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第35回 音楽評論には「実証」と「妄想」が必要だ。
──スージー鈴木(『1979年の歌謡曲』著者)

さて、いよいよ来週、新刊『1979年の歌謡曲』が発売されます。自信を持ってオススメします。すでに出来上がっています。

目次はこんな感じ。

 

さて、中山康樹氏が亡くなっていたことを、つい先ごろ知りました。ワタシは彼の、一曲一曲、丹念に聴き込み、そこの積み上げから、実証的・建設的に評論していくスタイルに影響を受けています。まずは、そういうスタイルを自分でも試してみたかったのです。

なので、目次にあるように、1979年にヒットした曲を、発売順に一曲一曲聴き込み、そして、そんなミクロな分析を総合したかたちで、マクロな分析をするというスタイルを採用しました。そういう意味では、中山康樹に対するオマージュと言えます。

そして、影響を受けた音楽評論家と言えば、やはり70~80年代の渋谷陽一。最近は、「音楽評論記事」と「音楽PR記事」の境目がとても曖昧な時代です。いや、ほとんどが後者で、前者なんてのは、今や20世紀の遺物という感すらあります。

そんな中、昔の渋谷陽一のように、いい=悪い、神=クソを一刀両断するスタイルの、(ワタシにとっては)真の評論を書きたいと思っていました。上記のよう な「一曲一曲」の中には、いい=悪い、神=クソが混在しています。それを★の数で評価するという、ギリギリなこともやっています。

そしてもう一つ。個人的なこだわりなのですが、実証的なアプローチの上に「妄想」をトッピングしたいと思ったのです。

実は、最近の意識的な音楽本は、実証性に富んだものが多い。参考文献のページが数ページに渡ったり。そしてそれは言うまでもなく、ネットの普及が影響しています。

それは、基本的にはとても好ましいことなのですが、反面、書き手(この場合は「聴き手」)の属人性・独創性が損なわれている感じもするわけです。

ワタシが意図したことは、実証的に情報を集めることに加え、そこに、「聴き手」としての主体性としての、「こうだったんではなかろうか」という妄想を組み込みたいということです。

「チューリップ《虹とスニーカーの頃》は、オフコース《愛を止めないで》への返答ではないか」

「映画『太陽を盗んだ男』でつかんだ手ごたえが、沢田研二にパラシュートを着せたのではないか」

「阿久悠の休筆には、『勝手に』『シンドバッド』という自作のパロディで出てきた桑田佳祐が影響しているのではないか」

こういうことは、別に妄想をせずとも、本人たちにインタビューをしたら分かることです。ただ、インタビューが物理的に困難であることに加え、むしろ、妄想こそが、「聴き手」が持つ主体的な権利であり、かつ格別の楽しみだと信じて、あえてそれを文章に残すのです。

「妄想しながら音楽を聴くのは楽しいよ」。今、すべてがネットで判明する時代に、音楽市場から失われている「妄想力」の復権を、裏コンセプトとしながら書いた本です。ぜひお読みください。

 

週刊スージー スージー鈴木硬式サイトより転載)