ほんのヒトコト

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第50回 自伝のようなもの、どのようにしてペソアの『不安の書』の翻訳者になったのか?
──高橋都彦(『不安の書【増補版】』訳者)

2019 年 8 月 15 日 木曜日

長らく書店の棚から姿を消していたフェルナンド・ペソアの『不安の書』が彩流社から復刊されました。2007年の初版(新思索社版)と比べると、新たに断章を6篇と断章集を巻末に付け加えました。『不安の書』はペソアの死後に刊行され、厳密に言うと、作者の手で作られたポルトガル語のオリジナル版と言えるものは存在しません。上記の初版はアントニオ・クワドロスが編纂した460の比較的短いテクストを底本にしたものです。このペソアの傑作のジャンルを分類することはとても難しく、主人公ベルナルド・ソアレスの自伝的な告白、身辺を記した日記のほかにも文学、宗教などさまざまな分野の思索、散文詩などから成り、テクストの多くは、タイプ打ちされたものもありますが、ありあわせの紙になぐり書きされたものもあり、完成したものというよりも断片のような印象を読者に与えます。そのためそのようなテクストは断章(ポルトガル語でfragmento)と呼ばれています。

新たに加えた断章は別の編纂者のものから選びました。それに断章集というのは、466篇の断章のタイトル(タイトルがない場合もあります)、と断章の最初のセンテンスだけを原則として抜き出し、通し番号順に配置しました。普通より少々詳しい目次の役にもなり、以下のように使えば、索引の役にもなります。本文は縦書きですが、こちらは横書きです。横書きの方が、我々の目は早く文字を追えるからです。本書を最初から順番に断章を読みすすみたい気分でないときは、この断章集の箇所を開き、最初のセンテンス(作家は最初のセンテンスに力を入れます)を読み、気に入れば、その続きがある本体のほうに移ったり、気に入らない場合には次の通し番号の最初のセンテンスに移ったりする、というように使うこともできます。その他の利用法もあるかもしれません、ぜひ探してみてください。

フェルナンド・ペソア記念館(リスボン)(筆者撮影)

さて復刊の出版にあたり、彩流社から「ほんのヒトコト」というコラムを執筆するように依頼されました。コラムのタイトルが気に入り、軽い気持ちで引き受けてしまいましたが、いろいろ考えてみても、正直申し上げて、復刊が完成してほっとしたせいか、梅雨明け後の猛暑のせいか、なかなか良いテーマが頭に浮かびません。そこで気取らず自分のことについて書くしかないという結論に達しました。『不安の書』の主人公ベルナルド・ソアレスのようにはいかないことは十分に承知していますが、臆面もなく自伝を書こうという気になったのです。

その中で核となるのは、私がどのようにして『不安の書』の翻訳者になったかということです。すぐに答えを言ってしまえば、運命によるものだと自分では思っています。ちなみに『不安の書』の断章は今回増補して466になりましたが、そのうちの43の断章でソアレスは「運命」という言葉を使っています。運命とはなにか、手元の国語辞典をみると「人間の意志を超越して人に幸、不幸を与える力。また、その力によってめぐってくる幸、不幸。」とあります。私は神とか造物主とかという存在をあまり信じないので、私が遺伝的に受け継いだ性格を中心に積み重なれて作られた行動様式が自分の運命だと考えています。たとえば、自分の目の前にいくつか途(みち)があって選択しなければならない場合、進む人間が少数なものを選ぶという私の習性が運命をつかさどっているのではないかと思っています。つまり競争の少ない方が好きだということです。たとえば、大学の選択にあっては、実際には私は将来の進路をよく考えたうえで大学の学部・学科を選ぶような賢明な高校生ではありませんでしたが、学生数の少ない東京外国語大学、その中でも1学年の定員が20名であったポルトガル語学科を選んでいます。中学・高校時代、英語が好きだとか、得意科目だったなどということはまったくありませんでした。どういうわけか予備校の進学相談会で、模擬テストの結果を見て意外にも外語大を受けなさいというアドバイスを受けました。

その時はいい加減なアドバイスだと、浅はかにも考えましたが、一浪でしたので外語大も受験し、合格し、本命は落ちたので外語大に入学しました。最初、周りの人たちは英語の達人ばかりに思え、それでは専攻語のポルトガル語では負けないように頑張ろうという気持ちが出て、結果的によかったと思っています。クラブ活動には、部員数の少ない中南米経済研究会を選びました。経済学は好きな科目ではなく、クラブには同好の士はいませんでしたが、一人でもブラジルの文学をやってみたくなりました。日本全体でも、ブラジル文学を本格的に研究している人がいなかったからです。そのためにクラブ名から経済を消すことを提案し、他の部員はあまり反対せず賛成してくれました。

肝心の授業の方ですが、ポルトガル語学科の教員もポルトガルに関する科目とブラジルに関する科目とに分かれていました。当然、教員の数も限られており、中南米研究会の顧問をされているS先生と接触することが多く、その先生のお供で、ブラジル移住を希望する人にポルトガル語を教えるために赤城山中の海外移住事業団(現在のジャイカ)の研修所に行ったこともあり、先生の代講もやったことがありました。S先生は文学を専門としてはいませんでしたが、視野が広くブラジル文学にも強い関心があり、ブラジル文学に関するアメリカの研究者の本などを教えていただき、今でも学恩を感じています。残念なことにS先生は私が4年になったときに他大学に移られてしまいました。そのため、ポルトガル文学が専門の主任教授の卒論ゼミを取りましたが、ゼミ生は私ひとりで、私の研究テーマがブラジルの作家ジョルジ・アマードだったので、普段は研究室にこなくてもよいと言われ、最終試験以外ほとんど接触はありませんでした。

当時ブラジルの書籍を手に入れることは東京でも困難で、大学図書館にもブラジル現代文学関係のものは少なく、非常勤講師の日系ブラジル人にお願いしブラジルの書店から取り寄せていただきました。また、ポルトガル語学科の同級生で、2年のときに早くもブラジルへ行ったT君がブラジルで有名な女性詩人セシリア・メイレレス(1901-64)の娘さんと知り合い、彼女が日本人と文通したいということでT君は彼女のペンフレンドとして私を推薦してくれました。彼女は日本がとても好きで、私がブラジル文学を研究対象にしていることにとても喜び、ブラジルの小説を何冊も送っていただき、大変感謝しております。ちなみに彼女は後にブラジル政府派遣のポルトガル語講師として京都外国語大学に来られました。

東京外大の修士課程に入り、ブラジル文学の研究を続けるためには、さらに多くの資料が必要なので、少なくとも修士論文を書くのに必要な文献を集めるためには、ブラジルに行くしか方法がないと考えていました。幸いブラジル政府(外務省)が6カ月の奨学金と日本に帰る飛行機代を出してくれるということを知り、日本の文部省経由で1968年3月に応募しました。しかしブラジル人のやることは悠長で、なかなか返事が来ず、やっと6月に合格の通知が届きました。その月に東京―リオ・デ・ジャネイロ便を開設したブラジルのヴァリグ航空で羽田空港から約27時間かけて1968年7月25日にリオ・デ・ジャネイロのガレアン国際空港に到着しました。この時から帰国する1970年4月15日まで日本を離れていたことは、本当に幸運だと思っています。その間に日本でも学園紛争が起き、母校でも例に漏れず、老朽化した学生寮のことから端を発した紛争が起き、大学は封鎖され、授業などができないひどい状況に置かれたことが、家族からの便りにより、また帰国後には、学生たちに痛めつけられた教授たちの話からも知らされました。

学園紛争は、日本だけでなく世界の多くの国、地方で起き、ブラジルでは、私の到着した時期には、リオ・デ・ジャネイロでは大分収まっていましたが、学期の開始は遅れていました。くわえて私の通った連邦リオ・デ・ジャネイロ大学文学部は当時、移転が行なわれたばかりで、校舎などはまだ未整備の状態でした。ここでの私の生活の詳細はこのコラムの本題とは離れるので割愛しますが、もしブラジルに行っていなかったなら、ご多聞に漏れず外大の紛争に巻き込まれ、学生と教授たちとの間で板挟みになっていただろうと想像されます。そういう意味で、地球の裏側で多少複雑な思いもありましたが、日本で多くの学生、教員が感じて苦しんだトラウマなしに過ごせたことはつくづく幸運であったと思っています。

本題に戻ると、ブラジルでは当時すでにフェルナンド・ペソアの詩は若い人、学生の間でもかなり人気がありました。ペソアの詩が初めて全集という形で1巻本ながら刊行されたのは、ポルトガルではなく、ブラジル、リオ・デ・ジャネイロのアギラール社から出たポルトガル人マリア・アリエテ・ガーリョス編の『詩作品』(1960)でした。この編者は『不安の書』の最初の版の編纂にも参加しています。貧乏留学生の私にとっては高い買い物でしたが無理して購入した『詩作品』(第2版、1965)をひもとく余裕はありませんでした。もっぱらブラジル文学、それも小説を読むことで手いっぱいの状態でした。しかしペソアと私は、その時に、何色かは分からないが見えない細い糸でつながったのだ、と後年、自分に都合よく考えました。

そして1971年3月外語大の修士課程を修了してからは、上智大学外国語学部ポルトガル語学科でブラジル現代文学講読、立教大学ラテンアメリカ研究所の一般人向け講座の非常勤講師としてポルトガル語を担当し、ブラジル文学の教員、研究者の「狭い」途に一歩進みました。その後、母校の東京外国語大学ポルトガル・ブラジル学科でブラジル文学講読、拓殖大学では第二外国語のひとつブラジル・ポルトガル語、日本大学農獣医学部でも第二外国語ブラジル語の非常勤講師、また早稲田大学語学教育研究所の講座ポルトガル語の非常勤講師として採用され、1979年ようやく拓殖大学商学部の専任講師に採用されました。

再び、それも真剣にフェルナンド・ペソアを意識するようになったのは1990年、『不安の書』の翻訳についてパピルスの鶴ヶ谷真一氏から依頼を受けた時でした。鶴ヶ谷氏は出版社パピルスを設立される前は白水社におられ、私は富野幹雄氏(南山大学名誉教授)と共著で白水社で最初のポルトガル語学書を刊行し、白水社に出入りすることがあり、その関係で鶴ヶ谷氏から、パピルスからフランスのベルナール・ピヴォー他編『理想の図書館』を翻訳刊行するにあたり、そのなかの「ポルトガル語の文学」を翻訳するように依頼されました。この本は、フランスで刊行された国内外の書物、「古典から漫画まで、世界の書籍を分野別に2400冊選んで解説し、詳細な邦訳情報を付した」もので、私の担当したのは、ペソアの『アルヴァロ・デ・カンポスの詩』をはじめとするポルトガルの作家・詩人の作品とアマードなどブラジルの作家・詩人の作品、合計49作品についてでした。鶴ヶ谷氏は引き続き『不安の書』の翻訳刊行を考えられ、私に白羽の矢が立ったということです。ペソアの詩についてはすでに恩師・故池上岑夫先生が『ポルトガルの海』(彩流社、1985/増補版1997)の翻訳など立派な仕事をなされていたので、私は自分よりも池上先生のほうがはるかに適任だと先生にお話ししたのですが、先生は「君がやれよ」というお答えでした。実はその年の春に心筋梗塞で1カ月入院し、さらに前からの約束の長い仕事も平行して行なわなければならず、悩んだ挙げ句、ペソアといえども散文ならば、何とかなるだろうと結局引き受けることになりました。しかし『不安の書』の翻訳刊行はなかなか捗らず、また出版業界の不況ということが重なり、パピルスからの刊行は不可能になりました。しかし最後まで編集を担当していただいた鶴ヶ谷氏のお世話により新思索社から16年後の2007年に刊行に漕ぎつけることができたのです。

それから12年、今度は彩流社のお世話、編集により復刊の運びになりました。考えてみると、私のような語学の才能に自信のない者が、世界の37カ国語に翻訳されているフェルナンド・ペソアの作品のなかでも傑作『不安の書』の翻訳者になったのは、次のようなことがあったからなのだと思います。ペソアがポルトガル語というマイナーな言語を母国語とし、私が上記のような考えをする習性があるがゆえに、たまたまそのマイナーな言語の文学を(ポルトガルよりもブラジルの方の文学に力を入れていましたが)日本で専門にしている数少ない者の一人だったからだと私は考えています。

もちろん、数々の幸運に恵まれたこと、特に、若い頃は引っ込み思案で、人付き合いがあまり上手ではなかった割に、素晴らしい人たちに会えて薫陶を受けられたことは運命に恵まれていたということ以外には考えられないことです。しかし、不運に悔しい思いや悲しい思いをしたことも、当然何度もあったのは言うまでもありません。

◉『不安の書【増補版】』/『不安の書【増補版】』ためし読みはこちら!

 

 

 

 

第49回 新たな楽園を探して
──小林理子(『アイスランド紀行ふたたび』著者)

2019 年 6 月 5 日 水曜日

20代のころからかなりの旅好きだった。会社員だったが、休みが取れれば必ずと言っていいほど旅に出ていた気がする。といっても日本国内だけで、青春18きっぷを使って各駅停車で巡る旅である。北海道など早朝に出ても東京からでは八戸までで一日が終わってしまう。夜間フェリーに乗って北海道入り、なんてことをやっていた。のんびり旅は私にとって最高なのだ。で、車窓を見て「あ、ここステキ」と思ったら電車を降り、その地点までてくてく歩いて首から下げた一眼レフでフィルムに収める。次の電車が2時間待ち、も気にしない。

その「あ、ここステキ」がエスカレートしたのが、アイスランドをこよなく愛するようになった理由のひとつかなと思う。その前の「あ、ここステキ」ステップとして1年間にわたるオーストラリア一人旅がある。オーストラリアも人里を少し離れると「あ、ここステキ」がたくさんある国だ。もしオーストラリアへ行っていなかったら、アイスランド人バックパッカーのハルパとヘルマンに出会うこともなかっただろう。ふたりも相当な旅好きで初対面の時から話が合った。 (続きを読む…)

第48回 ポーランド、リトアニアの旅──講演・受賞、恩師・学友との交流
──早坂眞理(『ベラルーシ』、『リトアニア』著者)

2018 年 8 月 7 日 火曜日

【Ⅰ】:筆者は今年、古希を迎える。人生、いろいろと曲折はあったが、思いがけないことがあるものだと驚くことがしばしばある。五月二八日から六月二三日にかけて五年ぶりにポーランドとリトアニアを旅行してきた。菩提樹の花が咲き誇り、かぐわしい香りが漂う街並みを散策しながら、素晴らしい一人旅を満喫できた。例年にない猛暑でミネラルウォーターとビールが欠かせない毎日であったが、楽しい思い出がまたひとつ増えたことに満足している。還暦を迎えてからは病気の連続で入退院を繰り返し、この年になるとごく一般的な、月並みな老人病に悩まされ、普通なら研究など諦めてよいはずなのだが、定年を迎えてすることもないので、別荘での庭仕事以外は、研究と称して昔風に言えば「机に向かって」、今風に言えば「パソコンに向かって」飽きもせずに仕事を続けている。 (続きを読む…)

第47回 ゆかいなセリアとマドリッド
──西村英一郎(『ゆかいなセリア』訳者)

2018 年 2 月 26 日 月曜日

『ゆかいなセリア』の主人公のセリアは、スペイン、マドリッドのセラーノ通りに住む裕福な家庭のおしゃまで、活発な7歳の少女です。セラーノ通りは、現在、高級ブティックや皮製品の店があって、日本の女性旅行者にも人気のあるところです。パリのサンジェルマンをモデルにして街区が発展してきましたが、お話のなかでセリアの家族も、スペイン的なものよりも、どちらかというとフランスのファッションや食べ物を楽しみながら暮らしています。

第5話「シンデレラ」では、セリアが仮面舞踏会とそのときのアンクロヤブル(信じがたい)豪華な衣装やフランスのお菓子を門番の娘ソリータに自慢しています。しかしソリータから近々行われる下町のカーニバル、お祭りに着るソリータのスペイン風の衣裳や食事の話を聞くと、フランスの事物ではなくて、スペインのお祭りのほうにセリアの気持ちが傾いていくくだりがあります。 (続きを読む…)

第46回 あなた自身の国の歴史に向き合うことが大事
──徳留絹枝(『アメリカ兵捕虜との和解──もうひとつの日米戦史』著者)

2017 年 12 月 18 日 月曜日

『旧アメリカ兵捕虜との和解』の著者・徳留絹枝さんが、このたび「勇気のメダル」という賞をシカゴで受賞された。この本は、太平洋戦争の戦地フィリピンで、、想像を絶するような酷い扱いを受けた旧日本軍の捕虜となった元米兵たちと、長年にわたる渾身の地道な支援と交流を続けた著者が、彼ら元米兵たちの体験を記録している。
米兵捕虜の体験は長い間、日本でも彼らの祖国でも広く知られることはなかった。本書では、捕虜たちのヒューマンヒストリー(生い立ち、出征、日本軍との戦闘、無残な捕虜収容生活、日本への移送、日本企業による炭鉱や港湾などの過酷な強制労働、母国への生還、戦後の両政府・企業への働きかけ、日本人との交流と和解…)を通し、75年にわたる生きた歴史をつぶさに伝えている。
受賞に際し、徳留さんから文章を寄せていただいた。 (続きを読む…)

第45回 『ヨーロッパ人』の装幀
──藤野早苗(ヘンリー・ジェイムズ『ヨーロッパ人』訳者)

2017 年 3 月 14 日 火曜日

 出版から5か月、友人、知人からの本書に対する反応もほぼ出尽くした感がある。90%の人の最初のコメントが「なんてきれいな本」とか、「いかにもヨーロッパ的な雰囲気ですてき」等々、装幀をほめてくれる言葉であった。訳者としては内容よりもまず装幀をほめられたことに戸惑いがなくもないが、まあ、内容についてはゆっくり読んでからだろうとあわてず、それよりも装幀をほめられたことに大いなる喜びを感じたのである。と言うのも私はカバーへのこだわりが非常に強い。著書の場合は自分の主張が伝わるようなカバーを……とこだわるが、今回は訳書であるから、何よりも原書の雰囲気を伝えられるようなものでなければならない。ジェイムズがこの作品に託したもの──1840年代のボストン近郊の人々のモラル・暮らしぶり、そして、その人々がヨーロッパから訪れた親戚の姉弟をとおして受け止めたヨーロッパの印象──をいかにカバーに表現できるのか……翻訳の作業中から私はしばしばキーボードを打つ手を休めて考えた。 (続きを読む…)

第44回 カバーと扉絵に見るエロティックなヴィクトリア朝
──田中孝信(田中孝信・要田圭治・原田範行編著『セクシュアリティとヴィクトリア朝文化』)

2017 年 1 月 24 日 火曜日

 本書を手に取った読者は誰しも、装幀の美しさに魅せられるだろう。それはひとえにデザイナーの渡辺将史さんのおかげなのだが、カバーと扉の図版を選んだ者として、序章のタイトルにもなっている「横溢するセクシュアリティ」の有様をそれら図版の観点から述べておきたい。

 カバー表と裏に用いたのは、アルフレッド・テニスン(1809-92)の詩「シャロットの姫」(1832)を題材とした19世紀後半の絵画である。まずは、詩の粗筋をおさらいしておこう。表題の名もなき姫は、「静寂の島」で「夜も昼も機を織り」、彼女の静的で受動的な存在を象徴する「青い鏡を通して」、外に位置する、アーサー王の宮廷があるキャメロットの世界を見つめている。自分には「忠誠を誓い、仕えてくれる騎士がいない」ことも意に介さない。しかし、鏡に映った、馬に乗って通り過ぎるランスロット卿の姿を見るや、たちまち男らしい彼の虜になってしまう。彼女は性に目覚めてしまったのだ。その影響は即座に「災い」となって現われ、「鏡は端から端までひび割れてしまう」。よりによって、すでに王妃グイネヴィアと恋愛関係にあった男に惚れてしまったのである。恋に狂った姫は、小舟に乗ると、情欲という災いによって「血が凍ってしまう」前に、自分の英雄のもとに辿りつこうとする。だが、愛する男性に溶け込み、彼の「炎」から生命力を得ることは叶わず、彼女は死んでゆく。その姿をたまたま目にしたランスロットは、まるで物を鑑賞するかのように「美しい顔をした女(ひと)だ」と評し、弔意を表するだけで騎士としての務めに赴く。 (続きを読む…)

第43回 『15歳の被爆者』その後
──狩野美智子(『15歳の被爆者』共著者)

2016 年 12 月 28 日 水曜日

※今回は、『15歳の被爆者』共著者の共著者のお一人で、長崎で被ばくされた狩野美智子さんのブログより、本の刊行とその後の報告文(3回連載、各回タイトルは編集部)を、ご本人の了解を得て転載させていただきます。

■(1)被爆者の私の戦前・戦中・戦後を本に

2016年8月15日に出版された「15歳の被爆者」は、あらかじめみなさまに出版費用を公募するクラウドファンティングという方法で、2015年7月に出発しました。当初は「85歳の被爆者」というタイトルでしたが、実は日が経ち、私が86歳になってしまいましたので、被爆時の年齢、15歳に変更しました。

お申し込みくださった方々、また、本をご購入下さった方々、本当にありがとうございました。普通の庶民の経験など、公にするのは全く烏滸がましいのです。そういう私の躊躇を許してくださり、戦争の中で育ち、15歳の時長崎に落とされた原子爆弾に遭い、直後の敗戦で、にわかに軍国主義が消滅して、素晴らしい民主主義の憲法までできたその嬉しさの中で青春を過ごし、「好きなように生きる」と決めただけの、波乱万丈ではなく、顕彰されたことは一度もなく過ごした、また欠陥だらけの人間にすぎないことは、自分が一番よく知っていますのに、こういう本を作ることに力を与えてくださいました。 (続きを読む…)

第42回 カナダの歴史と文学を彩るヒロインたち
──長尾知子(ちかこ)(『英系カナダ文学研究──ジレンマとゴシックの時空』)

2016 年 12 月 20 日 火曜日

 英系カナダの国民文学を扱った本書『英系カナダ文学研究――ジレンマとゴシックの時空』には、カナダの歴史と文学を代表するヒロインが登場する。1人目は、カナダ史上随一のヒロイン、ローラ・シコード(Laura Secord, 1775-1868)。本書第9章で「女性ゴシック」として論じたジェイン・アーカート(1949-)の『ワールプール』(1986)の中で、軍事歴史家デイヴィッドが惚れ込む歴史上のヒロインである。彼の妻フリーダは、夢に出てきたローラと瓜二つという。作品のヒロイン、フリーダの人生行路にも影を落とすローラとは、どんな女性だったのか。知る人ぞ知るエピソードを紹介しよう(https://www.historicacanada.ca/content/heritage-minutes/laura-secord参照)。 (続きを読む…)

第41回 ホテルの「ヘリテッジ」
──平林美都子(『イギリス・ヘリテッジ文化を歩く──歴史・伝承・世界遺産の旅』共著者)

2016 年 8 月 29 日 月曜日

 『イギリス・ヘリテッジ文化を歩く──歴史・伝承・世界遺産の旅』の執筆のため、近年何度もイギリスを訪れた。地方の宿選びには、宿泊料が高くないことはもちろんだが、鉄道駅に近いこととレストラン付きというのが必須条件となる。ロンドンで宿泊する場合は食事に困ることはないが、地方で泊まるとき、とくに夜遅く到着した場合には、イギリスの多くの鉄道駅が繁華街から離れているため夕食をとるのが難しくなる。ホテルから2~30分歩いても、パブしか見つからないということもある。食事ができるパブもあるが、そういうときに限ってなかなか見つからないものである。だからレストラン付きのホテルというのは、結構重要な条件である。このような最小限の条件で選んだ宿が、後になって「ヘリテッジ」性を持っていたことがわかると、とても得をした気分になるものだ。以下、産業遺産/温泉地のフィールド調査で利用した二つのホテルを紹介したい。 (続きを読む…)