知られざる公民権の闘いアメリカ黒人町ハーモニーの物語

アメリカ黒人町ハーモニーの物語 知られざる公民権の闘い Mississippi Harmony Memoirs of a Freedom Fighter

ウィンソン・ハドゥソン 著, コンスタンス・カリー 著, 樋口 映美 訳
四六判 / 227ページ / 上製
定価:2,500円 + 税
ISBN978-4-7791-1854-8 C0022
奥付の初版発行年月:2012年12月 / 書店発売日:2012年12月03日
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内容紹介

差別、貧困、暴力……。
極めて劣悪な人権状況と教育環境のなかで、敢然と立ち上がり、
さまざまな妨害と圧力に屈することなく、闘い続けた
無名の女性とその家族。
地元ミシシッピにおける黒人地域社会の歩みと権利獲得を
語り継ぐ長い「公民権運動」の回想録。

前書きなど

はしがき  

                                   デリック・ベル



 公民権専門の弁護士で一九六〇年代初頭に、ブリーフケースを携えた[正義の味方]ローン・レンジャーになったつもりで働いていたのは、わたしだけではなかろう。わたしたちは、南部の都市や町に飛行機で赴き地元弁護団と公聴会の準備をした。法廷では、わたしたちを敵視する白人たちと、期待に胸をふくらませている黒人たちとがひしめくなかで、わたしたちは恐れずに見解を述べた。[裁判が]どのような結果に終わろうと、わたしたちは、黒人の依頼人やその友人や支持者たちにとっては英雄であった。「弁護士さん、あんたらは、あの人種差別主義者に本当によく立ち向かってくれた」という賞賛の声がわたしたちに向けられた。わたしたちは、自分たちこそが人種隔離を維持しようとする法律の壁を切り崩し、自由と正義に通じる広い道を新たに切り拓いているのだと思いこんでいたのである。
 [他所者の]わたしたちがかなり長期間ミシシッピ州に滞在していたがために、ミシシッピ州の役人たちは、自分たちがわたしたちの出入りに気付いているということを、その必要もないのに証明しようとして、わざわざ税金を査定してくれたので、わたしは州に所得税を納めていた。あれは、興奮に満ち、ときには恐怖を感じさせる時期であった。怖くないのかと北部の友人に尋ねられるたびに、わたしは常に自問自答してきた。黒人たちが、憲法によって保障されている権利と、アメリカ市民としても人間としても当然享受すべき人並みの生活を求めて、家や生活や命までも文字通り危険にさらしている。そんな黒人たちを弁護すべく、その地に赴きわずか数日過ごすだけのことをどうして怖いなどと言えるのだろうか、と。
 そんなことを尋ねる人たちがそれ以上突っ込んで聞いてくることはめったになかった。が、もし聞かれていれば、依頼者や自分が活動していた状況を考えるたびに恐怖を感じていたと答えていたであろう。州営の施設における人種隔離は違憲であるという判決を連邦最高裁判所がすでに六年も前に下していても、[ミシシッピ州をはじめとする]深南部では大勢の白人たちが、裁判所による人種統合命令など実施されるわけがないと決めつけていた。そうした人びとにとって人種隔離と不平等は、政策問題以上のもの、つまり、最下層の白人さえ優越感を持てるという麻薬のようなものであった。
 わたしと、当時は弁護士であった現連邦首席判事コンスタンス・ベイカー・モトゥリはふたりで、ジェイムズ・メレディスに対するミシシッピ大学入学拒否を却下するように求めて、幾度もミシシッピ州を訪れていた。あれは、その仕事で[州都]ジャクソンにいた日のことである。わたしたちは農村地域にあるリーク郡から来た代表に会った。それが、ふたりの女性ウィンソン・ハドゥソンとダヴィ・ハドゥソンで、その目には決意の色が浮かんでいた。ふたりがハーモニー集落の中心的人物であり、ハーモニー学校という名の学校を再び開校するためにわたしたちに助けを求めて来たことは、すぐにわかった。全員が白人という教育委員会は、黒人たちがローゼンワルト基金から支援を受けて建てた学校をハーモニー集落の活動家たちが集会所として使ったので、活動家たちを脅すつもりで学校を閉鎖していたのである。
 わたしはふたりに、わたしたち[NAACP]の活動は人種的に分離されている学校を救うためではなく、むしろ閉鎖するためにあると説明した。そのうえで、もし彼女たちがリーク郡の学校を人種統合すると決めるなら、NAACPの法律弁護基金(LDF)が必ず味方になってくれるだろうと話した。ふたりはその話を受け入れたが、わたしも彼女たちも問題にぶつかった。現にわたしがニューヨークに戻って、LDFの事務所スタッフにそのことを話すと、みんな唖然とした。ミシシッピ州の最高学府[ミシシッピ大学]を人種統合しようとしてわたしたちが猛烈な反対に直面していたことを考えれば、それは当然の反応であった。ひとりのスタッフは、「ベル、ミシシッピ州にのこのこ出かけて公立学校を人種統合してみろよ。黒いケツを撃たれるぞ。ま、葬式にはかなりの金が集まるだろうよ」と冗談めかして言った。みんな笑ったが、わたしは真剣であった。無謀ではあったが、真剣であった。
 起訴状は署名され、原告も決まり、提訴された。ウィンソン・ハドゥソンが第三章で語っているように、[人種統合に]反対する白人たちは、常に敵愾心をもち、卑劣になった。[人種統合を求める]黒人たちは、即座に解雇され、抵当は差し押さえられ、信用貸しは撤回された。学校訴訟に密接に関わっていた人びとは、白人たちからは憎まれ、大勢の黒人たちからは何が何でも疎まれることになった。ただし幸運なことに、そうやって反対する人びとばかりではないということもわかった。裁判の結果、一九六四の秋に一年次生の人種統合命令が下り、その時点であたりの緊張感は高まっていた。そうした状況下でデブラ・ルイスという子どもがたったひとりで入学した。それこそが、その後の人種関係を永久に変えたと白人も黒人も認めることになる象徴的な出来事だったのである。
 ジーン・フェアファックスは[クエイカー教組織である]アメリカン・フレンズ・サービス委員会を通じて、必要に応じて自由に使える金銭的社会的支援をハーモニー集落とその指導者たちに提供した。わたしたちがジャクソンからリーク郡に向かうとき車を運転したのは、ジーンであった。ジーンは方向感覚がわたしよりずっと優れていると思っていたようである。わたしがそのことを認めると、「デリック、それじゃ[わたしを]褒めたことにはならないわ。誰の方向感覚だって、あんたのよりましだもの」と言った。全くジーンの言うとおりで、[方向感覚の良し悪しは]冗談事ではなかった。リーク郡に行くのは危険を伴っており、曲がる角を一つ間違えて道に迷えば、わたしたちには、白人たちが他所者の侵入を嫌っている場所に迷い込む可能性もあった。ジーンは、埃のたつ道を素早く確実に恐れもなく運転した。怖くないのかとわたしがジーンに尋ねると、「怖くなんかないわ。だって、神様がいらっしゃるじゃない」と言ったものである。
 人種統合命令が有効となる前の夏、ハーモニーに行ったときのことである。もうひとりのハーモニーの指導者ビオナー・マクドナルドが、自分はどんな脅迫を受けても怯まずに生きて、白人たちをしつこく悩ませているとわたしに語った。ビオナーは、ハーモニーで人種関係改善を目指して活動している人びとの声を自分が代弁しているわけではないと言っていたが、ビオナーが語った言葉には、[ハーモニーの]人びとの強い思いが正確に反映されているように思われた。人種的隷属に対して組織的に抵抗することを目指し、結果的にその抵抗は想定外の効果を発揮した。それは紛れもなく、経済力も政治力ももたない人びとが、生まれてこの方知り尽くし嫌悪してきた[人種差別という]制度を変革できるという確信もないままに、多くの危険を覚悟して活動したからである。
 ハドゥソン一家と共に立ち上がった人びとには、落胆も挫折もなかった。というのは、抑圧に抵抗しようと決意したことですでに意気揚々としていたからである。その勝利を信じる気持ちが精神的にいかに重要であるかを、人びとは理解していた。それがあったからこそ、ミシシッピ州農村地域の郡に蔓延る白人優位の社会構造に挑戦することがいかに危険であるかを承知のうえで突き進む勇気が湧いていたのである。白人たちが何をしたところで、その勝利を信じる気持ちが弱まることなどなかった。
 何年か経ってから、ある会合でハドゥソン姉妹と話したことがある。そのころ、ふたりはすでに選挙権・公共施設での人種統合・連邦政府による貸し付けや資金援助を求める全ての闘いで執拗に抵抗し、ほとんど訴訟も起こさずに勝利を収めていた。ふたりがジャクソンに来てハーモニー学校の再開について法的な援助を求めたときわたしがどんな助言をしたかを、ふたりに思い出してもらった。「振り返ってみれば、わたしはあのとき適切な助言をしたのかなと考えてしまいます」とわたしが言った。わたしはふたりから同情を求めていたのかもしれないが、それは報われなかった。ウィンソンは、「そうねぇ、デリック。あのときわたしも、あれが一番よい対処法なのかなと[疑問に]思いましたよ」と述べた後で、「もう終わったわ。わたしたちは成功を収め、今も活動中ですよ」と付け加えた。
 ハーモニーのハドゥソン一家や近隣の人たちのように、恐れや挫折感や敗北に次ぐ敗北を克服する個々人の強い意志がなければ、公民権専門の弁護士や団体は何も成し得なかったであろう。しかるに、今日の問題にばかり気を取られて、過去に勝ち取られた勝利に関心をもつ人があまりにも少ない。それは、名声には目もくれずに活動してきた人びとの功績がいずれも正当に認知されてこなかったからである。
 とはいえ、ダヴィとウィンソンというハドゥソン姉妹の名はリーク郡やミシシッピ州内ではようやく認知されてきている。ふたりが勇気と決意をもって自分たちの集落を変革に導いた苦労と奮闘ぶりは、もっと広く知られてもよいであろう。本書は、これから何が為されるべきか、何が可能かを考えるための、驚くべき証言の書である。

版元から一言

プロローグ
             
                               コンスタンス・カリー



 アリス・ウォーカーは一九六九年に次のように書いている。「わたしは、ミセス・ウインソン・ハドゥソンについて詳しくなった。大柄で端正な顔立ちの女性で、明るい褐色の肌をして、黒い縮れ毛をしている。深みのある茶色の目には並はずれた鋭さが漂う。話しかけられれば、誰もがその視線に捕らえられ、そのふたつの目は辺り全体を見透かしているかのようである。その目はミセス・ハドゥソン自身をよく表している。というのも、彼女は、不当な法律や言葉による嫌がらせだけでなく、銃撃や爆弾に対しても闘いを挑み、その戦場となったミシシッピ州の町々に見つかる『眠らぬ者たち』の一人であるからである」と。

          *        *        *

「姉ダヴィの家は、一九六七年一一月に二度も爆弾で脅されたんですよ。それは、[公立]学校での人種統合をめぐる混乱があったり、わたしたちが選挙登録したり、わたしたちのNAACPが仲間たちに正しいことをせよと常に導いていたりしてたからなんですよ。わたしたちの家も爆弾をしかけられそうになったんですが、トラックの来る音を聞きつけましてね。その夜はわたしが夜一二時まで監視当番で、クラン(KKK)たちはわたしたちの家に通じる私道にトラックをバックさせながら入ってきました。娘のアニー・モードは、夫がヴェトナム[戦争]に行っているあいだわたしたちの家に住んでいました。娘は妊娠していて、その夜は気分が悪くて[起きていたようで]、娘にもトラックの音が聞こえたんです。わたしは娘に、[ベッドから]起きて奥の部屋に急げと告げました。わたしと夫は銃を撃つばかりの状態でしたが、番犬のジャーマンシェパードが[吠えたてて]クランたちを追い払ってました。わたしは電話に駆け寄るとダヴィに電話して警戒するように伝えようとしました。そのときにはすでにダヴィの家で爆弾が爆発して、幼い娘メアリーの叫び声が[電話ごしに]聞こえましたよ。わたしが外に出ようとしてるとき、クレオは家にあった銃弾が全部空になるまで撃ちつづけてました」。ウィンソン・ハドゥソンは、ミシシッピ州のハーモニーという驚くべき黒人集落での長年の日々を思い出しながら、この物語を話してくれる。

          *        *        *

 ミシシッピ州を全国的に知らしめているのは、[ミシシッピ川の]デルタ地方である。そこでは、[テネシー州の]メンフィスから[ミシシッピ州の]ヴィクスバーグにかけておよそ二四〇キロも延びている肥沃な沖積土の上にプランテーション社会が築かれた。白人上流層が奴隷労働力を基盤にして形成され、ミシシッピ州は[奴隷]制度のお陰で一九世紀のアメリカ合衆国における主要な原綿生産地となった。歴史や大衆文化と言えば、圧倒的にミシシッピ州のデルタ地方が注目されるが、州全体の事情がもっと正確に知られてもよいであろう。メキシコ湾岸の砂浜から北西部の丘陵地帯へ、南東部の松の木の多い森林地帯から、ブルース発生の地であり同州内で黒人住民が最も集中する平地のデルタ地方へと、ミシシッピ州は地理的にも文化的にも多様である。この州が極度に人権の否定されてきた比類なき土地であることも、黒人たちへの抑圧を歴史研究者たちが実証したことによって明らかになっている。
[南北戦争後の]南部再建期に黒人が短期間政治参加した時期を経て、[二〇世紀への]世紀転換期からミシシッピ州ではアフリカ系アメリカ人たちが、合法的にも非合法的にも選挙権を剥奪される時期が長く続いた。ミシシッピ州は一八九〇年に、選挙登録の条件として識字テストを課す最初の州となったのである。黒人たちが奴隷制廃止後に獲得した政治的権利は、[白人優越主義者による]あからさまな暴力や脅迫も相俟って、この識字テストでほぼ全面的に剥奪された。南部諸州の例に漏れず、ミシシッピ州でも人種による分離が法的にも慣習的にも温存された。同州は、州全域にわたるリンチ[という殺人]をはじめとする暴力事件で他の州を凌駕し、南部諸州のなかで最も抑圧的で全体主義的な統治体制をとる州となった。黒人に対する暴力の容認や、差別的選挙の制度化や他の[差別の]立法化に加えて、経済的には小作制度が原綿生産継続のために実施された。多くの場合、小作制度は囚人労働に近いものであった。黒人や貧しい白人やネイティヴ・アメリカン(先住民アメリカ・インディアン)が大きな綿花プランテーションの土地の一部を借りて働いた。給料は払われず、綿花の季節が終わって[収穫商談の]まとめの時期に、「小作人」には各自が摘んだ綿の量によって報酬が支払われた。[棉の]種や農具や他に必要な物は、プランテーションの売店から「供給」されており、その代金は最終的な報酬から差し引かれた。小作人たちの家族は、最終的な報酬を決算するプロセスにほとんど関与することができず、黒人たちの大半は二〇世紀半ばに至るまで白人地主への負債を抱えていた。こうした状況にもかかわらず、少数ではあるが黒人商業経営者や専門家が州の各地に現れたように、黒人の自営農民も少数現れていた。こうした人びとが、ジムクロウという暗い時代の白人優越主義にいちはやく抵抗を示したのである。この種の抵抗は、ハーモニーと呼ばれるリーク郡の集落でも始まっていた。
 リーク郡は、地理的にミシシッピ州の中心に位置し、[州都]ジャクソンの州議会議事堂からは九〇キロほど離れていた。州では唯一正方形の形をした郡で、ちょうど三八キロ四方の面積をもつ。それは、不当な悲劇の物語であるダンシング・ラビット・クリーク条約によって連邦政府がチョクトー・インディアンから取り上げた土地に一八三三年に創設された郡である。この農村郡の中央に位置するのが、ミシシッピ州には極めて少ない、全員が黒人というハーモニー集落である。かつてギャラリーと呼ばれていたハーモニーは、五〇〇〇エーカー以上の土地を抱える。その歴史は南北戦争後の時期に遡る。その頃、奴隷制から解放された人びとが元の奴隷所有者から土地を購入し始めていたのである。地元白人たちが耕作不能だと見なした土地をアフリカ系アメリカ人が購入することが多くなり、そうした土地の取得は二〇世紀初頭まで続いた。黒人たちは、小規模な原綿生産に従事して小銭を稼ぎ、ときには一エーカーの土地を一ドルで購入するなどして、長い年月をかけて土地を取得し、なかには相当な広さの土地を所有するようになった人びともいた。このようにハーモニーの小規模農民は、自立した土地所有者であったので、経済的に抑圧された小作農民として[地主に]支配されるということはなかった。彼らは、デルタ地方の黒人たちが享受することなどめったになかった個人的な自由や誇りや独立独行の感覚を、土地を所有することによって身に付けていた。ハーモニーの地元住民が白人に雇われて働くとすれば、それは往々にして農業収益を補充するためにすぎなかった。
 この地域は、肥沃な土壌がいくらか低地にあるだけの[起伏の続く]丘陵であるため、もともと大きな[奴隷制]プランテーションはなかった。白人たちは通常、せいぜい奴隷を使って中小規模の農場を経営する程度であったが、「南部的な生活様式」ともいえる一つの特徴がリーク郡の歴史にも根を下ろしていた。つまり、ウィンソン・ハドゥソンが語る祖母の物語にもあるように、白人奴隷所有者は黒人奴隷の女性をレイプし、子どもを産ませたのである。その子どもたちの扱われ方は様々で、ときには白人家族の身内として受け入れられたり、認知されたりすることもあった。
 しかしながら一般的には、そうではない状況が頻繁に発生した。この地に古くから住んでいた黒人家族の子孫パーシィ・サンダーズがまだ子どもであったときのこと、白人農民が黒人女性に産ませた息子ジョージ・スローターが「自分の身分をわきまえなかった」という理由で酷い死に方をしたという話を聞いたことがあるという。ジョージは、馬のサドルが「良すぎる」というので、実の父親をはじめとする白人の男たちに待ち伏せされて、乗馬中に撃ち殺された。その物語は、ジョージの死体が見つかったとき、「馬がその血を飲んでいた」という具合に続く。
 リーク郡に元々住んでいた黒人家族は大半がアラバマ州から奴隷として連れてこられた人びとである。パーシー・サンダーズの祖父アンソニーは、[アラバマ州の]タスカルーサでユダヤ系の男を父親とし、生後六か月のとき母親によって連れてこられた。パーシーの父親は、年老いたジャック・サンダーズと暮らしてきたが、南北戦争終結後にパール川沿いの土地を買った最初の黒人である。パーシーが一九〇〇年一二月二五日に生まれる頃には、父親が買い集めた土地が数百エーカーになっていた。クレオ・ハドゥソンの祖父ジョー・ドットゥソンも、一時期はハーモニー全体の四分の一の土地を所有していたことがあり、初期の黒人土地所有者のひとりであった。クレオ・ハドゥソンとウィンソンは結婚して、後にその土地の一部を相続した。黒人たちがこれほどの広い土地を買い集めたばかりか、何年もの長きにわたり所有し続けるというのは、まれなことである。確かに、白人たちのなかには南北戦争後の経済的変化に直面して、現金を得るために喜んで土地を売る者がいた。その白人たちの近隣にはよく知っている黒人たちがいて、その黒人たちが土地をさらに手に入れると、白人たちはいずこかに引っ越していった。最初はギャラリーと呼ばれていたハーモニー集落の黒人たちは、そのなかに「強靱でやっかいなの」がいるということで知られるようになり、[近隣の]白人たちのなかには、その集落に連帯意識が生まれるのを恐れる者もいた。ハーモニーの物語は、ミシシッピ州のひとつの物語、一九六〇年代の公民権運動の前から何十年ものあいだ自分たちの自立した生活を送ってきた農村地域の黒い肌のミシシッピ人の物語であるだけにすばらしい。

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 再建期とそれ以降、他の地域のアフリカ系アメリカ人と同様に、この黒人集落の住民たちも教育に熱心であった。この教育への積極的な姿勢は、奴隷に読み書きを教えることが違法であった奴隷制時代から延々と続いていた。黒人に教育を施せば、農作業以外の生活の道を教えることになるというのは、当初から白人権力者たちにも黒人たちにも周知されていた。黒人集落では、「無知のままでいる限り、われわれはこの地に留まることになる」とよく言われたものである。一八九〇年代のこと、ピーボディ教育基金やアンナ・T・ジーンズ基金やジュリアス・ローゼンウォルト基金をはじめとする北部の白人慈善団体が、黒人子弟のための学校の建設や運営や他に必要な援助を提供した。こうした学校に寄与されたローゼンウォルト基金の援助金はだいたい全体の一五から二〇パーセントほどであり、[学校建設資金の]残りは公共の基金や白人からの寄付金や黒人父兄らからの寄付金であった。これは黒人たちにとって[税金と寄付金という]「二重」制度だとよく言われたものである。一九一三年から一九三二年にかけてジュリアス・ローゼンウォルト基金は南部で五〇〇〇以上の学校建設を支援した。ミシシッピ州では、黒人用の学校五五七校が同基金からの援助を得ており、一九二〇年代の半ばには学校に在籍する黒人子弟の四分の一がいわゆるローゼンウォルト学校に通っていた。
 学校建設に向けたハーモニー地域での組織的な活動は、ギャラリー・ミッショナリー・バプティスト教会を中心に展開され、住民たちが学校建設の援助をローゼンウォルト基金に要請した。学校建設用地は、父兄や集落の住民が地元黒人住民サム・カークランドから購入した。学校は、ハーモニー住民の労働によって愛情を込めて建てられた。住民たちは、近隣の町村から木材を曳き、ギャラリー通りの近くの丘に校舎を建てるべく自分たちで働いたのである。ウィンソン・ハドゥソンの伯母であるカリー・カークランド・ドットゥソンは、学校建設に現金を寄付をすることができた。第一次世界大戦で戦死した息子に連邦政府から支給されていた小切手を使ったのである。校舎が完成したとき、彼女は住民たちみんなに「さあ、力を合わせて働いて生活していきましょう」と話し、それ以降ギャラリーは「ハーモニー」として知られるようになったという。一九二二年ころに完成したハーモニー学校は、住民から選出された理事会によって運営された。教員に給料を支払うのは郡であったが、理事会が教員を雇った。一九二八年に[ミシシッピ州政府にも]職業訓練課が開設され、その同じ年にハーモニー職業高校の第一期生が卒業した。ウィンソンの夫となるクレオ・ハドゥソンは、その[最初の]卒業クラスの生徒であった。
 ハーモニー学校は、子どもたちの教育機関として成功を収め、創立当初から地元住民の誇りとなっていたが、一九五〇年代に人種統合を実現するための挑戦が始まると、存亡の危機に見舞われた。一九五四年に連邦最高裁判所が『ブラウン対[トペカ郡]教育委員会』という裁判で、白人と黒人が分離された別学は「本質的に不平等」であるという判決を下し、一九五五年のブラウン第二判決では、[一九五四年の]判決を「慎重に」実行することが命じられた。ミシシッピ州や他の人種別学の学校制度をもつ地域では、黒人たちの受けている教育が[白人たちのそれと質的に]平等であると示すべく、先を争って黒人用学校の質を高める改善が図られた。そうしたなかでリーク郡教育委員会は一九五九年に、ハーモニー学校を近隣の集落にある黒人用学校と統合することを計画した。教育委員会がハーモニー学校閉鎖を票決すると、ハーモニーでは素早く住民組織が作られ、NAACPの支部が創設され、[公立]学校での人種統合を求める告訴状がミシシッピ州農村地域からのものとしては初めて提出された。それは一九六三年のことで、ウィンソンは、姉ダヴィが初めての提訴状を作成するのを手伝った。その原告は、ダヴィの娘ダイアンであった。
 ハーモニーは、世代から世代へと家族が土地を相続するという、人間関係の親密な黒人集落であり続けた。ハーモニーでは、白人による統制と支配に対して住民が抵抗する文化が住民の団結心によって育まれてきていた。そして一九五〇年代後半には、[ハーモニーの]その団結力が、ミシシッピ州全域の黒人住民による解放運動を牽引する闘いに合流していった。闘いが、学校問題から投票、さらには経済的な権利へと拡大していくにつれて、ハーモニーの住民たちは、ウィンソンとその夫クレオ、姉ダヴィをはじめとする断固たる指導者たちと共にリーク郡における変革への準備にとりかかった。一九六四年には、若い公民権活動家たちがフリーダム・サマー事業でハーモニーに来て住民と共に生活し、地元の活動を支援した。同州の他の集落と同様に[ハーモニーでも]、フリーダム・サマー事業によって黒人有権者が選挙登録し、政治組織が創設され、経済的な機会が増し、黒人子弟の教育の重要性が認知されるなど、今日にも及ぶ変化が生じた。そのお陰で新たなる希望が[今日の]ハーモニーに受け継がれている。

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 本書『アメリカ黒人町ハーモニーの物語』は、ハーモニー生まれのウィンソン・ハドゥソンが一人称で語る物語である。ウィンソンは、二〇世紀後半の黒人解放闘争における種々の最前線で闘った経験を語る。一九一六年一一月一七日に生まれて、八六年間をハーモニーで過ごした。それは、人種隔離が合法であったジムクロウ時代や、[公立]学校をめぐる人種統合に対して[白人による]脅迫や組織的な抵抗が繰り返された一九五〇年代や、解放闘争で動乱の日々が続いた一九六〇年代や、日常的に以前よりも微細な闘い、なかには水面下での闘いを強いられる過去四〇年間など、ミシシッピ州において最も人種的に抑圧された時期であった。ウィンソンは成人して以降、白人による威嚇やクラン(KKK)による暴力で何年もの長きにわたって経済的に抑圧され恐怖に曝されてきた黒人住民たちからの拒絶や反対にも直面しなければならなかった。
 一九六一年に[公立]学校を人種統合するための闘いで、ウィンソンはリーク郡NAACP支部の創設を手伝い、三八年間(一九六二年~二〇〇一年)にわたり支部長を務めてきた。一九六一年、ハーモニーでウィンソンと住民たちがミシシッピ州における黒人選挙権剥奪に挑戦したことによって、アメリカ合衆国の司法省がリーク郡における投票手続きの調査に初めて乗り出した。ウィンソンが一九三七年から何度も選挙登録を試みていた州の識字テストについに合格したのは一九六二年のことである。そのときウィンソンは、州憲法のある条項の意味を尋ねられて、「そういうことが書かれていて、書かれているとおりの意味です」と応えた。このとき識字テストは、ついにそのような解答で合格できるようなものになっていたのである。
 ウィンソン・ハドゥソンとハーモニー集落の物語は、勝利の話でもあり、悲劇の話でもあり、読む人を感激させもするが困惑させもする。それは、アメリカ史に全く新しい時代を到来させた強靭さと勇気の持ち主で、並外れてはいても極普通の女性の物語である。ただし、黒人解放闘争を南部の地元で牽引した多くのアフリカ系アメリカ人女性たちと同様に、ウィンソンと姉ダヴィの役割と活動は充分に知られていないし理解もされていない。公民権をめぐっては全国的な指導者[の貢献]が必要以上に強調されてはいるが、若者たちと共に闘った大勢の女性の存在は充分に知られていない。女性たちは[全国レベルより]むしろ地元で知られている。というのも、その土地で最初に選挙登録を試みたり、「外部から来た」公民権活動家たちを宿泊させたりしたのが女性たちであったからである。
 ウィンソン・ハドゥソンとダヴィ・ハドゥソンの場合と同様に、多くの女性の活動家たちにとって、公民権とは、それが健康管理であれ、連邦政府から支給される貸付金のことであれ、電話設備であれ、道路改善や住居問題であれ、育児の問題であれ、要するに集落改善活動の延長線上にあった。彼女たちは、こうした問題のすべてが黒人解放闘争ならびに人種隔離への挑戦といった事柄と密接に関係していると理解していた。ウィンソンによる地元でのこうした活動と成功に州レベルや全国レベルの団体が注目するようになって初めて、ウィンソン・ハドゥソンは、全国的な政治的会合や支援集会において問題の代弁者として認知され信頼されるようになったのである。

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 わたしがウィンソン・ハドゥソンに初めて会ったのは、一九六四年のことである。そのときわたしは、長年の人権活動で世界的に有名で[ペンシルヴェニア州]フィラデルフィアを拠点とするクエーカー教組織アメリカン・フレンズ・サービス委員会(AFSC)の事務所に勤めていた。AFSCでのわたしの同僚ジーン・フェアファックスは、南部公民権事業の責任者として[ペンシルヴェニア州]フィラデルフィア本部の事務所で働ていたが、一九六四年に公立学校の人種統合をするように裁判所から命じられていた[ミシシッピ州の州都]ジャクソンと[同州のメキシコ湾岸の都市]ビロキシとリーク郡の黒人たちとも一緒に活動することがあった。ジーンは、ほかの裁判の関連で、特にNAACPニューヨーク本部法律弁護教育基金のデリック・ベル弁護士と仕事をすることが多かった。ふたりは頻繁にリーク郡を訪れており、ジーンがわたしをそこへ連れて行ってウィンソンと姉ダヴィに会わせてくれたのである。
 しばらく後の一九八九年に、わたしはジーンがハーモニーを訪れたとき一緒に行って、ウィンソンとのインタビューを録音し始めた。ジーンは、ウィンソンが非常に多くの闘いの最前線で長期にわたり献身的な活動をしてきたことを知っており、わたしたちはその後も何年にもわたってウィンソンと連絡を取り合った。わたし自身も、ウィンソンの高潔さとその闘いの一貫性には驚嘆し続けた。ウィンソンは、わたしが『銀色の権利』と題する本で紹介した、デルタ地方の公民権指導者メイ・バーサ・カーターの友人でもある。このふたりは、一九九九年にメイ・バーサが没するまで何度か一緒に講演の旅をしていた。
 ウィンソンは、一九六〇年代末に自分の経験を書いたりカセットテープに録音したりしていたが、それ以降は多くの研究者や友人や家族からのインタビューを受けてきた。本書には、ウィンソンの生涯と活動が彼女自身の言葉で保存され記録されているばかりか、ミシシッピ闘争の広域にわたる歴史的出来事についても必要に応じて補記されている。対等な地位を求めて黒人たちが闘ったいくつかの主たる側面を、ウィンソンが自らの経験を通してわかりやすく語ってくれるので、本書は(おおむね時系列的にではあるが)、テーマ別に整理されている。歴史的な背景説明は、各章の始めに示されている。内容理解を助ける追加情報は、必要に応じて括弧内に記した。
 自分自身が「見ることも触れることも」できるうちに、ほかの人たちのこれまでの作業を基にして本を仕上げるのを手伝ってほしい、とウィンソンがわたしに依頼してきたとき、わたしは否とは言えなかった。ウィンソンは、自分の物語が人びとに伝えられる時期が来るのを何年も待っていたのである。それに、わたしにとって、ウィンソンやハーモニー内外に住む家族や縁者と一緒に仕事ができるということは、栄誉でもあり喜びでもあった。ハーモニー近辺の農村地域にはまだ舗装されていない道路もあったから、ハーモニーを訪ねるということは過去に足を踏み入れることでもあった。近くのカーセッジには、大通り商店街もでき、一見してカジノと見間違えそうになる巨大で明るく照らされたチョクトー・メイド・ファームズ鶏肉工場もあり、ウォル・マートも開店している。隣のネショバ郡では、繁盛しているカジノが二つ、ホテルも、店舗も、学校も、チョクトー・インディアン部族が所有し運営しているし、ウォルナット・グローヴにある新しく設立された民間経営の少年刑務所施設もまた、この地域の一つの発展を示している。しかし、ハーモニー集落は、リーク郡の砂地の丘陵に比較的目立たずに佇んでいる。その周辺の地域には白人農民が住み、黒人と白人とチョクトー・インディアンと、増加傾向にあるメキシコ系の住民が、ときには不安定になる人間関係を抱えながらも平穏に過ごしている。
 ハーモニーに住んでいた前の世代の人びとは多くが死亡し、次世代に土地を残していった。次世代の住民のなかには、北部や西部での生活を経て戻ってきた人びともいて、ハーモニーの道には新しい板張りの家やレンガ造りの家が建ったり、建築中であったりする。こうした新しい住民にとって、人種隔離や徹底した人種差別のあった日々は、過去の遺物でしかなく、年老いた親戚たちからも過去の話などは聞いたことがないという。ウィンソンは、自分の経験を語ることによって、自身の闘いと仲間たちが引き継いだ闘いを、新しい住民やわたしたちに伝えてくれるのである。
 ウィンソンの語る人生には幾つかの重要なテーマが浮上し、幾度も姿を見せる。それは、家族・集落の仲間・土地というテーマであり、そのいずれもが奴隷制時代からアフリカ系アメリカ人の魂とその闘いに通底する。ウィンソンは、誇示することなく、金銭もなく、学位もないままに、多くの他のテーマと並んでこの三つのテーマを課題として闘ってきた。一九六四年の白人ボランティアのひとりは、ハーモニーでの夏について、「わたしたちは、暑さとか夜とかいった状況と同様に恐怖を受け入れて生活した」と語っている。ウィンソン・ハドゥソンは生涯、その恐怖に甘んじていなければならなかった。ウィンソンの知恵とユーモアと政治的な強い信念が、二〇世紀の方向転換に一役を担ったひとつの生き様を示している。 (本書「プロローグ」より)

(社)日本図書館協会 選定図書

著者プロフィール

ウィンソン・ハドゥソン(ハドゥソン,ウィンソン)

(Winson Hudson 1916 〜2004 年)
ミシシッピ州リーク郡のハーモニーに生まれ、同地に没したアフリカ系アメリカ人女性。1940年代(20歳代後半)に初めて選挙登録を試みた。1950年頃、地元の初等教育に従事。1961年から1964年にかけてNAACPミシシッピ州支部の助けを得て姉や夫らと共に公立学校の人種統合活動に尽力した。1964年にはミシシッピ・フリーダム・サマー計画のボランティアを受け入れて共に活動した。1967年以降は、貧困問題の改善やヘッドスタート事業の設立など、地元住民と共に多岐にわたる公民権活動を続けた。リーク郡に1961年に創設されたNAACP支部の副支部長(1961年)、さらに支部長(1962-2001年)を務めた。

コンスタンス・カリー(カリー,コンスタンス)

(Constance Curry 1943 〜)
1960年の学生非暴力調整委員会(SNCC)創設時の社会人顧問の一人。その後、クエイカー教組織の活動などを通して南部の公民権運動に多面的に関わるとともに、ジョージア州政府の下で貧困家庭問題および児童の健康問題に取り組む。1990年代以降、執筆活動に専念し、Silver Rightsでリリアン・スミス賞受賞。ドキュメンタリー映画制作などでも活躍中。

樋口 映美(ヒグチ ハユミ)

(専修大学教授 黒人史、人種関係史)
『アメリカ黒人と北部産業』『アメリカ黒人姉妹の一世紀』(訳書)
『貧困と怒りのアメリカ南部』』(訳書)『奴隷制の記憶』(訳書)
『歴史のなかの「アメリカ」』(編著)。

目次

はしがき……………………………………………………デリック・ベル
プロローグ…………………………………………………コンスタンス・カリー
第一章 奴隷制時代と幼少期の思い出
第二章 選挙登録への挑戦
第三章 人種統合という選択とハーモニー学校
第四章 フリーダム・サマーとその後(1960 ~ 1970 年)
第五章 公民権獲得の活動は続く
第六章 活動の日々を思って
エピローグ…………………………………………………コンスタンス・カリー
謝辞………………………………………………………コンスタンス・カリー
年表
訳者あとがき
索引

関連書

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