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第48回 ポーランド,リトアニアの旅 ─講演・受賞、恩師・学友との交流─早坂眞理(『ベラルーシ』、『リトアニア』著者)

2018 年 8 月 7 日 火曜日

【Ⅰ】:筆者は今年、古希を迎える。人生、いろいろと曲折はあったが、思いがけないことがあるものだと驚くことがしばしばある。五月二八日から六月二三日にかけて五年ぶりにポーランドとリトアニアを旅行してきた。菩提樹の花が咲き誇り、かぐわしい香りが漂う街並みを散策しながら、素晴らしい一人旅を満喫できた。例年にない猛暑でミネラルウォーターとビールが欠かせない毎日であったが、楽しい思い出がまたひとつ増えたことに満足している。還暦を迎えてからは病気の連続で入退院を繰り返し、この年になるとごく一般的な、月並みな老人病に悩まされ、普通なら研究など諦めてよいはずなのだが、定年を迎えてすることもないので、別荘での庭仕事以外は、研究と称して昔風に言えば「机に向かって」、今風に言えば「パソコンに向かって」飽きもせずに仕事を続けている。

もうヨーロッパへ行くことはないと思っていたところ、今年の二月の初め、ポーランドのトルン・コペルニクス大学の友人から講演の依頼が飛び込んで来た。どうしようかと思案していたところ、確定申告の際に予想外に高額の還付金があり、これなら飛行機代が出せると思い、出かける決心をした。宿泊費と国内旅費の一部を出しくれるそうなので、年金生活者には大変助かる。講演原稿をまとめながらポーランド各地やリトアニアの友人たちとメールのやり取りをしていると、ヴロツワフ大学の友人からこちらでも講演してくれないかと依頼を受けた。この友人とは四〇年以上会っていない。五年前に出版した『ベラルーシ、境界領域の歴史学』(彩流社)がリトアニアやベラルーシの学界で評判になっていたらしく、私の消息を探し出して職場(東京工大)にメールしてきたらしい。メールだけのやりとりながら、交流が復活した。そんなわけでこちらの方の原稿も用意しなくてはならなくなった。いつもながらワルシャワ大学大学院時代の友人が添削や意見をしてくれるので助かるが、いずれ印刷に廻るとなると肩に力が入ってしまう。

出発の日が近づき、航空券やホテルの予約などはいまでは旅行業者がインターネットで手配してくれるので大変助かる。おまけに二年前にポーランド航空(LOT)の成田・ワルシャワ直行便が開設されたので、はじめてこれを利用することにした。一九七四年秋にはじめてポーランド留学をしたときは、横浜から船出し、シベリア経由で鉄道、飛行機を乗り継いでモスクワへ向かい、ついでに革命記念日に合わせて赤の広場近くのゴーリキー通り(いまは帝政時代の呼称トヴェーリ通りに戻っている)で旧ソ連時代の軍事パレードをみたあと、モスクワ・ベラルーシ駅から国際列車に乗ってポーランドに向かった。そしていまでは利用されていないワルシャワ・グダンスク駅に降り立ち、はじめてポーランド土を踏んだことが懐かしく思い出される。ワルシャワのかつてのオケンチェ国際空港もいまはショパン国際空港と改称され、大幅に整備されてハブ空港としてEU諸国への玄関口となっている。繁盛しているのだろう。まさに隔世の感がある。

【II】:今回の旅行にはおまけがついた。というのは、出発の日が近づいた五月一七日の朝、いつものようにメールを開けると、ワルシャワからとある学術功労賞の受賞の知らせが届いていた。何かと思って開けてみると、「イェジィ・スコヴロネク教授記念学術賞(Nagroda im.prof.Jerzego Skowronka)」の特別功労賞(Specjalne Wyróżnienie)を受賞した旨の通知であった。しかも翌日の一八日に授賞式があるので、そのための挨拶文を用意してほしいとのことであった。慌ててA4版一枚ほどの原稿をまとめ、文法や文体のチェックをお願いして送付した。後日、表彰状(dyplom)が送られてくる由、ずいぶんとそっけない通知だと思った。授賞式の行事そのものはユネスコの後援を受けた国際書籍見本市に合わせたものらしく、歴史関係以外の出版物に対する表彰式もいくつかあったようである。もちろん選考委員会の人たちは、私がポーランドに来るとは思っていなかったはずだ。

そもそもこの賞とは何か。スコヴロネク教授は私の指導教官であった。当時ワルシャワ大学近代史講座の大御所ステファン・キェニェヴィチ教授の下で助手、准教授を務め、将来を嘱望されていた人物であった。当時は教授資格論文を執筆中で多忙であったにもかかわらず、いつも気軽に面談に応じてくれ、しばしば自宅にも招いてくれた。一九七六年暮れ、クリスマスに自宅に招いてくれた際に、クリスマス・プレゼントと称して教授資格論文をまとめた著書『オテル・ランベール派の東方バルカン政策』(一九七六年、ワルシャワ)を頂戴した。私の最初の著書『イスタンブル東方機関、ポーランド亡命愛国者』(筑摩書房、一九八七年)は、スコヴロネク先生のこの本を底本にしたものである。こうした昔話も紹介したメールを選考委員会宛に返送し、併せて選考委員会主査のイェジィ・ズドラダ教授(ヤギェウォ大学終身教授)との交流の経緯についても付言しておいた。出発前の慌ただしいひとときであった。

スコヴロネク教授の恩師ステファン・キェニェヴィチ教授の名前を冠した賞や、その指導教授で、ナチス・ドイツに虐殺されたユダヤ系の歴史家マルツェリ・ハンデルスマン記念学術賞なるものは存在しない。またキェニェヴィチ教授と友情が厚かったモスクワのスラヴ学バルカン学研究所のウラディーミル・ディヤコフ教授記念学術賞なるものも存在しない。なぜなのだろうか。スコヴロネク教授はキェニェヴィチ教授の後任としてワルシャワ大学近代史講座を継承した。このポストは国際的な知名度の高いマルツェリ・ハンデルスマン以来の名誉職でもある。ところがスコヴロネク教授の場合、体制崩壊直後の一九九三年に国家アルヒーフ館長職(国務大臣相当)に就任し、三年後の一九九六年にパリ郊外で交通事故死したことから、彼の人柄を慕う人たちによって彼の業績を顕彰する学術賞を設置する運びとなったらしい。ともかく翌一九九六年の賞の設置以来二三回目の今年、私はこの名を冠した特別賞を受賞する栄誉に浴したのである。ハンデルスマン、キェニェヴィチそしてスコヴロネクの研究分野をカバーし、東はモスクワから西はパリまで、北はバルト海から南は黒海に至る、ポーランド分割から独立までの歴史地理空間を研究対象とする研究者に与えられるものである。外国人から選ばれるのは珍しいとはいえ、必ずしも場違いではないとズドラダ先生は語っていた。

【III】:外国語で著書を書いたこともないのに、なぜ私が受賞したのか理由がさっぱりわからなかった。主査のズドラダ先生に連絡をとり、ポーランドへ行く旨を伝えると、ぜひ会いたいとの返事が返ってきた。五月二八日午後にワルシャワに到着した私は、時差ボケを直してから六月四日、万全の備えでトルン市へ向かった。友人レシェク・クーク教授との再会は八年ぶりである。

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トルン市はかつてチュートン騎士団が建設し、その後ハンザ同盟に加わったルネサンス都市で、旧市街には往時の面影が随所に残る大学都市である。講演ではドイツ・ポーランド間の歴史教科書問題を踏まえた質問が出たので、極東の日中韓の歴史教科書問題との比較について回答しておいた。クーク教授は大亡命時代を扱う研究者で、彼の業績は私の最初の著書にも言及しておいた。体制崩壊前の戒厳令時代、ポーランドにいられなくなり、フランスのナンシー大学に職を得て、追われるようにポーランドを離れた彼は、その後刊行した著書を私に二冊送ってくれた。フランス滞在が彼の運命の転機となった。冷戦時代、パリで『クルトゥーラ』誌を主催したイェジィ・ギェドロイツ晩年の秘書役を務めた彼は、完璧にフランス語やイタリア語を使いこなす男である。

四日間の短いトルン滞在を終え、六月七日午後、私は近著『リトアニア、歴史的伝統と国民形成の狭間』(彩流社、二〇一七年)の上梓にあたって、もっとも学恩を受けた友人ヤン・ユルキェヴィチ教授に感謝の気持ちを伝えるためにポズナン市へ向かった。この友人とは二五年ぶりの再会であった。彼も定年を迎えてからは視力が落ち、研究がはかどらないと嘆いている。それでも私の著書のレジュメに目を通してくれ、拙著が扱った郷土理念の普遍性に高い評価を与えてくれた。彼はポーランドの歴史学界における郷土理念研究の草分けの一人である。あらかじめ送っておいたポーランド語の目次の概要にも目を通してくれ、コピーしてドイツのバルト研究者にも廻してくれたとのこと、ありがたいことである。彼は「われわれは世界の郷土派(krajowcy)だ」と嬉しそうに語り、ともに研究成果を喜んだ。研究者ネットワークは、このように世界中に広がっていくものである。今回ほどのんびりとポズナン市の名所旧跡をめぐり歩いたことはなかった。郊外のクルニクにあるジャウィンスキ宮殿に足を延ばせたのも、定年になって心に余裕ができたせいなのだろうか。ポズナンを離れる前日、彼のおかげでクラクフのズドラダ教授と直接電話で連絡をとることができ、また汽車の切符の手配を済ませ、六月一〇日にポズナン中央駅を離れた。

ヴロツワフでは、友人のユリアン・ヴィンニツキ教授がベラルーシのグロドノから帰国の途中だったので、接待役のラリサ・レシチェンコ女史が駅頭で待っていた。名前からして明らかなように、彼女はウクライナ人である。話題がウクライナ史に及ぶと、話が弾んだ。翌日の講演ではウクライナに言及しようと話すと、嬉しいことに彼女の方からは旧市街には本物のウクライナ料理の店があるから、講演の後はぜひそこへ案内するとのことであった。翌日一一日午前、無事に講演を済ませた後、旧市街を案内してもらったが、四〇数年前に一度来たことがあったはずなのだが、すっかり忘れてしまっている。おぼろげな記憶をたどりながら、改めてヴロツワフ市の変貌ぶりを振り返ってみた。ベルリン陥落後もヴロツワフ市は降伏せず、戦前の面影は随所に残っているとはいえ、報復措置として家屋が破壊され、レンガなどをワルシャワ復興ために運んだという話も耳にした。また東方からの強制移住させられたポーランド系住民の傷跡が色濃く残り、またポーランド人を追うようにやってきたウクライナ系住民の姿もよくみかけるようになっている。ルヴフから移転してきたオソリネウム文書館の中庭で、冷たいジュースを呑んで喉の渇きを癒した。一二日は郊外のヴィンニツキ君の自宅に招かれ、四〇年前に遡って旧交を温めることができた。ヴィンニツキ君は絵にかいたような、古風なポーランド・シュラフタを思わせる風貌の持ち主である。人間関係は研究交流を進めるうえで貴重な潤滑油となる。ヴロツワフでは予想していなかった思いがけない収穫物があったと自負できる。これについては後述しよう。

僅か四日間の短いヴロツワフ滞在のあと、予定していなかったクラクフを訪れた。本来なら、ズドラダ教授が所用でヴロツワフのオスリネウム文書館に来て、私の講演会場で会う予定であったのだが、高齢の上、おまけに心臓が悪く、猛暑にとても堪えられないとのことで急遽私がクラクフに途中立ち寄ることになった次第であった。僅か三時間足らずの滞在であったが、選考委員会主査のズドラダ教授と会食できるのはありがたいことであった。

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四〇数年来、クラクフでは必ず彼の世話になってきたおかげで、世界各地の研究者との人脈を広げることができた。昔話を交えながら、旧市街を散策し、選考の経緯などを伺うことができた。クラクフは世界遺産に指定されたポーランドの古都である。ズドラダ教授は由緒あるこの町の保護修復などを所轄する委員会の主査を務めるクラクフ市の名士でもある。若い頃は大亡命時代の研究書を著す気鋭の研究者であり、私が学恩を受けた一人である。私のことを四〇数年前の留学時代からよく知っている間柄なので、腹蔵なく何でも話し合えるのが嬉しい。ズドラダ教授によると、私のこれまでの学術書五冊がすべて選考の対象著なった由。邦語であるにもかかわらず、レジュメをポーランド語、ベラルーシ語、リトアニア語、ロシア語、英語で添付したほか、イタリア語にも翻訳紹介されていたこと、そのほかウクライナ、ベラルーシ、リトアニアでも書評が出されていたことが高評価につながったらしい。私は語学マニアではない。また特段得意でもない。語学力に関して、自慢すべきものは何もない人間である。それなにのである。世の中にはよく私のことを評価してくれる人がいるものだと恐れ入ってしまった。

ズドラダ教授曰く、最近の研究報告などをみていると、研究者には三つのタイプがあるそうだ。一つは、頑なに古風な研究姿勢を貫き、目立たないが手堅い研究を積み重ねるタイプ。第二は、ごみ拾いのように史実を羅列するだけの、研究と称して史料紹介を繰り返すタイプ。第三は、学会、研究会に足しげく通い、中身がないのに新聞記者まがいに雑音を奏でるタイプ。後者二つのタイプに共通しているのは、科研費の配分などが背景にあるせいか、金欲しさに業績稼ぎに奔走している結果ではないかという。ワルシャワ大学時代の友人は、これを「競馬馬」に譬えていた。耳の痛い話である。いまの日本の学界の状況も変わりない。みっともないことはしたくないものだと思った。ズドラダ教授はこんな例を挙げていた。ウィーンの国会で活躍していたガリツィアのポーランド人議員団の活動を丹念に調べた研究があったが、史実の羅列だけで面白みはまったくなかったというのである。重厚な歴史研究は、時間と空間を巧みに織り交ぜて重層的な構造を組み立てる叙述に妙味があるはずである。私の著書は邦語だけでしかないとはいえ、これまでの苦労が報われ、感無量の気持ちであった。日本の大学院生時代に、私がポーランド語の勉強をはじめたころ、政治学の某先生が、そんな役に立たない言語を学習して何の意味があるのか、と言い放ったことがいまも頭にこびりついて離れない。アメリカの冷戦研究が華やかなころ、大きな顔をしていたその某先生は、体制崩壊したことをなんと思っているのだろうか。ロシア語もろくすっぽできないくせに、無節操な奴だという思いはいまもぬぐい切れない。ざまを見ろという思いである。

ワルシャワに戻ってから、かねてから約束をしていた世界的な近代史研究者で、高齢のイェジィ・ボレイシャ教授と会った。


七年前に彼の編集で刊行された論集『クリミア戦争』を受け取るためであったが、ぜひ自宅で食事をしようと誘ってくれた。それにはわけがあった。私は翌日リトアニアへ行く準備があるので教授宅訪問は辞退し、国立図書館の食堂で会うことにした。ボレイシャ教授は一九六八年政変でポーランドを追われ、教授のことばでは「旅券をもたない愛国者」、つまり「帰国を許されない片道旅券」を持たされての、事実上の国外追放の身であったらしい。身を寄せた先がイタリアのトリノ大学教授フランコ・ヴェントゥーリであった。ヴェントゥーリ教授は啓蒙主義の専門家であるにとどまらず、ロシア・ナロードニキ研究者として日本の学界でもよく知られている。ボレイシャ教授はヴェントゥーリ教授の下で助手として、ロシア革命運動の史料整理のような仕事をしていたらしい。彼もまた選考員会向けに私の業績について意見を述べてくれたらしく、選考の事情をよく知っていた。ボレイシャ教授は私が一九九九年に刊行した著書『革命独裁の史的研究、ロシア革命運動の裏面史としてのポーランド問題』(多賀出版)を準備するに際、多大な配慮をしてくれたパリ時代の恩師でもある。このテーマは私の卒業研究を基にしたものであったが、途中で放り投げ、長い間中断してきたテーマであった。一九九〇年に思いがけなくモスクワのディヤコフ教授から招請状が届いたことが、研究再開のきっかけとなった。一九九二年二月からモスクワで体制崩壊後のどさくさ紛れの中、マルクス・レーニン主義研究所の図書館で史料探索をしたあと、翌年一月にワルシャワを経て当時パリのポーランド科学アカデミー研究センターの所長を務めていたボレイシャ教授の指導を受ける僥倖に恵まれたのである。ロシア・ジャコバン研究、すなわちレーニン主義の起源論にまつわる史料探しの際、パリのBN(ヴェルサイユ分館)に所蔵されている史料を発見することができたのはまさにボレイシャ教授の采配のおかげであった。お礼を申し上げにボレイシャ教授の執務室に伺うと、教授はこうアドバイスしてくれた。「いまスコヴロネク教授が国家アルヒーフ館長をしているから、彼の許可があれば旧統一労働者党アルヒーフを利用することが可能だ。自分はこのテーマに関するPPS(ポーランド社会党革命派)の一次史料に接したことがある」と教えてくれ、しかもスコヴロネク教授に取り次いでくれると約束してくれたのである。まさに僥倖であった。同じ年の秋、一念発起して半年後の秋にワルシャワを訪れ、一か月間の短期出張のあいだに、体制崩壊するまで七〇年にわたって封印されてきたPPS(ポーランド社会党革命派)の一次史料に接することができたのである。こうしてロシア(旧ソ連)、フランス、ポーランドの文書館に収蔵されていた一次史料をすべて渉猟することができ、刊行の運びとなったわけである。この学術書の概要も、スコヴロネク先生の推挙で一九九五年にモントリオールで開催された国際歴史学会のスラヴ史研究部門で発表する機会を与えられ、高評価を得たことも今回の受賞の評価につながったのだろう。ボレイシャ教授はパリの執務室で「君、コニャックは一杯どうか」といって勧めてくれた。近寄りがたい風格の持ち主で、彼の前に立つと、一兵卒のように直立不動となるほど緊張してしまう。直接話してみると、気さくな先生で、いま回想録の出版を準備中だと話してくれた。人民ポーランド時代の生き字きのような先生なので楽しみである。父君が戦間期の高名な社会学者ステファン・チャルノフスキの弟子であったこと、母親が大亡命時代の膨大な蔵書を遺しており、それが自宅あるのでぜひ見せたかったのだと語ってくれた。そうだったのか、だから教授は私を自宅に招きたかったのか、そのことがようやくわかった。ボレイシャ教授の語り口を通して、戦間期から人民ポーランド、そして現在に移行する過程の歴史学界の人間模様がよくみえてくる。別れ際に私がリトアニアに行く話をすると、体制崩壊前までリトアニアの学界を指導していたアンタナス・ティラ教授のことに思いを寄せ、彼が体制崩壊後にリトアニア・キリスト教民主党の活動家に変身し、大きく右旋回していったことを嘆いていた。よく聞き取れなかったが、失礼かと思い、聞き返すことはしなかった。後述するが、このことをヴィルニュスで改めて調べることにした。私は恵まれた人間だとつくづく思う。ポーランドを代表する多くの歴史家たちとこれほど身近に接することができ、指導を受けられたことを大変誇りに思う。

【IV】:リトアニアでは旧友であり、歴史研究所の所長を務めるリマンタス・ミクニス教授に挨拶に伺う。彼も、私が長年携わってきた郷土派研究の草分けの一人であり、私が教えを乞う立場にあるのはいうまでもない。私のリトアニア研究に関して、彼の貢献も計り知れなく大きかった。彼によると、私がリトアニア語、ポーランド語、ベラルーシ語のレジュメを付したことは大成功であった由、こちらの研究者はみな目を通しているとのことであった。リトアニア・ベラルーシ研究に携わるのであれば、これら言語の文献を渉猟することは必須であるとも語っていた。四半世紀にわたってヴィリニュスの街の変貌ぶりをみてきた私であるが、一仕事を終えた後になると、文書館に通う気力も失せ、ミクニス君と近くのレストランでウクライナ料理を食べながら、研究所の行く末について語り合った。研究所の運営も深刻で、存続が危ぶまれ、行政を司る立場として疲労困憊の様子であった。いずこの組織でも同じであるが、責任逃れや仕事の押し付け、足の引っ張り合いは日常茶飯事のことであるらしい。ウクライナ情勢に話題が及ぶと、長引くだろうとのこと。かつてのウィーン体制という国際秩序に触れて、クリミア戦争のときも一月蜂起のときも列強は国際協調を盾に決して支援の手を差し伸べようとはしなかった。この地域をめぐる国際政治の枠組みは、一八世紀末のポーランド分割のとき以来変わっていないのだ。この点では私とミクニス君の見解は一致した。

短いヴィリニュス滞在のあいだ、研究所の上級研究員タマラ・バイラシャウスカイテ女史、ヴィリニュス大学教授のグリゴリー・ポタシェンコ君とその奥さんマリーの四人で、街外れのポーロツク通りに通じるウジュピオ街の通称“ヴィリニュスのモンマルトル”で地ビール(ドゥンドゥリスとは現地語で「雷鳴」の意味)を呑んだ。

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暑い盛りは地ビールにかぎる。次の日は郊外にあるポタシェンコ君の自宅に招かれた。彼の奥さんはエストニア人で、リトアニア語もポーランド語もダメ、タマラ女史とポタシェンコ君の日常会話はリトアニア語、私とタマラ女史とは普段はポーランド語で会話しているので、仕方がないので四人の共通語であるロシア語で通すことになった。よくまあ口からでまかせでロシア語がポンポン出てくるものだと我ながら感心した。ヴェジタリアン料理にこだわった楽しい夕食会であった。女性陣もよく呑んでいた。ポタシェンコ君によれば、リトアニアでも大学改革の真っ最中で、国家からは生活費以上の給与は出してもらえず、研究費は自分で稼げということになっているらしい。研究所の所長のミクニス君の肩には研究所の将来がかかっていて、文科系の諸分野の整理統合は避けられず、悩みはいずこも同じようであった。体制崩壊後に雨後の筍のごとく誕生した大学の中にはいかがわしいものもたくさんあり、整理縮小は避けられないとのことであった。五一歳のポタシェンコ君に私は、「これから君も大学行政に振り回されるぞ」と脅かしておいた。タマラ女史にボレイシャ先生から聞いたティラ先生の右旋回ぶりについて聞いてみたところ、やはり本当であった。人間の変貌ぶりは、いずこの社会でもよくある話だなと思った次第である。

【V】:大学改革といえば、ポーランドでも大幅な定員削減、研究費のカットは避けられなくなっており、組織改編を危惧する教職員のあいだで反対の檄文や回状が出回っている由、また学生集会やスト、デモの呼びかけが広がっていることを、ヴロツワフでもワルシャワでも耳にした。トルン・コペルニクス大学では、組織改革の一環として獣医学部の新設が進められており、さすがにモリカケ問題のようなことは起きていないらしいが、大きな組織改革に揺れていることはまちがいないらしい。近くの医科大学も統合して大学コンソーシアムに組織替えすることが検討されているそうであった。気楽な一人旅を続ける定年のわが身には関係ないこととはいえ、現場の人たちには死活問題で、大変だなと同情を申し上げておいた。

ヴロツワフ大学では前述のラリサ女史の話は興味を引いた。彼女はウクライナのジトミール出身。地元の大学を卒業した後、一時小学校の教員をしていたが、一念発起してポーランドのルブリンで「二十世紀初頭のロシア思想におけるポーランド問題」をテーマに学位を取得。しかし、就職した先が組織改革の真っ最中のヴロツワフ大学国際関係学部で、いまは国連活動に関する研究にテーマを変更せざるを得なくなったと嘆いていた。研究テーマを変えたことに後ろめたさがある様子であったが、私自身を振り返ってみても、どれほど節操なく研究テーマを変えてきたかわからないのだ。むしろテーマを増やすことによって自分を鍛え上げてきたのではなかったのか。そんな説明を彼女にしながら、翌日の講演内容をいささかウクライナ問題にシフトすることにした。彼女は、「自分たちはこれまでロシア化、ソヴィエト化を経験してきた。ところが職場環境のせいか、いまはアメリカ化の波が押し寄せてきている。これでよいのだろうか」という疑問をぶつけてきた。彼女の疑問に私も同感である。彼女の出身地ジトミールでは、埋もれた郷土史の発掘が進められており、私が三〇年前に書いた処女作の主人公ミハウ・チャイコフスキ(サディク・パシャ)にまつわる論考が出はじめているらしい。一八世紀初頭のピィリプ・オルリクが起草したコザック憲法、そしてウクライナの郷土派ヴャチェスラフ・リピンスキイを顕彰する作業が進んでいることも話してくれ、ラリサ女史はウクライナ語の文献などを探し出し、メールで送ってくれた。ヴロツワフでは思いがけない収穫があったと思う。私事はともかく、大学での業務としてウクライナからの志願者の獲得が学生担当としての彼女の肩に大きくのしかかっているらしい。ウクライナはいまロシアと戦争状態にある。ポーランドの大学に進学すれば徴兵逃れができるという切実な裏事情があることも、ラリサ女史は話してくれた。全体にポーランド人の大学進学率は低下しており、周辺国からの志願者獲得が急務となっているのだ。日本の大学に中国や韓国からの留学生が押し寄せてきているのと事情はよく似ている。

わが友人ヴィンニツキ君の家では、二人でウクライナの火酒ホリウカを一本空けた。奥さんのアリツィア手作りのキノコのマリネを肴に、野外での酒飲みも悪くない。彼ら夫婦も足が悪く、私も右足の具合が悪くなっており、百年前のフランス製の骨董品のステッキをお土産に頂戴した。ヴロツワフのよい思い出となった。キザっぽくこのステッキをこれから愛用することにしよう。

【VI】:これまで売れない学術書の出版を快く引き受けてくれた彩流社の竹内淳夫氏の高配に感謝しなくてはならない。今回の私の受賞には、バイプレーヤーとしての竹内氏の高配が極めて大きかったことはまちがいないのだ。周知のとおり、学術書の出版は曲がり角にあるとはいえ、いい加減な安っぽいポーランド民族史とか民族解放論、物珍しさの旅行記、歴史よもやま話などはいずれ淘汰されていく。安易な「日本とポーランド」とか、新聞記事並みの雑文の類、実際にそうした類の消長は、日本に限らず、ポーランドでも同様なのだ。こんなのはリサイクルショップの類でしかない。昔話しだが、日本語の通訳なしにはワルシャワの街を歩けなかったさる高名な大学教授(故人)や、ワルシャワの日常生活に溶け込めず、アル中患者の収容施設に入れられた某教授の後始末など、恥ずかしいバカ話には枚挙にいとまがないほどたくさんあった。遠い過去の話として片づけるわけにはいかないのだ。

一九七六年暮れに学生寮時代のポーランドの友人とイスタンブルへ旅行し、ポーランド人コロニー(アダムポル、現地名ポロネズキョイ)でクリスマス休暇を過ごしたことがあった。この友人は、その後ポーランド外務省に勤務し、中東問題の専門家として活躍した男である。今回も帰国の二日前にワルシャワ郊外の家に招かれ、庭でバーベキューでもてなしてくれた。当時は小田実の「なんでもみてやろう」が流行っていた時代であった。私も小田実に倣って、若気の至りで冒険心たくましく海外に飛び出したものである。ところが、一九七九年二月に帰国してわかったことだが、指導教官ズラをした大学の教師が私の親を呼びつけて「早坂は遊んでいる」と放言していたのだ。一九七七年秋にパリで研究をしていたときも、奥さん同伴でパリにやってきたこの教師は、大名旅行のつもりなのか私にパリの街案内をさせ、一週間振り回した挙句、涼しい顔をして帰国していった。私は後始末に忙殺され、当時の金で五〇〇フランを使い果たし、貧乏留学生の身には大変辛い思いをしたことがあった。このときも帰国したこの教師は「早坂はパリで遊んでいる」と周囲に言いふらし、私の親を呼びつけて同じことを放言する始末だったのだ。学生を奴隷扱いにして、何とも思わないのには呆れてしまった。彼の奥さんをルーヴル美術館に案内した際、モナ・リザの絵の前で彼の奥さんが私に悲しげにこう言った。「みんな離れていく」。このことばが心に引っ掛かり、私は目が覚め、この男とは縁を切る決心がついた。就職もできない状態の中でまとめ上げたのが、上述の処女作『イスタンブル東方機関』である。もちろん献本などするつもりはなかった。ざまを見ろという気持であった。要するに、遊び人のマージャン教師の嫉妬でしかなかったのだ。そして今回、受賞となったことは、これまでの試行錯誤を重ねてきた私の研究遍歴が決して間違っていなかったことを証明しているのだと思う。今回の旅行は、いわば人生の修学旅行のようなものであった。

文科系の将来を危惧する声がよく聞かれるが、自業業自得といわれて淘汰されても仕方ないケースも多々ある。教師の顔色を窺うことではない。ひとりひとりが知恵を絞り、新しい方略を考え出さなくてはならないのだろう。ただし若い人に希望を与えることを忘れてはならないのだ。歴史家の端くれとしての私の心構えは、「ホンのひとこと」には少々書きすぎたが、拙著『リトアニア』のあとがきに記したように、「道標」をつくること、これ以外にないと確信している。それ以上のことは、古希を前にして私はあえて言うつもりはない。

第47回 ゆかいなセリアとマドリッドーー西村英一郎(『ゆかいなセリア』訳者)

2018 年 2 月 26 日 月曜日

『ゆかいなセリア』の主人公のセリアは、スペイン、マドリッドのセラーノ通りに住む裕福な家庭のおしゃまで、活発な7歳の少女です。セラーノ通りは、現在、高級ブティックや皮製品の店があって、日本の女性旅行者にも人気のあるところです。パリのサンジェルマンをモデルにして街区が発展してきましたが、お話のなかでセリアの家族も、スペイン的なものよりも、どちらかというとフランスのファッションや食べ物を楽しみながら暮らしています。

第5話「シンデレラ」では、セリアが仮面舞踏会とそのときのアンクロヤブル(信じがたい)豪華な衣装やフランスのお菓子を門番の娘ソリータに自慢しています。しかしソリータから近々行われる下町のカーニバル、お祭りに着るソリータのスペイン風の衣裳や食事の話を聞くと、フランスの事物ではなくて、スペインのお祭りのほうにセリアの気持ちが傾いていくくだりがあります。 (続きを読む…)

第46回 あなた自身の国の歴史に向き合うことが大事――徳留絹枝(『アメリカ兵捕虜との和解――もうひとつの日米戦史』著者)

2017 年 12 月 18 日 月曜日

『旧アメリカ兵捕虜との和解』の著者・徳留絹枝さんが、このたび「勇気のメダル」という賞をシカゴで受賞された。この本は、太平洋戦争の戦地フィリピンで、、想像を絶するような酷い扱いを受けた旧日本軍の捕虜となった元米兵たちと、長年にわたる渾身の地道な支援と交流を続けた著者が、彼ら元米兵たちの体験を記録している。
米兵捕虜の体験は長い間、日本でも彼らの祖国でも広く知られることはなかった。本書では、捕虜たちのヒューマンヒストリー(生い立ち、出征、日本軍との戦闘、無残な捕虜収容生活、日本への移送、日本企業による炭鉱や港湾などの過酷な強制労働、母国への生還、戦後の両政府・企業への働きかけ、日本人との交流と和解…)を通し、75年にわたる生きた歴史をつぶさに伝えている。
受賞に際し、徳留さんから文章を寄せていただいた。 (続きを読む…)

第45回 『ヨーロッパ人』の装幀
──藤野早苗(ヘンリー・ジェイムズ『ヨーロッパ人』訳者)

2017 年 3 月 14 日 火曜日

 出版から5か月、友人、知人からの本書に対する反応もほぼ出尽くした感がある。90%の人の最初のコメントが「なんてきれいな本」とか、「いかにもヨーロッパ的な雰囲気ですてき」等々、装幀をほめてくれる言葉であった。訳者としては内容よりもまず装幀をほめられたことに戸惑いがなくもないが、まあ、内容についてはゆっくり読んでからだろうとあわてず、それよりも装幀をほめられたことに大いなる喜びを感じたのである。と言うのも私はカバーへのこだわりが非常に強い。著書の場合は自分の主張が伝わるようなカバーを……とこだわるが、今回は訳書であるから、何よりも原書の雰囲気を伝えられるようなものでなければならない。ジェイムズがこの作品に託したもの──1840年代のボストン近郊の人々のモラル・暮らしぶり、そして、その人々がヨーロッパから訪れた親戚の姉弟をとおして受け止めたヨーロッパの印象──をいかにカバーに表現できるのか……翻訳の作業中から私はしばしばキーボードを打つ手を休めて考えた。 (続きを読む…)

第44回 カバーと扉絵に見るエロティックなヴィクトリア朝
──田中孝信(田中孝信・要田圭治・原田範行編著『セクシュアリティとヴィクトリア朝文化』)

2017 年 1 月 24 日 火曜日

 本書を手に取った読者は誰しも、装幀の美しさに魅せられるだろう。それはひとえにデザイナーの渡辺将史さんのおかげなのだが、カバーと扉の図版を選んだ者として、序章のタイトルにもなっている「横溢するセクシュアリティ」の有様をそれら図版の観点から述べておきたい。

 カバー表と裏に用いたのは、アルフレッド・テニスン(1809-92)の詩「シャロットの姫」(1832)を題材とした19世紀後半の絵画である。まずは、詩の粗筋をおさらいしておこう。表題の名もなき姫は、「静寂の島」で「夜も昼も機を織り」、彼女の静的で受動的な存在を象徴する「青い鏡を通して」、外に位置する、アーサー王の宮廷があるキャメロットの世界を見つめている。自分には「忠誠を誓い、仕えてくれる騎士がいない」ことも意に介さない。しかし、鏡に映った、馬に乗って通り過ぎるランスロット卿の姿を見るや、たちまち男らしい彼の虜になってしまう。彼女は性に目覚めてしまったのだ。その影響は即座に「災い」となって現われ、「鏡は端から端までひび割れてしまう」。よりによって、すでに王妃グイネヴィアと恋愛関係にあった男に惚れてしまったのである。恋に狂った姫は、小舟に乗ると、情欲という災いによって「血が凍ってしまう」前に、自分の英雄のもとに辿りつこうとする。だが、愛する男性に溶け込み、彼の「炎」から生命力を得ることは叶わず、彼女は死んでゆく。その姿をたまたま目にしたランスロットは、まるで物を鑑賞するかのように「美しい顔をした女(ひと)だ」と評し、弔意を表するだけで騎士としての務めに赴く。 (続きを読む…)

第43回 『15歳の被爆者』その後
──狩野美智子(『15歳の被爆者』共著者)

2016 年 12 月 28 日 水曜日

※今回は、『15歳の被爆者』共著者の共著者のお一人で、長崎で被ばくされた狩野美智子さんのブログより、本の刊行とその後の報告文(3回連載、各回タイトルは編集部)を、ご本人の了解を得て転載させていただきます。

■(1)被爆者の私の戦前・戦中・戦後を本に

2016年8月15日に出版された「15歳の被爆者」は、あらかじめみなさまに出版費用を公募するクラウドファンティングという方法で、2015年7月に出発しました。当初は「85歳の被爆者」というタイトルでしたが、実は日が経ち、私が86歳になってしまいましたので、被爆時の年齢、15歳に変更しました。

お申し込みくださった方々、また、本をご購入下さった方々、本当にありがとうございました。普通の庶民の経験など、公にするのは全く烏滸がましいのです。そういう私の躊躇を許してくださり、戦争の中で育ち、15歳の時長崎に落とされた原子爆弾に遭い、直後の敗戦で、にわかに軍国主義が消滅して、素晴らしい民主主義の憲法までできたその嬉しさの中で青春を過ごし、「好きなように生きる」と決めただけの、波乱万丈ではなく、顕彰されたことは一度もなく過ごした、また欠陥だらけの人間にすぎないことは、自分が一番よく知っていますのに、こういう本を作ることに力を与えてくださいました。 (続きを読む…)

第42回 カナダの歴史と文学を彩るヒロインたち
──長尾知子(ちかこ)(『英系カナダ文学研究──ジレンマとゴシックの時空』)

2016 年 12 月 20 日 火曜日

 英系カナダの国民文学を扱った本書『英系カナダ文学研究――ジレンマとゴシックの時空』には、カナダの歴史と文学を代表するヒロインが登場する。1人目は、カナダ史上随一のヒロイン、ローラ・シコード(Laura Secord, 1775-1868)。本書第9章で「女性ゴシック」として論じたジェイン・アーカート(1949-)の『ワールプール』(1986)の中で、軍事歴史家デイヴィッドが惚れ込む歴史上のヒロインである。彼の妻フリーダは、夢に出てきたローラと瓜二つという。作品のヒロイン、フリーダの人生行路にも影を落とすローラとは、どんな女性だったのか。知る人ぞ知るエピソードを紹介しよう(https://www.historicacanada.ca/content/heritage-minutes/laura-secord参照)。 (続きを読む…)

第41回 ホテルの「ヘリテッジ」
──平林美都子(『イギリス・ヘリテッジ文化を歩く──歴史・伝承・世界遺産の旅』共著者)

2016 年 8 月 29 日 月曜日

 『イギリス・ヘリテッジ文化を歩く──歴史・伝承・世界遺産の旅』の執筆のため、近年何度もイギリスを訪れた。地方の宿選びには、宿泊料が高くないことはもちろんだが、鉄道駅に近いこととレストラン付きというのが必須条件となる。ロンドンで宿泊する場合は食事に困ることはないが、地方で泊まるとき、とくに夜遅く到着した場合には、イギリスの多くの鉄道駅が繁華街から離れているため夕食をとるのが難しくなる。ホテルから2~30分歩いても、パブしか見つからないということもある。食事ができるパブもあるが、そういうときに限ってなかなか見つからないものである。だからレストラン付きのホテルというのは、結構重要な条件である。このような最小限の条件で選んだ宿が、後になって「ヘリテッジ」性を持っていたことがわかると、とても得をした気分になるものだ。以下、産業遺産/温泉地のフィールド調査で利用した二つのホテルを紹介したい。 (続きを読む…)

第40回『エミシはなぜ天皇に差別されたか』──林順治

2016 年 8 月 2 日 火曜日

私は東京世田谷の下馬で生まれましたが、3歳と8ヵ月のときか父母の郷里福村深井で育ちました。旧姓は“福岡”と申します。ですが、不思議なことに深井に来てから小学校に入るまでの記憶がまったくといってないのです。あるとすれば、母の背中からぼんやりと緑色にキラキラ光る田圃を眺めていたことぐらいです。

それとは逆に下馬にいたころ母に抱かれて多摩川に入ったことや三輪車で走りまわったことやトラックの荷台から落ちたことなど記憶しています。母によれば、深井に移住してからしばらくして、1週間ほど眠り病のような状態になり大変心配したそうです。おそらく母の背中から裏の水田がぼんやり見えたのはそのころかもしれません。

私は兄八人、姉2人の11人兄弟姉妹の末っ子です。ですから父母にとても甘やかされ、すぐ上の兄2人にはやっかみからかよく泣かされ喧嘩もしました。 (続きを読む…)

第39回 <ヒトラーはなぜユダヤ人を憎悪したか>
──林順治

2016 年 3 月 24 日 木曜日

アウシュヴィッツ平和博物館講演、林順治。2016年1月31日

 

皆様今日は、只今紹介に預かりました林順治と申します。松尾芭蕉の「奥の細道」で有名な“白河の関”の地にお招きいただき光栄に思います。

自己紹介を兼ね東日本大震災に関係する話をして、追悼の言葉とさせていただきたいと思います。私は三一書房の編集者時代から現在まで古代史を中心とした本を20冊ほど出版しました。2001年の『馬子の墓』を最初に『義経紀行』『漱石の時代』『ヒロシマ』の4冊は在職中のものです。これら4冊は400字原稿で1500枚を越える厚い本です。残りの17冊は出版社を辞めた2006年以降の出版です。

私が書くテーマは古代史だけではなく中世・近現代史や漱石・啄木の文学評論にまで至っています。これらの出版で忘れられないのは2011年(平成23)3月11日の東日本大震災です。この年は『漱石の秘密』(論創社、10月)と『仁徳陵の被葬者は継体天皇だ』(河出書房新社、11月)を出しました。お話したいのは漱石のエピソードです。 (続きを読む…)