プロフェッショナルという思想若林忠志が見た夢

若林忠志が見た夢 プロフェッショナルという思想

内田 雅也 著
四六判 / 344ページ / 並製
定価:2,000円 + 税
ISBN978-4-7791-1584-4 C0075
奥付の初版発行年月:2011年01月 / 書店発売日:2011年01月17日
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内容紹介

プロ野球選手による社会貢献の先駆け!
1949年末、プロ野球連盟分裂の際、若林は別当や土井垣ら主要選手を引き連れ阪神を離れ、新設された太平洋野球連盟傘下の毎日に移籍。リーグ分裂直後の1950年、太平洋野球連盟では毎日が優勝、セントラル野球連盟では松竹が優勝した。第1回日本シリーズは毎日が制した。監督・選手として優秀な成績をあげ、戦後の少年たちの善導のため、野球を通じた受刑者の更生に尽力した若林忠志。現在、ゴールデン・スピリット賞で選手たちによる社会貢献は知られているが、戦後の貧しい時代に少年たちの健全な育成や受刑者更生の一助として彼は身銭を切って支援したのだった。若林の思想と行動を、子息及び関係者らへの深い取材を通して伝え検証する。

版元から一言

「はじめに」

 甲子園球場の記者席、いつものいすに座る。場内から試合開始前のざわめきが聞こえる。六甲の山並みに夕日が沈み、空はあかね色に紫色が混じっている。もう何年も味わってきた心地よい時間である。
 超満員の観客席。子どもたちの目が輝いている。センターポール。浜風にはためく球団旗ではトラが吼(ほ)えている。「六甲おろし」の大合唱が始まる。
 彼が心に描いた光景がそこにある。

 若林忠志である。
 プロ野球創設時、タイガースに入団し、いまに続く基礎を築いた。球団歌、球団マークの作成に携わった。背番号「18」はエースナンバーとして広まった。出征が相次いだ戦前戦中は孤軍奮闘でチームを支えた。
 戦後、望まれて復帰した。ラッキーゾーンを設け、ダイナマイト打線を演出した。選手の待遇改善に努めた。タイガース子供の会をつくった。野球雑誌を創刊した。全国各地で慰問、チャリティー活動を続けた。
 監督兼選手として戦前戦後の二度、優勝に導いた。阪神在籍中に挙げた233勝は、222勝の村山実も及ばず、球団最多である。野球殿堂入りを果たした。タイガースの選手としては第一号だった。
 大いなる功労者、偉大な先人なのだが、いま一つ認知度が低い。ファンもわれわれマスコミも「阪神・若林」の功績を忘れてしまっているかのようだ。

 あの遺恨が尾を引いている。プロ野球がセ・パ2リーグに分かれた際、若林は阪神を去り、新球団の毎日に移っていった。阪神を見捨てた。裏切った。汚名がついて回った。
 しかし、何か事情があったはずだ。

 2リーグ分立(実際は分裂)から六十年が過ぎた。あの球界再編の激動期、若林は騒動の中心にいた。この節目にもう一度、当時を振り返りたい。
 若林は夢を抱いていたという。その夢とは何だったのか。
 古い話である。歴史の空白を埋めようと、挑んだ。
 若林の人生はタイガース、そしてプロ野球の歴史そのものだった。若林を学ぶことはタイガースを、そしてプロ野球を学ぶことだ。いまの野球界にも通じていよう。

 映画『フィールド・オブ・ドリームス』で主人公の農夫は天からの声を聞く。
 「それを作れば、彼が来る」
 これを書けば、彼は甲子園に戻ってくるかも知れない。
 声はさらに「彼の苦痛を癒やせ」と告げる。
 彼の心の痛みを知り、和らげることができるかも知れない。

著者プロフィール

内田 雅也(ウチタ マサヤ)

うちた・まさや 1963年2月和歌山市生まれ。桐蔭高校、慶應義塾大学から1985年スポーツニッポン新聞社入社。アマチュア野球、近鉄、阪神担当などを経て1997年デスク。2001年ニューヨーク支局長。2003年編集委員(現職)。2004年から『広角追球』、2007年から『内田雅也の追球』のコラムを執筆。

目次

1章・少年刑務所の「若林杯」争奪戦
2章・阪神タイガースの礎
3章・猛虎の初代エース
4章・戦争を乗り越えて
5章・戦後復興
6章・2リーグ分裂
7章・社会貢献
8章・阪神へ帰る

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