたことを物語っています。

余紀=継体は、兄昆支が倭王武として即位した478年に左賢王となり、507年に即位するまでの29年間は倭王武=昆支をサポートします。この29年間の余紀=継体の事績を完全に隠しています。余紀=継体の開拓の事業を仁徳天皇の事績に反映しています。『日本書紀』編纂者は応神を昆支の分身としように、仁徳を継体の分身としたのです。

言い忘れましたが、石渡氏説の古代史を理解する上でもっとも重要な命題は「新旧二つの加羅系と百済系の二つの集団による日本古代国家の建設」のことです。

旧加羅系(崇神天皇を始祖王とする集団)と新の百済系(応神=昆支を始祖王とする集団)はそれぞれ母国(朝鮮)、分かりやすくいえば本国に実家・本家・故郷を、それぞれもっていたということです。言ってみれば分家が倭国日本にあったのですが、分家が栄え、国にしての本家はあとかともなく分散して消滅したと考えたほうがよいかもしれません。   本居宣長のいう「ものの哀れ」は、いわゆる日本人が古来独自なものではなく、故郷を喪失した天皇家(加羅系も含め百済系)固有のものと考えたほうがよいのかもしれません。

紫式部の『源氏物語』も国文学の世界だけでなく史実からも再検討をする必要があります。なぜなら紫式部のスポンサーであった藤原道長は河内淀川周辺の馬の生産にかかわった源氏三代(頼信・頼義・義家)と荘園の管理を通して関係があったからです。

 

そろそろ制限時間いっぱいなりそうなので、ここら辺で私の話は終りにしたいと思います。「日本なかの朝鮮文化――東海フォーラム」の皆様のご依頼による講演でしたが、私はこうして皆さんに向かってお話ができたことをとても幸いだと感謝いたしております。皆さんの目標とする「文化」が東海地方のみならず、日本そして東アジアの文化へ、さらに世界に恥じない文化に発展することを願って、私の拙い講演を終わりにいたします。ご清聴ありがとうございます。

2013年11月24(日)  林順治

 

◉『古代七つの金石文 日本古代成立の正体を知る