日系アメリカ人女性  人種・差別・連帯を語り継ぐユリ・コチヤマ回顧録

ユリ・コチヤマ回顧録 日系アメリカ人女性 人種・差別・連帯を語り継ぐ

ユリ・コチヤマ 著, 篠田 佐多江 訳, 増田 直子 訳, 森田 幸夫 訳
四六判 / 264ページ / 上製
定価:2,800円 + 税
ISBN978-4-7791-1545-5 C0023
奥付の初版発行年月:2010年08月 / 書店発売日:2010年08月10日
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内容紹介

大戦中の収容所暮らしから子育て、1960年代の反戦運動、マルコムXとの交流、マイノリティ政治犯の支援、キューバ訪問、ペルーの反体制運動との連帯……。アメリカの日系人社会が生んだ希有な社会活動家の生き方の記録。

前書きなど

日本語訳への序文

 私の回顧録Passing It On (2005)の翻訳の仕事を快諾してくださった三人の訳者──森田幸夫氏・篠田左多江氏・増田直子氏──に心から御礼申し上げます。翻訳の労を執られた森田氏と二〇〇七年三月に対談したさい、一人の二世の物語であっても日本の人びとの興味をかきたてるはずだという主旨の発言をうかがって、その考えにびっくりしました。私の回顧録Passing It Onの執筆の機会は、カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)アジア系アメリカ人研究所のマージー・リー氏のご厚意で実現いたしました。

 Passing It Onでは、肉親関係の記事が大半を占める一方、私が没頭した問題に関する記事も散見されます。一九六〇年代の公民権運動で胸がときめく時代に、私自身と家族はどうしていたのか。そのことを少しはわかってもらえるよう、本書は何よりも愛しい子どもたちのために書いたものです。
 回顧録そのものの記述範囲は、懐かしい家族の思い出と、あまたの出来事の中でも私にとって重要ないくつかの出来事にまつわる記憶に限られています。ところで、本書を読まれる際、どうか次の点を心にとめてください。二世の私は、完全に「アメリカナイズ」されているばかりか、とっくに「母国語」を忘れています。兄アートと弟ピートも似たりよったりです──先祖は日本人なのに、アメリカ人特有の思想や文化に浸っている日系アメリカ人なのです。
 現代の日系アメリカ人は、同胞の二世兵士の功績や勇気や犠牲的行為の恩恵に浴しています。しかもそのおかげで、第二次世界大戦中に連邦政府が惹起した往時のあからさまな人種差別のない生活を続けられるわけです。
 アジア人とアジア系アメリカ人の政治犯はもちろんのこと、そのほか黒人やラティーノ(米国在住のラテンアメリカ系住民 通称ラテンアメリカ人)や白人の政治犯もいたことを読者諸氏に知っていただきたい。ですから、後者のことをこの回顧録につけ加えたほうがいいと思った次第です。さらに、不屈の黒人指導者マルコムXとの邂逅に合わせて、革命に意欲的なキューバへの私的な旅行とペルーのセンデロ・ルミノソ(「輝く道」)の闘争に関する現地での見聞などを通して、公民権運動について包括的な視点を愛しい子どもたちに教えることも絶対に必要だと思いました。
 キューバの場合と同様、様々な国民や国家が自由獲得のための闘争を余儀なくされた経緯。一九八〇年代—九〇年代にひときわ顕著だった輝く道の運動が、ペルーの当時の首脳部にしみ込んでいた資本主義的なイデオロギー──労働者階級と貧困者は必ず生存する〔成功する〕機会に恵まれるという〔思い上がったか誤った〕イデオロギー──の追放に努めた経緯。子どもたちには以上のことを理解してほしいと思いました。
 それからまた、富裕者と権力者が種々の資源や利潤や生活様式を独占しているときでさえ、自由と正義と平等を勝ち取るため闘った活動家の役割を、読者諸氏も理解してくださいますように。
 万人の生活向上のための闘いに、青年こそどんどん参加すべきです。全人類にとって、今よりもっと安全なうえ思いやりや気配りがあり、もっと多様な人びとや慣習制度の存在が容認され、もっと互いに尊敬し合える「未来世界」を創造するため、読者諸氏も私も等しく、能力や技量に関係なく、貢献できるのです。Passing It Onが、今述べたメッセージを伝えてくれますように。

   二〇〇八年(平成二〇年)三月一日
                     アメリカ合衆国カリフォルニア州 
                                  ユリ・コチヤマ

版元から一言

あとがき——三人の訳者を代表して

 本書はYuri Kochiyama, Passing It On (2004)の抄訳である。若干補足すると、カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)に一九六九年に設立されたアジア系アメリカ人研究所の客員研究員だった二〇〇二年、八一歳のユリ・コチヤマさんは、ご家族のために回顧録の執筆を始められた。そしてその約二年後、九〇点の写真と三一点の巻末の参考記事——いずれも同大学のユリ・コチヤマ・コレクションの一部——と一七章の本文を中核とする二二九頁の回顧録が刊行された。
 三人が手がけた抄訳は、もちろんこの回顧録によっているが、日本の一般読者のかたの興味をあまりそそらないと思われる部分——ユリさんの親族・友人関係が大きな比重を占めている原著の第九章・第一〇章・第一七章と巻末の参考記事のすべて——は、ご諒解を得て省略した。なお、邦訳にのせる写真の取捨選択は共訳者三人に任されたこと。一般読者のかたの便宜をはかるため、必要に応じて訳文に史実や年代の補充(ないしは訂正)も任されたこと。原著にない貴重な古い写真をお届けくださったこと。翻訳の話が具体化してからおよそ二年半、いっさい催促なさらず忍耐強くその刊行を待ってくださったこと。以上の四点に対して、著者には心から深くお礼を申し上げたい。と同時に、長寿のユリさんに祝意を込めてこの邦訳を贈呈いたします。
 *1 〝コチヤマ〟の表記について サンフランシスコの二大日系新聞——『ニチベイタイムズ』(一九四六—二〇〇九、九)と『ホクベイマイニチ』(一九四八—二〇〇九、一〇)——の日本語版も、ニューヨークのユリさん宅に「居候として二ヵ月お世話になった」中澤まゆみの『ユリ 日系二世ハーレムに生きる』(一九九八)も一貫して〝コウチヤマ〟と記している。この点について初対面の際に入念に確認したら、ユリさんは、一字一字確かめるように〝河内山〟と漢字を書きながら〝コウチヤマ〟でなく〝コチヤマ〟と発音された。したがって、〝コウチヤマ〟になじみのあるかたにはきっと違和感を覚えられるだろうが、この共訳では〝コチヤマ〟で統一してある。山口県立図書館上野美代子さんのお力添えによると、河内山(こうちやま)という姓は、その発祥地とされる山口県の柳井市を筆頭とする瀬戸内海側地域、とくに防府市に多いようである。

 日系二世の女性活動家ユリさんの一面を私(森田)がはじめて多少とも意識するようになったのは、二〇〇二年(平成一四年)のことだった。サンフランシスコでのイラク戦争反対集会で、ユリさんは基調講演をおこない(二月)、その約八ヵ月後(一〇月)には当局に公開質問状を提出している。ユリさんの反戦運動は、一九六〇年代(ヴェトナム戦争時代)に著しく高揚したが、もちろんこの二〇〇二年以降もやむことはない。その典型的な一例は、二〇〇七年(平成一九年)六月、やはりサンフランシスコでのイラク戦争反対集会——より正確に言えば、イラク派遣命令拒否を含む三つの〝重罪〟で訴追された(二〇〇六,七,五)三世のエーレン・K・ワタダ陸軍中尉の支援集会——にユリさんもオークランドから駆けつけたことであろう。(二〇〇九年一〇月二日、国防長官が本人の希望する除隊を承認したため、ワタダ事件は幕を閉じた。)
 ワタダ事件といえば、その支援集会のちょうど三ヵ月前(二〇〇七,三)にやっと実現したユリさんとの初対面の一齣が、いまだに鮮やかによみがえる。対話は「きっかり一時間にしてほしい」と念を押されたので、その一時間にできるだけ質疑応答をかわそうと私は意気込んでいた。が、初対面の挨拶などもどかしいと言わんばかりに、ユリさんから二つの「大事な質問」が発せられた。「日本人として、イラク戦争をどう思いますか。日本では、貧困者に対する差別や人種偏見などがありますか。あなた自身の答えをぜひ聞かせてほしい。」先方の重大かつ切実な質問に、しかし私にすればまったく唐突な難問に虚を突かれ、応答に思わぬ時間を取られてしまった。初対面の目的を告げると、満面笑みを浮かべながら快諾してくださった。そのときのお言葉は、謙虚なものだった——「私の回顧録など、日本で読んでくれるかたがいるでしょうか」
 とても未練の残る対談だった。それでも、ユリさんの凛とした物腰にも優しいお心遣いにもさわやかな印象を受けた。
 それからおよそ八ヵ月後(二〇〇七、一一)、サンフランシスコで、第二次世界大戦中の二世男子の徴兵忌避を主題にした拙著について講演する機会に恵まれた。なんとユリさんが不自由なお体を押して会場においでくださり、夢想だにしない再会の楽しみが満喫できたのである。

 原著は、ユリさんの公的な側面(社会・政治活動)と私的な側面(夫妻の経歴や子どもとの交流)という二本の太い糸で綴られている。このあとがきの冒頭から容易にお察しいただけると思うが、叙述の力点はもちろん前者にある。
 とっくにご承知のように、アジア系アメリカ人にしても、ことに一九六〇年代—七〇年代は、自己主張を強めながら、既存の権威への挑戦、ヴェトナム反戦運動、公民権運動などの全国的な潮流に与した時代、ユリさんの言う「アジア系アメリカ人運動の萌芽期」だった。もちろんユリさんも、ときには一家あげて、高圧的な体制に果敢に挑戦した。アフリカ系アメリカ人の非合法的な組織の一つ新アフリカ共和国(RNA)の一員になったこと(原著の第一一章 訳書の第九章)。囚人とくにアジア系アメリカ人の政治犯の支援者になったこと(原著の第一二章 訳書の第一〇章)など。一般の日系アメリカ人にはおそらく稀な、進んで渦中に身を投ずるユリさん特有の軌跡を示すほんの二例でさえ、私には瞠目すべき未知の事実であった。
 もう一つ私の瞠目すべき未知の事実は、この女性活動家の旺盛なエネルギーと探究心が国外にも迸ったことである。一九八八年にはキューバで、一九九三年にはペルーで、アメリカと同様、権力や富や貧困などと闘っている無名の人びととの連帯感を強く意識されたに違いない。二つの共和国のうちでも、キューバ以上にペルーにユリさんは魅せられたのではないか。ペルー訪問が決行された一九九三年といえば、同国の近代史に不動の位置を占めるセンデロ・ルミノソの最高幹部アビマエル・グスマン(五五歳)が、武力闘争の標的であったアルベルト・フジモリ大統領政権によって逮捕されたにもかかわらず(一九九二、一二)、グスマンの〝余類〟が全国的規模の熾烈な武力闘争を挑んでやまなかった翌年のことである。
 それだけに、この最左翼ゲリラ組織の闘争の実態の一端と理念をユリさんはじかにとらえる好機に恵まれたわけである。しかも、ペルーでの感動が多分まださめやらぬ翌年(一九九四)には、「グスマンの収監とペルーでの革命について話す」ため、ユリさんはフィリピンと日本にまで飛んだ。ちなみに、グスマンは、三回目の審理で終身刑を宣告された(二〇〇六、一〇、一三)あと、二〇〇九年一二月一〇日現在、ペルー第二の大都市カヤオの刑務所で服役している。

 グスマンとの面談は許されなかったユリさんだが、マルコムXとの交流を深めたいという大きな夢は一九六四年六月に実現した。が、その約八ヵ月後、彼は兇弾に斃れた(一九六五、二、二一)。ユリさんは、その現場を目撃したどころか、暗殺直後の彼に救いの手をさしのべた唯一の二世の女性だった(『ライフ』誌 一九六五、三、五 二六頁の写真参照)。双方の実質的な交流はあっけなく終わったが、「マルコムは実に時代に先んじていた人物だ」とユリさんは見抜いた。慧眼である。試みに、マルコムXの往時の一研究者ピーター・ゴールドマンの見解を披露しよう。
「『マルコムX自叙伝』(一九六五)の出版後、……一九六〇年代末のブラックパワー運動で開花する、誇り高く大胆で自己主張の強い〔アフリカ系アメリカ人という〕人種のアイデンティティに覚醒した先駆者こそ、マルコムXなのだ、というのが現在の通念である」(ジョン・A・ギャラティ編『アメリカ人名辞典』一九七四 七二三—七二四頁)
 マルコムXが非業の死をとげた翌年の一九六六年五月一九日(彼とユリさんの誕生日)を皮切りに、ニューヨークはハーツデールにある彼の墓地を訪れる習慣にユリさんはこだわった。自称マルコムX巡礼は、一九九九年の「その五月一九日まで待ったあと」、ニューヨーク——彼女の社会・政治活動の拠点(一九四六—九九)——から家族の要請でサンフランシスコの北の現住地オークランドに移住するまで、連綿と続いた。ただ、この三三年に及ぶマルコムX巡礼も不本意ながら断念した高齢のユリさんだが、永遠の心の師に対する敬愛と哀慕の念が尽きることはない。だからこそ、彼について二章(第六章と第一〇章)を当てるほどユリさんは極めて〝多弁〟なのである。
 その反面、マルコムXの大惨事は、すでに旧聞に属しているし、当時の日系人社会と日本の社会を根底から揺るがす性質のものではなかった。いや、マルコムXという名前自体になじみのないかたもあるに違いない。そのせいもあろうか、少なくとも二回、ユリさんから質問と依頼を受けた。「日本のかたがたは、マルコムXのことをご存知でしょうか。……[翻訳では]マルコムX暗殺の場面は絶対に省略しないでください。」どうかご心配なくという主旨の返事をさしあげたら、いささか安堵されたらしい。二〇〇九年四月二一日付けのご返書の一部で、それが明瞭にうかがわれる。翻訳で「マルコムXに言及されるとわかりまして、うれしく思います。本人は一般の黒人とは違うだけに、とても興味をそそる魅力的な黒人男性なのです。高邁な主義や勇気や見識を身につけた寛大で誠実で博識な指導者でした。とりわけ、同胞を大事にし尊敬し、同胞の言動をとてもよく理解していました。しかも、同胞が民族としてのプライドを持つように努めました。ここがほかの複数の黒人指導者とは違うところです。アフリカ系アメリカ人は、白人からずっと一貫して虐待されて来ました。しかし、マルコムXなどの偉大な指導者のおかげで、アメリカにいる黒人も世界各地に分散している黒人も、世界の人びとに次の点を明確に伝えることができたのです——これまでの人種差別とか不平等とか不正などと闘って来ただけでなく、白人優越主義の残渣が一掃されるまで、このあとも闘い続けるつもりである、と。……アメリカの黒人解放運動という大胆な一大闘争が、アメリカ人の本来の文化と生活に深遠な変化をもたらしていることを、日本のかたがたにもご理解いただけるといいのですが。……」
 マルコムXとは、どんな人間だったのか。読者によっては蛇足だと思われることを承知のうえで、通俗的だが、過去(一九三六—七二/一九七八—二〇〇〇)のアメリカの典型的なグラビア雑誌『ライフ』によって、あくまでもその人物像の片鱗を紹介したい。念のため、マルコムX(本名マルコムリトル)は、一九二五年(大正一四年)五月一九日——四歳年上のユリさんとまさに同じ誕生日——にネブラスカ州オマハで誕生、一九六五年(昭和四〇年)二月二一日ニューヨークで惨死した(享年三九)アフリカ系アメリカ人の宗教・政治指導者である。
(1)マルコムX以外の黒人指導者は、緊急課題として人種統合を要求した。ところが、彼は激怒しながら、かつ非情な言葉を駆使しながら、黒人も平等な人間なのだ、と説く闘士であった。「おれたち黒人が[一六二〇年に当時のマサチューセッツ植民地の]プリマスロックに上陸したんじゃない。プリマスロックこそ、おれたちのところに上陸したんだよ。四〇〇年に及ぶ奴隷労働のあと、いまやっと〝未払い給料〟がすこしは入って来るようになったね」
 複数の人種差別主義者に一九三一年に殺害されたバプティストの巡回牧師の息子が、マルコムリトルである。少年時代は、想像を絶するくらい暗澹たるものだった。そのうえ、コカイン(〝コーク〟・〝雪〟)を常用する強盗だったため、逮捕・収監された(一九四六─五二)。服役中、黒人分離主義(黒人国家の建設を主張する立場)のネーション・オヴ・イスラム(通称ブラック・ムスリム=黒人回教団)に感化され、出所後(一九五二 二七歳)、黒人回教団に入団。同団は、〝奴隷の親方〟を表すリトルという姓を〝X〟と交換すると同時に、闘争精神こそマルコムXの同胞がかかえているもろもろの苦難を救う唯一の道だ、と力説するようになった。
 とかくするうちに、神学上のイデオロギーをめぐって、黒人回教団に対するマルコムXの怒りが鬱積し始めた。その頃でかけたメッカ巡礼中に(一九六四、四)、白人すべてが黒人を憎悪しているわけではない、と彼は悟った。帰国後、いままでの怒りが高ずるばかりだったので、ついに黒人回教団と正式に決別、政治団体アフリカ系アメリカ人統一機構(OAAU)を結成(一九六四、六)。その約二ヵ月前、オハイオ州クリーブランドで屈指の名演説をした。「バロットかブレットか(投票か銃弾か)。投票がうまくいかなければ、なにか手を打とう。とにかく投票しようじゃないか」
 一九六五年、黒人回教団の三人(?)がハーレムでマルコムXを射殺した。いかにもマルコムXらしい雄弁ぶりと説得力を物語る〝墓碑銘〟は、死後出版された『マルコムX自叙伝』(一九六五)である。──「二〇世紀の最も重要なアメリカ人一〇〇人」『ライフ』誌(一九九〇年秋季特集号、一〇六頁)
(2)「壁に[九行の]走り書き」 一九六五年二月中旬のことである。発足してまだ日の浅い政治団体アフリカ系アメリカ人統一機構(OAAU)に活を入れようと、マルコムXは懸命に働いた。三九歳の彼は、黒人の権利獲得運動を加速する戦術をめぐって、黒人回教団とすでに絶縁していた。だが、この決別が、結局、死を招いたのである。[妻のベティ・シャバッツと三人の幼い娘とマルコムXの五人が一列に並んですわっている背後の]右上近く[の壁? ガラス窓?]に白いチョークで誤って書かれているけれど──マルコムX 集会 二月二〇日・日曜日 午後二時 オーデュボンボールルーム 一六番街とブロードウェー 連れて来てください みなさんの 家族や友人を 入場無料──、実際には二月二一日・日曜日の来るべき集会で、三人(?)の男性に射殺されたのだ。──「絵で見る今世紀[二〇世紀]」『ライフ』誌(二〇〇〇、二九九頁)
*2補足 一九九七年二月、ユリさんは、ある講演でマルコムXの暗殺に関連した発言をした。彼の「暗殺当日、……エイ・ナガタというペンネームを使っている社会主義者の日本人ジャーナリストがいた。マルコムXの生涯の物語と意義を日本にはじめて紹介した日本の著者は、おそらくナガタであろう」(ダイアン・G・フジノ『ユリ・コチヤマの革命的な生涯 鼓動してやまない闘争』二〇〇五年 一六一、三四二─三四三頁)。エイ・ナガタはペンネームではない。一九三三年熊本県に生まれた長田衛は、ニューヨークに滞在中たまたま例の悲劇を目撃した多分唯一の日本人であろう。「マルコムの突然の死は言葉につくしがたい衝撃であった」(長田衛『黒人は反撃する マルコムXその人と思想』一九六六年 三五頁)

 結論として、人種やジェンダーや階級や国などの枠を越えて、達成した(達成したい)もろもろの目標のため、ときには身を投じ、ときには闘う同志との連帯感を強めながら、ユリさんは人生の大半を過ごして来たのだ、と言っていいだろう。そのユリさんに匹敵する日系の女性活動家はどれくらいいるだろうか。この疑問が浮かんだとたん、いましがたあげたダイアン・フジノのほか、ジャニス・ミリキタニ、メイ・ナカノ、故ミチ・ウェグリン、アイコ・ヨシナガ・ハージグ、チズコ・オーモリ、故スエ・エンブリなど六人(三世のフジノとミリキタニ以外は二世の女性活動家)の名前がさっと脳裏をかすめた。だが、この七人にしても、ユリさんに比肩する存在ではないように思われる。それこそ独断と偏見だ、と有識者の批判を甘受しつつ──。
 この回顧録の出版(二〇〇四)で、ユリさんは、グスターヴァスマイヤーズ偏見・人種問題研究所(一九八四─二〇〇九 本部はボストンのサイモンズカレッジ)から、同年のグスターヴァスマイヤーズ名作賞(The Gustavus Myers Outstanding Book Award for 2004)を授けられた。全米的によく知られていた同研究所は、存続中は、「ありふれた思考・行動様式に挑戦したり、偏見の多面性をできるだけ的確に反復・再現する著者や著作」に毎年のように名誉賞を贈った非営利組織である。この名誉賞を受けたユリさんは、その翌年二〇〇五年の六月、全米では四〇人──サンフランシスコ湾岸地域では一四人──のノーベル平和賞の一候補に指名された。八四歳のユリさんが半世紀以上も孜々営々として続けて来た多岐にわたる社会・政治活動が、全米的に周知されたなにより確実な証拠として特筆したい。
 このように異色の二世の活動家ユリ・コチヤマさんの回顧録の邦訳は、遅きに失したが、やりがいのある三人の共同作業だった。(日本語版へのユリさんのお言葉、原著の前置き、第一─第五章、あとがきの担当は森田。第六・七・八・一一・一二章は増田。第一三─第一七章は篠田。)当然のことだが、三人が全章を点検して、誤訳や種々の専門用語や固有名詞などの不統一を不充分ながらできるだけ少なくするよう努めた。なお、原著の第一一章─第一二章は訳書の第九章─第一〇章、原著の第一三章─第一六章は訳書の第一一章─第一四章に相当する。
 つたない共訳であるが、ユリさんの社会・政治活動家としてのバイタリティや軌跡をすこしでもご理解いただける手がかりになればありがたい、と念じてやまない。
 最後に、礼儀として竹内淳夫社長にお礼を申し上げなければならない。二〇〇五年八月、この回顧録の共訳・出版をお願いしたら、即座に快諾してくださった。その瞬間、多大な感銘を受けた。なるほど、権威ある名作賞の授賞やノーベル平和賞の一候補に指名、といった事実が端的に示すように、ユリさんは日系人社会では知名度の高い二世、将来は日系アメリカ人史に名をとどめることが確実な二世である。ところが、日本での自分の回顧録の需要について一抹の危惧の念を初対面の私にもらされたユリさんは、本邦では無名の(または無名に近いと言っていい)人物である。ユリさんと活動分野は違うが、ほぼ同世代のイノウエ連邦上院議員(一九二四─ )やジャーナリストの故ホソカワ氏(一九一五─二〇〇七)──拙訳はそれぞれ一九八九年と二〇〇九年──と比較すると、その感を深くする。それだけに、この地味な、しかしとても貴重な回顧録の出版を快諾された、出版人としての竹内氏ならではの良心と達見と寛大さには敬服してやまない。と同時に、とくに版権の取得に思わぬご迷惑をおかけしたこと、この共訳が日の目をみるまで約四年間なにかとお心を砕いていたことに、心から深くありがとう存じますと申し上げる。

  二〇一〇年三月           篠田左多江  
                    増田直子  
                    森田幸夫  

 追記 ユリさんはカリフォルニア州立大学(CSU)から名誉文学博士号を授与された。(二〇一〇、六、一二)

(社)日本図書館協会 選定図書

著者プロフィール

ユリ・コチヤマ(コチヤマ,ユリ)

1921年アメリカ合衆国カリフォルニア州サンピードロ生まれ

篠田 佐多江(シノダ サタエ)

日本女子大学大学院文学研究科修士課程修了(文学修士)
日系移民史専攻・東京家政大学人文学部教授

増田 直子(マスダ ナオコ)

筑波大学大学院博士課程修了(文学博士)
アメリカ史および日系アメリカ人史専攻・日本女子大学非常勤講師

森田 幸夫(モリタ ユキオ)

アメリカ合衆国オハイオ州立大学大学院歴史学部修士課程修了(M. A.)
アメリカ史および日系アメリカ人史専攻

目次

日本語版への序文 3
はじめに 11
第一章 両親のこと 17
第二章 成長の速さ──子ども時代,第二次世界大戦、強制収容所 27
 私の子ども時代 27
 第二次世界大戦と強制収容 33
 ジェローム収容所時代以降とサンピードロへの帰郷 42
第三章 私のビルへの賛辞 49
 河内山豊 49
 マサヨシ・ウィリアム・コチヤマ 55
 ビルの戦争体験と四四二部隊 59
 「ノー・ノー・ボーイ」の果敢さ 64
 私のビルとの人生 67
第四章 戦後──結婚、親子関係、ニューヨーク 71
第五章 胸がときめく一九六〇年代に子ども六人の養育 81
第六章 マルコムXとコチヤマ家 113
第七章 悲劇と祝福──ビリー、アイチ、アルカマル 129
 ビリー 129
 アイチ 137
 アルカマル 150
第八章 家族となった友人たち 153
 マイケル・フェルナンデス 154
 ヒロシ・イシコ 156
 シモーヌ・ドラクロワ 158
 リッキー・カシミロ 160
 ウィルソン・マカベ 160
 サンジ・キモト 161
 ポール・ヒガ 163
 ミッツ 164
 アリシカとポーラ 165
第九章 政治犯の援助 169
    ——ムタヤリ・シャバカ・スンディアータ、ムミア・アブ・ジャマール、マリリン・バック
 誰が政治犯なのか 171
 新アフリカ共和国の囚人の内心──ムタヤリ・シャバカ・スンディアータからの手紙 173
 ムミア・アブ・ジャマール 180
 マリリン・バック 184
第一〇章 アジア人およびアジア系アメリカ人政治犯
     ——スティーブ・イップ、菊村優、デーヴィッド・ウォン、エディ・チェン 189
 スティーブ・イップ 189
 菊村優 195
 二〇〇三年のデーヴィッド・ウォン事件 198
 エディ・チェン 202
第一一章 キューバへの旅——一九八八年第一九回ベンセレーモス隊に参加して 211
第一二章 ペルーにおける人民の戦い——現代のその意味は何か 221
第一三章 社会・政治運動の中の三人の偶像
     ——ロリータ・レブロン、アサータ・シャクール、レナード・ペルティエ 231
第一四章 アジア系アメリカ人の運動 237
あとがき——三人の訳者を代表して 251

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