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第46回 あなた自身の国の歴史に向き合うことが大事――徳留絹枝(『アメリカ兵捕虜との和解――もうひとつの日米戦史』著者)

『旧アメリカ兵捕虜との和解』の著者・徳留絹枝さんが、このたび「勇気のメダル」という賞をシカゴで受賞された。この本は、太平洋戦争の戦地フィリピンで、、想像を絶するような酷い扱いを受けた旧日本軍の捕虜となった元米兵たちと、長年にわたる渾身の地道な支援と交流を続けた著者が、彼ら元米兵たちの体験を記録している。
米兵捕虜の体験は長い間、日本でも彼らの祖国でも広く知られることはなかった。本書では、捕虜たちのヒューマンヒストリー(生い立ち、出征、日本軍との戦闘、無残な捕虜収容生活、日本への移送、日本企業による炭鉱や港湾などの過酷な強制労働、母国への生還、戦後の両政府・企業への働きかけ、日本人との交流と和解…)を通し、75年にわたる生きた歴史をつぶさに伝えている。
受賞に際し、徳留さんから文章を寄せていただいた。

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シカゴにて

先日、80年代から90年代にかけて10年近く家族とともに住んでいたシカゴに旅した。ユダヤ系人権団体サイモン・ウィーゼンタール・センターがシカゴで開催したイベントで、「勇気のメダル」という賞を授与されたからだ。

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(受賞挨拶、センター館長のマーヴィン・ハイヤー師と副館長のクーパー師と)

当日のメインゲストで、センターの国際指導者賞を受けたのは、シカゴ・マーカンタイル取引所の名誉会長で、杉原ビザで救われたリオ・メラメド氏(85歳)だった。

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このような形で彼と再会するとは、26年前彼に初めて会った時は想像さえしていなかった。1991年の夏、日本のあるビジネス雑誌の依頼で、私は、彼にインタビューすることになった。先物取引のことなど全く分からないまま彼のオフィスを訪ねたのだが、その出会いは、思いもかけない展開に繋がっていく。彼が杉原ビザで救われたことが分かったからだ。当時は杉原千畝氏の人道的行為はまだあまり知られていなかったのだが、私はユダヤ人と結婚した友人から偶然聞いていたのだ。

メラメド氏との出会いで、ユダヤ人の歴史、特にホロコーストに興味を掻き立てられた私は、その後ロサンゼルスに引っ越してから知り合ったサイモン・ウィーゼンタール・センター副館長エブラハム・クーパー氏の励ましもあり、1997年にホロコーストに関するインタビュー集「忘れない勇気」を出版した。メラメド氏にも改めてインタビューし、彼のストーリーもその本の一章となった。

ホロコーストの教訓を伝える人々にインタビューする過程で友人となった数人から、「あなた自身の国の歴史に向き合うことも大切ですよ」と何度か言われた。そしてその言葉通り、その後私は、旧日本軍の捕虜だったアメリカ兵たちの問題に取り組むことになり、20年近い年月が過ぎていった。40%が死亡するほどの過酷な扱いを受けた捕虜たちは、半世紀以上が過ぎても、日本政府からも、彼らに強制労働を課した日本企業からも、謝罪を受けていなかった。奪われた尊厳と正義を取り戻すための彼らの闘いは、やがて私自身のものとなっていった。元捕虜と一緒に活動し始めてから日本政府の謝罪を得るのに10年、日本企業の一社から謝罪を得るのに15年の歳月が流れた。今はほとんどが故人となってしまったが、かけがえのない友人となった元捕虜たちとの思い出はつきない。

かくも長い間活動を続けられたのは、元捕虜たちからのあふれるような友情があったことはもちろんだが、どんな時も励まし続けてくれたクーパー師、そしてさらに遡れば、メラメド氏との出会いがあったからだ。彼は生きることの意味を(彼の場合はその命を杉原氏によって救われたのだが)、自伝の中に書いている。父親に、著名なイディシュ作家の公演会に連れていかれた10歳のメラメド少年は、「無限に生きる唯一の道は、有限を超越する何かのために生きることです。そしてその何かとは、“理想”です」という言葉に打たれる。メラメド氏は、その後の人生をその言葉を忘れずに生き、つい最近日本から旭日重光章を受けた。

私にとってシカゴは、二人の子供を育てながら勉強し、メラメド氏とも出会えた以外に、もう一つ特別な意味のある場所だった。メラメド少年と彼の両親は1941年にシカゴに辿り着いているが、その地から間もなくフィリピンに派兵される運命にあったユダヤ人の若者が、レスター・テニーだった。レスターの部隊がマニラに到着して数週間後、日米開戦となる。米比軍は、本国からの援軍がないまま圧倒的な日本軍に抵抗して戦うが、翌年4月9日バターン半島で、一か月後にはコレヒドールで降伏、米国軍史上最多数の将兵が捕虜となった。レスターは「バターン死の行進」を歩かされた後、日本に送られ、終戦まで大牟田市の三井三池炭鉱で強制労働に就かされる。

終戦翌年の1946年に結成された元日本軍捕虜米兵の会は、63年間活動を続け、2009年に解散したが、レスターはその最後の会長を務めた。私とレスターは、今年の2月に彼が96歳で逝去するまで18年間、一緒に活動した。前半は、失望とフラストレーションの多い年月だったが、後半は、日本との和解活動が始まり、充実した日々となった。

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サイモン・ウィーゼンタール・センターは今回の表彰で、私が、ホロコーストとユダヤ人に関する理解を日本人に広める努力をしたことに加え、元捕虜と日本人の和解に貢献したことにも触れてくれた。レスターの生まれ故郷でメラメド氏とともにその賞を受けながら、彼が生きていたならどんなに喜んでくれただろうと、思わずにはいられなかった。