ほんのヒトコト

最新の記事5件

このコーナー内を検索

月別一覧

第15回 長崎の被爆者から見た3・11後―83歳の思うこと
──狩野美智子

「長崎の被爆者から見た3・11後―83歳の思うこと」という本を彩流社で出していただいた。
これは、2012年元旦から2013年6月までのブログを集めたものである。1年半で、150回になった。しかし、読者はとても少ない。ほんとに少ない。9人か10人。もう少し多くの方に読んでいただきたい。それで、紙の本にしていただいた。
ブログを書き始めた動機は、2011年3月11日の東日本大地震、大津波、そして何より福島原発事故である。原子力発電所というものが、どんなに危険なものかということは、おおよそのことは知っていた。しかし、切実ではなく、ぼんやりやり過ごしてしまっていた。まして、こういう危険なものが、狭い地震国日本に54基もあることにさえ無知だった。わたしは長崎の被爆者で、核に関してもっと真剣であるべきだった。何が起こったのか知らなければならない。福島に、被爆者が生まれている。もう住むことのできない土地がある。原発に関する政府の政策、電力会社の対応、核にたよらない発電の方法はあるのか? 知らなければ、なにか言わなければ、と思っても、足悪、ヨロヨロの老人、せめて家でできるブログを始めよう! そして始めた。始めたけれど、読者がいない!
と、こういうわけです。
「はじめに」の次に、まず書いたのは「100,000年後の安全」というフィンランドの原発による高濃度核廃棄物の処分場「オンカロ」を、デンマークのマイケル・マドセン監督が撮った映画のこと。フィンランドの、たった4基の原発の廃棄物に、これほどの施設が必要なのだ。何しろ原発は使い終わったカスでさえ、10万年も人体に有害な放射線を出し続ける。
憲法があぶない! 昭和4年に生まれて、戦争の中で15歳まで育ったわたしは、敗戦とともにおとずれた戦後民主主義が、まぶしいほど嬉しく、尊いものだった。それを保障する憲法が危機に瀕している。
戦中の生活が、どのようなものだったか、空襲のこと、特に東京大空襲、子どもたちの疎開のこと、空襲の危険が日本中にせまるなかで、東京から長崎に、3日かけて15歳の子が、1食分の蒸しパンだけもって長崎に一人で帰ったこと。そこで原爆に遭ったこと、などなど、いろいろ書いた。知っていることだけ書いた。知らないことは書かなかった。
ときには、いま、なにを楽しみにしているかなども書いた。村上春樹が好きだとか。
自分が「ノーテンキ」で、「寝坊すけ」なことも隠さず書いた。

本ができて、友人、知人、同人誌「地軸」の同人、昔働いていた学校の同僚、卒業生の年賀状でつながっている人に送った。とにかく、読んでいただきたかった。
いろいろ反応があった。
まず、みんな、ほんとうにみんな、反原発の意思に共感し、「腑に落ちることばかり」と書いてくださった。
熊本の学校での同級生からは、「ほんとうに83歳になって、わたしたちは、戦前と戦中と戦後と、そして今を生きてきて、ある意味では幸せだったと思い始めています、」と書いてきたが、本当にそうだと思いつつ、初めてこの友人の家に行った時のことを思い出した。
昭和22年の秋だった。部屋に何もなかった。ほんとうにからっぽだった。彼女は引揚者だったのだ。無一文で、身一つで帰国してきたのだ。一人一人それぞれの苦労があり、それを乗り越えてきたいま、築いてきた自由も、安心も、生活も、いま、取り上げられようとしている。
幼いときに疎開したという人は、「戦後の希望に満ちた新憲法下で、人生観を培ってきましたので、今回の震災と原発事故は、初めて根底から国家というものへの感覚としての不信感を植えつけられ」た。彼女は、わたしと同じように、原発事故のあと太陽光発電のパネルを取り付けた。
嵐歩さんという「ドドイツ」の作家さんから、

美智子ブログに
重なる思い
のどをくすぐる
ウイスキー

という新作ドドイツをいただいた。(ドドイツというのは、7,7,7,5の口語調定型詩)
それにしても、今のところ、若い人に届けることはほとんどできないでいる。若い人の反応もほとんどない。そのことが残念だ。

978_4_7791_1953_8.jpg ◉『長崎の被爆者から見た3・11後 83歳の思うこと