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第39回 <ヒトラーはなぜユダヤ人を憎悪したか>
──林順治

アウシュヴィッツ平和博物館講演、林順治。2016年1月31日

 

皆様今日は、只今紹介に預かりました林順治と申します。松尾芭蕉の「奥の細道」で有名な“白河の関”の地にお招きいただき光栄に思います。

自己紹介を兼ね東日本大震災に関係する話をして、追悼の言葉とさせていただきたいと思います。私は三一書房の編集者時代から現在まで古代史を中心とした本を20冊ほど出版しました。2001年の『馬子の墓』を最初に『義経紀行』『漱石の時代』『ヒロシマ』の4冊は在職中のものです。これら4冊は400字原稿で1500枚を越える厚い本です。残りの17冊は出版社を辞めた2006年以降の出版です。

私が書くテーマは古代史だけではなく中世・近現代史や漱石・啄木の文学評論にまで至っています。これらの出版で忘れられないのは2011年(平成23)3月11日の東日本大震災です。この年は『漱石の秘密』(論創社、10月)と『仁徳陵の被葬者は継体天皇だ』(河出書房新社、11月)を出しました。お話したいのは漱石のエピソードです。

漱石は友人の菅虎雄の世話により『坊っちゃん』で知られる愛媛の松山高校から明治29年(1896)4月熊本五高に赴任し、6月9日中根重一(しげかず)の長女鏡子と結婚式をあげます。その半ヵ月後の6月15日三陸海岸(青森・岩手・宮城)に大津波が襲来して2万7000余名の死者をもたらしました。

当時、漱石は五高職員の一人としてカンパをしていますが、「人生」というエッセイで「天災は人意のいかんともすべからざるもの、人間の行為は良心の制裁を受け一挙一動皆責任あり」と書いています。

含蓄のあるエッセイなので関心のある方はご自身であたって見て下さい。このエッセイは五高の交友会雑誌『龍難会雑誌』第49号(明治29年10月号)に発表されたものですが、『岩波版漱石全集16巻』に収録されていますので近くの図書館で気軽にご覧になれます。

ついでにもう一つお話します。東日本大震災の翌年の11月に『あっぱれ啄木』という本を出しました。ご存知のように啄木と漱石は一時(いずれも晩年になりますが)、啄木は臨時の校正者として、漱石は連載の執筆者として朝日新聞社で一緒に働いています。

ところで私は『あっぱれ啄木』を執筆中に岡田喜秋という人が書いた『人生の旅人・啄木』から次のようなことを知ってビックリしました。岡田氏は「啄木が初めて蟹を見たのは函館ではなく、啄木が盛岡中学3年(明治33年=1900年)の夏休みに訪れた陸前高田のことである」と指摘しているからです。

啄木は夏休みの間、先生(富田小一郎)の引率で同級生仲間六人と気仙沼、大船渡、三陸町、釜石の十日間の旅行をしました。啄木は旅行の最終日は啄木の母方の伯父で医者の家に泊まる予定だったそうです。

この旅行の途中、啄木一行は二キロも続く高田松原で海水浴を楽しみ、近くの氷上山(ひがみ)に上ります。啄木には次のような有名な歌があります。

いのちなき砂の悲しさよ さらさらと 握れば指のあひだよ り落つ

この歌碑は金田一京助の筆跡で昭和41年(1969)に高田松原に建立されましたが、2011年の大津波によって流されてしまいました。歌碑は江戸初期から植林されたという7万本の松林とともにさらわれ、今は一本の松の木しか残っていません。“奇跡の1本松”として新聞・テレビで報道されました。ちなみに函館の立待岬の啄木の歌碑は“東海の小島の礒の白砂に われ泣きぬれて 蟹とたはむる”です。

岡田氏は啄木の「砂」の連作は、明治29年の三陸海岸を襲った三陸大津波と無関係でないと言っています。なぜなら啄木は明治33年の夏休み、吉浜(高田松原の北東20キロ、現・大船渡市三陸町吉浜)で「遭難碑」を見ています。

啄木と一緒に旅行した船越金五郎の「日記」に高田松原の情景を「貝拾いおもしろし、蟹も多く群がりおりて面白し」と書き、その2日後の7月24日に一行は山の急斜面にある曹洞宗正寿院という寺の門前の「嗚呼惨哉海嘯」の供養塔を見学したことが記録されているからです。

岡田氏は、「供養塔を見た後、啄木らが砂浜で遊び、波に押し上げられた小さなイワシの群れを手掴みで捕った」ことなどが書かれていることから、啄木は津波(大海嘯)のイメージを膨らませ「砂」に託して「一握の砂」を詠った違いないと想像しています。

啄木も漱石も芭蕉も日本国民に愛され、親しまれた作家であり歌人であり、俳人です。私はここでたまたま漱石と啄木を取り上げましたが、漱石と啄木の二人に共通しているのは優れたジャーナリストであったことです。

啄木は晩年(晩年と言っても27歳未満で亡くなっていますが)、明治以降最大の冤罪事件と言える明治43年(1910)の大逆事件の真相解明に心血注ぎます。また漱石は東京帝大英文学教授を辞めて東京朝日新聞に入社しています。

漱石と啄木の二人がジャーナリストであることは、これからお話しようと思っているアンネ・フランクとアドルヒ・ヒトラーと無関係ではありません。アンネは隠れ家で自由になったら“ジャーナリストになる”と宣言し、ヒトラーは“ジャーナリストはすべてユダヤ人”(ユダヤ人=物書き・新聞・出版社の経営者、マルクス=ユダヤ人)として憎悪したからです。

ヒトラーの『わが闘争』はミュヘン一揆(1923・11・9)の2年後の1925年ヒトラー36歳の時に出版され、その後ナチの台頭とともに反マルクス主義=反ユダヤ主義のバイブルとなりなりました。一方、『アンネの日記』は歴史家として著名なヤン・ロメインが、妻がオットー・フランク(アンネの父)の知人ヴェルナー・カーンから預かって自宅に置いていたアンネの日記を一読して、翌日(1946年4月3日)、「一少女の声」と題してヘト・パロール紙に発表しました。

そのときのヤン・ロメインの論説は「この少女の“嘆きの深き淵より”の叫びこそニュルンベルグ裁判で出されたすべての証拠を合わせたよりも、はるかにファシズムのおぞましさを体現している……」というものでした。

このヤン・ロメインの論説は大きな反響を呼び、翌年(1947)オランダの出版社コンタクト社から出版されました。書名が『隠れ家』、サブタイトルは「1942年6月12日から1944年8月1日までの書簡体の日記」です。初版は1500部でした。

ヤン・ロメインが新聞に「アンネの日記」を公開した「1946年4月3日」というのは、アンネ一家がゲシュタポ(秘密警察組織)に急襲された日から2年4ヵ月経ち、アンネと姉のマルゴーがアウシュヴィッツ・ビルケナウからベルベン・ベルゼンに移送された1945年10月(はっきりした日付はわからない)から約一年6ヵ月経っていました。

アンネとマルゴーはベルゲン・ベルゼンでチフスにかかって亡くなったと推測されています。ベルゲン・ベルゼン収容所はガス室がありませんでしたが、ミミズ一匹、電柱にとまる鳥もいない不毛の地でした。

『アンネの日記」は世界各国で翻訳され、日本でも「光ほのかにーーアンネの日記」が昭和27年(1952)皆藤幸蔵(かいどうこうぞう)の訳で文藝春秋社から出版され、昭和26年度のベストセラーになっています。

ちなみに三一新書の「人間の条件」(全6冊)は昭和33年のベストセラーです。しかし現在市販の深町真理子訳「アンネの日記」(文春文庫)は今日時点のアマゾンの売行きランキング文学・歴史部門のベストテンに入っているはずです。先日見たカスタマーレビューには“あとちょっとで助かっていたのに”という賛同記事が多くありました。

 

さて、本題のヒトラーの『わが闘争』に入ります。この本はヒトラーがヒンデンブル大統領から首相に任命されて権力を握った一九三三年まで一○万部売れ、ヒトラー(1889年4月20日 ― 1945年4月30日)が自殺して第三帝国が滅びる1945年まで1200万部に達したと言われています。『わが闘争』はナチスのバイブルとされ、新婚家庭への贈物や学校の教材などにも使われたからです。もちろんドイツ以外の欧米諸国などでも二十数ヵ国の言語に翻訳されベストセラーとなっています。

1945年以降もナチ政権の研究資料として諸外国で数百万部売れたと言われています。いっぽうドイツ国内では1945年に発禁処分になって以来、2006年まで『わが闘争』の研究書はいっさい刊行されていません。

しかし、ここ二、三年のニュースではバイエルン州ミュンヘンの現代史研究所はヒトラーの死後七○年にあたる著作権保護期間が終了する二○一五年(昨年度)一二月末日をめどに、厳密な注釈を付した『わが闘争』の歴史・批評版の編纂にとりかかっているとのことです。

しかし、ご存知の方もいらっしゃると思いますが、今月1月9日の朝日新聞夕刊によりますと、上・下2巻、本文780頁で約3500の注釈付、計2000頁の『わが闘争』が出版され、すでに書店に出回っているとのことです。定価は59ユーロ約7500円です。ネット上では原書の前文を読むことができるそうです。

さて、ヒトラーが『わが闘争』の執筆のきっかけになったミュンヘン一揆とは、1923年1月8日か9日にかけておきたヒトラーらナチ党員にルーデンドルフ将軍(第一次世界大戦の英雄)らが参加したドイツ闘争同盟がおこしたクーデター未遂事件のことです。

彼等のデモ行進は半日で鎮圧され、ヒトラーら首謀者は逮捕され、ランズベルク要塞刑務所に収監されます。

ミュンヘン一揆は「ビュルガーブロイケラー一揆」とも呼ばれています。ヒトラーたち政治結社の集会・演説はビアホールで行われたからです。敗戦末期に誕生したエーベルトのワイマール共和政権に対して、第一次世界大戦の復員兵・将校らが中心になって結成されたのが「ドイツ闘争同盟」です。エルンスト・レームの国旗団、エーリッヒ・ルーデンドルフ(大戦の参謀本部総長)を顧問とするオーバーランド団、ミュンヘンの祖国的連盟、そしてヒトラーのナチ党などから構成された当時の「極右」の集団です。

ドイツでは大戦の末期の1918年11月のキール軍港における水兵の反乱をきっかけにドイツの各都市に労働者と兵士(労兵評議会)による革命が広がり、当時のドイツ皇帝ヴィルヘルム2世(第9代プロイセン王国国王・第3代ドイツ帝国皇帝)は オランダに亡命したのち退位します。

ところが将軍のなかでとくにヒンデンブルクは兵士の間では英雄と崇められていました。そのヒンデンブルグは機会あるごとに“背後からの匕首(あいくち)”論を強調しました。「背後からの匕首」とは第一次大戦の参加した国民・兵士の大半が激戦のなかで生死をかけて戦っている間に国内では革命政権(労働組合、マルキストら)が樹立されたという論法です。ヒンデンブルクはドイツの敗戦と経済的不況を革命政権とマルクス主義者や共産党のせいにしました。

たしかにエーベルトは馬具職人組合の書記長からドイツ社会民主党(SPD)の党首になります。エーベルトは戦争に協力しましたが、戦争に反対したカール・カウツキー(ドイツのマルクス主義の理論的指導者、哲学者)左派はドイツ独立社会民主党(USPD)を結成し、ローザ・ルクセンブルグやカール・リープクネヒトは急進左派のスパルタクス団を結成しました。

最近、ローザ・ルクセンブルグの映画が岩波ホールで再上映されましたが、ローザ・ルクセンブルグもカール・リープクネヒトも義勇軍に虐殺されます。ルクセンブルクもリープクネヒトもレーニンのボルシュヴキの影響を大きく受けています。極右の「ドイツ闘争同盟」がこれらマルキストやマルキストと同じ釜の飯を食ったエーベルト政権を憎悪することあっても好むわけがありません。

当時、ヒトラーはまだ海のものとも山のものともわからない弱小右翼政党の党首でした。その意味では「ミュヘン一揆」はヒトラーを有名にしました。ヒトラーはベルリン進撃を躊躇する同じ仲間の極右三党の政治会場に乗り込み「このピストルには弾が4発入っている。3発は私を裏切ったとき撃つためのものであり、最後の一発は自分のためのものである」と激昂します。

するとゲーリングは「諸君! 心配するな、ビールがあるじゃないか」と冗談を飛ばします。ヒトラーは「でなければ、機関銃もあるぞ」と脅しえんえんと演説をはじめます。このようにミュヘン一揆にはのちにナチの大幹部となるヘルマン・ゲーリング、ハインリヒ・ヒムラー、ルドルフ・ヘスなどが加わっています。

ここでドイツ社会民主党の党首フリードリヒ・エーベルト(任期1919・2・4-1925・2・28)のワイマール共和国(1919-33)のことを説明しておきます。1919年ドイツのワイマールで憲法を制定したのでワイマール共和国あるいはワイマール共和政とも呼ばれます。

ワイマール憲法の最大の特徴は直接選挙で選ばれる大統領(任期7年)を国家元首におき憲法停止の非常大権など強大な権限を与えていることです。選挙権は20歳以上の男女に与えられ、大統領は議会の解散権をもち、議会は不信任決議をすることで首相を罷免できるとしています。ヒトラーはこのワイマール憲法に保障された選挙制度を最大限に利用して1933年のナチ政権の獲得に成功します。

話を1923年1月のミュンヘン一揆に戻ります。九日の朝のデモ行進はルーデンドルフ将軍が先頭にオデオン広場に近づいたところで待機していた警察隊に一斉射撃によって16名の死者がでます。ヒトラーへの銃弾は一党員が身を呈して防ぎますが、肩を組んでいた同志は即死しました。この警察隊の発砲は先頭のルーデンドルフ将軍が無傷であったことから狙い撃ちだったとされています。

ルーデンドルフは行進を止めずに警察隊の隊列まで進んで逮捕され、エルンスト・レーム(後のナチ突撃隊長)も逮捕されます。ヒムラーは逃げ切り、ゲーリングは足を撃たれ負傷しますが、居合わせたユダヤ人女性に助けられてオーストリアに亡命します。ヒトラーは二日後南バイエルンの仲間の別荘に逃れますが、一一月一一日に逮捕されます。

ヒトラーはミュンヘン一揆の1年後にレヒ河畔のランズベルク要塞拘置所で『わが闘争』を書き上げます。ヒトラー34歳の時です。ヒトラーは『わが闘争』の冒頭に「1923年11月9日12時30分、ミュンヘンのフェルトヘルンハレ前および旧陸軍省構内において、左記の人々は民族の再興を固く信じつつ倒れた」と献辞しています。16名の生年月日と職業・肩書(商人・帽子製造人・銀行員・錠前屋・料理店給仕長・官吏・判事・大尉)が付されています。

一方、ヒトラーはミュンヘン人民裁判所では「一揆の扇動者は自分であることを認め、一切の責任は自分にあり、それ故自分は非難されるべきではなく、賞賛されるべきである」というヒトラーの独特のレトリックを駆使して傍聴者を自家薬籠中(じかやくろうちゅう)の物としました。

判決はヒトラーとクリーベル少尉が五年の刑となりますが、実際、ヒトラーが服役した日は262日です。ブリュックナー少尉、レーム大佐、ベルネト陸軍中尉、ワグナー少尉、フリック陸軍中佐が一年半の執行猶予、ルーデンドルフは無罪となりました。三人の素人判事たち(保険調査係、保険事務員、煙草屋)はタンネンベルグの英雄ルーデンドルフに反逆罪を適用することを絶対に認めようとはしなかったのです。

こうしてヒトラーは1924年12月20日までランズベルク要塞で過ごしました。しかし、新聞・ラジオは自由に閲覧でき、訪問客を迎えるのも自由でした。その訪問客の中にはルドルフ・ヘス(後の副総統)やヒトラーの信奉者作曲家ワグナーの義理の娘もいました。彼女はヒトラーの頼みを受け、大量の紙と鉛筆、消しゴムなどを差し入れています。

またドイツ銀行の社長でナチの主要な支援者であったエミール・ゲオルグは最高級のレミントン社のタイプライターをヒトラーに贈っています。ヒトラーは自分でタイプライターを打ち、ヘスや運転手兼秘書のエミール・モスに口述筆記をさせています。

1924年5月4日と12月7日に第2回と第3回の国会選挙が行われますが、ヒトラーはこの間入獄中でした。第2回は共産党が独立社会党の一部とあわせて4議席から62議席、ナチ党が32議席を獲得します。ナチ党が選挙に参加したのは第2回が最初です。第3回選挙はナチ党が前回の32議席から14議席に、共産党は62議席から45議席に減っています。

しかし一貫してヴェルサイユ条約の破棄とワイマール共和政の打倒を主張したナチ党は1930年14日の第5回の国会選挙で107議席を獲得します。社会民主党の153議席に次ぐ第二政党に躍進しました。二年前の12議席から95議席増やすという驚くべき結果となったのです。

国会の開会式には褐色のシャツを着たナチの議員107名が一団となって議場に入りました。ほかの議員たちはこの様子を見て笑いました。しかしその笑いは面白いから笑ったのではなく、内心の恐怖を隠すための笑いだったと私は想像します。

1932年3月大統領選挙が規定通り行われました。ヒトラーは選挙の直前に政府顧問任命されるという形式をとり、オーストリア国籍からドイツ国籍に代え大統領選挙に立候補します。社会民主党はヒトラーを落とすためにヒンデンブルグを支持します。第一回の投票でヒンデンブルクは過半数におよばなかったので、第2回目の決戦投票は4月10日に行われました。

結果はヒンデンブルクが53%、ヒトラーが36%、共産党のテールマンが10・2%でした。この選挙でヒトラーは1150万票を獲得しています。ヒトラーは際立った弁舌とテロと暴力のナチ隊を動員して大統領選挙を戦います。

ヒトラーとナチ党員は大衆の不満を巻き起こし、演説や集会を妨害し、邪魔するものは徹底的に痛めつけ、根こそぎに排除しました。共産党に対しては決まって会場に押しかけ集会をめちゃめちゃにします。時と場合によっては自党の集会でも暴力や乱闘の場にして大衆の興奮を煽り立てるのです。

ケンカが誰よりも好きなゲーリング、無限におしゃべりを続けることの好きなゲッペルス、組織煽動が得意なレーム、取り締まることの好きなヒムラーたちがこの選挙で八面六臂に動き回りました。

1932年6月1日、カトリック中央党(以下、中央党)のフォン・パーペンと首相をとする新内閣が生れました。しかしパーペンは第一次世界大戦時の上官であった軍人兼政治家のヘルマン・シュライヒャーの傀儡でした。この新内閣の閣僚で議席をもつのは経済相だけで、九人中七人の閣僚が貴族という「男爵内閣」でした。

ヒトラーは「ヒンデンブルグには可愛がられたが、誰も真面目にとりあわなかった」というパーペンに会い、新内閣の指示の条件として二つの重要な要求を呑ませたのです。一つは突撃隊(SA)の活動禁止の解除と国会の解散と総選挙の実施でした。

パーペンはヒトラーとの約束通り、7月31日総選挙を実施しました。ナチ党は禁止を解かれたSAを動員して社会民主党や共産党の集会、選挙事務所を襲撃しました。対する各党も疑似武装集団を投入して対抗したので、さながら内戦状態になりました。

パーペンはこのような状態を放置しました。選挙の結果、ナチ党が230議席でついに第1党に躍進します。共産党が前回の77議席から89議席、社会民主党が一○議席減らして132議席となりました。中央党が65議席、国家国民党が37議席、その他のブルジョア政党は崩壊しました。

ヒトラーは首相に就くことを要求しますが、もともとパーペンもヒンデンブルグもヒトラーを首相にする積りはありません。ヒトラーはパーペン政府への可能性をあきらめ、ナチ党のヘルマン・ゲーリングを議長にしました。9月12日開会されたばかりの国会で政府不信任案が513対43という圧倒的な多数で可決されます。

1932年11月16日の第7回の選挙結果は、共産党100議席、社会民主党が121議席、中央党が70議席、国家国民党が52議席、ナチ党が193議席でした。12月3日、シュライヒャーを首相とする新内閣が発足しました。シュライヒャーの構想は軍と労組と大衆を結合させることにありました。しかしこの構想はヒトラーの入閣拒否によって頓挫します。

ヒンデンブルクもパーペンもシュライヒャーもヒトラーに政権を渡すまいとして取引しようとしましたが、ヒトラーは断固首相の座を要求します。シュライヒャーはやむなく34日で政権の座を降ります。パーペンはケルンの銀行家クルト・フォン・シュレーダー男爵邸でヒトラーと会談し、パーペンはその場でヒトラーを首相として受け入れたのです。もちろんパーペンはヒンデンブルクの了解と同意があることを伝えたのは言うまでもありません。

1933年1月30日、ヒトラーを首相とし、パーペンを副首相に、国家国民党のフーゲンベルクを経済相とするナチ・保守連合が成立しました。ワイマール共和国憲法の政治制度はこの日をもって完全に崩壊しました。

ヒトラーがヒンデンブルク大統領から首相に任命された1933年1月30日の夜、ナチ突撃隊はブランデンブルグ門からウィルヘルム通りまで炬火(たいまつ)行進をしました。この夜はヒトラーにとって最高の日であったのです。

その約二ヵ月後の三月二一日、ナチ党は国家国民党と共同で「民族および国家の危機を除去するための法律案」すなわち全権委任法を国会に提出し、二日後の三月二三日、賛成四四四票、反対九四票の圧倒的多数で可決しました。

この大統領緊急令によってナチ政府は各地に強制収容所を設置を開始しました。三月二二日ミュンヘン警察署長のヒムラーはミュンヘン北西の爆薬工場跡地に共産党員をふくむ政治犯のためのダッハウ強制所第一号を造らせました。

ヒトラーと同じミュンヘンに住んだことのあるトーマス・マン(1875-1955.1929ノーベル文学賞受賞)は「底知れぬ怨念が、この無能者、不能者、極度に怠惰でどのような仕事もできない、締め出された四分の一の芸術家の彼が、いいようもなく低劣ではあるが、大衆を動かす力をどのようにして身につけたのか」(『トーマス・マン全集9・10』評論1・2、新潮社)と、その桁外れのヒトラーの言動に絶句しています。そしてトーマス・マンはヒトラーを神経症患者であったと断定しています。

それではヒトラーは本当に神経症であったのでしょうか。フロイトがその正体を発見したという神経症とはどのようなものでしょうか。まずはヒトラーの出自と幼少年時代の生活環境を追ってみます。

ヒトラーは1889年4月20日オーストリアのミュンヘンから110キロ東を流れるイン川のほとりのブラウナウ・インという町で生まれました。ヒトラー誕生の一八八九年という年は、日本の明治二二年にあたり、その年の2月11日は大日本帝国憲法が成立しています。

当時のオーストリアはオーストリア・ハンガリー帝国、別称オーストリア・ハンガリー二重帝国とも呼ばれました。「二重帝国」とは1867年から第一次世界大戦が終わった1918年までのハプスブルグ帝国(首都ウィーン)のことを言います。

1866年から7年のプロイセン・オーストリア戦争は、フランスのナポレオン三世(ナポレオンの甥)に対抗するためのドイツ統一の主導権を争う戦争ですが、この戦いでオーストリアはプロイセン首相ビスマルクの並はずれた外交手腕と参謀総長モルトケの軍事作戦によって敗北します。

当時のドイツ連邦国家は日本のように徳川家康を始祖とする徳川家が覇権をにぎる江戸幕藩体制でもなく、明治維新による天皇制国家のような統一国家でもない、緩い国家連合でした。しかし資本主義の発展とあいまって、プロイセンの主張する小ドイツ主義とオーストリアの主張する「七千万人帝国構想」をめぐってプロイセンとオースリアの対立が激化し、周辺の中小諸国がいずれの側につくかの選択に迫られたのです。

ヒトラーの住んでいた1910年当時(ヒトラー21歳)のウィーンの人口は200万人、対してユダヤ人は17万5000人で総人口に対する比率は11・7%です。これは“アウグスライヒ”という1867年にオーストリアとハンガリーとの間に1867年(オーストリアがプロイセンに敗北した年)に結ばれたハプスブル家の当主オースリア皇帝を両国の共通の君主とする協定ですが、以来、60万人のウィーンの人口は43年の間に3・3倍の200万人、四万人から4・26倍の17万5000人まで増えたのです。

プロイセン・オーストリア戦争の前のドイツ連邦国家はホーエンツォレルン家のプロイセンとハプスブルグ家のオーストリアが2大指導王国でしたが、1848年のフランスの2月革命はオーストリアの首都ウィーンやプロイセンの首都ベルリンに波及しました。首都ウィーンでは3月13日、市民・学生とウィーン市壁の外に居住する多数の労働者やスラブ人による暴動が起き、50人を越える死者がでました。

オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世はこの年の12月憲法を制定し、「国のすべての種族は自らの民族性と言語を保持し振興する不可侵の権利を有する」と憲法19条で宣言しました。この憲法の恩恵に浴したのは同化ユダヤ人です。ユダヤ人のウィーン流入禁止が解除されたからです。

同化ユダヤ人はすでに数世代わたってドイツ語を母国語にしているユダヤ人のことです。同化ユダヤ人はドイツ系ユダヤ人ともユダヤ系ドイツ人とも呼ばれます。つまり西欧化したユダヤ人のことです。ドイツ語を使い、キリスト教に改宗した者もいますが、改宗しない者もいます。改宗したユダヤ人はオーストリア人と同等に認められます。

ちなみに同化ユダヤ人で著名な人物はモーゼス・メンデルスゾーン、ハイネ、マルクス、フロイト、カフカ、アインシュタインです。フランクフルト生れのアンネの父オットー・フランクの父母は同化ユダヤ人ですが、フランクの妻の父母はユダヤ教の戒律を生活習慣にしていました。

ところでヒトラー家の系譜(系図と言ってもよい)ですが、ヒトラーの実母クララ・ベルツルは(1860―1907)はオーストリアのヴァイトラで父ヨハンナ・ベルツルと母ヨハンナの間に生まれています。ヒトラーの祖母ヨハンナはヨハン・ネムボク・ヒドラ―の娘であり、ヒトラーの父アロイスにとって母クララ・ベルツルは戸籍上の姪にあたるばかりか、アロイスより年齢が二二歳も年下でした。

アロイスとクララの間には6人の子がうまれていますが、育ったのは4番目の子として生れたアドルフと7年後に生まれたパウラだけで他の4人は夭折しました。

一方、マリア・アンナシックルグルバーという名の母親もつヒトラーの父アロイスは自分の父親が誰か知りませんでした。つまりアロイスは私生児でした。

ヒトラーの父アロイス(1838-1903)は、4歳のとき母親(マリア)がヨハン・ゲオルグ・ヒドラ―という粉ひき職人と結婚すると、その夫の弟ヨハン・ネボムクの家に引き取られます。アロイスは小学校を卒業すると靴職人の徒弟奉公人としてウィーンに移り住みます。そして職人試験に合格したのちも勉強を続け、1855年にオーストリア帝国大蔵省の守衛となり、さらに刻苦勉励を続けて30歳のとき正式な官吏(役人)になります。

ヒトラーの父アロイスは3度も結婚しています。最初の相手はアロイスより14歳年長のアンナ・グラスルという女性で当時50歳でした。3年後アロイスは養父ヨハン・ネムボクによって、継父(けいふ)(母親の再婚相手)ヨハン・ゲオルグの摘出子(ちゃくしゅつし)として認知され、シックルグルバー姓のヒドラ―からヒトラーに姓をあらためます。

この頃アロイスは病気がちな妻アンナ・グラスルの面倒をみるために、養父ヨハン・ネムボクの孫娘クララ・ベルツルを住み込ませました。その後、アロイスはアンナ・グラスルとは事実上離婚しますが、カトリック法の規定により正式には離婚できませんでした。また、アロイスはその少し前からフランチェスカ・マツェルスベルガーという19歳のウェトレスと関係を持ちアロイスという男子が生れています。

1883年アンナ・グラスルが死亡すると、アロイスとフランチェスカは正式に結婚します。この年、二人の間にアンゲラという名の女子が生れます。しかしフランチェスカは身体をこわし転地療養し、翌年に亡くなります。クララ・ベルツルはフランチェスカに代わってヒトラー家の家政をみていましたが、やがてアロイスと結婚したのです。

ヒトラーが3歳のとき一家はブラウナウの北東のオーストリアとチェコの国境パッサウ市に転居し、それから再びオーストリア領のリンツ市に移住し、その2年後に郊外に購入していた農地を手放してランバッハ市内に定住します。父アロイス60歳、ヒトラー8歳のころです。

『わが闘争』でヒトラーは子どものころから戸外でよく遊び、弁舌の才能もケンカや仲間との遊びで鍛えられたと自慢しています。しかし年はとっているが立身出世型で複雑な婚姻関係もつ強情な父親と年齢が離れた虚弱な母親の下で育てられたヒトラーは、フロイトのいう神経症の発生の多くの要因を幼少期に内包しています。

ヒトラーは本をよく読んだが、とくに戦争物が好きでした。スペイン王位継承問題が引き金となったフランスとプロイセンの普仏戦争(1870-71)の絵入り物語の雑誌がヒトラーの愛読書でした。

ヒトラーは絵を描くこともが好きだったので、進路のことで父アロイスとの諍いが絶えませんでした。ヒトラーが本当に絵の才能があったかどうかは、定かではありません。父アロイスは普通ならばヒトラーを小学校4年経たのちギムナジウム(中高一貫教育)に進ませるところを、リンツの実科学校に入れています。

小学校は2年だけで後の2年はラムバッハ修道院で過ごさせたとう研究者もいますが、たしかにヒトラーはラムバッハ修道院で聖歌隊員になったことはありますが、修道院で過ごしたという説は間違いのようです。

なぜなら大澤武男の『青年ヒトラー』(平凡社新書、2009)によると、グルントシューレ小学校4年生のアドルフ(ヒトラー)の写真が見つかっているからです。またアドルフのリンツ実科学校における学習態度を裏付ける教員会議議事録も見つかっています。

これらの資料によると第2学年A組29名の中に4名の叱責対象者がいますが、そのなかにアドルフが入っています。さらに第3学年A組27名のなかで、ただ一人アドルフだけが「学習態度は注意、警告する必要がある」と記録されています。

『青年ヒトラー』によると、ヒトラーは第1学年で落第し、第1学年をもう一度繰り返して合格しています。第2学年の成績は不可でしたが、再試験によって及第して第3学年へ進みます。

第3学年の終りも成績不良であったが、追試験でやっと何とか合格させてもらっています。しかし成績の常なる不振の者は、他の学校のへの転校を義務付けられています。

したがって転校を余儀なくされたアドルフはリンツ市に隣接するシュタイルという田舎町の実科学校第4年生に編入することになります。しかし転入さきの学校でもその年の無断欠席が30日にも及びます。

そして翌年の1905年には肺を患い、実科学校を退学してリンツの母のもとに帰ります。ヒトラー16歳の時です。この頃ヒトラーはフロイトのいう15、6歳から発生する神経症の渦中にあったとみることができます。

 

<休憩10分>

✳主催者側から質問用紙を渡してもらいます。そして講演中か講演終了直後に回収します。

 

それではフロイドの指摘する神経症とはどのようなものをさしていうのでしょうか。少し難しいですがしばらくお附き合い戴きたいと思います。これは私の仮説ですがロシアの文豪レフ・トルストイや日本の明治の文豪夏目漱石もこの神経症に罹ったとみています。漱石については拙著の『漱石の秘密』と『猫と坊っちゃんと漱石の言葉』をお読みいただければ幸いです。

フロイトは晩年の『モーセと一神教』なかで「心的外傷のすべてはおおよそ、5歳までの早期幼年時代に体験される」と書いています。このフロイトの『モーセと一神教』には“モーセはエジプト人であった”というサブタイトルが付いていますが、フロイトの遺言の書とも呼ばれています。拙著『ヒトラーはなぜユダヤ人を憎悪したか』はヒトラー・アンネ・フロイトが三つの柱になっていますので、少しフロイトの話をさせていただきます。

実は1938年3月13日、ヒトラーがウィーンを占領したので、フロイト一家は6月4日、二人の息子がいるロンドンに亡命します。フロイトは第二次世界大戦がはじまる1年前の1939年9月23日の83歳の時、ロンドンで死去しますが『モーセと一神教』は前年の10月ごろオランダで印刷されそのドイツ語版が一年経った39年8月頃まで2000部ほど売れました。

フロイトの『モーセと一神教』はロンドン「亡命前」と「亡命後」の三つの論文からなっています。最初の「1938年3月以前」の論文を発表する1年前にフロイトは、ニーチェやリルケの愛人であり友人のルー・サロメに「オーストリアのカトリック教会当局からの精神分析に対する禁止という危険と冒さないでは発表できないし、また逆にこのカトリック体制のみがフロイトたちをナチズムから守ってくれるから」と、書き送っています。

しかし「亡命後」の論文の冒頭にはフロイトは次にように書いています。

 

もはや何も失うのもはない。あるいはほとんど失うものがない者の固有な大胆さでもって、私は十分に納得した上での決意をもう2度目であるが翻し、これまで差し控えていた結末部を付け加えることにする。この仕事を成し遂げるためには私のもろもろの力はもうないであろうと自覚している旨をすでに明瞭に述べたし、高齢ゆえの創造力の減衰という事態ももちろん考えたのであるが、しかし、なお別の障害を念頭においていた。

 

引用最後の「別の障害」というのは、いままではカトリック教会

の保護を受けてナチの弾圧を免れてきたが、この論文にあらたな結末部を付け加えることによって生じるカトリック側からの圧力の事です。

フロイトが言う新たに付け加える「結末部」というのは、フロイトがユダヤ教の一神教を神経症発症の類似する事例として分析したことです。

どういうことかと言いますと、かつて経験され、後に忘却された印象、すなわち神経症の病因論に非常に大きな意味をもつ印象をフロイトは心的外傷と名付けています。それは論理的思考を圧倒し、心に迫りくる強迫という名の特徴をもちます。

心的外傷のすべては5歳までの早期幼年時代に体験されます。その体験は通常完全に忘れさられているのですが、要するに心的外傷→防衛→潜伏→神経症発症の経過をたどるというのです。

人類の生活のおいてもこのような個人の生活における事態と似たことが起こっているとフロイトは考えたのです。人類の生活でも性的・攻撃的な内容の出来事がまず起こり、それは永続的な結果を残すことになったが、とりあえず防衛され忘却され、長い潜伏期間を通してのち、発生すなわち出現するというのです。

フロイトはこの想定にもとづき、神経症状に似た結果こそ宗教にほかならないと考えました。『モーセと一神教』に展開されたこのフロイトの仮説は発表後、“モーセを語る人はフロイトを語らず、フロイトを語る人はモーセを語らず”の状態が長く続き、フロイトが伝えようとした『モーセと一神教』の真髄に気が付きませんでした。

『モーセと一神教』は、2003年渡辺哲夫の訳でちくま文庫からで出版されていますので手軽に入手できますので興味のある方はご自分で当たってみてください。神経症はだれにでも多様に現れる可能性がありますのでその解釈は各自異なる場合があるからです。

それでは実科学校と退学しての母のもとに帰ったヒトラーその後

の話に戻ります。当時、ウィーンは建築ラッシュでした。父アロイスは自分の体験にもとづき息子のヒトラーをせめて実科学校を卒業すれば、絵の才能を生かして設計技師ぐらいにはなれると思ったのでしょう。

ヒトラーの顔は母親似だと言われています。傲岸な父アロイスの性格に対して抑圧された内気で病弱な母親の気質がヒトラーに伝わり、ヒトラーは母親の代弁者として振舞おうとしたのかもしれません。『わが闘争』には父とヒトラーの諍いについて次にように書かれています。

ある日、いつものように父とヒトラーの間で今後の職業についての口論が始まります。「それではお前は何になりたいのか」と父、「美術画家だ」とヒトラー。「自分が生きている間は許さない」と父。美術画家という海の物とも山の物ともわからない世界を夢みる息子を、靴職人から税官吏になった苦労人の父は許そうとはしません。

父アロイスは息子が絵を口実にして怠惰な生活を送っていることから、絵の世界でもヒトラーが成功しないことを見抜いています。仮に父が強情で間違っているとしても、ヒトラーの生涯においてよくもわるくも彼の性格をたたき治そうとしたのは唯一父アロイスだけです。ヒトラーは『わが闘争』で次のように語っています。

 

私は成績が目に見えて落ちたことだけは確かであった。自分の好きなもの、なかでも自分の画家として後に必要だと考えたすべてのものを学んだ。この点で無意味と思うものや、その他の心を惹かれないものを私は徹底的になまけた。

この時代の私の成績は科目やその評価によっていつも極端さを示した。優や良とならんで可や不可があった。地理の成績はずば抜けてよく、世界史はさらによかった。この二つの成績はクラスで抜群であった。

 

父アロイスとヒトラーの諍(いさか)いは、ヒトラーが実科学校第2学年から第3学年の頃でしょう。というのは、父アロイスはヒトラー14歳の時、脳溢血で亡くなります。

そこでヒトラーは念願の美術学校に入学するためウィーンに出ます。ヒトラーが17歳(1906)の時です。そして母が亡くなったのは翌年(1907)のヒトラーがウィーンで美術学校の準備中でした。

1907年9月ヒトラーが受けた際の美術学校絵画科の成績が

残っています。「才能、貧弱。入試絵画。不可」とあります。ヒト

ラーは入学試験に失敗しました。この入学に失敗した当時の心境を

ヒトラーは『わが闘争』で次のように語っています。

 

私は入学試験の結果に対する誇らかな自信を持っていた。私

は成功について確信していたので、不合格の通知は青天の霹靂のようであった。けれどもそれは事実であった。私は学長に面会し、そして美術大学の一般画科の不合格の理由を説明してくれるようにたのんだ。

彼は私に、私が持って来た絵が画家としての不適正を示していることには異論はないが、しかし私の才能がはっきりと建築分野にあり、私には美術大学の絵画科ではなく建築科だけが問題になる、と評価した。私がそれまで建築学校に行ったこともなければ、また建築の授業をうけたことがないことを人々は全く知らなかった。

ウィーンはヒトラーのような性格にはピッタリでした。美術学校受験の失敗は当然でした。ヒトラーは受験らしい勉強をしていなかったからです。ウィーンはヒトラーの目には豪壮と悲惨、絢爛と貧困、栄光と敗北、成功と挫折とのコントラストを徹底的に映し出します。しかしこれらの矛盾と葛藤はヒトラーのもって生れた闘争心と父親譲りの強情心をいっそう煽るだけです。

そして美術学校の入試の失敗からの5年の歳月はヒトラーを大きく変えます。ヒトラーが母の死にともなう遺産問題を片付けてふたたびウィーンにもどったのは1908年2月です。ヒトラーはミュンヘンに移るまでの5年間はウィーンで生活しました。

最初の2年間はウィーンのシェーンブルク宮殿に近いマイトリングの浮浪者収容所で過ごします。この収容所はオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフの保護による浮浪者のための慈善施設です。マイトリング収容所の2年間は補助労働者や画工をしたりしながら食費を稼ぎます。

しかし『わが闘争』によるとこの2年間は休みなく徹底的に本を読んだとヒトラーは豪語しています。これについては信じがたいという研究者もたくさんいますが、『わが闘争』の首尾一貫した主張からかなりの専門書を読んでいた可能性あると指摘する研究者もいます。

マイトリング浮浪者収容所を出たヒトラーは、1910年2月8日、ウィーン市の公共施設の労働者地区ブルギッテウナウのメルデマン街の男子寮に移ります。ここには数百名を超す労働者や日雇い人夫が宿泊しています。公共施設ですから食費は格安で個室にはベッドや机も備え付けられています。

マイトリング浮浪者収容所とメルデマン男子寮の5年間のウィーン時はある意味ではヒトラーを大きく成長させます。ヒトラーが実科学校を中退してやってきたころのウィーンは四つの主義・政党が複雑にからみあって対立していました。

一つはルエーガーの反ユダヤ主義、二つはゲオルグ・シェネラーが指導する反ユダヤ・反ハプスブルグのドイツ民族主義運動、三つはユダヤ人で社会主義運動家であり、のちオーストリア社会民主党の初代党首となるヴィクトール・アドラーの反資本主義運動、そして四つ目はテォドール・ヘルツルのシオニズム主義です。

二つ目のゲオルグ・シュネラーは国粋主義的な労働組合を組織して、ドイツ系労働者の仕事を奪うスラブ系労働者を排撃しました。彼は「ローマからの離脱」をスローガンとして、カトリックのハプスブルクではなくプロテスタントのドイツを主張しました。

世紀末ウィーンの経済・人種・宗教が複雑にからんだユダヤ人問題は、まだヒトラーにとって難問でしたが、直観力に優れたヒトラーは大雑把ですが、自由主義はユダヤ主義、資本主義はユダヤ主義であることを学びます。

ところでヒトラーは『わが闘争』では社会民主党からテロと暴力を学んだと広言しています。この発言は当時のロシアを含むヨーロッパの歴史を知る上で重要です。

というのは、ヒトラーの17歳前後の頃は社会主義者(マルキスト)の国際組織である第二インターナショナルが1889年(ヒトラーが生まれた年)から1914年まで活動し、1907年のシュトトットガルトの大会ではロシアのレーニンとドイツのローザ・ルクセンブルクは戦争反対の決議を行います。

その時のレーニンとローザ・ルクセンブルグの方針は「戦争には反対するが、戦争勃発の場合は経済的・政治的危機を資本主義の打倒のため利用する」というものでしたが、1912年のバーゼル大会では「戦争突入後も帝国戦争の内乱転化」を主張したレーニンら左派とカール・カウツキー(ドイツ社会民主党の理論的指導者)らと分裂します。

当時、ヒトラーは建築現場の日雇い現場で働いていました。とこ

ろがある日一人で昼食をとっているところに労働組合の活動家がやってきて「国家は資本主義階級の仮構であり、祖国はブルジョアジーが労働者階級を搾取するための道具である。法律の権威はプロレタリアを弾圧する手段であり、学校は奴隷要因と奴隷所有者を飼育するためある」と説得するのです。

このヒトラーを説得しようとした一労働組合員の言葉は、私(林

順治)にはつい最近聞いたことのように錯覚を覚えます。つい最近

とはいって私が1960年代の学生のころですが、全学連の運動家

が休講中の教室に入ってきて始めるアジ演説とそっくりだからで

す。

その事はさておき、ヒトラーは社会民主党員の言うことよく理解

することができませんが、興味があったので本やパンフレットを読

んでから、ヒトラーは社会民主党員にたびたび質問をし、議論する

ようになります。すると彼らは暴力とテロ行為に出たのです。社会

民主党員の数人がヒトラーに向かって「建築現場を立ち去るか、こ

こから落とされるか、どちらが好いか」と詰め寄ってきたのです。

ヒトラーは社会民主党員のこのようなやり方を彼なりの分析をしていますが、きわめて示唆的です。というのはこれに類するようなやり方が日本の学生運動や労働組合の一部で1970年代の初めまでは行われていたからです。ヒトラーは『わが闘争』で恐るべき次のようなことを言っています。

「もし社会民主党員に対してもっと真実さに満ちた、しかも同じような残虐な実行力をもったイデオロギーで対立すれば、たとえ非常な苦しい闘争の後でもきっと勝利するにちがいない」と。

なぜなら「大衆は大衆自身がそれぞれもっている精神的弱さ、怠惰、無能、失敗、病気、怨念、嫉妬など転訛するべく我を忘れるような強烈なイデオロギーを求めているからだ」と。

何か後のヒトラーのナチの暴力とテロをまざまざとみるようですが、ヒトラーがこのやり方を社会民主党員から学んだというのでから、半分は本当の話でしょう。しかしこのような運動組織論を17、8才のヒトラーが体得したとは思われません。おそらくミュンヘン一揆までの体験を生かし、今後の選挙活動の予告として『わが闘争』に綴ったものでしょう。

そろそろ締切り時間が迫りましたので先を急ぎます。

1914年6月14日、ハプスブルク帝国(オーストリア・ハンガリー二重帝国)の皇太子夫妻がサラエボ訪問中に民族主義者の一青年に射殺されたのをきっかけに、オーストリアは対セルビアに対して宣戦布告をします。ちなみにイタリア映画の巨匠フェデリコ・ヘリーニはセルビア人による皇太子夫婦殺害事件を背景とした映画『そして船は行く』という作品を1983年に作っています。

ヒトラーがミュンヘンに来て一年目に第一次世界大戦が始まります。ドイツがロシアに宣戦布告した翌日の8月2日にミュンヘンのオデオン広場に集まった数千人の群衆の中にいる喜色満面のヒトラーの写真が残っています。

ヒトラーは8月16日、第16バイエルン予備歩兵連隊に入隊し、

10月には西部戦線に向け出発しています。出征した年の1914

年12月伝令兵として功2級鉄十字勲章を受け、その後、4年間ベ

ルギー、フランスの西部戦線を渡り歩きます。ヒトラーは2度負傷

し、2度目は毒ガスで失明寸前となり、ボンメルンの野戦病院に入

院します、しばらくして野戦病院を訪れた牧師から「ドイツは共和

国になった」と知らされたヒトラーはその時の心境を『わが闘争』

で次のように語っています。

 

母の死以来、私は泣いたことはなかった。前線で数多くの戦友がドイツのために戦って死んだのだ。自身も毒ガスで両眼を冒され、盲目の恐怖に苛まされたが、自分よりさらに悲惨な幾千人の兵士のことを思い、いったいだれのために戦ったのか。すべてが無駄になった。飢えも渇きも不安も恐れも200万人の死者の願い無駄になったのである。

 

ヒトラーは祖国ドイツで起こった巨大な事件(革命)のことを考

えれば考えるほど、憎悪を抑えることができませんでした。数日に

してヒトラーは自分の運命を自覚し、「政治家になる!」と宣言し

ます。「皇帝ウィルヘルム2世は、マルキシズムの指導者たちに融

和の手を差し伸べた最初の皇帝だったが、無頼漢どもは一方は皇帝

の手を握っているのに、他方では短剣をまさぐっていた」とヒトラ

ーは怒りをあらわにします。そしてヒトラーは「ユダヤ人とは契約

などなく、ただ、厳しい二者択一があるだけだ」と決意を表明しま

す。

1918年11月下旬、プロイセンのボンメルンの野戦病院で約

一ヵ月の治療生活を終えたヒトラーはミュンヘンの連隊兵舎に戻

ります。しかしそこは革命派の兵士評議会の手に落ちていました。

しかもミュンヘンは左翼社会主義の独立社会党のユダヤ人クルト・

アイスナー(作家にして編集者)を首相とするバイエルン評議会共

和国が樹立されました。言ってみればプロレタリア独裁政権です。

しかしこの政権はすぐにトゥーレ協会というミュンヘンで結成された反ユダヤ主義の右翼秘密結社のクーデターで倒されます。ところがこの右翼政権はその日のうちに共産党の武力行動隊に奪取され、銀行は襲撃され、市民の財産は没収されました。

しかし1919年4月以降、独立社会民主党(カール・リープクネヒト、

ローザ・ルクセンブルク)らを排除して右傾化した社会民主党ヨハネス・

ホフマン亡命政権はハンブルクからミュンヘンに向かう途中のダ

ッハウで共産主義者に阻まれます。そこでホフマンは義勇軍(フライ

コール)に救援を求めます。

反革命志願兵の部隊で組織された義勇軍は、前線部隊指揮官を中

心とした軍事のプロ集団です。この組織は第一次世界大戦の敗北を

認めず、帝国崩壊に不満を持ち、大戦の経験を重視する旧軍将校、

復員兵、青年、失業者によって構成されています。後のナチの重要

幹部、ラインハルト・ハイドリヒ(親衛隊長)、ハイドリヒ・ヒムラー

(親衛隊全国指導者)、ルドルフ・ヘス(アウシュヴィッツ強制収容所所長、副総統

のルドルフ・ヘスとは別人)、マルチィン・ボルマン(総統官房長)、エルンス

トン・レーム(突撃隊幕僚長)等もいます。

ホフマン亡命政権の依頼をうけた義勇軍は、ミュンヘンへの途上、

手当たりしだいに残虐行為を行います。義勇軍は5月1日から2日

にかけてミュンヘンを占領した上、降伏した共産主義者を何百人も

殺害をします。共産主義者の多くがユダヤ人であることも、義勇

軍の残虐行為に油を注ぎました。

この間、ヒトラーは傍観を決めていましたが、反革命政権に革命

派の同情者として逮捕されますが、ヒトラーの反ユダヤ主義と民族

思想を知っていた上官の証言によって釈放されます。ヒトラーは

『わが闘争』でその後の様子を次のように語っています。

 

ミュンヘン解放の数日後、私は歩兵第二連隊の革命経過調査委員会に行くように命じられた。これが多少とも私が純政治的な活動の最初であった。それから数週経って私は国防軍所属者のために開催されたある講習に参加することを命じられた。   私はそこで現下の情勢について徹底的に熟議する同じ考えをもつ二、三の同僚を知ることができた。

われわれは多かれ少なかれ次のようにしっかりと確信して

いた。すなわちドイツは中央党や社会民主党のような11月革

命の犯罪政党によっては、大きくなりつつある崩壊からもはや

救われない。しかしまたブルジョア的かつ国家主義的組織も最

良の意欲をもっていてさえしても、起きてしまったものをそれ

以上改革することは決して心得ていない、と。

 

まもなくヒトラーは共産政権に協力した軍部内部の革命家や同調者を告発する役目を軍の調査委員会から負わされます。彼はこの仕事を見事にやり遂げ、次に兵士仲間の右翼的教育担当に回され、これも難なくこなします。

1919年6月5日から8月9日までの約2ヵ月間の間、週4回の講習会でヒトラーは並外れた討論や弁舌の才能を示し、一躍、仲間や上官の注目をあびることになります。ヒトラーの確信に満ちた反マルクス主義、ドイツ民族主義はその類まれな弁舌によっていっそう際立ったのです。

『わが闘争』によれば、ヒトラーはこの時期、ゴットフリート・フェダー(1883-1941、ナチの前身国家社会主義ドイツ労働者党の初期の幹部)の講義を受け、ユダヤ人カール・マルクスの思想のおおよそを理解するようになったといいます。

フェダーの思想の中心は中産階級、とくに手工業者、職人、小商人、中小農民の救済を目指す反ユダヤ主義的、反大資本主義にあります。ヒトラーはフェダーから「ユダヤ資本への敵意」を学んだと言います。

ヒトラーがフェダーの「ドイツ労働者党」の集会に参加したのは上官のマイエル大尉から頼まれたグリヒム大尉あてのユダヤ人問題にかんする調査書を渡す数日前の1919年9月12日のことです。ドイツ労働者党はアントン・ドレクスラーによってこの年の1月に結成されています。

ヒトラーは9月12日の集会に参加しましたが、何の興味もわかず立ち去ろうとした矢先、会場のある男から1篇の冊子をわたされます。1週間ほど経ったある日、ヒトラーのもとに「あなたにはわがドイツ労働者党に入っていただきました。それについてお話をしたい。来週、水曜日に党の委員会に出席されたい」というハガキが届きました。

ヒトラーが指定の日に行ってみると、冊子の男はアントン・ドレ

クスラーでした。ヒトラーは2日間迷った挙句、ついに入党するこ

とに決めました。その時のことをヒトラーは次の様に回想していま

す。「綱領もない、ビラもない、金もない、あるのはよき信念と善

良なる意思であった」と。

ヒトラーが国防軍を正式に除隊したのは1920年3月31日

です。その1ヵ月前の2月24日にミュンヘンのビアホール「ホフ

ブロイスハウス」で開かれた大会でドイツ労働者党は(DAP)は

「国家社会主義ドイツ労働者党」(NSDAP)という名称に変えます。

「ナチ(Naji)は「NSDAP」の初めの二音節を同異字に綴り

を変えた蔑称です。対抗勢力が「ナチ公」と呼んだからです。

党の綱領第4条は「ドイツ国籍を取得できる者は、民族同胞にか

ぎられる。民族同胞とはドイツ人の血を有するもので宗派は問わな

い。よってユダヤ人は民族の同胞とは言えない」とドイツ人国籍か

らユダヤ人をきびしく排除しています。

ナチの入党者が増え出したのはベルリン危機の影響もあったが、

「ドイツ民族至上主義的攻守同盟」(略称「攻守同盟」)から多くの加入

があったからです。「攻守同盟」は大資本の攻撃と利子奴隷制の打

破をスローガンとする中産階級や学生に広く浸透しました。

1920年1月7日ヒトラーは「攻守同盟」主催のミュンヘンの

ビアホール、キンドルケラーの約7000人の反ユダヤ集会で熱弁

を振って大喝采を浴びます。この集会で反ユダヤの演説が大衆を強

く引き付けることを知ったヒトラーは、以来、頻繁かつ執拗に反ユ

ダヤの演説の繰り返したのです

ミュンヘン一揆が起きる1923年当初はすでに党員三万人を

擁するまで力をつけ、ナチ党もドイツ闘争連盟に参加し、ヒトラー

はその指導者の一人に選ばれます。

ところでナチ党は1933年3月23日、「民族および国家の危機を除去するための法律案」すなわち全権委任法を圧倒的多数で可決しましたが、日本の首相安倍晋三は憲法改正案の最優先課題として“緊急事態条項”を入れようとしていますが、『世界』1月号に長谷部泰男氏が「ドイツでは緊急事態に類する法律は幾重にも歯止め掛けられている」ことを詳細に論じていますのでご覧ください。

この辺で私のお話は終りにいたします。なお、私の今日の講演のデータは館長の小渕さんにお渡ししますのでご利用ください。