多様性が生み出す人種連帯のかたちアフリカン・ディアスポラのニューヨーク

アフリカン・ディアスポラのニューヨーク 多様性が生み出す人種連帯のかたち

村田 勝幸 著
四六判 / 256ページ / 並製
定価:2,200円 + 税
ISBN978-4-7791-1774-9 C0036
奥付の初版発行年月:2012年03月 / 書店発売日:2012年03月08日
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内容紹介

差別や抑圧、排除、暴力、暴動といった「暗い話」や出来事から、未来への建設的な
メッセージや教訓を得ることができるのか。
圧倒的に絶望的な状況でも希望を失わず、「変革」を求めて闘うことをやめなかった
人々の物語を、表層だけでなく、より深くその本質を広く語り伝えられるのか。
ニューヨークという都市におけるアフリカ系アメリカ人と西インド諸島系の住民が刻む
日々の営みに潜むさまざまな苦悩とその可能性・・・・・・。
「多様性が生み出す人種連帯」という可能性は、現実の厳しい内部のせめぎ合い
の底流にこそ、連帯へ向かう強さと持続性を備えているのかもしれない。

前書きなど

はしがき



「アメリカ史についての一学期間の講義、ありがとうございました。これまで知らなかったことも多く、非常に勉強になりました。ただ強いて要望をあげるとすると、もっと面白い話や明るい話があってもよかったかなと思います」。多少の表現上の差異はあるものの、講義の最終回で記述を求める授業アンケートにはこれと同じような趣旨のコメントが毎回一つか二つはある。記入してくれた学生に反論したいという意図は全くといっていいほどない。授業全体を通して伝えたかった重要なメッセージが部分的にしか伝えられていなかったということを確認できるという意味で、この種のアンケートは自らに反省を迫る機会であると考えている。もちろん、研究上の「面白さ」とわたしたちが日常的に感じる「面白さ」は別物だから、と少しポイントをズラして抗弁することも可能なのであろう。あるいは、学術的な「批判性」はいわゆる日常的に使っている「中傷」や「難癖」とは全く別物であって、批判的な分析の向こう側にこそ建設的なビジョンが見通せるのだ、と説明することもできるだろう。ただいずれにせよ、何かすっきりしないものが残ってしまう。このように、私の場合はほとんど毎回、学期の終わりにはささやかな「敗北感」と次回の講義での「課題」を抱え込むことになるのである。
 本書は、そのような反省と自己批判の産物でもある。差別や抑圧、排除、暴力、暴動といった、「面白い話」や「明るい話」とはどちらかといえば正反対の出来事から、わたしたちはどのような(さらにはどのように)未来に向けての建設的なメッセージや教訓を受け取ることができるのか。圧倒的に絶望的な状況でも希望を失わず、「変革」を求めて闘うことをやめなかった人々の「自由の夢(freedom dreams)」の物語を、表層的な「明るさ」や「面白さ」を乗り越えた地点で広く語り伝えるにはどうすればよいのか。本書の個々の議論の基底にはこのような問題意識がある。
 さて、具体的な議論は第一章以下に譲るとして、ここで私自身のこれまでの研究とも絡めて研究史的な整理を少しだけ行っておきたい。アメリカ合衆国の移民史や人種・エスニック関係を専攻する中で、私は「白か黒かの二分法(black-or-white dichotomy)」を批判的に再検討することを中心的な課題としてきた。二〇〇七年に上梓した前著、『〈アメリカ人〉の境界とラティーノ・エスニシティ』(東京大学出版会)は、「白」とも「黒」とも異なると広く捉えられているラティーノに注目することで、この二分法の規定力とその問題性を歴史学的に論じた。本書では、黒人の多様性や集団内的な差異に注目することで、二分法に別の角度から批判的に迫ることを目的としている。研究史に即していえば、白人集団内部の差異や「白さ」の陰影については、「白人になる」という歴史局面への注目を通して歴史学的に分析されてきたのに対し、黒人については人種的には一枚岩的に捉えられる傾向があった。二〇世紀後半以降、西インド諸島からアメリカへの移民が急増する中で、黒人内部の多様性(あるいはエスニシティの複数性)に照準を据える社会学や人類学の研究は増えたが、歴史研究の素材としては充分に分析されていないように思われる。そのような研究状況を踏まえ、本書では、アフリカ系アメリカ人や西インド諸島系が黒人としての人種連帯と内的多様性の関係をどのように調停してきたのかという点を、ニューヨーク都市史という枠組みで論じようと試みた。そのような目論見がうまくいっているか否かは、読者諸氏の判断にゆだねるほかない。(以下略)

版元から一言

結 語

 移民法改編の動向をニューヨークの西インド諸島系住民の多くが注視していた一九八六年五月、『ニューヨーク・カリブ・ニューズ』紙上で面白い論争が起こった。ブルックリン在住の男性、ブライアン・クレメント氏は、ハイチ関連報道が多過ぎるという内容の投書を送った。

『カリブ・ニューズ』でなぜこれほどハイチに重きが置かれるのか、わたしには理解できません。ハイチ系は自分たちのことを西インド諸島系だと思っていませんし、広域にわたるコミュニティから離れて暮らしてきました。多くは英語を話そうとさえしません。それなのに、なぜ英語話者向けのカリブ系新聞がこれほどまでにハイチに関する報道をすべきなのでしょう。……ハイチからのニュースを載せることに反対しているわけではありませんが、一面を飾るべきではないと思っています。……わたしはハイチ系に対して批判的ではありませんし、かれらの窮状に心を痛めています。でも、ハイチ系の話はハイチ系の新聞に任せて、あなたがたは西インド諸島系の話を載せて下さい。

 この投書は、紙面構成への異議という射程をはるかに超えて、複数の論点が交錯する議論の場へと読者を導いていくことになる。さっそく翌々号には、同じくブルックリン在住の読者による次のような反論が載った。

五月六日付けの貴紙の社説(がある)頁に掲載されたブライアン・クレメント氏の投書にわたしは深く困惑しました。……この種の狭量な思考は、カリビアン・コミュニティに並々ならぬ被害をもたらすとともに、北米にいる他の勢力がカリビアンに後ろ指を指すのを助長します。『カリブ・ニューズ』にハイチのニュースを報道するなというのは、カリビアン・コミュニティ全体に対するサービスを止めることなのです。……成功を勝ち取るために、わたしたちカリビアンは連帯しなければなりません。ことわざにもあるように、「団結すれば立ち、分裂すれば倒れる」のです。ブライアン、そのことを忘れないで下さい。

 この後もクレメント批判の投書は続いた。ハイチは西インド諸島かという点に関して、「一九八四年カリビアン・アメリカンの母」との肩書きが付されたある女性は、人種的な共通性という観点から次のように記した。

先週、『カリブ・ニューズ』のコラムを読んで当惑しました。ある紳士が、ハイチに関するニュース報道が多すぎる、ハイチは西インド諸島ではない、と述べていました。いえ、ハイチは西インド諸島なのです。西インド諸島の他の地域が英国に占領されていたとき、ハイチがフランス植民地だったことを忘れないで下さい。……この世界のどこの出身であっても、わたしたちが同じ分母、アフリカの伝統を共有しているということを認識すべきです。……出身国の文化に起因する差異は忘れ、わたしたちが自らのコミュニティに黒人としてどう積極的に貢献できるかだけに注意を向けましょう。

 また、この論争に参入したブルックリン在住のハイチ系男性は、かれらに向けられた「敵意」や「誤解」について論駁しながら、クレメント氏の理解の根底にある「問題性」に読者の目を向けようと試みている。

拝啓 クレメント殿……あなたの憤りは、あなたによるところの、ハイチ系は自らを西インド諸島系とみなしておらず、それゆえに一面を飾るに値しない、との事実によっています。これは全くの間違いです。わたしたちに対するそうした敵意を、わたしはセクト主義の最もわかりやすい形態だと考えています。言語障壁、体制変動がもたらした複雑さ、そのいずれであれそれらに起因する文化の疎外は、たしかに根拠のない偏狭性へと帰結しうるのです。……ハイチでの出来事は、包括的で複合的な理解を読者に求めているのです。

 ハイチ系はいわゆる狭義の西インド諸島系ではないという「素朴な日常的感覚」をおそらくは記したと思われるクレメント氏の文章は、紙面構成への素朴な批判の域には収まらず、西半球における植民地支配の歴史や「アフリカン・ディアスポラ」としてのアイデンティティなど多岐にわたる論争に火を付ける結果となった。ブライアン・マップという人物が記した次の投書は、一連の論争——実質的には一方的なクレメント批判——の締め括りとして、「西インド諸島系ネイション」という次元にまで踏み込んでいる。

……第一に、クレメント氏が「ハイチ系は自分たちのことを西インド諸島系だと思っていませんし、広域にわたるコミュニティから離れて暮らしてきました」と主張するさい、彼は英語話者である西インド諸島系のある集団がハイチ系コミュニティに対して抱いている共通の誤解を繰り返しているのです。わたしが知っている限り、経験した限りでは、ハイチ系は自らを西インド諸島系とみなしていますし、他の西インド諸島系の仲間たちとより緊密な結びつきを形成する妨げとなっている言語障壁を克服したいと考えています。同じ植民地主義の伝統、同じ移民としての経験ゆえ、親近感を共有しているのです。第二に、ハイチに関わることは同時に西インド諸島全体にも関わっています。……クレメント氏による、ハイチ系と残りの西インド諸島系家族との切断は不自然で、「分断統治」という植民地的戦術の古典的な例です。ヨーロッパ人が違う言語を話し、多様な慣習を持っていたとしても依然としてヨーロッパ人であるように、西インド諸島系にも同じことがいえるのです。ジャマイカ系、トリニダード系、ハイチ系、キューバ系、バルバドス系、ガイアナ系、パナマ系などなど、かれらは「西インド諸島系」という豊かなモザイクの中で欠くことができない部分を構成しています。わたしたち全員が偏見と無知を克服し、西インド諸島系として強固なネイション意識を持たねばならないのです。

 クレメント氏の全面敗北にもみえるこの論争から、ハイチ系の「特殊性」を強調することが誤りで、西インド諸島系としての「共通性」を重視することが正しい、と結論することはおそらく短絡的である。言い方を変えれば、この一連の論争はたしかに“実態”の一部は映し出しているが、“実態”の別の部分、つまりクレメント氏が「素朴な日常的感覚」で記述した、ハイチ系住民の多くが背負っている社会的周縁性というものもまた現実としてある。「汎西インド諸島系」「汎カリビアン」なアイデンティティが声高に叫ばれる一方で、「エイズ・パニック」の影響や貧困者数の圧倒的な多さなどの理由により、ハイチ系が他の西インド諸島系住民からもスティグマ化されてきたということも事実であった。そうした錯綜した“実態”を念頭に置くならば、複数の当事者が参入した一連の論争を、「あるべき姿」を活字化し、読者に広く提示することで現状の変革を目指した「汎西インド諸島系」「汎カリビアン」な行為遂行的“実践”と捉えることも可能であろう。西インド諸島系の内側にある「わたしたち」と「かれら」を分かつ境界線は流動的であり、高度に政治性を帯びている。
 このような境界線引きに、客観性や科学性を謳う学術的なモノグラフが荷担してきたことも事実である。たとえば、第一章で取りあげた、関連する先行研究の多くは、ヘイシャン・クレオールを喋り、エンクレイブを形成して集住するハイチ系を、カリブ海地域出自のエスニック集団の中では「特殊な」存在として位置づけてきた。メアリー・ウォーターズやフィリップ・カジニッツといった研究者がそもそも英語話者である旧英領西インド諸島系移民にもっぱら注目した背景には、言語と人種を同じくするにもかかわらず旧英領西インド諸島系移民とアフリカ系アメリカ人が置かれた状況に違いがあるのはなぜなのかという設問があった。言語的な共通性を持たず、比較対照の難しいハイチ系が、西インド諸島系移民に関する研究において周縁に置かれてきた理由として、このような研究枠組み上の制約や都合があったことは否定できない。枠組みが“実態”に規定因として介入するという側面もたしかにある。
 逆説的な読み方をするならば、クレメント氏の投書が暗示しているのは、旧英領西インド諸島系住民の中の少なからぬ者たちがハイチ系を「西インド諸島系」「わたしたち」とみなしてはいないという現実である。ジャマイカ系などの旧英領西インド諸島系住民の中には、同じカリブ地域海出身の新着移民であるという「近接性」ゆえにこそ、ハイチ系を自分たちの足を引っ張る「身近な脅威」と捉える者たちがたしかに存在してきた。それとは対照的に、アフリカ系アメリカ人の多くには、ハイチ系との「距離感」も作用して、ややもすれば一九世紀初頭のハイチ革命などを引きながら、黒人の共和主義的精神や自治能力を証明する先駆者としてハイチやハイチ系をロマンティサイズする傾向があった。第二章で論じたように、シャーリー・チザムなどの黒人議員のみならず、さまざまなアフリカ系アメリカ人の組織が移民法改編論議において流入ハイチ人への処遇の改善を重要なアジェンダとしたのも、おそらくそうした傾向とも無関係ではない。アフリカ系アメリカ人、西インド諸島系、ハイチ系の関係は、流動性と緊張感を伴いながらも多様性を軸に切り結ばれた人種連帯によって緩やかに束ねられている。ここにアフリカン・ディアスポラの具体的でダイナミックな実相が見出せるといえるだろう。
 なお、『ニューヨーク・カリブ・ニューズ』紙上での論争から一〇年以上を経て、定住化の度合いを強めたハイチ系住民の多くがアメリカに住む黒人としての自己規定をいっそう進めていることは、第五章での議論からもみてとれる。日常的に警察の残虐行為を経験することなどを通して。

 本書では多様性が人種連帯を生むという機制に注目する、と「はしがき」で述べた。ただ、いくぶんこれとは矛盾するように思われるかもしれないが、ポストコロニアル研究の多くが印象づけるようには、差異や混淆性が調和的な「わたしたち」を無条件に約束してはくれないということも、具体的な事例に即して「わたしたち」内部のせめぎ合いを実証的に分析した本文において強調したつもりである。アフリカ系、西インド諸島系、ハイチ系の三者関係は、多様性がバラ色の未来像を約束するという俗流のポストコロニアル的な理解を多くの点で裏切っている。
 本書の記述は実証的な分析が基になっている。けれども、「多様性が生み出す人種連帯」という本書の基底的な認識と枠組みそのものは、実証的、帰納法的に導き出されたものではなく、多少乱暴にいえば、「賭けるべき可能性」として持ち出されたものである。同質的な「鉄の団結」に基づく連帯は、時間の経過とともに内側に差異や裂け目を発見し、それが原因になって分裂するというのが大方の歴史のならいであったように思われる。多様性を基盤としながら連帯を切り結ぶにはどうすればいいのか。本書執筆の出発点にはこのような問いがあった。本書の各章で取りあげたのは、強度と持続性を兼ね備えた連帯を多様性から紡ぎだそうと試みた闘争の物語であった。歴史的想像力を駆使し、アフリカン・ディスポラの立場に沈潜することで初めて、かれらの目線から世界がどうみえるのか、かれらが司法を、刑事制度をなぜ信用しないのか、警察をどうして守護者でなく敵とみなすのか、といった点がみえてくる。これらの問いにこそ、歴史的想像力の扉を開ける鍵があるといえるだろう。

(社)日本図書館協会 選定図書




著者プロフィール

村田 勝幸(ムラタ カツユキ)

1968年 福岡市生まれ
北海道大学大学院文学研究科 准教授 学術博士
専門はアメリカ史・アメリカ研究
単著:『〈アメリカ人〉の境界とラティーノ・エスニシティ──「非合法移民問題」の社会文化史』(東京大学出版会、2007年)
論文:“Searching for a Framework for a Synthetic Understanding of Post-1965 Immigration from the Western Hemisphere,” Transforming Anthropology 14, no. 1 (April 2006): 95-101
共訳書:ロビン・D・G・ケリー『ゲットーを捏造する──アメリカにおける都市危機の表象』(彩流社、2007年)他。

目次

目 次


はしがき………………………………………………………………………………………………………

第一章 差異が切り結ぶ「黒いわたしたち」——アフリカン・ディアスポラの理論的射程……
 はじめに
 一 一九六五年移民法と顕在化する「黒い移民」
 二 西インド諸島系移民に関する研究の成果と問題性
 三 アフリカン・ディアスポラとしての黒人——「差異を織り込んだ連帯」へ
 むすびにかえて——ディアスポリックな想像力と歴史研究

第二章 「二重の不可視性」を生きる西インド諸島系移民——人種の政治とアムネスティ法案……
 はじめに
 一 不可視な「新しい移民」
 二 ニューヨークをめざす西インド諸島系移民
 三 西インド諸島系非合法移民擁護の政治学(1)——〈黒人〉の糾合
 四 西インド諸島系非合法移民擁護の政治学(2)——顕在化する利害のズレ
 むすびにかえて——二分法的理解の彼方へ

第三章 「ハワード・ビーチよ、聞いてるか? ここはヨハネスブルグじゃないんだ!」
     ——暴力、人種主義、多様な「わたしたち」…………………………………………
 はじめに
 一 ハワード・ビーチ事件の経過
 二 ハワード・ビーチ事件にみる黒人にとっての人種主義的な日常
 三 多様性がもたらす開かれた人種連帯
 むすびにかえて——人種的平等への険しい道のり
 [資料──ハワード・ビーチに関する情報文書]

第四章 デイヴィッド・ディンキンズとクラウン・ハイツ暴動
     ——都市政治史と人種・エスニック関係史の交差…………………………………
 はじめに
 一 ニューヨーク市初の黒人市長の誕生
 二 クラウン・ハイツという火薬庫
 三 政治争点化されるクラウン・ハイツ暴動
 むすびにかえて——ディンキンズへの評価と暴動の教訓
 [補論──クラウン・ハイツ暴動に関わる裁判のその後]

第五章 警察の残虐行為が構築する人種連帯のかたち——三つの事件と重なり合う「集合的記憶」
 はじめに
 一 人種主義的暴力に直面するハイチ系移民——アブナー・ルイマ事件
 二 連鎖する怒りと不安——アマドゥ・ディアロ射殺事件の「介入」
 三 ヘイシャン・ディアスポラからアフリカン・ディアスポラへ
    ——パトリック・ドリスモンド射殺事件
 むすびにかえて——多層な準拠枠としてのアフリカン・ディアスポラ 1

結語…………………………………………………………………………………………………………

註………………………………………………………………………………………………………………

索引……………………………………………………………………………………………………………

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