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第1回『ヨネ・ノグチ』
その後ーー星野文子

あの本この本のこぼれ話を紹介する『ほんのヒトコト』。第1回は『ヨネ・ノグチ』です。


(文・星野文子)

◆一枚のハガキがつないだ「縁」

ヨネ・ノグチの縁の地には、機会があれば出掛けていた。だが、一カ所、『ヨネ・ノグチ』刊行までに間に合わなかったのが、彼の戦時中の疎開先であった。この春、ヨモギの新芽が柔らかい頃にやっと念願叶って訪問した。

ノグチが終戦間近の1945年4月に疎開したのは茨城県結城郡豊岡村(現在の茨城県常総市)の飯田憲之助氏邸であった。現在、この家を継いでいらっしゃる、憲之助氏の孫である飯田菊子さんは、なんと、私の母親とその昔、隣りどうしの幼馴染であった。年賀状を通じてこの事実関係を知り、今回訪問するはこびとなったが、約半世紀も遡る飯田菊子さんと母の偶然の出会いと、私が今日このように研究できることに、ご縁というものを強く感じた。飯田氏は当時、豊岡村の村長で、その屋敷はもうすぐ築200年を迎えるという日本家屋であるから、ノグチの疎開した当時は築130年程だったことになる。書院の応接間から見渡す日本庭園は、その昔、茨城県の三大名園の一つだったという。

現在は愛知県津島市となる地で生まれたヨネ・ノグチが、何故生まれ故郷から遠く離れ、親戚もいない茨城県に疎開したのか。2002年9月20日付け『茨城新聞』に依ると、ノグチが飯田憲之助氏宛てに送った1944年8月19日消印のハガキには、「先日はお邪魔しました」「あなたの御厚意を受けることに決しました」とある。二人がどこでどのようにして知り合ったかは不明だが、氏は版画に興味を持たれていたことから、ノグチに浮世絵で「私淑」していたらしい。

また、1945年7月16日付け『茨城新聞』を見ると、ノグチは1944年の夏、結城郡に講演に出掛け、そこで飯田氏から疎開先に、と招待されたようである。同紙に掲載されているヨネ自身の言葉として、「親類でもない、さうかといつて深い知己の間柄でもない、ただ私の噂を知つてゐるだけで私は全然先方を知りません、しかし大変熱心に誘つて下さるし私も国策としての疎開を実行、老骨の御奉公をと思ひました矢先なので話は実に順調でした」と書いている。

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ー 鬼怒川をのぞむ。橋は、ヨネがここに暮らした当時、既にかかっていたとされる。 ー

 

◆鬼怒川でのヨネ・ノグチ

ノグチ家はそこで大変温かく受け入れてもらったようである。ノグチ家が暮らしたのは、飯田氏の離れであった。近くには鬼怒川が流れ、柳が茂る土手がある。ノグチは早朝に土手まで散歩に出掛けた。

朝食を済ませると、午前中は、母屋の書院で飯田氏と世間話や浮世絵談義をして過ごし、それは彼の楽しみだったという。午後は、時々は講演に出掛け、夕方に入浴、夕食というのが彼の日常だったようである。ノグチの住んだ離れには風呂がなく、夕方、住み込みの女中さんや男衆達が田畑から帰る時分に母屋で風呂の用意が出来ると、離れに使いが来て、ノグチが一番風呂を使っていた。西洋式なのか、ノグチは五右衛門風呂に張られた湯を豪快に使い、彼が入り終わると湯は半分に減っていたという。その後、他の人達が順に風呂を使うと最後の人の時には湯が足首ほどまでしかなかったそうである。毎日散歩に出かけた土手では、彼は一人で、望むだけ心境を落ち着けることができたのであろう。自然と文化と人情の溢れるこの地での暮らしは、ノグチを、その劇的だった人生や、戦時中の混乱や都会の複雑な人間関係から逃れさせたという意味で心地よかったろう。一家の主であり社会的に著名でもあったヨネ・ノグチが、村長であった飯田氏に、隠れ蓑に包まれるように守られたようで、そこについつい長居してしまったのではないかと思う。

ノグチは戦後もこの地を離れることはなく、やがて胃癌が見つかり、1947年7月13日にこの地で他界した。それから60年以上の年月が経った現在も、ノグチが晩年を過ごした地はとても穏やかで、その土手には現在も柳が茂っている。ノグチが暮らした当時そのままに自然が美しく残されているように思う。

ノグチがこのような地で最期を迎えられたと知り、私はほっとし、嬉しかった。

978_4_7791_1833_3.jpgヨネ・ノグチーー夢を追いかけた国際詩人』(星野文子 著、2012年10月刊)