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第43回 『15歳の被爆者』その後
──狩野美智子(『15歳の被爆者』共著者)

※今回は、『15歳の被爆者』共著者の共著者のお一人で、長崎で被ばくされた狩野美智子さんのブログより、本の刊行とその後の報告文(3回連載、各回タイトルは編集部)を、ご本人の了解を得て転載させていただきます。

■(1)被爆者の私の戦前・戦中・戦後を本に

2016年8月15日に出版された「15歳の被爆者」は、あらかじめみなさまに出版費用を公募するクラウドファンティングという方法で、2015年7月に出発しました。当初は「85歳の被爆者」というタイトルでしたが、実は日が経ち、私が86歳になってしまいましたので、被爆時の年齢、15歳に変更しました。

お申し込みくださった方々、また、本をご購入下さった方々、本当にありがとうございました。普通の庶民の経験など、公にするのは全く烏滸がましいのです。そういう私の躊躇を許してくださり、戦争の中で育ち、15歳の時長崎に落とされた原子爆弾に遭い、直後の敗戦で、にわかに軍国主義が消滅して、素晴らしい民主主義の憲法までできたその嬉しさの中で青春を過ごし、「好きなように生きる」と決めただけの、波乱万丈ではなく、顕彰されたことは一度もなく過ごした、また欠陥だらけの人間にすぎないことは、自分が一番よく知っていますのに、こういう本を作ることに力を与えてくださいました。

私は被爆者として一番幸運でした。爆心地から1、2キロの学徒動員で働いていた工場にいて、放射能はたっぷり浴びましたのに、生きて帰り、帰る家もほぼ無事でした。家族も無事でした。そのことは、亡くなった方々に申し訳なく、私は生きていていいのだろうかと常に身を責めていました。これは、生き残った被爆者の共通の思いだろうと思います。そうやって身を責めつつ、一方私の生来の性質は、楽天的でノンキです。

そのノンキさのせいでしょうか、原爆の日の記憶の中から、色も音も匂いも消えているのです。被爆経験を語るとき途方に暮れてしまいます。それでも語る、そこにどんな意味があるのか。そう思いつつ、被爆2世である息子、切通理作の問いに答える、記憶を呼び起こし、率直に答える作業を繰り返しました。

出来上がったこの本を読んでくださった方から、様々な温かいお言葉をいただきました。被爆者が被爆した時、日常を生きていたのだということ、様々な被害も人それぞれであること、生きることができた被爆者の状況も様々であり、それぞれそのあとの日々の生活があったのだということ、被爆直後の日本社会に大転換があり、一方食糧難は戦後長く続いたことなど、率直なところが良かったと言ってくださった方がありました。私自身もいまになって気づかせていただくも多かったのです。本当にありがとうございました。

■(2)活水女学院の先生として被ばくしたシスターとの出会い

7月末の『15歳の被爆者』出版の後、9月22日に、阿佐ヶ谷の地域区民センターで、記念のトークイベントを開催いたしました。あいにくの雨、しかも本降りの中、50人を超える方々がご参加くださり、本当にありがたく嬉しいことでした。

会場を設定すると一番に、編集の学校受講者の川嶋敦子さんが、聖パウロ女子修道院のシスター・エレナ(深堀千代子)さんを伴ってご参加くださいました。

シスターは長崎の被爆者でした。原爆の落ちた日の朝、活水女学院の先生として生徒たちを動員先の三菱造船所に連れて行く時、警戒警報が鳴ったので、家に帰りたい人は帰るようにというと、数人は帰り(この時帰った生徒は爆心地に家があったため、ほとんど亡くなりました)残りの生徒を連れて造船所で作業中、原爆が落ちたのです。怪我をした生徒をいたわりつつ東山手にある活水女学院に連れて行ったそうです。学校も屋根は飛び、ガラスが散乱していたそうですが、ともかくそこで一夜を明かし、浦上方面の生徒を伴い、お家を目指したそうです。まさかと思っていた浦上は焼け野原、死体の間から、助けを求め、水を求める人がいっぱい。元原町にあったシスターのお家は瓦さえ残っていない。ご家族は結局母上と弟さんが亡くなられました。

原爆の落ちた中心地は、かつてキリスト教が厳重に禁止されていた時も、信仰を失わず、「隠れキリシタン」として明治の解禁まで何百年耐えてきた、脈々と生きてきたキリシタンの街だったのです。私は知識として知ってはいたのですが、改めてそのことを身にしみて感受することができました。

それにしても、シスターは92歳とのこと、お話しくださったことに加え、5時間に及ぶ長時間、一度も中座されず、ご参加くださったことに、改めてその真摯さ、強靭さに感嘆し、感謝しております。

同人誌「地軸」で知り合った山田太枝さんからは、北海道から出発して東京まで回る被爆者の「国民平和大行進」に参加して、地方に人がいないことに、車が時々通るだけの無人の町ばかりであることに、衝撃を受け、集会には80代、90代の人のみで、若い人はどこに行ってしまったのかわからない。そういう状況に衝動を受けたと発言され、私たちは、子の世代に伝え、子の世代が孫の世代に引き継ぐことができないできたことにショックを受けました。

■(3)30年も前に「非核法」を制定したニュージーランド
9月22日の会には、「地軸」の土井和代さんが、ニュージーランドで大学の先生をしていらっしゃる友人、千種・キムラ・スティーブンさんをお連れくださいました。

ニュージーランドでは、1986年に「非核法」が制定されていて、核兵器はもちろん、原子力発電所も禁止、アメリカに対し核兵器を搭載した戦艦や飛行機の寄港も認めないと通告し、実行しているそうです。今から30年もまえに厳重な「非核法」を作り、実行している国がある!と、不勉強な私は目の覚める思いでした。唯一の被爆国日本が、原発を54基も作ってしまったこと、原発から原爆は容易に製造できるのです。日本人は「当事者の自覚が足りない」と言われたことはその通りです。

のちに資料を送っていただきました。「非核法」の制定にあたって、女性の活動が大きかったこと。持続的な力強い活動に、男性の賛同者も増えていったこと、自分の住んでいる地区を「非核地区」だと宣言していく。ニュージーランドでは、「非核地区」というステッカーを、自分の家や学校、病院に貼っていった、結局全国、非核地区にしてしまったのです。

日本にも反原発、反核の勢力は決して小さくありません。どうしてそれが国民運動として広がらないのか、考え込んでしまいます。

ニュージーランドでは、また、女性参政権を世界で最初に獲得した国です。1869年、イギリスから来たメリー・ムラーの論文に刺激され、ケイト・シェパードのリーダーシップのもと、徒歩で、自転車で署名を集め、男ばかりの議員たちの説得に努め、1893年に女性参政権を獲得しました。日本にも平塚らいてうなどの「青鞜」など、様々な運動がなかったわけではないのに参政権には結びつかず、結局長い戦争の後、1946年に婦人参政権は、「与えられた」のでした。

千種さんも、また長崎での平和シンポジウムでお会いしたイギリスのアクロニム軍縮外交研究所長レベッカ・ジョンソンさんも、平和と人権のため核兵器全廃のために、何より被爆者の証言が力になると言われました。女性が力を出さなくてはならない、被爆者が発言しなければならないと強く思いました。

『15歳の被爆者』トーク・イベントに来て下さって、本当にありがとうございました。

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