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第40回『エミシはなぜ天皇に差別されたか』──林順治

私は東京世田谷の下馬で生まれましたが、3歳と8ヵ月のときか父母の郷里福村深井で育ちました。旧姓は“福岡”と申します。ですが、不思議なことに深井に来てから小学校に入るまでの記憶がまったくといってないのです。あるとすれば、母の背中からぼんやりと緑色にキラキラ光る田圃を眺めていたことぐらいです。

それとは逆に下馬にいたころ母に抱かれて多摩川に入ったことや三輪車で走りまわったことやトラックの荷台から落ちたことなど記憶しています。母によれば、深井に移住してからしばらくして、1週間ほど眠り病のような状態になり大変心配したそうです。おそらく母の背中から裏の水田がぼんやり見えたのはそのころかもしれません。

私は兄八人、姉2人の11人兄弟姉妹の末っ子です。ですから父母にとても甘やかされ、すぐ上の兄2人にはやっかみからかよく泣かされ喧嘩もしました。

小さいころの私は雪が積もり始めるとシャベル(スコップ)もっていつも表に出て雪をいじっていました。大沢のリンゴやさんが吹雪の日も晴れた日も黒い犬にソリを引かせて朝夕家の前を通りましたが、そのリンゴ屋さんが“あすこのわらしなば、表に立っていない日はねぇ”と噂していたそうです。

春先は“どっこ”でドジョウとり、初夏は雑魚(ざっこ)ひき、夏は雄物川の河原で水泳ぎ、夕方はナマズ針につける太い大きなミミズほりなど、食と関係のある遊びですごしました。

そのような泥や砂な石ころや水や草や柳や小魚や雪の中の遊戯も父母や兄弟や村の大人たちに保護された小学校4,5年生のころまでで、中学生になってからは担当教師によれば“きがねわらし”、つまり“ゆうことの聞かない”生徒になりました。

こんなことがありました。中学に入っていきなり女の先生に学級新聞の編集を言い渡されましたが、私は絶対いやだと言って逃げて帰りました。すると先生はノシノシと追っかけてきました。

私は家にカバンを放り投げて雑魚とりの網をもって裏の田圃に出かけました。するとはるか遠くの家の裏の畑で先生と母が一緒に手を振ってコイコイと手招きしている姿が見えました。これが私の“楽園時代”の終わりだったのかもしれません。

28歳のとき早稲田露文科の金本源之助先生の仲人で結婚して“林”を名乗るようになりました。私は実母の“大和サタ”の「大和」をとって“大和久次郎”というペンネームで本を出そうと思ったりしました。

私は小学校5年生ごろまで父と母の間に寝ていましたので、母は自分が幼いころ大きな蔵がいくつもある福岡利兵衛の家で7、8歳の年齢で“めらし”として働いていたことや、“久次郎”という弟のことをよく私に話してくれました。

“めらし”という言葉は調べてみると方言の一種ですが、当時、母の話から推してみると、どうもお膳運びのようなことをやっていて、それが幼い母にとって何かとても楽しかったようです。しかし弟の久次郎の話になると私だけにしか話せないようなつらい思い出を語る様子でした。

その久次郎という人は東京で鉄道学校に通っていましたが、関東大震災のとき隅田川に入水してから精神に異常をきたして亡くなったそうです。私はその“久次郎”の名を受けて「大和久次郎」にしようと思ったのです。

母の実家の「大和」という姓は横手盆地では少なく珍しい名前だと思います。「大和谷(やまとや)」という姓は小学校のクラスに数人にいましたが、とくに深井集落に多かったようです。

約1300年前の『古事記』(712)に「倭(やまと)は 国のまほろば たたなづく 青垣 山隠(やまごも)れる 倭しうるはし」と、ヤマトタケルが東北のエミシを討伐した帰りの伊吹山で息絶える前に歌ったと書かれていますが、その“やまと”が母の実家の姓「大和」と同じであることから興味をもっていました。

しかし母方の系統がどちら方面から横手盆地に入ったのか今でもわかりません。一昨年亡くなられた福岡トモ子さんなどは伊勢三重のほうからきたそうよ、とあまり自信なさそうに言っていました。今では確かめようがありません。

そのころトモ子さんは「福岡」は九州博多一帯を治めた福岡藩(黒田藩)から来た、と言っていました。皆さまも自分の先祖が日本のどの方面からやってきたのか互いに語り合うのもきっと面白いと思います。後で述べますように古くは横手盆地には県外からさまざまな経歴をもった人たちが開拓民として入っています。

このような話をしだすと面白いことは面白いのですが、『千夜一夜物語』のように延々と限りなく横道に入りそうなので、話題をかえて、「なぜ私が古代史に焦点を当てたものを書くようになったのか」、そして「その古代史とはいま私にとってどのような意味・内容をもっているのか」というテーマに絞ってお話したいと思います。

その点では今回出版しました『エミシはなぜ天皇に差別されたか』の「はじめに」は、横手盆地の“心象風景”としてはよくできていると思いますので、あらためて自己紹介も兼ねてお読みいたします。原文は「で、ある調」ですが「です、ます調」に変え、一部省略します。

私の好きなトルストイもドストエフスキーも最初の作品『幼年時代の思い出』や『貧しき人々』を出版する前に当時ロシアの有名な批評家ベリンスキーの前で一晩中立ち通して読んだそうです。

私の場合は、“存在の原点”とも“存在の故郷”と言ってもよい郷里の人たちの前で自作の一部を読むことができるわけですから、とても名誉なことと嬉しく思っています。それでは始めます。

大人になってある事を知った私は、尚一層、自分の父の先祖は蝦夷(以下、エミシ)の末裔だったかもしれないと思うようになりました。私は11人兄弟姉妹の末子ですが、私だけが東京世田谷の下馬で生まれました。小学校の1、2年生のころ私は母から7番目の兄と8番目の姉の間にもう1人男の子が生まれてすぐ亡くなったと聞きました。

父(明治25年生れ)は郷里の深井で保呂羽山(出羽山地)に近い大森町から婿養子に入った祖父の後を継いで大工をしていましたが、長兄(大正5年の生れ)の建築会社の手伝いを兼ねて昭和13年に駒沢練兵場の近い東京世田谷の下馬に移住しました。

しかし昭和16年(1941)12月の太平洋戦争の勃発(真珠湾攻撃)によって長兄をふくめて兄弟4人がそれぞれビルマ・ニューギニア・フィリピン・北支に出征することになりました。

東京大空襲の1年前の昭和19年3月、父母はお腹(なか)の大きくなった長兄の嫁と下4人の子を連れて郷里の秋田県平鹿郡福地深井(現・秋田県横手市雄物川町深井)に引っ越しました。

間もなくニューギアから2番目の兄が復員してきましたが、その兄は昭和22年7月の雄物川洪水の翌年、マラリアの後遺症で亡くなりました。母は2階の暗い部屋で私を自分の傍らに置き、「雄二、なぜ死んだ、なぜ死んだ」と兄の亡骸を揺さぶって大声で泣いていました。連れ合いを失くした兄嫁は、生まれたばかりの子も亡くしたのでやむなく実家に戻りました。

兄嫁の実家というのは浅舞町に隣接する吉田という村にあり、私は結納の「たるこしょい」(花嫁あるは花婿の家から行列で御祝の品の樽酒などを背負って運ぶ少年のことをいう)の役で花嫁の家を訪れ、花嫁の両親に大いに可愛がられ、歓迎されました。辺り一面が田畑のその家屋敷は杉林に囲まれた馬小屋を持つ大きな茅葺の農家でした。屋敷の前にかかった土橋の下の勢いよく流れる水を鮮明に思いだします。

旧福地村深井は奥羽山脈と出羽山地に囲まれた横手盆地中央の出羽山地沿いの雄物川中流右岸の民家7、80軒からなる街道筋に沿う集落です。その集落を太平洋側の岩手県大船渡から北上、横手そして浅舞を経由して日本海側の由利本荘に至る国道107号線が横手から浅舞まで8キロ、深井までは16キロ、出羽山地を横断して子吉川沿いに本荘まで44キロです。

当時、横手・本荘間をバスが砂埃を上げて走っていました。隣家のいさば屋(魚屋)にダットサン(日産の小型トラック)や馬そりから木箱に詰められたハタハタやサンマが降ろされるのを見ました。

南の湯沢から北の大曲まで約40キロの横手盆地は南北に長い楕円形をしています。その地表は東が高く西が低いので、雄物川は西の出羽山地沿いを北に向かって流れます。横手盆地の地層は奥羽山脈栗駒山系から流れる皆瀬川・成瀬川、横手川などからの土砂の堆積作用による最も新しい沖積層です。

秋田・山形県境の大仙山(標高920m)に発する雄物川は、横堀町で神室山(標高1320m)に水源をもつ役内川、三関で高松川、十文字で栗駒山系からの皆瀬川・成瀬川、そして羽後町で出羽丘陵からの西馬音内川を入れ、角間川(現・大仙市)で横手川、大曲で玉川を併せて秋田平野に流れ出ます。雄物川は北上川、最上川とならんで東北地方の大河です。

江戸時代、雄物川上流の深井は土崎港から塩や魚が運ばれ、米や木材や野菜を積む船着き場でした。皆瀬川、成瀬川、西馬音内川を集めた雄物川は深井集落を通過するころは水かさも増え、雄物川橋の袂の三吉山(頂上から奥羽山脈と横手盆地と雄物川の上流・下流が一望できる)に当たります。三吉山から末館の約300mの山すその岩場と水深二メートルの緩やかな流れにアユやクキ、ヤマメやイワナが手掴みできるほど群がる子どもたちの楽園でした。

福地村深井は全国津々浦々のどこにでもある町や村のたぐいですが、実は、1500kmも離れた古代中世の平城京・平安京や大阪羽曳野市を流れる石川右岸の通法寺(廃寺)境内の源氏三代頼信・頼義・義家の墓や壺井八幡宮と深い関係があります。

深井から約7km上流の雄物川左岸の足田(たらだ)(西馬音内町に隣接)に秋田城に至る道を作るために大野東人(?-742、陸奥鎮守府将軍)が造った雄勝村(733)や藤原朝獦(あさかり)(?-764、藤原仲麻呂の四男)が創建したという雄勝城(柵)跡(760)があります。

また深井から二キロ下流の雄物川両岸には後三年の役(1083)の清原家衡が籠った沼柵と矢神八幡神社があります。雄勝柵と沼柵は中央政府(朝廷)のエミシ征討と密接な関係があります。家衡はその後横手金沢柵に移りますが、沼柵では積雪を防壁に数千の源義家の率いる兵を苦しめます。沼柵に近い造山(つくりやま)の蝦夷(えぞ)塚古墳(推定700-800)から2種類の勾玉が出土しています。

雄勝城柵と沼柵は約350年の開きがありますが、その間に元慶2年(878)のエミシの反乱があります。この反乱の鎮圧のため朝廷が出羽国に派遣した藤原保則と小野春風は山北三郡(仙北・平鹿・雄勝)の俘囚エミシの協力を得て雄物川以北のエミシの反乱を収拾します。

元慶の乱の際、藤原保則の下で働いた清原令望(よしもち)(秋田城介)は、前九年の役(1062)の安倍貞任追討で源頼義(義家の父)の参謀となった清原武則の先祖と考えられます。

元慶二年の乱後、秋田城介として出羽国に住んだ清原令望は、エミシの俘囚長清原武則と姻戚関係を結びます。その清原武則の居城は雄物川の上流成瀬川の右岸の真人山(横手市増田町)です。

前九年の役の小松柵(岩手県一関市)の攻略で活躍した清原武則の第一陣の兵士深江是則(平鹿郡)は、元慶の乱で活躍した深江三門の末裔でしょう。このように横手盆地(仙北・平鹿・雄勝)の俘囚は朝廷の夷を以て夷を征する政策によって官軍(朝廷側)に味方していますが、彼らが俘囚エミシであることに変わりはありません。

本書はよくある自叙伝や郷土史ではありません。と言って単なる歴史書でもなく、したがって冒頭のある事(傍点)について述べておかなければなりません。

出版社に入社してから16年後の1988年(48歳)の春、私は著者仲間の一人から在野の古代史研究者石渡信一郎氏を紹介されました。氏はすでに都立高校の英語教師を辞めて札幌市郊外の白石でアイヌの研究をしていました。

当時の私の歴史認識といえば、菅江真澄が「雪の出羽路」「月の出羽路」でよく引用する『陸奥話記』の前九年・後三年役でしたが、ベルリンの壁が崩壊する3ヵ月前の1989年(1・7、昭和天皇死去)の夏、石渡氏から『日本古代王朝の成立と百済』(私家版、自費出版のこと)が送られてきました。

その時ふと「深井のはずれの雄物川の河原に接して高く聳えていたあの八幡神社とその神について何か書いているかもしれない」と思った私は、急いで頁をめくっていきます。すると、第九章の終りに「昆支(こむき)の神格化・八幡神」とあります。そして今度は前の頁をめくっていくと、「第六章 百済王族余昆(昆支)=応神天皇」とあります。

いったい、なぜ、百済から渡来した王子昆支が日本全国津々浦々の町や村に祀られている八幡神=応神天皇なのか!? その百済の王子が大阪羽曳野(はびきの)市の日本最大の古墳誉田(ほむた)陵(伝応神陵、全長420m)に埋葬されていることを知った私の驚きは計り知れません。

その後間もなく私は「日本古代国家は新旧二つの朝鮮半島からの渡来集団によって建国された」という石渡信一郎の仮説が日本の歴史=天皇の歴史の秘密を解く命題であることを理解したのです。そして日本古代国家が渡来集団に建国されたのが真実であるならば、彼らが渡来するまではエミシであれ、関東の人であれ、ましてや九州の人であれ“先住民であった”と想定できるとし、従来の日本の歴史も、東北の歴史も、エミシの歴史も根底から見直し、修正できるのではないかと考えたのです。

私はここまで2度「大人になって……」という言葉を使っていますが、「哲学的」「心理学的」な用語をつかって説明したいと思います。

実は中学3年生(15歳)の1955年12月の末、高校受験のための数学の勉強をしていたときに強迫神経症にかかり、その神経症が7年後の1962年2月10日に治った体験を得ています。なぜか私はかかった日も治った日もはっきり覚えています。

神経症とは5歳までの早期幼年時代に体験された心的外傷が、防衛→潜伏→思春期(15,6歳)に発症する症状を言います。私の場合で言いますと東京下馬時代に父母兄弟と長兄の嫁合わせて14人が一緒に住んでいたころで、おそらく母もそうですが、生まれたばかりの私も戦時中のどさくさの騒然(そうぜん)とした環境のなかでかなり強い心的ストレスを受けたものと推定できます。

ちなみに母は私を抱いて寝ていたころ、「お前をおろすために東京中の病院を探し歩いたが、どこの病院でもダメだと言われた」とよく言っていました。

その神経症という病気なのか病気でないのかよくわからないような症状をジークムント・フロイトというドイツの臨床医(患者に接して診察・治療をする医師。いまの精神科医)が生涯かけて研究しました。その研究によってフロイトは世界的に知られるようになりました。1939年(昭和14)に亡くなっています。このフロイトと神経症のことついては拙著の「ヒトラーはなぜユダヤ人を憎悪したか』や『天皇象徴と<私>』に書いていますのでご覧ください。

ところで私が神経症によって知ったことは哲学者ハイデカーのいう「世界内存在」であり、デカルトの「吾思う故に吾あり」であり、もっと正確にいいますと、J・サルトルが「私を見るということは私にまとわりついていた彼ら(他者)を同時に見なければならない私の構造である。しかし私が私を包んでいた彼らを同時に見るためには、私は別の彼ら(他者)の中に投げ込まれていなければならない私の構造なのだ」という存在論でした。おなじ哲学用語で認識論とも言います。

サルトルの主著『存在と無』は「人間とはあらぬところのものであり、あるところのものであらぬ」といういわゆる実存哲学です。しかし哲学の本は1頁にわかる言葉が1ヵ所か2ヵ所あればよいほうでしょう。わかる人はわかる、わからない人はわからない。頭の良しあしは関係ありません。一言でいえば“自由”とは何かを問う本です。

大学入試を間近に控えていたにもかかわらず、私は筑摩書房の赤い表紙のデカルト『方法序説』と、当時発売されたばかりの白い表紙の『存在と無』のⅠ巻をもって上京しました。なぜかこの2冊の本が神経症から私を救ってくれるような予感がしたからです。そして私が神経症から解放されたときに第一番に浮かんだ言葉は“故郷”と“書く”という言葉でした。すなわち「故郷を書く」ということでした。

ところで夏目漱石の友人であり、かつ漱石が尊敬した秋田県大館出身の狩野亨吉は同じ秋田出身の江戸時代の安藤昌益を語るとき、このデカルトやハイデカーやサルトルの存在論を見事にわかりやすく解いています。狩野亨吉は本を書くことの少ない人でしたが、このとても優れた論文を大正4,5年ごろに発表しています。

これ以上おしゃべりすると際限がなくなりますのでやめますが、郷里の歴史が地方の歴史になり、国家の起源=天皇の歴史につながります。そして私が私向きの出版社(会社)に入り、1989年石渡信一郎氏に出会うことになったのです。大人になったということは、私にとって社会を知り、人(他者)を知り、自分の居場所を知り、本当の日本の歴史を知ることができたということです。

それでは百済から渡来して倭国で大王になり、のち八幡神とも、大菩薩とも、また応神天皇とかヤマトタケルとか呼ばれた昆支とはどのような人物なのでしょうか。

史実にもとづいて具体的にお話しいたします。昆支王には10歳年下の余紀という弟がいました。この2人の王子は百済蓋鹵王(在位455-475)の弟ですが、461倭国に渡来して、石川と大和川が合流する地帯を本拠地とする倭の五王「讃・珍・済・興・武」の第5代目の倭王済(『古事記』のホンダマワカ)の姉妹(あねいもうと)にそれぞれ婿入りします。

しかし兄の百済蓋鹵王は、昆支と余紀が日本に渡来した14年後の475年に高句麗長寿王の侵略によって殺害され、百済は漢城(現ソウル)から南の公州(こんじゅ)(現韓国忠清南道公州市)に都を移します。

実はこの昆支王の弟余紀は昆支王の後を次いで507年に倭王になった継体天皇のことですが、『日本書紀』と『古事記』はこの天皇を仁徳天皇としています。

仁徳=継体は大阪堺市にある仁徳陵(全長約486mの 日本最大の前方後円墳)の被葬者です。仁徳陵は歴史・考古学関係の研究者の間では大山(だいせん)古墳と呼ばれています。

仁徳陵は応神陵(誉田陵)より規模にして2、30メートル大き目です。西の仁徳陵と東の誉田陵は東西一直線の15キロしか離れていません。そして古墳の形もほぼ同じで、築造年代は応神陵より約10年新しく510年前後と推定されています。

当時、大王の墓は寿墓として生前に築造されました。しかし天皇陵および参考陵(被葬者が特定できない皇族の墓)の発掘調査は明治以降に禁じられ、現在に至っています。したがって考古学的な科学的調査はできません。

江戸時代は古墳の上に畑を作っていました。豊臣秀吉などは仁徳陵の石棺の蓋をもちだして自分の庭の敷石にしたそうです。

天皇陵と参考陵のほとんどは大阪の堺市と羽曳野市と奈良盆地に集中しています。200基を超えるでしょう。

皇居(江戸城)を歩いて1周するには約1時間かかります。私はよく自宅から池袋西口駅まで散歩します。4キロほどありますが約1時間かかります。羽曳野市の応神陵を1周するにもそのくらいの時間がかかります。博多市の仁徳陵はもう少しかかります。狭い大阪だけでもこのような巨大古墳が二つもあるのです。

博多市の仁徳陵を中心とする百舌鳥古墳群には天皇陵は23基、羽曳野市の応神陵を中心とする古市古墳群には天皇陵は7基あります。

府も市もこぞってユネスコの世界文化遺産登録の申請を10年ほど前からやっていますが、まだ、実現していません。発掘調査という科学的メスを入れて、エジプトのピラミッドのツタンカーメンや蓁の始皇帝陵の兵馬俑のように時代や王が特定できなけば文化的価値として認定されないでしょう。

ところで百済系同士の継体系(仁徳陵系)と昆支系(応神系)はのち王位継承をめぐって激しく対立し、継体系が645年(大化の改新=乙巳のクーデタ)で覇権を握ります。そのクーデタによって昆支系の馬子・蝦夷・入鹿の蘇我王朝三代は滅びます。

天智と天武も、天武と持統の孫文武天皇も、文武の子聖武天皇も、エミシ三八年戦争を起こした光仁・桓武も百済継体天皇の系統です。

また645年の大化の改新で中大兄こと天智天皇に協力した中臣(藤原)鎌足とその子不比等、不比等の子藤原四兄弟の武智麻呂・房前・宇合・麻呂は天皇家と婚姻関係を通して左右大臣(摂関家)を独占します。

不比等の4男で持節大使(総指揮官)の藤原麻呂は、天平9年(737)、鎮守将軍大野東人とともに多賀城から秋田城に至る道の経由地として横手盆地の雄勝村のエミシを討伐しようと試みますが、積雪のため大野東人一行は神室山の手前で引き揚げます。

藤原麻呂は多賀城から帰京しますが、当時流行していた天然痘にかかり亡くなります。他の三兄弟も相次いで天然痘で亡くなります。

そもそも百済の王子昆支(こむき)(余昆)と余紀が倭王済の入り婿に入ったころの461年ころの河内平野は、大和川と石川が網の目のように流れる沼と藪の湿地帯でした。そこに国を失った百済からの数十万を越える移民・難民が倭国にわたってきます。

しかし彼らは勝手に渡ってきたのではありません。高句麗からのたえざる侵略を受け、領土を失った百済は昆支兄弟の渡来を機に旧加羅系渡来集団の第5代倭王済の協力のもとに大規模な植民政策を行います。百済からの難民・移民は開拓民としてスキ(鍬)や鎌などの鉄製用具で沼と藪と湿地の河内平野を開拓します。今の大阪平野に仁徳陵と応神陵があることはそのことを物語っています。

源氏三代頼信・頼義・義家はこれら百済からの移民の子孫です。事実、源氏三代の墓は石川と大和川が合流する手前の石川右岸の壼井という高台にあります。三代の墓の近くの壼井八幡宮から応神陵が肉眼で見えます。

壼井八幡宮は源頼義が前九年の役を記念して建立したものですが、応神陵の後円部に接して鎮座している誉田八幡宮に源頼義の父頼信は「大菩薩の聖体(応神天皇)はかたじけなくも某(それがし)の二二世の氏祖なり」とう告文を納めています。つまり応神天皇は源氏の始祖王だと発表したのです。

八幡太郎義家の祖父頼信も父頼義も藤原道長ら藤原摂関家が持つ荘園の管理者として大和川沿いの牧草地帯に馬の生産地を経営し、莫大な富を蓄えます。馬は今の車以上に機動力と生産性に優れ、源氏の軍事力の増大にかぎりなく貢献します。いわば源氏三代は河内平野にトヨタ自動車工場をもっているようなものです。

源氏は臣籍降下によって源氏を名乗ります。臣籍降下とは皇族がその身分を離れ、姓を与えられ臣下の籍に降りることを言いますが。賜姓降下(しせいこうか)とも言います。ですから源氏は賜姓源氏とも呼ばれます。

臣籍降下は律令制度(700年代の前半)では第六世からおこなわれますが、八世紀後半から次第に繰り上がって来て、桓武天皇の延暦17年(798)から5世は王号を名乗ってよいが、財政的な援助は受けられないことになったのです。

桓武天皇は平安京の造成や長期の対エミシ侵略戦争で財政を逼迫させたので、皇親をできるだけ野に放ち地方豪族として土着化する方針をとったのです。

嵯峨天皇(桓武の子。平城天皇の弟)には50人の皇子・皇女がいましたが、32人が臣籍降下しました。32人に賜性された姓名はすべて「源」です。皇親に残る者と臣籍降下する者との違いは生母の身分によります。朝廷に官職を有するものが母であった場合は皇親として残され、生母が国司以下であれば臣籍降下の対象になるのです。

八七八年の秋田城エミシの反乱から60年後の天慶元年(938)、陽成(ようぜい)天皇の子元平親王を父にもつ五世孫の経基王(源経基)は介としてはじめて武蔵国に赴任することになり、そこで平将門の戦乱に巻き込まれます。源経基→源満仲→頼信→頼義へと続きます。ですから経基は頼義の祖祖父にあたります。

平将門の反乱というのは桓武天皇の五世孫平国香(くにが)の子良持の子将門が天皇宣言をして坂東(関東地方)を制圧しようとしたために平貞盛と藤原秀郷連合軍に敗北し首を切られます。

桓武平氏は源氏より5,60年(2世代)早く坂東に土着化しました。源氏が関東地方に地盤を築くことができるようになったのは、頼義が父頼信が平忠常の乱を抑えた功績によって、子の頼義が桓武平氏の平直方の娘と結婚し、領地を相続したからです。

さて横手盆地の雄勝柵城ですが、文献上の初出は聖武天皇天平5年(733)の12月26日『続日本紀』の次の記事です。「出羽の柵を秋田村の高清水村に移した。また雄勝村を建てて人々を居住させた」と書かれています。出羽の柵は現在の最上川河口左岸の酒田市近辺です。

時の右大臣藤原武智麻呂(不比等の長子)は多賀城から秋田柵に至る道の経由地として雄勝村(柵)を作り、横手盆地を兵站基地として北の盛岡と南の一関からの挟撃作戦を画策しました。

なぜならば、多賀城から一関の手前までは領土拡大路線が順調に進んでいましたが、一関の辺りでエミシの強力な抵抗にあって日高見国(現岩手県)に入ることができなくなったからです。東北新幹線のくりこま高原と一関間のトンネルが宮城県と岩手県の県境になりますが、北上川が大きく蛇行するあたりです。

この日高見国の挟撃作戦は元慶2年(878)の秋田城エミシの反乱から光仁・桓武天皇エミシ38年侵略戦争を経て1062年の前九年合戦の源頼義による安部貞任追討で完結します。

藤原4兄弟の長子武智麻呂政権に話を戻します。天然痘が発生した2年後の聖武天皇天平9年(737)正月23日の陸奥の按察使(あぜち)大野東人は「男勝村を攻略して直行路を貫通させ、多賀城から秋田柵までの最短距離の道路を造りたい」と政府(朝廷)に報告します。しかし「男勝村を攻略して云々」の言葉は、先の天平5年の「雄勝村に郡を建てて人々を居住させた」という記事とは矛盾しています。おそらく雄勝村はエミシに奪還されたのでしょう。

多賀城から秋田城への道をつくるための大野東人の遠征は、2月25日に多賀城を出発し、5日後の3月1日に出羽国大室駅(山形県尾花沢あたり)に到着するという騎兵196人、鎮守府の兵499人、陸奥国の兵5000人、帰順した夷狄249人の総勢5、944人からなる大行軍です。

しかし現地(雄勝村)が異常に積雪が多いのと、出迎えた出羽国守田辺史難波の説得によって大野東人は雄勝村攻略を中止します。

大野東人の遠征から21年経った天平宝字2年(758)、孝謙天皇は譲位して藤原仲麻呂(武智麻呂の次男)の養子大炊(おおい)王(淳仁天皇)が即位します。右大臣の兄藤原豊成にかわった藤原仲麻呂は右大臣を唐風の「大保」に変え、自らの名を「恵美押勝」とします。おそらく“エミシに押し勝つ”というような意味かもしれません。

この年の前年から開始された対エミシ策の一環として父仲麻呂の意向をうけた3男朝獦は陸奥の桃生城(宮城県桃生郡河北町)と出羽の小勝(雄勝)城(秋田県雄勝町足田)の造営にとりかかります。両城は2年後の760年に完成しますが、朝獦は762年に多賀城と秋田城の修理補強も行っています。

朝獦の名は多賀城碑こと壺碑に刻まれています。松尾芭蕉はこの「壺碑」を見るために奥の細道の旅に出たと言われています。ちなみに碑には「去京一千里五百里 去蝦夷国界一百里 去常陸国界四百十二里 下野国界二百七十里 去靺鞨国界三千里」と刻まれています。

横手市大森町八沢木に鎮座している保呂羽山波宇志別神社は社伝では天平宝字3年(759)に創建されたとあります。この年の八月藤原仲麻呂が大保(右大臣)に任じられ、自ら恵美押勝を名乗っています。

保呂羽山は日本海側の由利(本荘)が横手盆地の仙北・平鹿・雄勝と接点となっていることからも、仲麻呂の3男朝獦は保呂羽山麓を多賀城→雄勝城→秋田城を結ぶ要衝の地(関所)としてイメージしていたと考えられます。また朝獦の父仲麻呂は日本海の対岸の高句麗の遺民がつくった渤海国(壺碑の靺鞨国)との交流に大なる関心をもっていました。

天皇が孝謙の天平宝字元年(759)7月橘奈良麻呂らによる藤原仲麻呂打倒の謀議が露見し、奈良麻呂・大伴古麻呂・道祖王が処刑、黄文王は流刑、佐伯全成が自害、安宿王が配流となる事件がおきます。その流刑地に出羽国の小勝村が選ばれます。『続紀』天平宝字元年7月12日条に次の様に書かれています。

久奈多夫礼(黄文王)らに欺かれて、陰謀に加わった人民らが、都の土を踏むことは汚らわしいので、出羽国小勝村の柵戸(きのへ)に移住させると、仰せになる天皇のお言葉を皆承るように申しつける。

そして橘奈良麻呂の変から三年後の天平宝字3年(759)9月26日条にはつぎのように書かれています。

淳仁天皇(大炊王)は「陸奥国の桃生(もものう)城・出羽国の雄勝(おかち)城をつくらせているが、工事に従っている郡司・軍毅(ぐんき)・鎮守府の兵士・馬子ら合わせて8,186人は、今年の春から秋に至るまで、すでに故郷を離れて生業にかかわっていない。朕はこれを思うごとに心中深く哀れんでいる。彼らが今年負担する出挙(すいこ)の税を免除せよ」と勅した。

初めて出羽国の雄勝・平鹿の二郡に玉野・避翼(さるはね)・平矛(ひらほこ)・横河・雄勝・助河ならびに陸奥国の峯基になどに駅家(うまや)(エキカとも読む。人馬を用意し、駅使に宿舎・食糧を提供 した施設)を置いた。

そして2日後の9月27日条には「坂東の八国と越前・能登・越後・越中の四国(註・越中脱落)の浮浪人2、000人を雄勝の柵戸とし、また相模・上総・下総・常陸・上野・武蔵・下野の7ヶ国から送られてきた兵士の武器を一部保留して、雄勝・桃生の二城に蓄えた」と書かれています。

また『続日本紀』天平宝治4年(760年)正月4日、高野天皇(孝謙天皇)は次のように述べたと書かれています。

昔、先帝(聖武天皇)は雄勝城(おがちのき)を造らせた。しかしその仕事は難しく前任の将軍は困窮した。しかし陸奥国の鎮守将軍藤原朝獦らは、荒蝦夷を教え導き一戦も交えることなく雄勝城を完成させた。また陸奥国牡鹿郡では桃生城をつくり、賊の急所である地点を奪った。

続いて3月10日条に、「謀叛などの罪で朝廷に賎民とされた233人の奴(やっこ)と277人の婢(ひ)を雄勝柵に移して、奴婢の身分から解放し、良民とした」と書かれています。

「奴婢」とは律令社会の最下層の賤民のことです。奴は男子,婢は女子をさしています。公奴婢と私奴婢の別がありますが、奴婢は家族を構成することが許されず、売買、譲与、質入れの対象となり,良民の3分の1の口分田 (人数によって割り当てられる田) の班給を受けることができます。

先の藤原仲麻呂に“久奈多夫礼”と呼ばれた黄文王はれっきとした皇位継承者の資格のある天武天皇の孫にあたる大臣長屋王の子です。かつて私は黄文王も浅舞の鍋倉に流刑されたと思っていました。というのは浅舞鍋倉出身の友人中村徹さんから、鍋倉には城戸(きど)、都などの地名があることを聞いていたからです。「城」は「キ」と読むことができ、柵戸(さっこ)が「キノヘ」(開拓民)と読むことができるので城戸=柵戸です。しかし黄文王が鍋倉に流刑になったというような研究資料は見つかりませんでした。

しかし『続日本紀』よれば、黄文王に関係した民や兵もそうですが、浮浪人、犯罪者、奴婢などを加えますとかなりの多く人数が雄勝柵に強制移住させられています。ですから当時足田にあった雄勝柵は、時を経て雄物川に沿って北に柵戸(開拓地)を広げ、仲麻呂時代には浅舞の鍋倉一帯から沼柵、さらに大森あたりまで達していたと考えられます。

そのような思いもあり、学生の頃、友人の中村徹さんと足田が近い西馬音内の盆踊りを見に行ったり、彼の実家のある鍋倉に遊びに行きました。

さて、そこで雄物川を下流にそって向かって北進する雄勝柵とエミシと鹿島祭りの関係の話に移ります。中村徹さんの実家の裏の畑の傍を幅2mほどの、水が澄んでいるのか、よどんでいるのかわからない堰がありました。その堰の水底は、銀色のズブズブするような感じに見えました。

またこの堰が里見と浅舞の真ん中ほどを流れる幅五メートルの滑るように勢いよく流れる川に通じているのです。その川の水底は淡いグリーンの背丈の長い水草が絨毯のように敷き詰められていて、まるで黒沢明の映画『夢』の川を思わせるようです。

ちなみにこの映画のロケは安曇野市穂高の万水川・蓼川で行われたそうです。黒沢明は縄文的風景を撮影するために青森から鹿児島まで探したそうです。

黒沢明のお父さんは仙北郡中仙町豊川(現大仙市豊川)ですが、黒沢明は小さいころよく父の郷里に遊びに来たそうです。五、六年前ですが、中村さんの運転する車でそこを訪ねました。黒沢家一族の墓があり、その近くを川が流れていましたが季節のせいか水がかれていましたが、古い情緒のある風情でした。

ところで国道107号線の浅舞と里見を横切る川が役内川か皆瀬川の支流であることが間もなく知りましたが、国道107号線がこの川を横切るあたりに小さな沼があり、その沼の中央の盛り上がった小さな島に数体の大きな“鹿島様”が置かれています。この“鹿島様”は深井の雄物川の橋の傍に立っている鹿島様とウリ二つです。

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<筆者注>5月3日講演の翌日の朝、郷里の友人が運転する車で新町足田の雄勝柵跡を一回りしてから鍋倉を通過し、ちかくの国道107号線沿いの沼の鹿島様を探しにドライブしました。するとバイバスで半分に分断された北側の沼に鹿島様が二体立ち、南側の沼には「小勝田沼」という立て札があり、横手盆地に遊水地があることは聞いていましたが、ここが古くからの湧水池であることを初めて知ったのです。

この川はおそらく私の旧友の小西洋一さんの後ろを流れる川に通じているのではないかと推測しています。私の実家の真ん前の湊谷祐平さんに聞こうと思っていましたが、先月亡くなりました。

また、銀色のずぶずぶした泥の土のことですが、南形と今宿を結ぶ道路の中ほどの西側に福岡の田圃が二ヵ所ありましたが、そのうちの今宿に近いほうの一ヵ所は一反歩ほどの田圃でしたが、そこで銀色の泥水がよく湧き出ていました。

それから南形・今宿の東側にあまり大きくない沼があって、そこは生い茂った“ガチギ”(鹿島人形など使う)で鬱蒼と覆われ、私が郷里に帰ったときの秘密の釣り場でした。そこは稲荷神社や首塚のある造山に近く今宿の高花にも近いところです。

おそらくこの沼は佐藤直樹さんたちが昨年出版された『菅江真澄「雪の出羽路平鹿郡」』にのっている“黒石沼”の名残ではないかと思います。

先に述べました浅舞町鍋倉(現平鹿町下鍋倉)でもおこなわれてきた鹿嶋送りの際に付けられる祭り囃子の一種が鍋倉囃子といわれ、八幡神社のお祭りで催されるそうです。それでは鍋倉の鹿島送りと里見と浅舞の国道107号線沿いの沼の鹿島様との関係はどうなるのでしょか。本気になったら調べられるような気がするのですが、地元の人たちでなければできないと思います。

横手盆地内の雄物川流域には「鹿島流し」「鹿島送り」と称され、私がちょっと調べただけでも大曲、角間川、大雄阿気、田根森、深井などで行われ、道祖神としての“鹿島様”は雄勝町に三ヵ所、湯沢市岩崎に三ヵ所、横手市の山之内、大森町、大雄藤巻、平鹿町吉田、睦合、そして美郷町、角館にもあります。深井の雄物川橋の鹿島様もれっきとした道祖神です。

この「鹿島送り」は藤原氏が祭神とする建御雷神(たけみかづち)の鹿島神宮が古くから行ってきた祭りの風習が白河勿来の関をこて陸奥・出羽に伝わったものと考えられます。

しかし藤原氏の鹿島祭りはエミシ討伐をシンボルとする侵略・支配の鹿島送りですが、雄物川流域の「鹿島送り」「鹿島流し」の「送り」とか「流し」から受ける語感は支配者と被征服者エミシの入り混じった感情が祭りに反映しているように私には思えるのです。今後の研究調査が待たれます。

それでは、前九年の役、最近は前九年の厨川の合戦で源頼義に首を取られた陸奥の安倍貞任の一族と出羽の清原武則の一族との血縁関係について述べたいと思います。

前九年の合戦の最後の年の1062年、源頼義はかねてから懇願していた出羽の俘囚長清原武則参戦の許諾を得ます。しかし武則の兄光頼はなぜか貞任追討の連合軍には参加していません。俘囚主光頼は病気か老齢のためか、あるいはなんらかの都合で弟武則が俘囚長を代行していたと考えられます。

実は前九年の役を記録した『陸奥話記』に「安部正任が光頼の子、字は大鳥山頼遠の許に隠る」という記述がありますが、横手市教育委員会は大鳥井山遺跡の過去11回の発掘調査によって、その大鳥井山が光頼の子頼遠の居城であることを今から4,5年前発表しています。

横手市の大鳥井山遺跡が関係することなので『陸奥話記』から安倍正任について書かれた部分二ヵ所を抜きだしてみます。

『陸奥話記』16節の「宗任、経清等、鳥海の柵を放棄す」の終わりの方に、「頼義に褒められたので、武則は深く感謝して頭を下げると、直ぐに安倍正任の居城和賀郡にある黒沢尻の柵を襲い、これを落城させた。射殺した正任軍の兵32人。手傷を負って逃亡した将兵の数は多数。また鶴脛(つるはぎ=花巻市鳥ヶ崎付近?)、比與鳥(ひよどり=紫波郡陣ヶ岡?)の2柵も同じくこれを落城させた」と書かれています。この文から安倍正任は横手にちかい黒沢尻(現北上市)に居城していたことが分かります。
またもう一ヵ所は陸奥話記の最終節20節の「義家の武勇」には次のように書かれています。

斬り殺した賊軍の者は、安倍貞任、同重任、藤原経清、散位平隆忠、藤原茂久ら、帰降した者安倍宗任、弟家任、則任(出家して帰降)、散位為元、金為行、同則行、同経永、藤原業近、同頼久、同遠久らである。この外に貞任の家族に遺族などはいない。ただし正任一人はいまだに投降していない。

僧である良昭は、すでに陸奥国から出羽国に行って、国守源斎頼(なりより)に捕縛されている。正任は、当初出羽国の清原光頼の嫡子で、字を大鳥山太郎賴遠という者のところに隠れていたが、後に宗任の投降した話を聞きて、自ら出てきて逮捕されたとのことである。

昨年出版された樋口知志氏(現岩手大学教授)の研究書『前九年・後三年合戦と奥州藤原氏』によれば清原光頼の子頼遠(大鳥山太郎)の姉妹は安倍正任と姻戚関係にあることも明らかになり、敵側であったはずの正任が清原一族の頼遠の許に隠れた理由もわかったのです。

大鳥井山遺跡は小高い丘になっていて横手高校校舎裏山の南側に接していますが、遺跡の西側は断崖絶壁になっていて横手川が眼下に見えます。安倍貞任の居城厨川柵の傍を北上川が流れているのと、よく似ています。天気の良い日であれば大鳥井山遺跡の真西に沼館方面がかすかに見えます。

樋口氏の本の冒頭に掲載された陸奥の安倍氏と出羽の清原氏の関係系図を見ると一目瞭然ですが、わかりやすいといっても直近の本ですから著作権の問題もあり、直接私の本に掲載するわけにはいきません。コピーを配りましたので見て下さい。

どういう内容かと言いますと、安倍貞任の父安倍頼時は源頼義が再度、鎮守府将軍兼陸奥国守として赴任したときに頼時から頼良に名を変えます。頼時の父は陸奥権守兼奥六郡主の忠良です。

問題は貞任の父頼時ですが、大船渡を根拠とする磐井金氏(某)の1番目の娘(兄は前九年の役の河崎城主)と結婚し貞任・重任・真任・官照・家任・女子(平永衡の妻)を生みます。更に2番目の娘と則任(白鳥八郎=良照)を生みます。

また安倍頼時は出羽山北主清原光頼の妹(頼時嫡妻。妹か不明。武則とは兄弟姉妹の関係)と結婚して宗任(鳥海三郎、伊予・大宰府へ移配)・正任(黒沢尻五郎、伊予に移配)と一女子を生みます。

宗任の妹は藤原秀郷の血を引く亘理大夫経清(藤原氏)と結婚しますが、経清が厨川で裏切りものとして頼義に首を切られたのち、清原武則の長子武貞と再婚し、家衡と真衡を生みます。

したがって宗任の妹で亘理大夫経清の妻には経清と間に生まれた清衡(奥州平泉4代の祖)と武貞の間に生まれた真衡と家衡の三兄弟がいたことになります。後三年の役は家衡に叔父武衡(武則の子)が味方し、真衡と清衡に源義家が味方することによって起きた内乱と言ってよいでしょう。

ここで強調しておきたいことは安倍貞任と宗任・正任は兄弟ですが、貞任・重任は母方を通して磐井金氏の血を色濃く受け継ぎ、宗任・正任は出羽山北清原光頼の妹を通して清原氏の血を受け継いでいることです。

したがって清衡・真衡・家衡の三兄弟の血は清衡が安倍本宗家+藤原氏、真衡と家衡は清原本宗家+安倍本宗家となります。清原氏+安倍氏の血が色濃い家衡は源義家に滅ぼされ、後継者格の真衡はは乱の初めに亡くなり、生き残ったのは藤原秀郷の血を引くという亘理大夫経清の子清衡だけで、清衡が奥州平泉四藤原4代の祖となります。

朝廷が義家の金沢柵合戦の武衡・家衡討伐の恩賞要求に対して私戦とみなし要求を拒否したように、陸奥・出羽の統合整理は白河上皇と藤原氏の手で行われます。

清原武則・武貞父子と清衡・真衡は鎮守府のある胆沢郡に本拠を置き、いっぽう家衡は沼柵のある平鹿郡を与えられたのでしょう。おそらくそれを不満とした家衡に叔父の武衡が加担したのが金沢柵合戦が起きた大きな要因だと私は思います。

それでは安部貞任の祖先はなぜどのようにして奥6郡の主となり安倍氏を名乗るようになったのでしょうか。このことを述べて講演の終わりといたします。実は安倍氏の先祖は4世紀初頭朝鮮半島の南の加羅から渡来し、奈良盆地の三輪山西山麓の纏向に都を築いた加羅系渡来集団の氏族です。

「新旧二つの渡来集団の古代日本国家の形成」を提唱した石渡信一郎によれば、加羅系氏族の阿倍臣(氏)・毛野君(けぬのきみ)氏・大伴氏・物部氏らは百済系のヤマト王朝成立(490年代)する約100年前から東北地方南部に進出していました。そして百済系ヤマト王朝成立以後も引き続き、東北地方に根付き勢力を拡大したのです。

陸奥豪族の「安倍臣」への改氏姓は九世紀後半までみられるので、陸奥では加羅系氏族の阿倍臣(氏)の勢力が根強く残ったのです。9世紀後半に安倍貞行・安倍清行が陸奥守に、安倍比高(ちかたか)・安倍朝臣三寅が鎮守府将軍になっているのも、陸奥における阿部臣(朝臣)氏の勢力が大きかったからです。

<了>

1. :① 全体の中で,割り当てられ受け持つ仕事。果たしている任務。役目。 「見張りの-」 ② 責任のある重要な職務・地位。 「 -につく」 ③ もっぱらその事にあたること。 「こたつの守りを-にして過ごす」 ④ 演劇で俳優の演ずる受け持ち。

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――雄物川ふるさと講座:林順治出版記念講演(2016年5月3日、横手市雄物川コミュニティセンターホール)より