法制史の観点から日系人の戦時強制収容を捉え、
アメリカという国家と社会の基本的性格と問題点を探る!
自由と平等、公正を掲げるアメリカが、第二次世界大戦時において合衆国国内や影響下にあったペルーやブラジルなどのラテンアメリカ諸国の日系人と日本人移民を収容所に収監した。その行為を支えたのはアメリカ憲法の下に作られた様々な法律や行政命令である。
建国以来、自由と平等を理想としながらも差別や排除の歴史を“法治”の名の下で刻んでいる国家と社会のあり方の特質と問題点を日系人の強制収容の歴史と諸相から探る労作。
●アメリカ日系人強制排除・収容事件の特徴
本書で取上げる事件の特徴は次の一〇点にまとめられる。
①第二次大戦中に約一三万八〇〇〇人の在米日本人と日系アメリカ人が連邦政府によって強制排除、または強制収容、あるいはその両方の対象となった。合衆国政府による戦時日系人対策は大別して「危険な」敵性外国人逮捕・抑留計画(第2章第二節)と、主として西海岸在住日系人の強制排除・収容計画(第4章)の二つに分けられるが、この両者を混同する人は体験者に中にも少なくない。二つの計画の対象となった人々は、その後の展開により前者から後者へ、あるいは反対に後者から前者へと分類が変更され、それに伴い収容所を移るという事例が数多く見られ、それがこの政策全体の理解をさらに複雑にしてきた。
②これら二つの計画は、連邦政府がハワイで行ったことと比較するとその性格がいっそうよく理解できる。ハワイでは戒厳令が敷かれ、軍がハワイ住民の生活の隅々まで統制することによって日系人強制収容政策を実施する必要がなかったが、ハワイの軍政に日系人への警戒心があったことを知ると、本土とハワイでの政策が根本的に同じ性格であったことが見えてくる(第2章第三節)。
③連邦政府の日系人対策はラテンアメリカ諸国にも及んだ。政府は「危険」でもなく、また居住国にとっては「敵性」外国人ですらなかった日本人をアメリカへ拉致し、その途上でパスポートを没収し、入国審査では「不法入国者」として扱い、さらに「敵性外国人」として抑留し、そのうえ、彼らを日本に捉えられたアメリカ人民間人との人質交換に使おうと企んだ。彼らにはアメリカの市民権も永住権もなかったために、戦後は意思に反する日本送還の対象となったばかりか、戦後補償でも不利で不公正な扱いを受けることになった(第3章)。
④強制排除・収容の終結の仕方には、政策の企画や実施以上に、連邦政府による日系人の同化、拡散、無害化という政策の性格が顕著に現われていた(第5章)。
⑤アメリカ日系人強制排除・収容計画を実施した行政府(フランクリン・ローズベルト政権)は、市民的自由と人権に配慮するリベラルな政権であった(第4章第二節)。政策は当初から綿密な計画と政策目標があったわけではなく、戦争ヒステリー、人種偏見、政治的指導力の欠如により、行き当たりばったりの政策であった(第5章)。また、この計画には立法府が立法措置の裏づけを与えることにより(第6章第二節)、司法府はその計画を容認する判決を下すことにより(第7章第四節、第五節)、関与した。つまり連邦政府三権のすべてがこの事件に関与した。
⑥ 最高裁での審理のための準備段階で三つのスキャンダルがあった。一つ目は司法省が重要な証拠を隠蔽したこと(第7章第四節)、二つ目は、陸軍省が重要な証拠を改竄したうえに、改竄前のオリジナルを隠滅したこと(第7章第四節)、三つ目は陸軍省の意向に配慮した司法省が重要な証拠を隠匿したこと(第7章第五節)である。このことは、一九八〇年代のコーラム・ノビス訴訟の焦点の一つとなった(第8章第五節)。また、審理を行った最高裁は、日系人の解放につながる判決の発表をローズベルト政権への配慮から一ヶ月近く遅らせた(第7章第六節)。これが四つ目のスキャンダルである。
⑦連邦最高裁の日系人強制排除・収容政策関連四判決の意味は以下の通り。第一に、人種に基づいた政策、つまり人種差別的な政策であっても国家の緊急時に差し迫った理由があれば容認される。第二に、しかし、忠誠心の明らかな市民の強制排除後の継続的監禁は容認されない。そして第三に、第二で示された国家による保護は、国家への忠誠心や愛国心と引き換えである(第7章第六節)。第四に、忠誠心の明らかな日系人の継続的監禁を違法と退けた判決では、最高裁はローズベルト政権の責任は問わず、解散間近の一行政機関、戦時転住局の逸脱行為だけを指摘した。それによって国家による大規模な人権侵害事件を矮小化した(第7章第六節)。
⑧人種という基準に基づいた戦時強制排除・収容政策を容認した諸判決は、それに対する戦後の厳しい批判にもかかわらず覆されることはなく、しかも最近まで判例として使用され続けている(第8章第三節)。一九八〇年代になって証拠の隠蔽、改竄・隠滅、隠匿という連邦政府の不正行為の証拠が発見され、連邦地裁、連邦控訴裁の段階では、一九四〇年代の有罪判決が取り消されたが、最高裁の判例を覆すには至らなかった(第8章第四、第五節)。
⑨ 日系人戦時強制排除・収容政策の企画と実施に参加した四〇余名の文官と武官は、ひとりを除いて全員が法学位を持っていたばかりでなく、大統領を始めとして全員が憲法の維持と擁護を宣誓または確約して就任していた。彼らは、一部は徹底した人種主義によって、一部は組織への忠誠心や上司の圧力に屈して、人種差別的政策を容認した(第9章第一節)。
⑩ 戦時強制排除・収容事件は、当時が公式人種主義に基づいた移民政策の時代で、また人種隔離合憲時代であったという歴史的文脈で捉えると、戦時の例外的な事例ではなく、むしろアメリカ史では常態に近い事件であったことが明らかになる(第9章第二節)。
●本書の構成
序章では、アメリカ史研究になぜ、どのようにリーガル・ヒストリーが有効であるかを三点に絞って説明する。第一点は、リーガル・ヒストリーが研究対象とする法と社会の相互作用である。社会が法をつくるが、法はいったん制定されると、長きに渡って社会に影響を与え続ける。特に、第7章、第8章で取上げる連邦最高裁の判決は、判例としてその後長く、行政府、立法府を制約し、国民生活に深甚な影響を与え続ける。第二点は、法と歴史との親和性である。特に最高裁での口頭弁論に原告側、被告側の双方が備える際には、徹底的に関連する事柄の発端や過去の経緯、すなわち歴史を精査するし、また弁論を聞き、審理した最高裁判事が書く判決文はその歴史に言及する。さらに判決文は、歴史を強く意識した過去の判決、すなわち判例を多数引用する。まさに、判決には歴史が詰まっている。リーガル・ヒストリーの研究はほとんどそのまま歴史研究なのである。このことから、第三点が必然的に導き出される。議会による立法措置も、最高裁による判決も長い歴史が意識されているのが普通なので、ひとつの事件を長いスパンで見通す視点が得られる。一九四〇年代のアメリカ日系人戦時強制排除・収容諸判決を読んで建国期の国家理念に思いを馳せたり、二〇〇一年の九・一一同時多発テロ後の中東系・アラブ系の人々の対する大規模な人権侵害を分析する有力な視点を得たりすることも可能である。
第1章では、アメリカ日系人戦時強制排除・収容事件の本質を国家非常時(と想像される事態)における人権侵害の問題と捉えることで、その事件が例外的な事例ではなく、実はアメリカ史全体を通じて現われる現象であることを明らかにする。また、その事件の根本的原因を建国期にまで遡って考察することの有効性を示す。
第2章から第5章までは、リーガル・ヒストリー分析の対象とする日系人戦時強制排除・収容事件を取上げ、法的な側面を重視して詳述する。第2章は、第4章で取上げる西海岸在住日系人強制排除・収容事件に較べて研究蓄積の乏しいいわゆる「敵性」外国人としての在米日本人の逮捕・抑留計画を論じる。アメリカ本土ばかりでなくハワイの事例にも触れることにより、連邦政府が日本人に対しどれほど猜疑心を抱いていたかが明らかになる。第3章は、在米日本人逮捕・抑留計画よりもさらに研究蓄積が乏しく、一般にもあまり知られていないペルー日系人に対する連邦政府の拉致・抑留計画についてである。彼らに対する戦時補償は、第4章で扱う西海岸日系アメリカ人に較べて著しく立ち遅れており不公平であるが、補償資格有無の線引きは複雑で、恣意的で、不公平で、一言で表現すると法匪的であることが、明らかとなる。第4章では主としてアメリカ西海岸に居住していた日系人の強制排除・収容を扱う。この事件については非常に多くの研究の蓄積があるが特に法的側面を重視し、政策の本質、日系社会の対応、そしてそれらが引き起こした不幸な事態を論じる。第5章では、西海岸日系人に関する大規模国家計画をどのように終結にさせたかを論じる。この終結の仕方を分析すると計画の特徴がいっそう鮮明に浮かび上がる。
第6章から第8章までは、連邦政府の法的関与についてである。第6章では、まず連邦政府の行政府、立法府がどのような法制的根拠で、どのように関与したかを明らかにする。ついで連邦政府による正当化の理屈、つまり強制排除・収容の合法・合憲論を紹介する(第三節)。最後に司法府の関与の歴史的背景を論じ、次の第7章への橋渡しとする。立憲体制においては、行政府と立法府の行き過ぎを抑制するのは司法府であり、特に強大な国家権力から人々を守る権利章典を含んだ合衆国憲法による統治体制では、司法府の役割は特に重要である。この点を、日系アメリカ人関連の諸判決に焦点を当てて論じるのが、第7章である。日系人強制排除・収容政策を容認した三つの判決の議論に続いて、忠誠心の明らかな日系人の継続的監禁を退けたエンドウ判決も論じる。第8章ではまず、エンドウ判決にもかかわらず一部の日系人に対して監禁が継続されたことを紹介し、それらの判決の戦後の評価を論じ、そして判決が後の最高裁の審理ではたびたび判例として活用されてきたことを紹介する。ついで、戦後のリドレス(補償)問題、さらには有罪判決を受けた三人の日系人の有罪取り消しを求めた訴訟を論じ、一九四〇年代の判決の長期間にわたる影響を論じる。これによって、国家非常時における人権の問題を建国期から現代まで長い視点で見通すことが可能になる。
第9章では本書の議論の総まとめとして、日系人戦時強制排除・収容事件にかかわって法と歴史の交錯する場面を描写する。その際に使用する概念は二つで、一つは憲法による統治をめざす国家では国是の根幹とも言える「法の支配」である。もう一つはその国是、あるいは理想に間断なく挑戦し、その実現を妨げてきた人種主義の究極の顕在形と言える合憲的人種隔離である。これら二つの概念を論じることにより、日系人戦時強制収容事件はアメリカ史の例外的事例ではなく、むしろ常態に近いものであったことを示す。
以上、日系人戦時強制収容事件の分析を通じてアメリカという国家や社会の根本的特徴を理解することを試みるものである。
(本書「はしがき」より)
(社)日本図書館協会 選定図書
天理大学国際学部教授。アメリカ史、アメリカ法制史、日系アメリカ人史。
共訳書 イアン・ティレル著『トランスナショナル・ネーション アメリカ合衆国の歴史』
(明石書店、2010年)
共編著 『アメリカス世界における移動とグローバリゼーション』(天理大学出版部、
2008年)
論文 “The United States-Japanese War and Tenrikyo Ministers in America,”
in Duncan Ryuken Williams and Tomoe Moriya,eds.,Issei Buddhism
(Urbana,IL: University of Illinois Press,2010),141-163 ほか。
はしがき………………………………………………………………………………………………………………
一、本書のねらい
二、アメリカ日系人強制排除・収容事件の特徴
三、本書の構成
四、用語について
A 連邦政府による戦時日系人対策関連用語
B 「転住所」の名称
C アメリカの連邦裁判所およびその関連用語
D その他
序 章 なぜリーガル・ヒストリーなのか─その三つの意義…………………………………………………
一、法と社会の相互作用
社会が法を作る
法が社会を作る
日系人強制排除・収容諸判決の歴史的文脈
二、法と歴史の親和性
判決文と歴史研究
「原意図」対「生きた憲法」論争
判例主義
三、判決分析に見るアメリカ史の長い文脈
第一四修正の不思議な経歴
法を媒介とした共通要素の認識
第1章 国家非常時における市民的自由とリベラリズム………………………………………………………
一、「強い国家」の必要性
二、市民を守る安全装置
権利章典
「適正手続き」と「平等保護」
人身保護令状
安全装置の効き目
三、最初の試練――外国人治安維持諸法
四、南北戦争と日米戦争──戦時における市民的自由
リンカン大統領の超法規的行動
レンクィスト元最高裁首席判事の連邦政府強権擁護
大統領権限を極大化する議会の承認
戦時における法の沈黙
五、歴史的背景としてのリベラリズム
古典的リベラリズム
リベラリズムの変貌
高度福祉リベラリズムと強大な政府
第2章 アメリカ本土・ハワイの日本人対策……………………………………………………………………
一、研究史
二、アメリカ政府による日本人対策
A 連邦政府の敵性外国人逮捕・抑留計画
概観
逮捕
審問・抑留
B ハワイにおける日本人逮捕・抑留計画
拘引
審問
抑留
ハワイ日系人抑留者の人の流れ
三、ハワイの軍政
軍政樹立
司法と行政の衝突――メッツガー裁判官対リチャードソン将軍
軍政における日系人要因
「脅威でもあり、必要でもある」存在
ダンカン判決に現れた日系人への猜疑心
第3章 ラテンアメリカ諸国日系人拉致・抑留計画……………………………………………………………
一、極めて低い認知度
看過されてきたペルー日系人拉致・抑留事件
貧弱な研究史
二、拉致・抑留計画
パールハーバー以前のペルー日系社会
日本人拉致・抑留計画――パナマ・モデル
ペルー政府の協力
外交官エマソン
人質交換
ペルー政府の思惑
三、拉致・抑留の実態
第五次追放者の特徴
逮捕・拘引
アメリカへの拉致
拉致被害者の戦後
四、「不法」入国と送還問題
五、リドレス(補償)
バーンスタイン委員会の補償勧告 155
補償から漏れた人々 156
ラテンアメリカ諸国日系人の補償問題のその後 161
第4章 日系人強制排除・収容計画………………………………………………………………………………
一、史上空前の大規模国家政策
二、連邦政府の日系人管理政策
リベラル政権による強制排除計画
戦時転住局の日系アメリカ人選別・隔離・拡散政策
マイヤー戦時転住局長の見解
三、日系社会の対応
第二次世界大戦前
日米開戦前後
強制排除後
日系社会の抵抗
四、市民権放棄と徴兵忌避
市民権とアメリカ法
市民権の重要性
戦時強制排除・収容事件と二世の市民権
市民権放棄という戦術
徴兵忌避
第5章 アメリカ日系人排除・収容政策の終らせ方──選別、拡散、無害化………………………………
一、転住所からの出所の波
第一波~第三波――就学、季節労働、高技能労働
第四波――混乱と軋轢
第五波と第六波――転住所閉鎖と強制出所
出所政策がもたらしたもの
二、再定住という体験──シーブルック・ファームズの事例
国家による労働管理
中西部・東部への出所
シーブルック・ファームズ社
シーブルック・ファームズ就労者
A 日系アメリカ人
B ペルー日系人
C 市民権放棄者
D 敵性外国人
シーブルック・ファームズの歴史的意義
第6章 連邦政府三権の関与………………………………………………………………………………………
一、行政府・立法府・司法府の法
二、行政府・立法府の法制的関与
行政府の関与
立法府の関与
三、司法府関与の歴史的背景
最弱の府から世界最強の司法へ
最高裁の転換――市民的権利重視へ
ローズベルトの法廷革命
愛国心を刺激された最高裁判事たち
四、戦時強制排除正当化の論理
戦時転住局の合法・合憲論
「賢明ならずとも合憲」という理屈
「戒厳令が防いだハワイでの集団強制排除」という理屈
「ジャップ」だけは特別という理屈
そして、いい「ジャップ」はいなくなった
第7章 日系人強制排除・収容諸判決……………………………………………………………………………
一、リベラル思潮と国家権力発動への翼賛
二、破壊工作員事件
破壊工作員上陸
法廷の排除
司法府と行政府のあいまいな境界線
最高裁への上訴
最高裁判事によるキリン事件審議
キリン事件判決――司法審査の棚上げ
三、ヤスイ対合衆国事件
四、ヒラバヤシ対合衆国事件
最高裁までの道のり
最初のスキャンダル――司法省の証拠隠蔽
再びスキャンダル――陸軍省の証拠改竄・隠滅
ヒラバヤシ判決
反対意見並みの同意意見
五、コレマツ対合衆国事件
最高裁までの道のり
またもやスキャンダル――陸軍省に配慮した司法省による証拠隠匿
コレマツ判決
崩れた全員一致
六、エンドウ事件
ミツエ・エンドウ
コレマツ事件と対を成す事件
エンドウ判決
エンドウ判決の歴史的教訓
最後のスキャンダル――判決の公表を遅らせた最高裁
第8章 日系人強制排除・収容諸判決のその後――ヒラバヤシ・コレマツ判決の長い影…………………
一、エンドウ判決後の監禁
二、強制排除・収容諸判決の直後の評価
三、コレマツ判決の復権
外国人土地法
非共産党員宣誓供述書
人種隔離教育とアファーマティブ・アクション
カラー・ブラインド原則とコレマツ判決
四、リドレス(補償)
『否定された個人の正義』
リドレス成功の要因
忠誠心と愛国心という要因
連邦政府の謝罪と議会の立法措置
五、コーラム・ノビス訴訟
証拠発見
ゴールドバーグ元最高裁判事の批判
大統領恩赦提案
コーラム・ノビス請願の五つの論点
コーラム・ノビス訴訟判決
司法府の責任――「不利益」問題
司法府の責任――ヒラバヤシ・コレマツ判決再訪
第9章 リーガル・ヒストリーの文脈――法と歴史が交わるところ…………………………………………
一、「法の支配」
憲法擁護義務の不履行
「法の支配」と人種
「法の支配」と移民
「法の支配」とエイリアン
二、人種隔離合憲時代──「好ましからざる」者の排除
人種隔離時代
人種隔離という歴史的背景
隔離された日系社会
アメリカ史の中の日系人戦時強制排除・収容
おわりに………………………………………………………………………………………………………………
注釈つき判例索引……………………………………………………………………………………………………
註………………………………………………………………………………………………………………………
事項索引………………………………………………………………………………………………………………
人名索引………………………………………………………………………………………………………………
私の回顧録Passing It On (2005)の翻訳の仕事を快諾してくださった三人の訳者──森田幸夫氏・篠田左多江氏・増田直子氏──に心から御礼申し上げます。翻訳の労を執られた森田氏と二〇〇七年三月に対談したさい、一人の二世の物語であっても日本の人びとの興味をかきたてるはずだという主旨の発言をうかがって、その考えにびっくりしました。私の回顧録Passing It Onの執筆の機会は、カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)アジア系アメリカ人研究所のマージー・リー氏のご厚意で実現いたしました。
Passing It Onでは、肉親関係の記事が大半を占める一方、私が没頭した問題に関する記事も散見されます。一九六〇年代の公民権運動で胸がときめく時代に、私自身と家族はどうしていたのか。そのことを少しはわかってもらえるよう、本書は何よりも愛しい子どもたちのために書いたものです。
回顧録そのものの記述範囲は、懐かしい家族の思い出と、あまたの出来事の中でも私にとって重要ないくつかの出来事にまつわる記憶に限られています。ところで、本書を読まれる際、どうか次の点を心にとめてください。二世の私は、完全に「アメリカナイズ」されているばかりか、とっくに「母国語」を忘れています。兄アートと弟ピートも似たりよったりです──先祖は日本人なのに、アメリカ人特有の思想や文化に浸っている日系アメリカ人なのです。
現代の日系アメリカ人は、同胞の二世兵士の功績や勇気や犠牲的行為の恩恵に浴しています。しかもそのおかげで、第二次世界大戦中に連邦政府が惹起した往時のあからさまな人種差別のない生活を続けられるわけです。
アジア人とアジア系アメリカ人の政治犯はもちろんのこと、そのほか黒人やラティーノ(米国在住のラテンアメリカ系住民 通称ラテンアメリカ人)や白人の政治犯もいたことを読者諸氏に知っていただきたい。ですから、後者のことをこの回顧録につけ加えたほうがいいと思った次第です。さらに、不屈の黒人指導者マルコムXとの邂逅に合わせて、革命に意欲的なキューバへの私的な旅行とペルーのセンデロ・ルミノソ(「輝く道」)の闘争に関する現地での見聞などを通して、公民権運動について包括的な視点を愛しい子どもたちに教えることも絶対に必要だと思いました。
キューバの場合と同様、様々な国民や国家が自由獲得のための闘争を余儀なくされた経緯。一九八〇年代—九〇年代にひときわ顕著だった輝く道の運動が、ペルーの当時の首脳部にしみ込んでいた資本主義的なイデオロギー──労働者階級と貧困者は必ず生存する〔成功する〕機会に恵まれるという〔思い上がったか誤った〕イデオロギー──の追放に努めた経緯。子どもたちには以上のことを理解してほしいと思いました。
それからまた、富裕者と権力者が種々の資源や利潤や生活様式を独占しているときでさえ、自由と正義と平等を勝ち取るため闘った活動家の役割を、読者諸氏も理解してくださいますように。
万人の生活向上のための闘いに、青年こそどんどん参加すべきです。全人類にとって、今よりもっと安全なうえ思いやりや気配りがあり、もっと多様な人びとや慣習制度の存在が容認され、もっと互いに尊敬し合える「未来世界」を創造するため、読者諸氏も私も等しく、能力や技量に関係なく、貢献できるのです。Passing It Onが、今述べたメッセージを伝えてくれますように。
二〇〇八年(平成二〇年)三月一日
アメリカ合衆国カリフォルニア州
ユリ・コチヤマ あとがき——三人の訳者を代表して
本書はYuri Kochiyama, Passing It On (2004)の抄訳である。若干補足すると、カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)に一九六九年に設立されたアジア系アメリカ人研究所の客員研究員だった二〇〇二年、八一歳のユリ・コチヤマさんは、ご家族のために回顧録の執筆を始められた。そしてその約二年後、九〇点の写真と三一点の巻末の参考記事——いずれも同大学のユリ・コチヤマ・コレクションの一部——と一七章の本文を中核とする二二九頁の回顧録が刊行された。
三人が手がけた抄訳は、もちろんこの回顧録によっているが、日本の一般読者のかたの興味をあまりそそらないと思われる部分——ユリさんの親族・友人関係が大きな比重を占めている原著の第九章・第一〇章・第一七章と巻末の参考記事のすべて——は、ご諒解を得て省略した。なお、邦訳にのせる写真の取捨選択は共訳者三人に任されたこと。一般読者のかたの便宜をはかるため、必要に応じて訳文に史実や年代の補充(ないしは訂正)も任されたこと。原著にない貴重な古い写真をお届けくださったこと。翻訳の話が具体化してからおよそ二年半、いっさい催促なさらず忍耐強くその刊行を待ってくださったこと。以上の四点に対して、著者には心から深くお礼を申し上げたい。と同時に、長寿のユリさんに祝意を込めてこの邦訳を贈呈いたします。
*1 〝コチヤマ〟の表記について サンフランシスコの二大日系新聞——『ニチベイタイムズ』(一九四六—二〇〇九、九)と『ホクベイマイニチ』(一九四八—二〇〇九、一〇)——の日本語版も、ニューヨークのユリさん宅に「居候として二ヵ月お世話になった」中澤まゆみの『ユリ 日系二世ハーレムに生きる』(一九九八)も一貫して〝コウチヤマ〟と記している。この点について初対面の際に入念に確認したら、ユリさんは、一字一字確かめるように〝河内山〟と漢字を書きながら〝コウチヤマ〟でなく〝コチヤマ〟と発音された。したがって、〝コウチヤマ〟になじみのあるかたにはきっと違和感を覚えられるだろうが、この共訳では〝コチヤマ〟で統一してある。山口県立図書館上野美代子さんのお力添えによると、河内山(こうちやま)という姓は、その発祥地とされる山口県の柳井市を筆頭とする瀬戸内海側地域、とくに防府市に多いようである。
日系二世の女性活動家ユリさんの一面を私(森田)がはじめて多少とも意識するようになったのは、二〇〇二年(平成一四年)のことだった。サンフランシスコでのイラク戦争反対集会で、ユリさんは基調講演をおこない(二月)、その約八ヵ月後(一〇月)には当局に公開質問状を提出している。ユリさんの反戦運動は、一九六〇年代(ヴェトナム戦争時代)に著しく高揚したが、もちろんこの二〇〇二年以降もやむことはない。その典型的な一例は、二〇〇七年(平成一九年)六月、やはりサンフランシスコでのイラク戦争反対集会——より正確に言えば、イラク派遣命令拒否を含む三つの〝重罪〟で訴追された(二〇〇六,七,五)三世のエーレン・K・ワタダ陸軍中尉の支援集会——にユリさんもオークランドから駆けつけたことであろう。(二〇〇九年一〇月二日、国防長官が本人の希望する除隊を承認したため、ワタダ事件は幕を閉じた。)
ワタダ事件といえば、その支援集会のちょうど三ヵ月前(二〇〇七,三)にやっと実現したユリさんとの初対面の一齣が、いまだに鮮やかによみがえる。対話は「きっかり一時間にしてほしい」と念を押されたので、その一時間にできるだけ質疑応答をかわそうと私は意気込んでいた。が、初対面の挨拶などもどかしいと言わんばかりに、ユリさんから二つの「大事な質問」が発せられた。「日本人として、イラク戦争をどう思いますか。日本では、貧困者に対する差別や人種偏見などがありますか。あなた自身の答えをぜひ聞かせてほしい。」先方の重大かつ切実な質問に、しかし私にすればまったく唐突な難問に虚を突かれ、応答に思わぬ時間を取られてしまった。初対面の目的を告げると、満面笑みを浮かべながら快諾してくださった。そのときのお言葉は、謙虚なものだった——「私の回顧録など、日本で読んでくれるかたがいるでしょうか」
とても未練の残る対談だった。それでも、ユリさんの凛とした物腰にも優しいお心遣いにもさわやかな印象を受けた。
それからおよそ八ヵ月後(二〇〇七、一一)、サンフランシスコで、第二次世界大戦中の二世男子の徴兵忌避を主題にした拙著について講演する機会に恵まれた。なんとユリさんが不自由なお体を押して会場においでくださり、夢想だにしない再会の楽しみが満喫できたのである。
原著は、ユリさんの公的な側面(社会・政治活動)と私的な側面(夫妻の経歴や子どもとの交流)という二本の太い糸で綴られている。このあとがきの冒頭から容易にお察しいただけると思うが、叙述の力点はもちろん前者にある。
とっくにご承知のように、アジア系アメリカ人にしても、ことに一九六〇年代—七〇年代は、自己主張を強めながら、既存の権威への挑戦、ヴェトナム反戦運動、公民権運動などの全国的な潮流に与した時代、ユリさんの言う「アジア系アメリカ人運動の萌芽期」だった。もちろんユリさんも、ときには一家あげて、高圧的な体制に果敢に挑戦した。アフリカ系アメリカ人の非合法的な組織の一つ新アフリカ共和国(RNA)の一員になったこと(原著の第一一章 訳書の第九章)。囚人とくにアジア系アメリカ人の政治犯の支援者になったこと(原著の第一二章 訳書の第一〇章)など。一般の日系アメリカ人にはおそらく稀な、進んで渦中に身を投ずるユリさん特有の軌跡を示すほんの二例でさえ、私には瞠目すべき未知の事実であった。
もう一つ私の瞠目すべき未知の事実は、この女性活動家の旺盛なエネルギーと探究心が国外にも迸ったことである。一九八八年にはキューバで、一九九三年にはペルーで、アメリカと同様、権力や富や貧困などと闘っている無名の人びととの連帯感を強く意識されたに違いない。二つの共和国のうちでも、キューバ以上にペルーにユリさんは魅せられたのではないか。ペルー訪問が決行された一九九三年といえば、同国の近代史に不動の位置を占めるセンデロ・ルミノソの最高幹部アビマエル・グスマン(五五歳)が、武力闘争の標的であったアルベルト・フジモリ大統領政権によって逮捕されたにもかかわらず(一九九二、一二)、グスマンの〝余類〟が全国的規模の熾烈な武力闘争を挑んでやまなかった翌年のことである。
それだけに、この最左翼ゲリラ組織の闘争の実態の一端と理念をユリさんはじかにとらえる好機に恵まれたわけである。しかも、ペルーでの感動が多分まださめやらぬ翌年(一九九四)には、「グスマンの収監とペルーでの革命について話す」ため、ユリさんはフィリピンと日本にまで飛んだ。ちなみに、グスマンは、三回目の審理で終身刑を宣告された(二〇〇六、一〇、一三)あと、二〇〇九年一二月一〇日現在、ペルー第二の大都市カヤオの刑務所で服役している。
グスマンとの面談は許されなかったユリさんだが、マルコムXとの交流を深めたいという大きな夢は一九六四年六月に実現した。が、その約八ヵ月後、彼は兇弾に斃れた(一九六五、二、二一)。ユリさんは、その現場を目撃したどころか、暗殺直後の彼に救いの手をさしのべた唯一の二世の女性だった(『ライフ』誌 一九六五、三、五 二六頁の写真参照)。双方の実質的な交流はあっけなく終わったが、「マルコムは実に時代に先んじていた人物だ」とユリさんは見抜いた。慧眼である。試みに、マルコムXの往時の一研究者ピーター・ゴールドマンの見解を披露しよう。
「『マルコムX自叙伝』(一九六五)の出版後、……一九六〇年代末のブラックパワー運動で開花する、誇り高く大胆で自己主張の強い〔アフリカ系アメリカ人という〕人種のアイデンティティに覚醒した先駆者こそ、マルコムXなのだ、というのが現在の通念である」(ジョン・A・ギャラティ編『アメリカ人名辞典』一九七四 七二三—七二四頁)
マルコムXが非業の死をとげた翌年の一九六六年五月一九日(彼とユリさんの誕生日)を皮切りに、ニューヨークはハーツデールにある彼の墓地を訪れる習慣にユリさんはこだわった。自称マルコムX巡礼は、一九九九年の「その五月一九日まで待ったあと」、ニューヨーク——彼女の社会・政治活動の拠点(一九四六—九九)——から家族の要請でサンフランシスコの北の現住地オークランドに移住するまで、連綿と続いた。ただ、この三三年に及ぶマルコムX巡礼も不本意ながら断念した高齢のユリさんだが、永遠の心の師に対する敬愛と哀慕の念が尽きることはない。だからこそ、彼について二章(第六章と第一〇章)を当てるほどユリさんは極めて〝多弁〟なのである。
その反面、マルコムXの大惨事は、すでに旧聞に属しているし、当時の日系人社会と日本の社会を根底から揺るがす性質のものではなかった。いや、マルコムXという名前自体になじみのないかたもあるに違いない。そのせいもあろうか、少なくとも二回、ユリさんから質問と依頼を受けた。「日本のかたがたは、マルコムXのことをご存知でしょうか。……[翻訳では]マルコムX暗殺の場面は絶対に省略しないでください。」どうかご心配なくという主旨の返事をさしあげたら、いささか安堵されたらしい。二〇〇九年四月二一日付けのご返書の一部で、それが明瞭にうかがわれる。翻訳で「マルコムXに言及されるとわかりまして、うれしく思います。本人は一般の黒人とは違うだけに、とても興味をそそる魅力的な黒人男性なのです。高邁な主義や勇気や見識を身につけた寛大で誠実で博識な指導者でした。とりわけ、同胞を大事にし尊敬し、同胞の言動をとてもよく理解していました。しかも、同胞が民族としてのプライドを持つように努めました。ここがほかの複数の黒人指導者とは違うところです。アフリカ系アメリカ人は、白人からずっと一貫して虐待されて来ました。しかし、マルコムXなどの偉大な指導者のおかげで、アメリカにいる黒人も世界各地に分散している黒人も、世界の人びとに次の点を明確に伝えることができたのです——これまでの人種差別とか不平等とか不正などと闘って来ただけでなく、白人優越主義の残渣が一掃されるまで、このあとも闘い続けるつもりである、と。……アメリカの黒人解放運動という大胆な一大闘争が、アメリカ人の本来の文化と生活に深遠な変化をもたらしていることを、日本のかたがたにもご理解いただけるといいのですが。……」
マルコムXとは、どんな人間だったのか。読者によっては蛇足だと思われることを承知のうえで、通俗的だが、過去(一九三六—七二/一九七八—二〇〇〇)のアメリカの典型的なグラビア雑誌『ライフ』によって、あくまでもその人物像の片鱗を紹介したい。念のため、マルコムX(本名マルコムリトル)は、一九二五年(大正一四年)五月一九日——四歳年上のユリさんとまさに同じ誕生日——にネブラスカ州オマハで誕生、一九六五年(昭和四〇年)二月二一日ニューヨークで惨死した(享年三九)アフリカ系アメリカ人の宗教・政治指導者である。
(1)マルコムX以外の黒人指導者は、緊急課題として人種統合を要求した。ところが、彼は激怒しながら、かつ非情な言葉を駆使しながら、黒人も平等な人間なのだ、と説く闘士であった。「おれたち黒人が[一六二〇年に当時のマサチューセッツ植民地の]プリマスロックに上陸したんじゃない。プリマスロックこそ、おれたちのところに上陸したんだよ。四〇〇年に及ぶ奴隷労働のあと、いまやっと〝未払い給料〟がすこしは入って来るようになったね」
複数の人種差別主義者に一九三一年に殺害されたバプティストの巡回牧師の息子が、マルコムリトルである。少年時代は、想像を絶するくらい暗澹たるものだった。そのうえ、コカイン(〝コーク〟・〝雪〟)を常用する強盗だったため、逮捕・収監された(一九四六─五二)。服役中、黒人分離主義(黒人国家の建設を主張する立場)のネーション・オヴ・イスラム(通称ブラック・ムスリム=黒人回教団)に感化され、出所後(一九五二 二七歳)、黒人回教団に入団。同団は、〝奴隷の親方〟を表すリトルという姓を〝X〟と交換すると同時に、闘争精神こそマルコムXの同胞がかかえているもろもろの苦難を救う唯一の道だ、と力説するようになった。
とかくするうちに、神学上のイデオロギーをめぐって、黒人回教団に対するマルコムXの怒りが鬱積し始めた。その頃でかけたメッカ巡礼中に(一九六四、四)、白人すべてが黒人を憎悪しているわけではない、と彼は悟った。帰国後、いままでの怒りが高ずるばかりだったので、ついに黒人回教団と正式に決別、政治団体アフリカ系アメリカ人統一機構(OAAU)を結成(一九六四、六)。その約二ヵ月前、オハイオ州クリーブランドで屈指の名演説をした。「バロットかブレットか(投票か銃弾か)。投票がうまくいかなければ、なにか手を打とう。とにかく投票しようじゃないか」
一九六五年、黒人回教団の三人(?)がハーレムでマルコムXを射殺した。いかにもマルコムXらしい雄弁ぶりと説得力を物語る〝墓碑銘〟は、死後出版された『マルコムX自叙伝』(一九六五)である。──「二〇世紀の最も重要なアメリカ人一〇〇人」『ライフ』誌(一九九〇年秋季特集号、一〇六頁)
(2)「壁に[九行の]走り書き」 一九六五年二月中旬のことである。発足してまだ日の浅い政治団体アフリカ系アメリカ人統一機構(OAAU)に活を入れようと、マルコムXは懸命に働いた。三九歳の彼は、黒人の権利獲得運動を加速する戦術をめぐって、黒人回教団とすでに絶縁していた。だが、この決別が、結局、死を招いたのである。[妻のベティ・シャバッツと三人の幼い娘とマルコムXの五人が一列に並んですわっている背後の]右上近く[の壁? ガラス窓?]に白いチョークで誤って書かれているけれど──マルコムX 集会 二月二〇日・日曜日 午後二時 オーデュボンボールルーム 一六番街とブロードウェー 連れて来てください みなさんの 家族や友人を 入場無料──、実際には二月二一日・日曜日の来るべき集会で、三人(?)の男性に射殺されたのだ。──「絵で見る今世紀[二〇世紀]」『ライフ』誌(二〇〇〇、二九九頁)
*2補足 一九九七年二月、ユリさんは、ある講演でマルコムXの暗殺に関連した発言をした。彼の「暗殺当日、……エイ・ナガタというペンネームを使っている社会主義者の日本人ジャーナリストがいた。マルコムXの生涯の物語と意義を日本にはじめて紹介した日本の著者は、おそらくナガタであろう」(ダイアン・G・フジノ『ユリ・コチヤマの革命的な生涯 鼓動してやまない闘争』二〇〇五年 一六一、三四二─三四三頁)。エイ・ナガタはペンネームではない。一九三三年熊本県に生まれた長田衛は、ニューヨークに滞在中たまたま例の悲劇を目撃した多分唯一の日本人であろう。「マルコムの突然の死は言葉につくしがたい衝撃であった」(長田衛『黒人は反撃する マルコムXその人と思想』一九六六年 三五頁)
結論として、人種やジェンダーや階級や国などの枠を越えて、達成した(達成したい)もろもろの目標のため、ときには身を投じ、ときには闘う同志との連帯感を強めながら、ユリさんは人生の大半を過ごして来たのだ、と言っていいだろう。そのユリさんに匹敵する日系の女性活動家はどれくらいいるだろうか。この疑問が浮かんだとたん、いましがたあげたダイアン・フジノのほか、ジャニス・ミリキタニ、メイ・ナカノ、故ミチ・ウェグリン、アイコ・ヨシナガ・ハージグ、チズコ・オーモリ、故スエ・エンブリなど六人(三世のフジノとミリキタニ以外は二世の女性活動家)の名前がさっと脳裏をかすめた。だが、この七人にしても、ユリさんに比肩する存在ではないように思われる。それこそ独断と偏見だ、と有識者の批判を甘受しつつ──。
この回顧録の出版(二〇〇四)で、ユリさんは、グスターヴァスマイヤーズ偏見・人種問題研究所(一九八四─二〇〇九 本部はボストンのサイモンズカレッジ)から、同年のグスターヴァスマイヤーズ名作賞(The Gustavus Myers Outstanding Book Award for 2004)を授けられた。全米的によく知られていた同研究所は、存続中は、「ありふれた思考・行動様式に挑戦したり、偏見の多面性をできるだけ的確に反復・再現する著者や著作」に毎年のように名誉賞を贈った非営利組織である。この名誉賞を受けたユリさんは、その翌年二〇〇五年の六月、全米では四〇人──サンフランシスコ湾岸地域では一四人──のノーベル平和賞の一候補に指名された。八四歳のユリさんが半世紀以上も孜々営々として続けて来た多岐にわたる社会・政治活動が、全米的に周知されたなにより確実な証拠として特筆したい。
このように異色の二世の活動家ユリ・コチヤマさんの回顧録の邦訳は、遅きに失したが、やりがいのある三人の共同作業だった。(日本語版へのユリさんのお言葉、原著の前置き、第一─第五章、あとがきの担当は森田。第六・七・八・一一・一二章は増田。第一三─第一七章は篠田。)当然のことだが、三人が全章を点検して、誤訳や種々の専門用語や固有名詞などの不統一を不充分ながらできるだけ少なくするよう努めた。なお、原著の第一一章─第一二章は訳書の第九章─第一〇章、原著の第一三章─第一六章は訳書の第一一章─第一四章に相当する。
つたない共訳であるが、ユリさんの社会・政治活動家としてのバイタリティや軌跡をすこしでもご理解いただける手がかりになればありがたい、と念じてやまない。
最後に、礼儀として竹内淳夫社長にお礼を申し上げなければならない。二〇〇五年八月、この回顧録の共訳・出版をお願いしたら、即座に快諾してくださった。その瞬間、多大な感銘を受けた。なるほど、権威ある名作賞の授賞やノーベル平和賞の一候補に指名、といった事実が端的に示すように、ユリさんは日系人社会では知名度の高い二世、将来は日系アメリカ人史に名をとどめることが確実な二世である。ところが、日本での自分の回顧録の需要について一抹の危惧の念を初対面の私にもらされたユリさんは、本邦では無名の(または無名に近いと言っていい)人物である。ユリさんと活動分野は違うが、ほぼ同世代のイノウエ連邦上院議員(一九二四─ )やジャーナリストの故ホソカワ氏(一九一五─二〇〇七)──拙訳はそれぞれ一九八九年と二〇〇九年──と比較すると、その感を深くする。それだけに、この地味な、しかしとても貴重な回顧録の出版を快諾された、出版人としての竹内氏ならではの良心と達見と寛大さには敬服してやまない。と同時に、とくに版権の取得に思わぬご迷惑をおかけしたこと、この共訳が日の目をみるまで約四年間なにかとお心を砕いていたことに、心から深くありがとう存じますと申し上げる。
二〇一〇年三月 篠田左多江
増田直子
森田幸夫
追記 ユリさんはカリフォルニア州立大学(CSU)から名誉文学博士号を授与された。(二〇一〇、六、一二)
(社)日本図書館協会 選定図書 大戦中の収容所暮らしから子育て、1960年代の反戦運動、マルコムXとの交流、マイノリティ政治犯の支援、キューバ訪問、ペルーの反体制運動との連帯……。アメリカの日系人社会が生んだ希有な社会活動家の生き方の記録。
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