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第14回 出版後、講演依頼を受けて(その1)
──林順治(『古代 七つの金石文』)

 

「継体とその時代・隅田八幡鏡」

名古屋YWCA林順治講演会、2013・11・24、AM10:00~1300、主催・三河塾<日本のなかの朝鮮文化―東海フォーラム>

会場の皆様、お早うございます。只今、権寧準(こんねいじゅん)先生から御紹介に預かりました林順治と申します。このたび私のような者の話のためにお集まりいただきましてありがとうございます。

と言いますのも、私は昭和15年〔1940、干支は庚辰(こうしん・かのえたつ)〕の生れですから、今年の7月で73歳になります。ちなみに応神天皇が生れた西暦200年も庚辰にあたります。1940年は神武天皇即位紀元前660年(辛酉の年)から2600年にあたるとされ「皇期2600年祭」が盛大に行われたそうです。昭和10年ごろから橿原神宮の整備をかねて発掘調査をしたところ、遺跡らしいものは何も見つからず人骨が数体見つかったとのことです。

昭和15年生まれの方でどなたでも知っている人をあげると野球の王貞治さんや張本勲さんです。また相撲界の今年1月に亡くなられた大鵬幸喜さんです。この人たちは前人未到の大変な成績をあげた人ですが、私は物を書き始めて本出版したのは2001年ですからまだ12年もたっていません。物書きとしてもほとんど知られていません。この様な者と言ったのはその意味で自分を卑下しているのではなく、私を評価していだだいて講演会を開いて下さったことにとても感謝しているからです。

しかし、講演はあまりしたことがありませんので少し興奮しています。また恥ずかしいことですが、私自身耳の聞こえが相当悪いのです。声が大きいのはそのためです。また私が今も夢中になっている古代史のテーマがあまりにもわかってくれる人が少ないので、声が大きくなったのだと私は思ったりしています。

本題に入る前にお断りしておきたいのですが、話が横道にそれて元に戻れなくなって立ち往生するのも失礼ですので、椅子に座らせていただき、朗読のようなかたちでお話をすすめさせていただきたいと思います。途中、説明を要する箇所は本の割注・分注のような形で挿入しますが、聞きにくい点もあるかもしれませんが、中身が理解できると言うことでご容赦ねがいます。

さて、このたびの与えられましたテーマ「継体天皇の時代・隅田八幡鏡」は日本古代史の最大の秘密(トラウマ=傷、虚構)を解く素晴らしいテーマですが、とても難しいテーマでもあります。何故かと申しますと、日本国家の起源=天皇の起源(万世一系天皇の歴史)になるからです。ということは日本の歴史を学ぼうとしたら天皇の歴史を学ぶことになるからです。このことは現代日本の象徴天皇制にかかわる現実的な問題に直面します。つまり「日本の歴史とは?」という問いは、「天皇の出自とは?」という問いに直結します。それは今日おかれている私たちの生きている現在の世界にも通じる話にもなるからです。そのことを念頭において私は皆さんにお話をしたいと思います。

御存知のように、隅田八幡鏡銘文は錚々(そうそう)たる学者・研究者による約一○○年の論争を経て未解決とされています。また継体天皇の出自と即位についても「てんでんばらばら」でどの本を読んでも出口のわからない迷路に迷いこんでしまいます。なぜこのように長い、無駄な時間がかかったのかについては、おおよその理由は検討はつきますが、ここでは直接は申しあげません。これから私の述べることからご理解していただけるものと思います。

少々長い話になりますので、結論をまず皆様にお伝えしておきます。現在日本に群集墳などを含めると約15万前後の古墳があると言われています。その中で最大の古墳は堺市の仁徳陵と堺市に接する大阪羽曳野市の応神陵です。仁徳陵は大山(だいせん)陵、応神陵は誉田(ホムタ・コンダ)陵とも呼ばれます。

その大きさは仁徳陵が486メートル、応神陵が425メートルあります。その二つの古墳の一つ堺市の仁徳陵には百済蓋鹵王の弟余紀(余昆)、もう一つの古墳応神陵には余紀の兄昆支(余昆)が埋葬されてというとてもビックリするような話です。

もっとビックリするのはいま目の前にあるいつでもその気なれば見ることのできる日本最大の古墳の被葬者はだれか、まだわかっていないことです。私がここで申し上げたいことは、まずビックリしなければ真実の発見はないということです。

さて、隅田八幡鏡論争で正解に近い論文(癸未年=503年)を書いた数少ない研究者の一人で明治28年(1905)に生まれ、昭和51年(1976)に亡くなった薮田嘉一郎という人がいます。この人は在野の研究者というより、京都大学史学科を中退して編集者となり、京都で美術史関係の編集にたずさわり、私の記憶に間違いなければこの名古屋の地で総芸舎という出版社を創立しています。

金石文に関する学術的な本を自分で書いて自分の出版社から出しています。いわば大和書房の創業者で現在も執筆活動をしている大和岩雄(おおわいわお)さんのような古代史のエクスパートです。松本清張も薮田嘉一郎の書いたものを信頼し、二人の付き合いは薮田嘉一郎が亡くなるまで続いたそうです。

私が薮田嘉一郎に注目したのは、次に述べるようなことからです。薮田嘉一郎は総芸舎から『紀伊の古墳(1)』という本を出しました。この本は『隅田八幡鏡』にも書きましたが、『国宝人物画像鏡の出土地「妻之古墳」の研究』(約20頁の手書きの冊子、昭和29年発行)を書いた生地亀三郎と当時国学院大学の助手クラスの人だと思いますが金谷克己(かなやかつみ)いう人との共著であることです。

生地亀三郎の『妻の古墳』は簡単に言いますと、隅田八幡神社に保存されていて、いまは国宝として上野国立博物館にある隅田八幡鏡は、実は天保五年(1834年、将軍徳川家斉の時代)に紀ノ川沿いの妻の小山とも呼ばれる瓦採掘現場から出土したもので、後日、隅田八幡神社に献納されたという話を当時教育委員の生地亀三郎が地元の人々から聞き取りをしてまとめたものです。

実は生地亀三郎と金谷克己共著の『紀伊の古墳(1)』は、現在、愛知大学の豊橋校図書館と上野国立博物館付属資料書館にしかないことです。なぜ、2冊しかないのか謎です。編集者の経験からすれば、何かのトラブルで絶版になったのでないかと考えられます。

総芸舎代表の薮田嘉一郎がその事情を一番よく知っているはずです。

しかし今は確かめようがありません。数年前、愛知大学図書館を尋ねてその書誌的背景を調べる約束を司書の方としていましたが、私の方の都合でとりやめになりそのままになっています。

実は、先日、その本があるのは愛知大学なのか愛知教育大学だったのか思いだせませんでしたので念のため愛知大学の名古屋校舎の図書館に電話を入れてみましたところ確かに豊橋の図書館にあることが確認できました。しかし現在、『紀伊の古墳 ①』は、愛知大学と上野国立博物館のほかに12件所蔵されている所が見つかっているとのことでした。

このように何年か経ちますと、物忘れや記憶違いがありますので、今回の講演のこともあり、隅田八幡鏡の解説も少しは改善されたのかと思い、数年ぶりに上野国立博物館の考古展示室に行ってみました。しかし変わっていたのは展示場所と元の説明に数行付け足したぐらいでした。参考のために書き写してきました。

そのためメガネをはずしたり、とったりしながらガラス越しにメモしていると若い女性の監視員が「ガラスに触れないで下さい」と飛んできました。一つぐらい文句でも言ってやろうと思いましたが、昨今、年寄りのクレーマーやストーカーが増えたという新聞・週刊誌の記事が多いので黙ってやりすごしました。

さて、国立博物館考古展示室の隅田八幡鏡の説明とは次のようなものです。

 

江戸時代天保年間の『紀伊国名所図会』で知られていたが、銘文の解説は大正3(1914)年の当館講演会で公表された釈文が初めてです。中国製の神人歌舞画像鏡をモデルにした倭鏡で内外文様が逆転し、紀年や固有名詞と銘文にも逆字が認められます。

中国製の画像鏡をまねた国産鏡です。各区に「大王年」などの文字を含む48文字の銘文があります。「乎弟王」や「意紫沙加宮」といった大王や宮の名と思われる文字により、古くから『記紀』との関連について議論があり、製作年代もさまざまな説があります。

 

「大正3年(1914)の当館講演会」というのは、考古学者の高橋健自が「在銘最古日本鏡」と題してこの年の9月に講演したことを指しています。しかしこのような説明では何もわかりません。約一○○年間の論争の中身も意味もこの鏡がなぜ国宝として価値があるのかも説明されていません。

また昨年、私は隅田八幡鏡が模倣したという各地の古墳から出土した12枚のうち3枚が所蔵されている青山の根津美術館に行きましたが、何故か展示はされていませんでした。『八幡神の正体』や『古代七つの金石文』にも書きました「船氏王後墓誌」(国宝)も所蔵されているはずの東京日本橋の三井紀念美術館で見ることはできませんでした。

そもそも私は古代史研究とはあまり関係のない在野の人間です。今年亡くなりました考古学者森浩一などは毎日仁徳陵を見ながら学校に通ったそうですし、多くの考古学者はもちろん、歴史学者は大阪や奈良の出身者です。

むしろ私は文学や哲学に興味がありました。それも本格的に読書を始めたのは大学受験のため東京に出て浪人生活をしていたころです。その私がなぜ古代史に飽くなき興味をもつようになったのかをお話したほうが隅田八幡鏡の意味と価値が皆さまに理解していただけるように思えるのです。

それに研究者や学者の方はおそらくこの会場にはお見えになっていないと思います。だから話す中身を変えると言うのではありません。私の固有の体験から得た事柄を皆さんにお伝えしたいと思っています。

私の著作物をご覧になった方は本の奥付の著者略歴からすでにご承知でしょうが、私は早稲田大学露文科を中退したのち一時毛沢東語録で知られ、今は無くなりましたが宮川書房という出版社で二年ほど本の電話セールスや大型本の企画編集などしてから、五味川純平の「人間の条件」で約1000万部のベストセラーで有名になった三一書房に1972に途中入社しました。

戦後間もなく京都に生まれた三一書房は、天皇制と在日朝鮮人問題と部落問題を三本柱とした出版社です。私は4年の営業を経て創業者の一人竹村一に請われて編集部に移りました。ですから営業部のときは私の担当地域は東海地方で名古屋・伊勢方面の書店は1年に2度ほど定期的に回りました。

竹村さんから私に渡された最初の原稿は朴慶殖(ぱくきょんしく)さんの『在日朝鮮人運動史』でした。当時、朴さんは調布に住んでいました。すっかり仲良しになり、朴さんの家にとまったり、朴さんに連れられて池袋や新宿のお店によく飲みにいったりしました。

1981年には『在日朝鮮人 私の青春』の出版パーティを開き、たくさんの在日の知人・友人が集まりました。その後、朴さんの編集担当は変わりましたが、朴さんは『在日朝鮮人関係資料集成』全5巻(1915~1945)を三一書房から出版しました。

私はまた、そのころ双葉社から出版されてベスト・セラーになった千田夏光の『従軍慰安婦』を私の独自の企画で三一新書(上・下)の二分冊にして出したところ大きな反響を呼び三万部以上の増刷になりました。竹村さんに大いに喜んでもらったことを今でも忘れません。

そんな中、竹村さんに元農林省参事官であった竹内直一が立ち上げた「日本消費者連盟」(略称「日消連」)に訪ねるように言われ、そこで竹内さんから「日消連」で運動パンフを執筆している船瀬俊介さんを紹介されました。竹村さんと日消連代表の竹内さんとは京都一中の先輩・後輩の「つうつう」の関係でした。

三井鉱業所が近い炭鉱の町、田川市出身の船瀬さんは九州大学の理学部に入学しましたが、学生運動に嫌気がさして早稲田大文学部の社会学科に入りなおして、卒業後ストレートに日消連のスタッフに加わりました。現在、船瀬さんは医療・環境・その他の執筆・講演で大活躍をしています。

彼は今もそうですが、当時もまるで糸の切れた凧のようでした。捕まえるのが大変でした。私は朝の7頃には電話を入れてまだ眠っている彼をよく起こしました。船瀬さんは哲学・文学・政治とくに映画・娯楽に通じ、弁舌に優れかつ聞き上手でした。彼はのち私の石渡説の聞き役になり、「私は石渡信一郎の孫弟子だ」と広言するようになりました。

私はその船瀬さんが日消連で執筆した『あぶない化粧品』を三一新書にしたのが1979年の6月です。この化粧品シリーズだけで約100万冊の売上げに達しました。船瀬さんの日消連への貢献はなみなみならぬものであったし、私の編集者としての社内の立場もすこぶる安定したものになりました。

そもそも創業者の竹村一は古代史にとても興味をもっていて、私が入社する3年前に原田大六の『邪馬台国論争』を出版し、次は『日本国家の起源』を原田大六さんに書かせるために博多に2度出張し、「大六は難(むずか)しいやっちゃな」といって編集会議でよく自慢していました。

竹村さんは、私が編集部に移籍したときには「京都大学人文科学研究所(略称京大人文研)のグループを紹介してやる」からといって、私を二泊三日で京都に連れて行ってくれました。

初日の夜は人文研のグループ15人ほど集まり会食をしました。いま、記憶に残っている方は飛鳥井雅道、富岡次郎の両氏ぐらいです。そのときの竹村さんの主要な仕事は『邪馬台国はなかった』(1972年)の著者古田武彦に執筆依頼をすることでした。古田さんは当時京都市郊外に住んでいたからです。

『邪馬台国はなかった』は1971年に朝日新聞社から出版され、翌年72年には梅原猛の『隠された十字架』が出版され、この両書とも破格のベストセラーになりました。そして高松塚古墳の壁画が発見されたのも72年ですが、あさま山荘事件が起きた年でもありました。

私が竹村さんに同行して京都に行ったのは1976年ですから、私が石渡信一郎氏に出会うまでの約12年の空白期間があることになります。というのは『応神陵の被葬者はだれか』の出版が1990年の2月ですから、石渡信一郎氏に出会ったのはその2年前の1988年の3月の末ごろです。石渡氏との出会いの場面は私の最初の著作『馬子の墓』の冒頭に書いてある通りです。

三一書房に入社して以来、約16年間は古代史についての私の知識は原田大六の『邪馬台国論争』をのぞくとゼロと言っても過言でありません。当時、日本の歴史ついての私の知識といえば、「後三年の役」と菅江真澄の郷土史ぐらいでした。

のち、私が育った深井という集落の2キロ雄物川上流左岸にある足田(たらだ)という横手盆地の最南端に位置する場所が、鎮守将軍大野東人が天平9年(737)多賀城から秋田城に至る道をつくるために攻略しようとした雄勝村であることを知りました。

その数年後に造られた雄勝柵はエミシの攻撃によって何回か奪還され、ついに760年藤原朝獦(藤原仲麻呂の4男)によって雄勝城が完成されたと『続日本紀』に書かれています。その朝獦が建立した多賀城碑こと壺碑(つぼのひ)については直近の著作『古代七つの金石文』でかなり詳しく書いています。

というのも私は東京で生まれましたが、4歳のとき父母の郷里秋田県横手市平鹿郡雄物川町深井(旧、平鹿郡福地村深井)に移住してそこで育ったからです。私は一二人兄弟の末っ子ですが、東京で生まれたのは私だけです。父母兄弟はみんな横手盆地の出羽丘陵沿いに北流する雄物川の辺(ほとり)の深井という村で生まれました。この深井に東京から一家移住したのは昭和一九年ですから東京空襲を避けるためと上の兄たち4人がそれぞれ、満州、ニューギニア、フィリピンに徴兵されたからです。(これらのことは『天皇象徴の日本と<私>』に書いています)

ところで菅江真澄は宝暦4年(1754、徳川家重の時代)に三河国渥美郡牟呂村公文町(現在の豊橋市牟呂公文町)に生まれたと言われていますが、亡くなった所は秋田県の角館とされています。しかし、現在では秋田県仙北市田沢湖梅沢とされています。菅江真澄については『菅江真澄全集(全12巻)』(内田武志、宮本常一、未来社)は区立・市立クラスの図書館でしたらご覧になれます。

菅江真澄は久保田藩主佐竹義和に出羽六郷の地誌の編纂を頼まれてから亡くなるまでその仕事を続けたのです。著書には『月の出羽路』『雪の出羽路』などがあり、菅江真澄については内田武志『菅江真澄の旅と日記』など何冊か優れた本があります。

「後三年の役」については『後三年合戦絵巻』(後白河法皇の命で1171年に完成)は県立図書館クラスで見ることができ、そもそもJR奥羽本線横手→飯詰→後三年駅の近くに金沢の柵があり、私の育った深井という集落が源義家の数万の軍勢に攻められたという清原家衡の沼の柵の近くにあるからです。

菅江真澄の書いたものに、「後三年の役」(1083年)の前に起きた源頼義と阿倍貞任の戦「前九年の役」(1062年)について書かれた『陸奥話記』の話がよく出ています。

郷土の人であるなら郷土史に興味を持つのが、ごく自然であるように私が後三年の役や前九年の役、そして菅江真澄に興味を持ったことはご理解意いただけるものと思います。

さて、石渡信一郎氏に出会ったのは1988年の3月の末ごろだったと話しましたが、石渡説の凄さと、何故その説は凄いのか、どうしてそのことが理解でくるようになたったのかお話したいと思います。

ある日、「大韓航空事件の研究の真相を究明する会」のオルガナイザーの一人でかつ私が担当する著者仲間のM氏から日航の整備技術者のS氏を紹介されました。S氏は都立潮高校における石渡信一郎の教え子でした。そのS氏から「私の知り合いの元教師で今はアイヌの研究のため札幌に住んでいる。何か難しい古代史の本を書いたが原稿をみてくれないか」と頼まれました。〔『大韓航空事件の研究』は1987年三一書房から出版されています〕

そこで三一書房に近い山の上ホテルのロビーで私と紹介者のM氏とS氏と石渡さんの4人で会合をもちました。その時石渡さんから預かった原稿と同じ内容のものを私たちが会った4ヵ月後の8月に、石渡さんは『日本古代王朝の成立と百済』という書名の私家版で出版しました。

そして私が山の上ホテルで「難しいのでもっとわかりやすく書いて欲しい」と頼んで完成したのが1990年2月発行の『応神陵の被葬者はだれか』です。企画の段階では『蘇我王朝の興亡』というタイトルでした。そしてその11年後の2001年6月に『応神陵の被葬者はだれか』の増補改訂として書名かえて出版したのが『百済から渡来した応神天皇』です。この三つの本の書名から、石渡説が何を語ろうとしているのか、この会場にお集まりの方はもちろん、古代史に興味のある方なら一目瞭然のはずです。

しかし一目瞭然と言っても、その本の中身の意味と価値がわからないと理解したとは言えません。私にとって石渡氏から預かった最初の原稿(『日本古代王朝の成立と百済』)は、言ってみれば私の無知のため体よくことわった原稿ですから、よくある「あとでじっくり」というようなイージーな気持ちで自宅の書棚に差し込んでいたのです。

普通でしたこのまま忘れてしまったでしょう。すると石渡さんは意味も価値もわからない編集者のために次の『応神陵の被葬者はだれか』は書く気が起こらなかったかもしれません。私はその点ラッキーだったと思います。

私は妻がクリスチャンだったこともあり、また編集者として知識と教養のためにも、当時発売されたプロテスタントとカソリック教会による活字の大きい新共同約の『聖書』を読んでいました。私はクリスチャンでありませんが、聖書を最初から最後まで2度読みました。哲学や文学や世界史の根源的なことを知ることができたからです。

私は会社のだれよりも早く出社して、午前中に著者との電話連絡や原稿の割り付け作業を済ませたのち、午後4時頃に帰宅すると真新しい聖書をもって夕日のさすヴェランダ近くの窓際で枕を背にして横になるのが常でした。「創世記」から始まる「モーセ五書」はモーセが神と契約した「十戒」とその違約によって民が罰せられる国家形成の苦難の物語です。

当時、私の最大の関心事は「故郷喪失の問題」と「神の概念」でした。いかなる偶像をも否定するユダヤの唯一神は山川草木(さんせんそうぼく)を崇拝する日本古来の神仏混淆とは対照的です。いったい日本の神とは何か。何が私をして山や川や草や木々を懐かしくさせるのか。私は聖書を読みながら日本の神のことを考えていました。

石渡氏と山の上ホテルで会って5ヵ月ほど経った8月の終り頃です。私はふと机の横の書棚に差し込んでいるA4判の白い束になった感熱紙に気が付きました。石渡氏から預かった件(くだん)の原稿です。私はその時、故郷の村々にある八幡神社とその神について何か書いているかもしれないと思い、はやる気持ちで原稿用紙をめくっていきした。すると原稿の第九章の終りのあたりに「昆支の神格化・八幡神」という文字列を見て、私の心臓の鼓動は頂点に達していました。いったい昆支とはいったい誰のことなのか。

そして今度は逆にページを遡ってめくっていくと『第六章 百済王族余昆(昆支)=応神天皇』とあります。事の重大性に気が付いてから3日後に、私のもとに白いカバーの表は藤の木古墳出土の鞍金具、裏に隅田八幡鏡が印刷されたA5判並製の本が送られてきました。

そして本と一緒に日本古代史解明の要旨が書かれた贈呈者への挨拶状が同封されていました。この挨拶状は『仁徳陵の被葬者はだれか』の「まえがき」に載せましたが、ここでもう一度紹介いたします。石渡説の根幹が凝縮されているからです。

 

私はこの度『日本古代王朝の成立と百済』を私家版でだすことになりました。本書の特徴は、①古墳時代に朝鮮半島から多数の渡来者があったとする人類学者の新しい学説と、②応神陵の年代を五世紀末から六世紀の初めとする地理学者日下雅義氏の学説に基づいて日本古代史の謎の解明を試みたことです。こうした試みはいまだになされたことはありません。人類学の成果によれば、日本古代国家を建設したのは、概念の不明確な騎馬民族でなく、朝鮮から渡来した古墳人だと考えるのが自然です。また、応神陵は五世紀~六世紀初めの倭国王の墓とみることができます。

私は学者が不当に無視している、これらの重要な成果や学説に依拠し、科学的・合理的な考察を重視して、古代史の謎に挑んできましたが、崇神王朝(三輪王朝)が加羅系統、応神王朝は(ヤマト王朝)が百済系統であることを解明できました。

また、継体天皇は、応神の弟で、隅田八幡鏡の男弟王(おほどおう)であり、この王が仁徳陵の被葬者であることも突きつめることができました。つまり「記紀」みえる応神と継体の間の一○人の天皇、すなわち、仁徳から武烈までの一○人の天皇はみな架空の天皇であることがわかりました。本書は「記紀」が隠した、このような古代大王家の秘密を明らかにしたものです。

 

私は『日本古代王朝の成立と百済』をもって、急遽、札幌在住の石渡氏を訪ねました。上野発朝七時の新幹線で盛岡まで行き、盛岡で函館行きの特急に乗り換え、函館でもう一度乗り換えて夕方の六時半に札幌駅に到着しました。その間、『日本古代王朝の成立と百済』を読み続けました。翌朝、石渡氏に私の泊まったホテルの部屋に来てもらいました。石渡さんはいまの私ぐらい耳の聞こえが悪かったからです。

札幌には二日泊まりましたが、私が東京に戻るときに札幌駅まで見送りにきた石渡さんは、私をはげますつもりであったのか「今度の本(『応神陵の被葬者だれか』)はきっと驚天動地の波紋を起こしますよ」と私に耳打ちするかのようにささやいたことを忘れることができません。

遠くゆったりと流れてゆく札幌郊外の風景とリズミカルな列車の振動が私の興奮を鎮めてくれました。「いったいあの日本最大の巨大古墳応神陵に百済の王子が埋葬されることなどありうることだろうか」「いったい何が起きるだろうか」と何度もつぶやきながら、有珠山(うすざん)から立ち上る噴煙が見えるころようやく眠りにつきました。

古代史一般の通説の解説本ならいざ知らず、一○○年近い論争を経て未だに解読されていない、しかも隅田八幡鏡の銘文解読に十分成功した可能性のある石渡説に、新聞、雑誌、テレビなど日本のマスコミはいかなる関心も反応も示さなかったのは不思議でなりませせん。そして今もそう思っています。

すでに皆様もご承知でしょうが、念のために石渡氏が1990年に出版した『応神陵の被葬者はだれか』に載せた隅田八幡鏡の銘文解読をここで紹介いたします。『仁徳陵の被葬者はだれか』や『古代七つの金石文』にも載せていますのでご参照ください。原文は四八文字ですが、ここでは石渡氏の解読文をお読みいたします。

 

◎癸未年八月日十大王年男弟王在意柴沙加宮時斯麻念長奉遣開中費直穢人今州利二人尊所白上同二百旱所此竟〔隅田八幡鏡銘文〕

◎癸未年(五○三)八月、日十(ソカ)大王(昆支)の年(世)、男弟 王(継体)が意柴沙加宮(忍坂宮)に在(いま)す時、斯麻(武寧王)は男弟王に長く奉仕したいと思い、開中(辟中)の費直(こおりちか)(郡将)と穢人今州利の二人の高官を遣わし、白い上質の銅二百旱を使って、この鏡を作らせた。〔石渡信一郎解読文〕

 

この銘文の最大の難問は冒頭の「日十大王」です。100年も経て誰も解けなかった「日十大王」を石渡信一郎はほぼ100%解いたのですから、奇跡的としか言いようがありません。ほとんどの研究者は「十日」の誤りと読んだり、「ジジュウ」と呼んだり、『記紀』に記された天皇の名を上げました。

「日十大王」こそ日本古代史のキーパースンであり、この銘文も「日十大王」の時・場所・環境・実在が特定できなければ解けるはずのものではなかったのです。したがって「記紀」に慣れ親しんだ研究者・学者にとって不可解な金石文であったのす。

ちなみにここに出てくる「癸未年」とか稲荷山鉄剣銘文の「辛亥年ワカタケル大王の時……」の「辛亥年」は干支(かんし)と言います。皆さんが普段もっている手帳の巻末にも載っています。「干支」とは十干「甲・乙・丙・丁・戊……」と十二支「子・丑・寅・卯・辰……」を組み合わせたものです。10と12の最小公倍数は60になるので、干支は60期(年)で1周することになります。干支一巡といいます。

還暦とは干支が1巡することを意味しています。そして10個の干を木・火・土・金・水の「五行」の「兄(え)」「弟(と)」に2個ずつ配置します。戦後育ちの私たちとっては、とてもややこしく、実際むずかしのですが、ネットなどを検索できる人は簡単にわかりますし、「干支紀年表」などは拙著『日本人の正体』『古代七つの金石文』など載せていますので、具体的に当たれば比較的簡単に理解できるようになります。古代史を理解するにはこの「干支紀年表」に慣れることです。

というのは『日本書紀』が頻繁(ひんぱん)に使う手ですが、架空の神功皇后を実在の卑弥呼に見せかけるために『日本書紀』神功52年(252年)に七枝刀を百済から贈られたと書かれていますが、これは372年に百済王から倭国王に送られた七支刀が干支二運(60年×2運=120年)遡らせて書かれているからです。

ところで『日本古代王朝の成立と百済』を手にしてから、私は1990年の『応神陵の被葬者はだれか』を始めに2001年の『蘇我大王家と飛鳥』の出版まで12冊の本を出し続けました。約1年に1冊の割合です。

その間、畿内・関東の古墳や群集墳はもとより、九州は菊池川中流の左岸の熊本県の江田船山古墳から北九州沿岸の古墳を一周して国東半島の赤塚古墳、そして国東半島の沖き合いの姫島、出雲・岡山・瀬戸内海沿岸の古墳、北は岩手県胆沢町(現奥州市)の角塚古墳や和賀川流域の江釣古墳群を訪れました。

古墳ばかりではありません。紀ノ川右岸の隅田八幡神社はもちろん宇佐八幡、石清水八幡、河内源氏三代頼信・頼義・義家の墓がある羽曳野の通法寺(今は廃寺)の境内の壷井八幡宮にも行きました。河内源氏三代は応神・継体が引き連れてきた百済住民の末裔であり、彼らこそ河内湖を埋め立て大阪平野の原型を造った開拓民の子孫だからです。私は石渡信一郎のマスターキーを借り受けて、日本古代史の驚くべき史実をやすやすとのぞきみることができるようになったのです。

以来、このマスターキーをほかの皆さんにもお伝えしたく、自分でも本を書くようになったのです。

 

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講演の様子

※以下、第2回連載に続きます。乞うご期待!!

2013年11月24(日)

林順治

◉『古代七つの金石文 日本古代成立の正体を知る