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第11回 トルコで起こっていたこと、起きていること
──野中恵子(『ビザンツ、オスマン、そしてトルコへ』)

◆「未来」のための「過去」

拙著『ビザンツ、オスマン、そしてトルコへ』が刊行されてから3年近くがたつ。この間、さまざまな反響をいただいたことへの感謝とともに、〔「トルコ」と呼ばれているこの国の素顔を剥き出そうと〕自力で斬り込んだ筆者の挑戦が、方向性として間違ってはいなかったのを自負できると申し述べたい。トルコ共和国時代は1923年から始まる。つまり、この国の「トルコ」の名前のもとでの歴史はまだ90年しかない。その前は宗教連合国家のオスマン帝国で、そのまた前はキリスト教国家のローマ(ビザンツ)帝国であり、2つの前身の時代は合計で2000年以上にもなる。トルコを理解するうえで肝心なのは、むしろこちらのほうだ。

「トルコ」とは本来、近代帝国主義の西欧に対抗するため、「西欧に向け」、中世国家を近代国家に変える宣言用に持ち出した「名前」にすぎなかったといっていい。要は神権政治と君主制の放棄という中身だったのだが、いざ新国家が船出すると、外身の名前ばかりが一人歩きした。当時なぜこの名前が選ばれたのか、そして残念ながら、なぜこの名前の「使い方」が20世紀の世界情勢に翻弄され、国の混乱と迷走につながったか。その理由を探ることが、拙著の最大のテーマである。トルコはクルド問題、宗教と世俗主義の確執など、さまざまな時事問題が話題になる国だ。だが、昨今の現象だけを見ていても(ましてや色眼鏡で見ていてはなおさら)、その理由を知ることはできない。過去を掘り起こす必要があるのだ。可能であるかぎり深い昔の層にまでさかのぼって。

だからこそ、建国100周年という大きな節目を前にして、21世紀の「トルコ人」も未来のために、過去との関係を検証している。自分たちが今後も、何をもってこのふるさとで「トルコ人」として暮らしつづけるのかを今、皆で正しく再認識しなければ、失われた20世紀の苦悩を清算できないまま、多くのことを失いつづけることになるかもしれない危機感を抱いているからだ。思想教育ですりこまれた古い価値観を今さら否定できない世代はさておき、若い世代の間では、この動きが水面下で驚くほど急速に進んでいるだろう。それが可能になったこと自体を、筆者はトルコ社会の民主化の大きなバロメーターだと見なしている。

今年起こったイスタンブールのデモ事件も、単なる反政府デモではなかった。背景には、建国当時に定められた国の方向性への逸脱に対する軌道修正の要求があった。以前はそれを、軍が度重なる政治介入で強行した。ようやく、自発的な市民運動がそれに取って代われたのだ。

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なおも緊張は解けていない、ゲジ公園事件から2か月後のタクシム広場(左)と、当局に行方不明者の捜索を求める市民デモ。 写真 ©Keiko Nonaka

 

◆本来の絆を求め始めたトルコ市民

トルコの人々が(「クルド人」に限ったことではないのだ)“我々は中央アジアの民族の子孫である”と言わされてきた時代は過ぎつつある。抑圧の時代を知らない世代が主体となり、民意のさらなる熟成とともに、今後彼らの意識は急速に変わるだろう。従来内外で「ビザンツ」「オスマン」「トルコ」がそれぞれ個別の存在のように語られてきたのは、三者をつなぐ関係性を意図的に直視しないためである。直視したならば、歴史的にずっと東方と対峙してきた西欧は、イスラム社会になっている今のトルコこそが、ローマ帝国の最後の子孫である事実を認めざるをえなくなる。トルコ自身も、自らが作り上げた中央アジアの祖先説を崩さざるをえなくなる。今トルコでは、この躊躇いが水面下で急速に、静かに乗り越えられつつある。鳴り物入りである必要もない。気がつけば自然に変わっているほうが理想的だ。

さまざまな文明の遺産を所蔵する各地の博物館は、急速に再整備が進んでいる。打ち棄てられていた教会やシナゴーグの修復が各地で進み、礼拝が再開された教会もある。どれもが内外から「他者」のものだとすりこまれてきたものばかりであるだけに、実現するのは経済発展だけでは難しかった。過去のいくつもの時代にまたがり、ふるさとの大地と祖先たち、消えたキリスト教徒やユダヤ教徒の同胞たちとの絆を回復するという、真摯な希求が備わってこそ叶うことだ。自分たちの国がなぜ何度も名前を変えてきたのか振り返ることで、何を教訓とすべきかを考えながら。

トルコの民族問題に踏み込むと、やり方によっては面倒なことが多い。ただし筆者からすれば、最大の障害は、思われがちなようにトルコという国家でも、トルコの人々自身の民族主義でもない。それは、伝統的な西欧中心主義への盲信である。私たちが従来教えられてきた世界史や文明論は、ほとんどが、西欧から受け入れた情報や考え方を当てはめている。だがそこには、西欧中心主義の前提があるのを忘れてはならない。わかりきったことのはずなのだが、多くのことは強者の論理のみに呑まれ、語られてきただろう。だが実際のことは、おそらくかなり違う。抗えないことだったかもしれないが――そして、他国の一市民がこのようなことを言うのはおこがましいのかもしれないが――他ならぬトルコ自身も、オスマン時代の末期からそれを自己評価にそのまま援用し、つまずいたのだと思うからだ。

西欧的な思考であれば先進的であり、先進的であるには西欧的でなければならない、という観念のインプットが依然ある。だが誰しもが世界を、自らの目で直接見ればいい。その自由を享受できることに気づけば、従来「信じられてきた」ことを覆すような、驚くべき発見に胸躍ることがきっとあるだろう。一トルコ・ウォッチャーとしての筆者の前にも、まだ多くの目標が待っている。

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修復のすすむシナゴーグ(ガジアンテップ)(左)と、海外の美術館から返還が実現したヘラクレス像(アンタルヤ)。 写真 ©Keiko Nonaka

 

978_4_7791_1577_6.jpg 野中恵子『ビザンツ、オスマン、そしてトルコへ』