サバイバルの重層性「個人・国家・地球環境」マーガレット・アトウッド論

マーガレット・アトウッド論 サバイバルの重層性「個人・国家・地球環境」 Multiple Layers of Survival in Margaret Atwood's Works

大塚 由美子 著
四六判 / 222ページ / 上製
定価:2,500円 + 税
ISBN978-4-7791-1683-4 C0098
奥付の初版発行年月:2011年11月 / 書店発売日:2011年11月14日
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内容紹介

 アトウッドは、2010年9月の国際ペン東京大会の基調講演で、「環境保全は文学の大前提」であり、環境を守れない限り、書くものは意味を為さず、環境は人間が存在する基盤であり、文学は環境と密接に関連していると述べ、いま過酷な状況下でのサバイバルの物語が読まれていると述べた。また、彼女の最新小説は、人類および地球環境が絶滅の危機に陥っている世界を描き、人類と地球の生存が一貫したテーマとなっており、いまなおサバイバル(生き抜くこと)を重要な要素として考えていることが分かる。
 しかし、そのサバイバルは、初期小説群においてはメイン・プロットの裏側に巧妙に隠された形で描かれていたのである。しかも、そのサバイバルの主体は人間だけではなく、国家共同体あるいは人類/地球環境の絶滅と生存を含むものであった。
 本書は、それら三つのサバイバル、つまり個人(人間)、国家共同体、地球環境のサバイバルが彼女の作品世界に重層的に組み込まれ関連していることを論証し、アトウッドの本質に迫る。

前書きなど

まえがき

 二〇一〇年九月末、マーガレット・アトウッドは「環境と文学」をテーマに掲げた国際ペン東京大会のために来日し基調講演を行った。彼女はその講演の中で人間と自然環境と文学の関係について、「もし空気、水、食べ物がなくなれば」、また「空気を作り出している緑の植物がなくなれば」人間は存在できなくなり、文学も成立しない、と実にシンプルで明快な説明を行った。したがって「環境保全は文学の大前提」であり、環境を守れない限り、書くものは意味を為さないし、環境は人間が存在する基盤であり、文学は環境と密接に関連していると述べた。
 アトウッドは、いま過酷な状況下でのサバイバルの物語が読まれていると述べているが、彼女の最新小説『洪水の年』(二〇〇九)や前作『オリクスとクレイク』(二〇〇三)も共にまさに「過酷な状況下でのサバイバル」の物語である。「サバイバル」は現代的なテーマなのである。『洪水の年』と『オリクスとクレイク』は未発表の次回作を含めてアトウッドによると「マッドアダム三部作」を成すものだが、両作品とも人類および地球環境が絶滅の危機に陥っている世界を描いており、人類と地球のサバイバルが一貫したテーマとなっている。アトウッドがいまなお、サバイバルを重要な要素として考えていることが分かる。
 しかし『洪水の年』や『オリクスとクレイク』では、人類および地球環境が絶滅に瀕している状況と、そこからサバイバルしようとする姿がメイン・プロットとして描かれており、文学的に分析し読み解くという作業を待つまでもない。一方『食べられる女』(一九六九)から始まる初期小説群は、人類と地球環境のサバイバルというテーマがメイン・プロットの裏側に巧妙に隠された形で描かれている。本書の目的の一つは初期小説群においてそのように巧妙に隠された人類/地球環境の絶滅とサバイバルのテーマを炙り出し明らかにすることである。
 カナダ文学になじみのある読者なら、サバイバルのテーマは古臭いというイメージをお持ちかもしれない。たしかにアトウッドの著書『サバイバル──現代カナダ文学入門』(一九七二)が出版されたのは、今から四〇年以上前であり、「古臭く」感じるのは当然だろう。しかしながら、アトウッドが初期小説から最新小説に至るまでサバイバルを主要なテーマとして扱っているという事実は、サバイバルがアトウッドにとっては決して過去のものではなく、現在においてもなお、重要な主題であり続けていることを物語っている。
「サバイバルする主体は何か?」その答えは人間、つまり個人であるというのが一般的であろう。しかしアトウッドの初期小説群では、そのメイン・プロットに巧妙に隠されたサバイバルの主体は人間だけではない。国家共同体あるいは地球環境のサバイバルもまた必要であると読み取れる。本書のもう一つの目的は、それら三つのサバイバル、つまり個人(人間)、国家共同体、地球環境のサバイバルが重層的に関連していることを論証することである。

版元から一言

 筆者は、「サバイバルの重層性」というテーマで、アトウッドの小説五冊と詩集一冊を取りあげ、それぞれの作品を論じてきた。序章で述べたように、アトウッドは、帝国主義や植民地主義に対するカナダの問題と、男性との平等を要求する女性の権利の問題とを同じ枠組みの中で考察しており、『サバイバル』を執筆した背景には、フェミニズムとカナダの文化的ナショナリズムの強い影響がある。ウェイン・フレーザーはフェミニズムの台頭が、カナダのナショナリズムの展開と並行しているし、また寄与もしていると主張し、さらに「カナダの政治的な成長とその時代の女性たちの状況」に関する女性作家たちの考察には「相互関係」があるとも主張している。カナダの女性作家たちは、カナダという国家の問題と女性たちの問題を同時に考えていったと理解できる。しかしながらフレーザーは、残念ながらアトウッドの重要なテーマの一つである地球環境については論じていない。筆者はアトウッドの主人公たちの個人レベルのサバイバルと国家レベルのサバイバルに地球環境を加えた三つのサバイバルの重層性を主張してきた。
 アトウッドが、本書第1章で取りあげた『食べられる女』や第2章で論じた『浮かびあがる』、さらには『サバイバル』を執筆していた一九六〇 年代半ばから一九七〇年代初めにかけてのカナダの状況は、「イギリスの文化的植民地からアメリカの経済的植民地へ移行」しており、アメリカの経済的影響ばかりでなく、テレビの番組やウォルト・ディズニーのキャラクターといった、アメリカ文化の強い影響を受けていた。アトウッドは、その作品の中で、しばしばアメリカ人を男性、カナダ人を女性と同一視する傾向があると、ポール・ゲーチが指摘しているばかりでなく、ジュディス・マッコムも又、アトウッドが初期の詩の中で当時のカナダとアメリカの関係を男女の関係を通して描いていると論じて詳しい分析を行っている。筆者は、このような時代背景のもとで、アトウッドが、アメリカによるカナダの経済的・文化的植民地状況と男女の関係との間には、いずれも権力関係が存在することを、彼女の作品を通して明らかにすることを試みていると論じてきた。
 序章で、筆者は、犠牲者の意識、つまり植民地意識からの脱却のためにアトウッドが示す四つの段階について言及したが、それでは、犠牲者意識をやめた後、支配(勝者)/被支配(犠牲者)といった権力関係をどう乗り越えればよいのだろうか? アトウッドは、これに対し、犠牲者の第四の立場においては「勝者/犠牲者のゲームは時代遅れ」であると述べ、「勝者/犠牲者」といった二元論的な考え方に疑念を呈している。ダイアナ・ブライドンによると、シェリル・グレースは、アトウッドは作家になった当初から「第三の道」、つまり「個人的でもあり社会的でもある人生」について考察すると共に、そのイメージを構築する方法を探究していると主張している。
 この問題についてアトウッドは『サバイバル』と『浮かびあがる』を出版した一九七二年のインタビューにおいて次のように説明している。

 理想像は、殺人者または犠牲者のどちらでもない人でしょうね。世間とうまく調和できる人、つまり世間に対して破壊的な関係をとるのではなくて、世間と生産的/創造的な調和を成し遂げられる人でしょう。

ここでアトウッドは、犠牲者意識を捨て、「犠牲者」でも「勝者(殺人者)」でもない「第三の道」が「世界とある種の調和を保つことができる」状態であると説明する。
 さらに一九八一年にハーバード大学で行った講演「カナダとアメリカの関係——八〇年代を生き残る」で、アトウッドは、「ナショナリズムを乗り越える第三の道がある」と、勝者/犠牲者の権力関係を超える可能性を提示する。この講演でアトウッドはアメリカに二つのアメリカ、つまりソローやリンカーンが表明する「真のデモクラシー」のアメリカと、それとは逆のもう一つのアメリカがあるように、どの国も「善」と「悪」の両面を持つと主張し、次のように続ける。

 新たな二つの陣営とは、政治的抑圧・拷問・大量殺戮を行うかまたは大目にみる国々と、そのようなことをしない国々でしょう。ハイジャックや暗殺などのテロリズムはいまや国際的であり、同様のことが政府によって自国民に対して行われています。いま最も重要な研究分野は……人間の侵略についての研究です。

アトウッドは、研究すべきは、「人間の侵略」であると断言しており、この講演と同じ一九八一年にこのテーマを扱った小説『ボディリー・ハーム』を発表し、さらに四年後の一九八五年には、同じテーマで小説『侍女の物語』を出版している。ダイアナ・ブライドンは、この「第三の道」を進展させるには、他者に対する理解と尊重の念が必要であると指摘している。個人も国家も「善」か「悪」かの一方のみの性質を備えていることはありえない。個人も国家も、犠牲者/勝者、「善」/「悪」といった二項対立概念の間を揺れ動き、バランスをとりながらサバイバルしていく必要がある。
 本書で取りあげたアトウッドの作品いずれにおいても、個々人の登場人物の時代背景として、国家の問題が暗示もしくは明白に提示されると共に、加えて地球環境が破壊されていく状況が描かれている。たとえば、『浮かびあがる』では、冒頭から「白樺が枯れかかっている」と自然が病んでいる様子が描写されており、『ライフ・ビフォー・マン』では、環境汚染についての言及がなされ、人類絶滅の可能性までが示唆される。また『侍女の物語』でも、環境汚染による食物の不足と荒廃した自然が映し出されている。アトウッドは、女性への暴力が国家間における植民地主義、さらには一見無関係のような地球環境破壊と密接に関連していることを彼女の作品の中で明らかにしていると言える。
 アトウッドの作品は、個人対個人、個人対国家、国家対国家、人間や国家対地球環境といったレベルで、それぞれの間に権力関係が生じていることを明らかにしている。ハロルド・フロムは地球は、「生命を支えるシステム」であり、「生物的存在」である人間は、「地球に自分自身の根底があることに」無関心であってはならないと主張している。
 彼はまた、産業革命以降に人間が押し進めてきた自然対人間といった対立的考え方を止めるべきで、「自然と人間の関係は交渉の余地が無い」と、自然に対する人間中心主義を批判している。個人や国家も「犠牲者」の状況からサバイバルすることが必要であり、個人と国家レベルで持続的にサバイバルしていくためには、地球環境のサバイバルが不可欠である。アトウッドは作家として、その小説の中で主人公たちが意識を変革し、世界の見方を変えて行動を起こすことを決意する様子を描くが、その人間関係、主に男女関係には、カナダと他国との関係が暗示されている。しかしながら最終的には、同じ地球の住人として、個人や国家を超えた価値観を持つ必要があると主張する。私たち地球上に生きている個人個人は、それぞれ国家という共同体の一員であり、国家共同体は、地球の住人でもある。

 私たちは皆、ただ単にそれぞれの国家の国民としてではなくて急速に萎縮し益々脅かされている地球の住人として、共にここにいます。地理的な国境ばかりでなく精神的な境界も存在します、垣根がしっかりしていれば隣人とうまくつきあえます。垣根はよい隣人を作ります。国家的な価値観を超えた価値観が存在するのです。大気は誰のものでもありません、私たちみんながそれを吸い込んでいるのですから。

私たち個々人が最終的には国家という共同体を超えて、同じ地球の住人であるという認識を持つこと、つまり、ナショナリズムを越えてグローバルな視点を持つこと、それが重要なことである。
 二〇〇三年発表のアトウッドの小説『オリクスとクレイク』では、クレイクと呼ばれる一人の若い科学者の意図により絶滅へと向かう人類と地球環境の様子が描かれている。そしてその状況を、クレイクが創造した「新人類」クレイカーたちと共に一人生き残った「スノウ・マン」ことジミーが、目撃証人として語る。
 さらに最新小説『洪水の年』(二〇〇九)では、『オリクスとクレイク』と同じく遺伝子操作による新動物創造など人間のために作り変えられ、その結果、破壊される自然と、絶滅へと突き進む人類の様子が今度は複数の視点から描かれる。両作品共に人類絶滅の危機と地球環境破壊のシナリオを用意して、個人、国家、地球環境のサバイバルの行方について、読者に警告している。アトウッドは一九七九年発表の『ライフ・ビフォー・マン』において、既に人類絶滅のテーマを取り入れており、ウィルソンが指摘するように、人類がサバイバルしていく可能性ばかりでなく、「人類はサバイバルしないかもしれないと言う可能性」をも同時に提示する。したがって私たち人類はサバイバルと絶滅の二極の間を舵取りしながら進むことになる。
 アトウッドは、初期小説群からメイン・プロットの裏に巧妙に潜ませるように地球環境が崩壊から絶滅へと進む可能性を示唆してきた。いまでは地球環境の崩壊が現実味を帯びてきており、その地球の様子が『オリクスとクレイク』及び『洪水の年』に描かれている。アトウッドは、「事態は、これまでで最悪のように見える」し、「危険」は迫っている、しかし、それでもまだ間に合うと希望を捨てていない。
 アトウッドは作家として、書物を通して他者を理解するための想像力を養って欲しいと、読者に次のように訴える。

 もし小説を書くこと――そして読むこと――が社会的価値を挽回するような点があるとすれば、それはおそらく誰か他の人になるのはどのようなものであるかと想像せざるを得ないということでしょう。
 そしてそれは私たちが益々知っておく必要があることです。

 アトウッドの思いは、読者一人一人に、つまり「あなた」に委ねられている。 (『終章』より)


著者プロフィール

大塚 由美子(オオツカ ユミコ)

Yumiko Ootsuka
1948年生まれ。北九州市立大学文学部卒業後、(株)安川電機重電技術部資料課勤務、
退職後自宅英語塾主宰。
1995年、北九州市立大学文学部科目等履修生、
以後、福岡県立福岡女子大学大学院文学研究科修士課程修了、
博士後期課程単位取得満期退学、
北九州市立大学大学院博士後期課程社会システム研究科修了。博士(学術)。
福岡看護専門学校、九州共立大学非常勤講師を経て、現在、北九州市立大学、
下関市立大学、西南学院大学非常勤講師。

目次

まえがき
序 章 マーガレット・アトウッドとサバイバル——Survival (1972)
第1章 サバイバルと拒食症のメタファー——『食べられる女』The Edible Woman (1969)
 一 女性たちの抵抗と拒食症
 二 社会規範「女らしさ」と拒食症
 三 パニック
 四 内面化された伝統的価値観からのマリアンの脱却 x
 五 拒食症の解決に向けて
 六 マリアンのサバイバルとカナダのサバイバル
第2章 サバイバルと主人公の内面の旅——『浮かびあがる』Surfacing (1972)
 一 『サバイバル』と『浮かびあがる』
 二 複雑な作品構造
 三 苦境の認識
 四 統合に向けて──母の探究と自然の言語
 五 第三の地点
第3章 ロスト・ワールドとサバイバル——『ライフ・ビフォー・マン』Life Before Man (1979)
 一 タイトル「ライフ・ビフォー・マン」について
 二 ロスト・ワールド
 三 サバイバル
 四 サバイバルの重層性
第4章 サバイバルと「目撃証言」——『ほんとうの物語』True Stories (1981)
 一 『ボディリー・ハーム』へのプレリュード
 二 何を目撃証言するのか?
 三 なぜ「目撃証言」の詩なのか?
 四 複数の真実の物語
第5章 暴力と権力の構図——『ボディリー・ハーム』におけるサバイバル Bodily Harm (1981)
 一 暴力と権力
 二 個人レベルの暴力
 三 公的レベルの暴力
 四 「見る」ということ
第6章 サバイバルと抵抗の物語——『侍女の物語』The Handmaid’s Tale (1985)
 一 作品の政治性
 二 違反/抵抗行為
 三 権力との共謀(共犯関係)
 四 サバイバル
 五 目撃証言
終 章
あとがき
初出一覧

参考文献

索 引

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