来日米人第一号の謎わが名はケンドリック

新版 わが名はケンドリック 来日米人第一号の謎

佐山 和夫 著
四六判 / 488ページ / 並製
定価:3,000円 + 税
ISBN978-4-7791-1489-2 C0021
奥付の初版発行年月:2009年12月 / 書店発売日:2009年12月09日
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内容紹介

日本へ最初にやってきた米国人・ケンドリックとは何者か。ペリー来航より62年前(寛政3年・1791)、本州最南端・串本沖に現われた帆船レイディ・ワシントン号。ケンドリック船長は日本に何を求めてきたのか。航海の足跡を辿る。

前書きなど

新版 はしがき

 いまからほぼ十八年前の一九九一年二月、私は『わが名はケンドリック』を書いて世に出した。発行所は株式会社講談社であった。四六判のハードカバーで、二六〇ページ。読者の理解を助けるためにと、少しは図なども入ったものだった。いまとなっては、それほど昔のことだったというのが信じられない。
 それを書くまでの調査に、私はほぼ四年ほどの月日を充てたと記憶する。もちろん、こればかりに関わっていたのではなかったが、それが念頭の中心にあったことは確かだ。手に入れられる資料はすべて入れようと努めたし、行くべきとこへはせいぜい行って、実地に見ることを心掛けた。
 ただし、その四年ほどの間にも、いつも私の胸には焦りがあった。果して時間はあるのか、肝心のときまでに本は間に合うのかという焦りだ。
 肝心の時間といったのは、ケンドリックの来航が一七九一年だったのだから、その二百年目の節目には本が間に合っていてほしいという考えのものだ。最初は多少の余裕があると思えたのが、最後には残り時間が一気に減少して、大いに慌てたことだった。
 私はこの本がどれほどの人々に読まれたのかを知らない。何部刷って、何部売れたのかも、聞いてはいただろうが、記憶にない。もともとの動機というのが、たまたま気晴らしにいった串本の大島で日米修好記念館なる建物を見つけ、なかに入ったところ、「ペリーより六十二年前にここに着いたアメリカ船」の模型があって、これに驚きもし、関心をかき立てられもしたというだけのこと。日頃は野球の本ばかり書いている私に、「たまには地元に役立つことも書いては」との批判の声があることも聞いていたところから、免罪符となるべき材料をこれに見て、野次馬根性でその船に向かったというのが正直なところだ。いっておくが、私は格別に歴史が好きなわけでなかったし、深く勉強したことなど、もとよりなかった。
 しかし、私には期待があった。
 普通、日米通商の最初といえば、よくいわれるのがかのペリー提督の寄航。それよりそんなにも以前に、私が住んでいるところからあまり離れていない海岸に、彼らが来ていたというのが面白かったし、そのことについて自分が多少でも解明できるところがあるのならば、少しは地元の役に立てるかとも思った。
 船長の名はジョン・ケンドリックだったとわかっている。二隻の船の名は「レイディ・ワシントン号」と「グレイス号」だったと、これも明確だ。しかし、それから一歩入った話となると、一向に判明していない。彼らはなぜ来たのか。どのようにして来たのか、そして、ケンドリックなる船長とは、どんな人物だったのか。これらについて、ほとんど何も語られていないのだった。
 アメリカへ行って調べれば、これらのことについて少しはわかるだろうというのが、私の考えだった。もちろん、日本側にも多少の記録はある。しかしそれらは、どうにも数少なく、おまけに、こちらでの事象の記録ではあっても、彼らの計画の内面を語るものではいない。それについてはやはり、現地での調査にならざるを得ないのは当然というものだった。
 それをもとに本にまとめることができれば、日米通商の暁に関して、少しは人々の認識を深めることもあるかと期待したのだ。こうして、私は何度かの旅を重ねた。船のことも船長のことも、そして彼らの航海のことも、ある程度はわかった。どうして、彼らがわざわざここまて来たのかも、アメリカへいってわかった。
 日本では漂着とされている彼らの寄港が、アメリカではそうなってはいなくて、逆に国家的な計画による十分に意図されたものだったことがわかったことが、私にはもっとも重要と思えた。彼らの来日について、日米の理解の違がもっとも大きく異なるのが、まさにこの一点だった。
 ただし、これも、私が知ったままをその通りに記して著せば、日本でもきっとすぐに理解されるのではないか、私は呑気に考えていた。いまから思えば、なんと気楽な話だった。
『南紀徳川史』に見られる「漂流至此」の四文字が、まずは問題だった。これこそが、彼ら渡航が一つの意図に基づいたものでなく、ただの突発的な事件に過ぎなかったことにしてしまう最大の理由となっているのだ。これを信じる限り、それは単なる「漂着」だったということになってしまう。つまり、それは他のすべての可能性を遮断する文言だった。
 アメリカの資料から読める最初は、彼らの日米寄港は決して「漂着」ではなかったということだった。彼らには、初めから日本へ来る意思があった。時は鎖国の時代とあっては「漂着」ということにしておくほうが、何かにつけて無難だとの判断が関係者たちにあったなあろうことは、すぐに想像できることであった。取り締まるべき立場の者にしてみればなおさらそうであって、「本音と建前の国」日本にしてみれば、それは不思議でも何でもないからだ。これも、本に書けば理解してもらえる話だと私は思っていた。
 時間としては、本は間に合った。
 来航二百年の記念のときまでに、少々の時日を残して本を出すことはできた。調査は決して十分とはいえなかったし、本の出来も上々だっとはいえない。しかし、ともかくも彼らの意図と、航海のあらましと、そして何より、漂着でははなかった彼らの日本渡航の全体が伝われば、もうそれでいいと、私は考えた。細かいところでの不備は許してもらって、せめて、それだけのことでも世に伝われば大成功としようと思って、私は出版のあとを見守った。
 その後は、一体、どうだったか。
 あとで「余波」のところで具体的に述べるが、たしかに多少の前進はあった。ただし、全体としての人々の認識はもとのまま。「漂着ではなかったのか」とする驚きが、格別に起こるわけではなかった。
 かくて二百年記念の日も空しく過ぎた。ワシントン州クレイズ・ハーバーで再建造された「レイディ・ワシントン号」が、同じルートを通ってケンドリックたちの航海を再現したしたいとの要望を伝えてきたときにも、日本側として対応ができずに、結果としてそのチャンスをみずから放棄した。
 そして、そのうちに、もっとも私が恐れることが起こってきた。日本側の記録をそのまま鵜呑みした本がアメリカでも出てきて、「ケンドリックたちは日本へ行ったがそれは漂流の結果であって、地元民に追い返れされた」との話に終始するものまで出てきたのだ。
 日本側に残された記録のみを単純に見る限りは、話はそうなるのだ。それが事実であったかどうかはアメリカの記録と突き合わせれば、おのずからわかる。「日本の南の海岸で、最大限の歓迎を受けた」ことがそこにはあるからだ。
 私は自分の本に関して深く反省せねばならなかった。もっと詳しく、もっと正しく、そしてもっと熱心にケンドリックの航海のことを書いていれば、少しはその後の誤解は防げたのではないか。文献的資料や図なども、もっと多く載せていれば、読者の方々の理解にも違いが生まれていたのではないか。それにまた、アメリカの関係者との連絡をもっと密にし、鎖国の事情なども詳しく説明して「漂着」とされていることの裏事情にもより詳しく考察していれば、もっと彼らにもわかってもらえたのではないか。
 時は無情に過ぎて、私の本を担当してくれていた講談社の立脇宏氏が病に倒れ世を去った。『わが名はケンドリック』は絶版になり、私の手持ちもなくなった。ときおり、その本がないかといってくれる人もいたが、ないものはどうしようもない。図書館へ行くか、コピーで諦めてもらうしかなくなった。
 そのうちに、元「ナショナル・ジオグラフィック」誌の編集者だったジョン・スコフィールド氏(John Scofield)は、日本側の資料の方を重く見て、その著書に、「ジョン・ケンドリックは日本で現地の人と会ったときには、とても安心などしてはいられなかったようだ。もしも彼がもっと長く滞在していたら、きっと大騒動になっていただろう」などと書いているのを読むに至って、私はどうにも耐えられなくなった。ケンドリックたちの寄港についてのあまりの誤解に、ジョン・ケンドリックその人が気の毒でならなくなったし、日本についての偏った考えは日米の関係にとっても決していいこととは思えなくなった。
 改めてケンドリックたちのことを世に訴えたいと思うようになったのは、それからだ。彼らの来航にアメリカの国家的な意思が重くのしかかっていたことを伝えるだけでも、意味はあると思った。
 最初に書いた当時の事情もあるから、元の本の内容はあえてそのままにするとして、訂正は一部にとどめた。その後のことは「余波」として新たにあとめて追記することとし、ついでに、その後判明したケンドリックの祖先に関するものを、最後に追加することとした。それは二〇〇七年に論創社から出した『野球とシェイクスピア』の再録だが、主人公がケンドリックの五代前の祖先である。ジョン・ケンドリックがどんな家柄の人物だったかを調べていく途中で、かのシェイクスピアとの接点を見たからで、これは私のもう一つのライフワークである野球のルーツ探索の結果でもあった。この部分は、あくまでもケンドリック話の付録としてご覧いただければ幸いである。
   二〇〇九年秋
                                      佐山和夫

著者プロフィール

佐山 和夫(サヤマ カズオ)

1936年和歌山県生まれ。慶應義塾大学文学部卒業。日本ペンクラブ、米国野球学会、スポーツ文学会会員。1995年『日本とベーブ・ルース』でジョゼフ・アストマン賞。1998年米国野球学会からトウィード・ウェッブ賞。『史上最高の投手はだれか』『ベースボールと日本野球』等著書多数。

目次

◆目次
最初のアメリカ船
ウェアハムで
海に賭ける
出港
航海
嵐の中から
スペイン軍とインディアンと
旅ハワイへ、そして広東へ
置き去りにされて
日本で初めての星条旗
白檀の夢、インディアンの復讐
土地を買う
グレイ船長
コロンビア号の座礁
苦難去らず
カメハメハの島へ
その死の謎
家族のこと、船の最期
200年ののちに
補論(1)〜(7

関連書

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